昨年2014年の9月にスコットランドにおいて、いわゆるイギリス連邦から独立を行うか否か、という国民投票が実施されました。
結果としては、僅差で独立反対が過半をしめることになった、ということです。
これに関連するかもしれませんが、1910年の日韓併合に際して「併合」は「植民地化」colonizeではなく、「アネクゼーション」annexationという用語が使われたようで、日本が韓国を「植民地化」したということがいつごろから言われるようになったのか、と不思議に思っています。
スコットランドがイングランドの植民地ではなかったように、韓国もまた、日本の「植民地」であったとすることは、用語上ズレが生じるのではないでしょうか。
「植民地化」と「アネクゼーション」というのは、また別の概念であるでしょうし、日本の韓国進出が果たして「侵略」invasionなのか、という点などと同様に一度考え直してみる必要があるのではないか、と思うのです。
このことに限らず、語の定義というのは非常に大事だと考えます。
2015年5月20日水曜日
2015年5月13日水曜日
106:ハコモノと知的ハコモノ
一時期「ハコモノ」つまり、国や地方自治体の建てた美術館・体育館・多目的ホールなどの建物の建設が流行りましたが、結局美術館に展示する中身はなく、多目的ホールのパイプオルガンを演奏する人はいない、ということです。
これは当然、税金の無駄使いだ、と批判されました。
ところが、最近気になるのが、やたらと「学識経験者・知識人・専門家」を集めた識者による会議を立ち上げ、それによって政策が構築される、という現象がやたらと目に付くことです。
これらの会議の模様をテレビ等で垣間見ると、2,30人の「識者」と呼ばれる人がロの字型の席におさまり、分厚い資料を前に「会議風の風景」をつくっているところしか分かりません。
果たして、このような方式で建設的な意見が出るのか、ピンポイントに絞った議論ができるのか、というのは疑問です。
これらの会議を、私は「知的ハコモノ」と呼びたいと思っています。
「ハコモノ」の税金の無駄以上に、「知的ハコモノ」は、結論が不適切であればその影響が大きいのです。
それは、目に見えない形で社会に影響を与えるのではないか、と危惧しています。
この無駄を防ぐ解決策の一つは、有識者や専門家を4,5人のグループに分け、2,3日カンヅメにし、それによって出た結論を全体の討論の場に上げてみたらどうだろうと思います。
みなさんはどう思われるでしょうか?
これは当然、税金の無駄使いだ、と批判されました。
ところが、最近気になるのが、やたらと「学識経験者・知識人・専門家」を集めた識者による会議を立ち上げ、それによって政策が構築される、という現象がやたらと目に付くことです。
これらの会議の模様をテレビ等で垣間見ると、2,30人の「識者」と呼ばれる人がロの字型の席におさまり、分厚い資料を前に「会議風の風景」をつくっているところしか分かりません。
果たして、このような方式で建設的な意見が出るのか、ピンポイントに絞った議論ができるのか、というのは疑問です。
これらの会議を、私は「知的ハコモノ」と呼びたいと思っています。
「ハコモノ」の税金の無駄以上に、「知的ハコモノ」は、結論が不適切であればその影響が大きいのです。
それは、目に見えない形で社会に影響を与えるのではないか、と危惧しています。
この無駄を防ぐ解決策の一つは、有識者や専門家を4,5人のグループに分け、2,3日カンヅメにし、それによって出た結論を全体の討論の場に上げてみたらどうだろうと思います。
みなさんはどう思われるでしょうか?
2015年5月9日土曜日
105:国益か公益か
どこの国でもそうでしょうが、自国民の利益・財産を守ることを「国益」と理解しているでしょう。
しかし私がわからないのは、「国益」と言う一方で、「世界平和」ということを同様にどこの国も言っていることです。
このことはもちろん、大変結構なことだと考えます。
しかしこれらは、時として対立する概念ではないでしょうか?
現実に、「公益(世界平和・紛争解決など)」のために「国益」が犠牲になっている事象は多く存在するでしょう。
このあたりの関係を識者にもっと研究してもらいたいと思うのです。
ただ言うまでもなく、これからは「公益」が優先する時代に向かっていることは間違いないでしょう。
集団的自衛権についての法整備をせずに、つまり国会での支持を得ないまま、安倍総理は閣議決定を行い、米国でのスピーチで公約を行った、という報道に関して、民主・共産党などは強く批判しています。
確かに問題はあるのでしょうが、「国益」よりも「公益」が重要となる今、この法案はぜひ通すべきではないか、と私は思うのですが、間違っているでしょうか。
しかし私がわからないのは、「国益」と言う一方で、「世界平和」ということを同様にどこの国も言っていることです。
このことはもちろん、大変結構なことだと考えます。
しかしこれらは、時として対立する概念ではないでしょうか?
現実に、「公益(世界平和・紛争解決など)」のために「国益」が犠牲になっている事象は多く存在するでしょう。
このあたりの関係を識者にもっと研究してもらいたいと思うのです。
ただ言うまでもなく、これからは「公益」が優先する時代に向かっていることは間違いないでしょう。
集団的自衛権についての法整備をせずに、つまり国会での支持を得ないまま、安倍総理は閣議決定を行い、米国でのスピーチで公約を行った、という報道に関して、民主・共産党などは強く批判しています。
確かに問題はあるのでしょうが、「国益」よりも「公益」が重要となる今、この法案はぜひ通すべきではないか、と私は思うのですが、間違っているでしょうか。
2015年5月6日水曜日
104:対策の目的別分類
世の中では、問題が起きると、対策を講じることを考えます。
しかし、この対策を講じる目的を意識する人はあまりいないのかもしれません。
実は、経験的に分類すると、5つになると思われます。
①暫定的な対策
これは、発生した問題の拡大を防ぐための対策です。
重要顧客から製品クレームが発生したとします。
その場合の暫定的な対策は、「とりあえず責任者が相手先に謝罪し、再発防止を約束する」ということでしょう。
②抜本的な対策
この目的は、問題発生の原因を除去することにあります。
従って、適切な原因が究明されなければ、この対策は打てない、ということです。
③適応対策
これは、''adaptive action''と言われ、原因が明確になったが、それを除去できない場合に採る対策のことです。
魚屋の売り上げが下がってきたとしましょう。
原因は、近隣にスーパーマーケットが進出したためです。
「抜本的な対策」はこのスーパーを除去することですが、それは不可能です。
そこで、「商売を替える」とか「マンションを建てる」といった別の対策を打つ、というのが「適応対策」です。
この対策の目的は「サヴァイヴする」ということになるでしょう。
④予防対策
この目的は将来起こりうる潜在的な問題の発生を未然に防止することにあります。
「未然に防止する」には、その潜在的問題の発生原因を想定しなければなりません。
その発生原因を除去するのが、この「予防対策」であります。
たとえば火災への対策であれば、「火の用心」というものがありますが、その本質は、火災の潜在的な原因(タバコの火・漏電などなど)に気を付け、これをできるだけ除去するということです。
⑤発生時対策
これは、「予防対策」を打ったが、万一問題が発生したときの影響を最小化するための「あらかじめ打っておくべき対策」のことです。
火災の例を続ければ、スプリンクラーや非常口、消化器など。また火災保険もこの例に入るでしょう。
対策の打ち方はハード面だけではない、ということです。
前半3つの対策は、問題が発生した後に採る対策です。
傾向としてこの3つを混同して考えるから混乱を起こすのだ、と述べておきたいです。
また後半2つの対策は、将来に起こりうる問題に対する対策であって、キーワードは「予め講じておく」ということでありましょう。
火事が起きた後に火災保険に入っても仕方がない、ということです。
目的を意識した対策の立て方の重要性がお分かり頂けたかと思います。
しかし、この対策を講じる目的を意識する人はあまりいないのかもしれません。
実は、経験的に分類すると、5つになると思われます。
①暫定的な対策
これは、発生した問題の拡大を防ぐための対策です。
重要顧客から製品クレームが発生したとします。
その場合の暫定的な対策は、「とりあえず責任者が相手先に謝罪し、再発防止を約束する」ということでしょう。
②抜本的な対策
この目的は、問題発生の原因を除去することにあります。
従って、適切な原因が究明されなければ、この対策は打てない、ということです。
③適応対策
これは、''adaptive action''と言われ、原因が明確になったが、それを除去できない場合に採る対策のことです。
魚屋の売り上げが下がってきたとしましょう。
原因は、近隣にスーパーマーケットが進出したためです。
「抜本的な対策」はこのスーパーを除去することですが、それは不可能です。
そこで、「商売を替える」とか「マンションを建てる」といった別の対策を打つ、というのが「適応対策」です。
この対策の目的は「サヴァイヴする」ということになるでしょう。
④予防対策
この目的は将来起こりうる潜在的な問題の発生を未然に防止することにあります。
「未然に防止する」には、その潜在的問題の発生原因を想定しなければなりません。
その発生原因を除去するのが、この「予防対策」であります。
たとえば火災への対策であれば、「火の用心」というものがありますが、その本質は、火災の潜在的な原因(タバコの火・漏電などなど)に気を付け、これをできるだけ除去するということです。
⑤発生時対策
これは、「予防対策」を打ったが、万一問題が発生したときの影響を最小化するための「あらかじめ打っておくべき対策」のことです。
火災の例を続ければ、スプリンクラーや非常口、消化器など。また火災保険もこの例に入るでしょう。
対策の打ち方はハード面だけではない、ということです。
前半3つの対策は、問題が発生した後に採る対策です。
傾向としてこの3つを混同して考えるから混乱を起こすのだ、と述べておきたいです。
また後半2つの対策は、将来に起こりうる問題に対する対策であって、キーワードは「予め講じておく」ということでありましょう。
火事が起きた後に火災保険に入っても仕方がない、ということです。
目的を意識した対策の立て方の重要性がお分かり頂けたかと思います。
2015年5月2日土曜日
103:安倍総理の米国合同セッション
先日の安倍総理の米議会における演説についてコメントする立場にあるわけでもありませんが、日本が米国と「対等になる」とはどういうことなのか? について私見を述べたいと思います。
1989年に光文社から、石原慎太郎氏・盛田昭夫氏(当時のソニーの副社長)により書かれた「『NOと言える日本』」という本が出版され、ベストセラーになったことがありました。
その背景には、おそらく、日本がアメリカの言いなりになっていた状態へのフラストレーションがあるでしょう。
当時の私は、「NO」ではなく「代案(alternative)が言える日本であってほしい」ということであろう、という解釈をしました。
前にも述べましたが、日本語は単数形と複数形を意識した言語ではないので、このようなタイトルになったのだろう、ということです。
本来は、相手の申し出に対して、「NO」ではなく、日本としての代案を出せる関係が望ましいのではないでしょうか。
また、別の切り口から考えれば、日本は相手に「理解を求める」ことが多すぎはしないでしょうか?
「外務大臣が米国へ赴き、ある案件について相手の理解を求めた」というような報道をよく耳にするように思います。
「理解を求める」というのは、対等な関係ではないと考えます。
日本社会では相手から「理解を求め」られれば、それに失礼のないように対処するのが常識であるでしょうが、このようなやり取りは外国では通用しません。
本来であれば、「協議をした」「要求を出した」などといった動詞で終わるべきでしょう。
「対等」というのは、単純な力関係や経済力・軍事力の多寡ではなく、相手の提案に対し堂々と代案の提示ができること、あるいは人間としての根幹にかかわる発想ができてはじめて成り立つものではないか、と私は思うのです。
例えば、学生が生徒の間は先生のことを「教授」などと呼ぶわけですが、ある程度時間が経過し、学生たちが社会人となると、お互いをファーストネームで呼ぶというようなことがアメリカではあります。
このような関係を「対等」というのではないか、と思うのです。
「理解を求める」にも見られるように、日本人は妙に卑屈になり、相手に対し萎縮してしまっているように思います。
安倍総理は先日の演説を「希望の同盟」という言葉で締めくくりましたが、この内容をきちんと具現化する、というタスクが残ったのではないか、と思います。
この具現化に際して、上に挙げたような「対等さ」が入ってくれれば、と私としては考えております。
1989年に光文社から、石原慎太郎氏・盛田昭夫氏(当時のソニーの副社長)により書かれた「『NOと言える日本』」という本が出版され、ベストセラーになったことがありました。
その背景には、おそらく、日本がアメリカの言いなりになっていた状態へのフラストレーションがあるでしょう。
当時の私は、「NO」ではなく「代案(alternative)が言える日本であってほしい」ということであろう、という解釈をしました。
前にも述べましたが、日本語は単数形と複数形を意識した言語ではないので、このようなタイトルになったのだろう、ということです。
本来は、相手の申し出に対して、「NO」ではなく、日本としての代案を出せる関係が望ましいのではないでしょうか。
また、別の切り口から考えれば、日本は相手に「理解を求める」ことが多すぎはしないでしょうか?
「外務大臣が米国へ赴き、ある案件について相手の理解を求めた」というような報道をよく耳にするように思います。
「理解を求める」というのは、対等な関係ではないと考えます。
日本社会では相手から「理解を求め」られれば、それに失礼のないように対処するのが常識であるでしょうが、このようなやり取りは外国では通用しません。
本来であれば、「協議をした」「要求を出した」などといった動詞で終わるべきでしょう。
「対等」というのは、単純な力関係や経済力・軍事力の多寡ではなく、相手の提案に対し堂々と代案の提示ができること、あるいは人間としての根幹にかかわる発想ができてはじめて成り立つものではないか、と私は思うのです。
例えば、学生が生徒の間は先生のことを「教授」などと呼ぶわけですが、ある程度時間が経過し、学生たちが社会人となると、お互いをファーストネームで呼ぶというようなことがアメリカではあります。
このような関係を「対等」というのではないか、と思うのです。
「理解を求める」にも見られるように、日本人は妙に卑屈になり、相手に対し萎縮してしまっているように思います。
安倍総理は先日の演説を「希望の同盟」という言葉で締めくくりましたが、この内容をきちんと具現化する、というタスクが残ったのではないか、と思います。
この具現化に際して、上に挙げたような「対等さ」が入ってくれれば、と私としては考えております。
2015年4月29日水曜日
102:日本人と英語
昔は、国際人養成の重要性が問われ、この延長線上で今日ではグローバル人材の養成が急務とされています。
このことについては、何回かに分けて述べたいと考えていますが、とりあえず、「英語力」の有無だけで「国際人」と言われる条件が満たされるとは思えないのです。
他にも条件は考えられるのではないでしょうか。
・初対面から相手とコミュニケーションがとれる
海外におけるコミュニケーション力は、言語に依るものは50%程度しかないのではと個人的には思っています。
初対面の相手と友好的な雰囲気をつくることは、決して言葉だけでできることではありません。
例えば、祖母の家に私が友人の息子を連れて行ったときのことです。
祖母の英語力はゼロです。相手の日本語もおぼつかないものです。
しかし、瞬時にコミュニケーションの前提が出来ていたようです。
祖母は笑顔で、堂々と日本語で「ようこそいらっしゃい。こちらへ上がってください」と言ったのです。
これはコミュニケーションにおける言葉以前の重要なものではないでしょうか。
・相手の人物の品定めができる
これは一言で言うと、組織や社会に対して、どの程度の影響力を持っている人であるか、というのが判断できるということです。
・人脈の構築ができる
赴任先で影響力のある人たちとの友人関係をつくる能力のことです。
以前、私が指導した会社の若手部長が、アメリカ中西部の現地法人の副社長として赴任するということでアドバイスを求めてきました。
私の助言は一言、「州知事と会見が持てるようになること」。
この人物は2年かけてそれを達成しました。
・相手に影響を与えて説得するスキルを持つ
この重要な要素の一つは、いかに論理的にものごとを組み立て、理路整然と短時間で相手にストーリーを説明できる能力のことです。
・自分の専門領域以外の問題でも解決できるスキルを持つ
これは、簡単にできることではありません。
ヒントは、広辞苑の「思考」の定義にあります。
曰く、「問題または課題に出発し、結論に導く観念の過程」
このプロセスが適切であれば、自信のない英語力でも仕事をすることができるでしょう。
・鋭い、効果的な質問ができる
まず、目的別に質問をおおまかに分類するとどうなるかを考えてみましょう。
知識を入手する質問・相手の責任を問う質問・問題解決や意思決定に必要な情報を収集する質問
これらのことを頭の中で整理をして質問することをお薦めします。
・リベラル・アーツと言われる一般教養を持つ
これは、言うまでもなくオフ・ビジネスの話題に参加できるということです。
例えば、音楽・芸術・宗教・政治……そしてそれらについて自分の意見を開示し、説明できるという能力でもあります。
これらすべてに通じている必要はありません。何か一つ得意分野を持つと良いでしょう。
・ネバー・ギブ・アップ
上のように言われることの中身を考えると、目標を明確にして、それを実現させる達成能力ということでしょう。
「能力」という言葉は日本では安易に使われ過ぎています。
英語abilityの定義は、''power to do''と辞書にあります。
海外の人間に「彼はabilityがある」などと言うと「What kind of ability?」と必ず聞き返されるのです。
abilityというのは、人間が持つ知識や技能・技術を生かす意志力と言えるかもしれません。
他にも多々あるでしょうが、思いつくままに書いてしまいました。
今回はこのあたりで終わりにしたいと思います。
このことについては、何回かに分けて述べたいと考えていますが、とりあえず、「英語力」の有無だけで「国際人」と言われる条件が満たされるとは思えないのです。
他にも条件は考えられるのではないでしょうか。
・初対面から相手とコミュニケーションがとれる
海外におけるコミュニケーション力は、言語に依るものは50%程度しかないのではと個人的には思っています。
初対面の相手と友好的な雰囲気をつくることは、決して言葉だけでできることではありません。
例えば、祖母の家に私が友人の息子を連れて行ったときのことです。
祖母の英語力はゼロです。相手の日本語もおぼつかないものです。
しかし、瞬時にコミュニケーションの前提が出来ていたようです。
祖母は笑顔で、堂々と日本語で「ようこそいらっしゃい。こちらへ上がってください」と言ったのです。
これはコミュニケーションにおける言葉以前の重要なものではないでしょうか。
・相手の人物の品定めができる
これは一言で言うと、組織や社会に対して、どの程度の影響力を持っている人であるか、というのが判断できるということです。
・人脈の構築ができる
赴任先で影響力のある人たちとの友人関係をつくる能力のことです。
以前、私が指導した会社の若手部長が、アメリカ中西部の現地法人の副社長として赴任するということでアドバイスを求めてきました。
私の助言は一言、「州知事と会見が持てるようになること」。
この人物は2年かけてそれを達成しました。
・相手に影響を与えて説得するスキルを持つ
この重要な要素の一つは、いかに論理的にものごとを組み立て、理路整然と短時間で相手にストーリーを説明できる能力のことです。
・自分の専門領域以外の問題でも解決できるスキルを持つ
これは、簡単にできることではありません。
ヒントは、広辞苑の「思考」の定義にあります。
曰く、「問題または課題に出発し、結論に導く観念の過程」
このプロセスが適切であれば、自信のない英語力でも仕事をすることができるでしょう。
・鋭い、効果的な質問ができる
まず、目的別に質問をおおまかに分類するとどうなるかを考えてみましょう。
知識を入手する質問・相手の責任を問う質問・問題解決や意思決定に必要な情報を収集する質問
これらのことを頭の中で整理をして質問することをお薦めします。
・リベラル・アーツと言われる一般教養を持つ
これは、言うまでもなくオフ・ビジネスの話題に参加できるということです。
例えば、音楽・芸術・宗教・政治……そしてそれらについて自分の意見を開示し、説明できるという能力でもあります。
これらすべてに通じている必要はありません。何か一つ得意分野を持つと良いでしょう。
・ネバー・ギブ・アップ
上のように言われることの中身を考えると、目標を明確にして、それを実現させる達成能力ということでしょう。
「能力」という言葉は日本では安易に使われ過ぎています。
英語abilityの定義は、''power to do''と辞書にあります。
海外の人間に「彼はabilityがある」などと言うと「What kind of ability?」と必ず聞き返されるのです。
abilityというのは、人間が持つ知識や技能・技術を生かす意志力と言えるかもしれません。
他にも多々あるでしょうが、思いつくままに書いてしまいました。
今回はこのあたりで終わりにしたいと思います。
2015年4月25日土曜日
101:日本に少数意見は存在するのか
日本における「少数意見」がサヴァイヴする場面は辞書によると次の2つに限られてしまっているようです。
・合議体の評決もしくは表決で多数を占め得なかった意見
・最高裁判所の裁判の評議において、多数を占め得なかった裁判官の意見
人間集団(企業であれ、組織であれ)は、多くの異なった背景や価値観を持った人間の集合体です。
ある案件について構成員が全会一致で賛同するというハッピーエンド的な結果は保障されていません。
多くの場合、討議の結果、大方の流れは決まるものの、反対意見を主張する者がいるという状態は残るのが現実でしょう。
ここで問題になるのは、この「少数意見」の方が、実は案件に対して適切な方向でアプローチしていた可能性もあるということです。
日本人は、この少数意見に対し不必要な感情的な攻撃をする傾向がありはしないでしょうか?
あるいは、少数意見を、マスメディアが取り上げず、報道しないということが、危険あるいは悲惨な結果をもたらすのではないか心配するものの一人です。
少数意見に対し、蔑視したり攻撃をしたりということは、民主的な社会を破壊するものです。
私だけではなく、このような傾向に警鐘を鳴らしたいと考えている人は他にもいるのではないか、と考えています。
・合議体の評決もしくは表決で多数を占め得なかった意見
・最高裁判所の裁判の評議において、多数を占め得なかった裁判官の意見
人間集団(企業であれ、組織であれ)は、多くの異なった背景や価値観を持った人間の集合体です。
ある案件について構成員が全会一致で賛同するというハッピーエンド的な結果は保障されていません。
多くの場合、討議の結果、大方の流れは決まるものの、反対意見を主張する者がいるという状態は残るのが現実でしょう。
ここで問題になるのは、この「少数意見」の方が、実は案件に対して適切な方向でアプローチしていた可能性もあるということです。
日本人は、この少数意見に対し不必要な感情的な攻撃をする傾向がありはしないでしょうか?
あるいは、少数意見を、マスメディアが取り上げず、報道しないということが、危険あるいは悲惨な結果をもたらすのではないか心配するものの一人です。
少数意見に対し、蔑視したり攻撃をしたりということは、民主的な社会を破壊するものです。
私だけではなく、このような傾向に警鐘を鳴らしたいと考えている人は他にもいるのではないか、と考えています。
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