2016年3月12日土曜日

173:稀に見るすばらしい判断

元「なでしこジャパン」の澤選手が、自民党の出馬要請を断った、と報道された。
私は、この報道を、ふたつの観点から考えてみた。


ひとつは、どのような事情や背景があったにせよ、自民党の要請を断ったことは、まことに見識の高い判断であったと考えて良いということだ。
知名度が高いだけでは国を経営する資格が十分とは言えないと思う。
ポピュリズムで推薦された議員が国政でどの程度の貢献をしたか。
近年では柔道の谷元選手の例があるが、どうだろう。


ふたつ目は、政党が推薦する議員候補の選定条件をどのように考えているのか。
単に知名度が高いだけで人選をしているのであれば、国会そのものが機能しなくなる心配がある。
民主主義は、単なる数合わせでないことを当事者も国民もよく認識しながら、このような現象が起きる背景をしっかりと分析してもらいたい。


要は、候補者がどのような仕事をしてきたかという実績や、どのような政治信条を持っているかということを根拠に国民が選挙をするのである。

2016年3月9日水曜日

172:問題解決と論理思考力①

米国ETS(Educational Testing Service, Priceston)と共同でTOLAP(Test of Logical  Ability in Problem Solving)を開発したことがある。
このテストは、72問、2時間の実践的な論理思考を評価するものである。グローバル人材の要請が急務である今日、このようなテストも実態を把握するための一助になるのかもしれない。
これからは、折に触れ、このTOLAPから関心がありそうな問題を提供し、みなさんに考えていただきたいと思う。





設問①
携帯電話を開発・製造しているA社は、大口顧客から「発注した大型プロジェクトの工期を三か月短縮してほしい」旨の要請を受けた。A社では、この要請に応えるべく、設計、生産管理、営業、システム等の関連部署が会議を重ね、新しい日程が設定された。現在、関係者が集まって、この日程について詳しく検討する会議が開催されている。
事務部長としてなすべき最も適切な指示を下記の中から選びなさい。


A 想定できるリスクをすべて洗い出し、あらゆる対策を講ずるよう各部に指示する
B 期限に間に合うようなスケジュールを作成し、厳守するよう指示する
C このプロジェクトに重大な影響を与えるところを確認するよう各部に指示する
D ブレインストーミングを定期的に行い、起こり得る問題点を明確にし、対策を講ずる


解説
この設問は「リスクに有効に対応する力」を扱う問題である。




リスク対策とは何かといえば、PとSのパラメータを睨みながら、リスクの顕在化に際し、その影響を最小限に食い止める対策を講じることである。PとはProbability=発生確率、SとはSeriousness=重要度である。


Aは、リスクの重要度Sが考慮できていない。全リスクを洗い出してそれらに対策を講じることは経営資源のムダ遣いである。どのリスクが本件において最も重要なのかを意識すべきである。したがってAは正解ではない。
Bは、単にプロジェクトの期限に間に合わせるためのスケジュール作成を指示しているだけで、「工期を短縮することによるリスクの分析」という重要なポイントを外している。したがってBも正解ではない。
Cは、工期を短縮することにより考えられるリスクについて経営資源を投下すべき重要なところを確認するよう指示を出している。すなわちリスクの重要度を対策のベースにしており、正解である。
Dは、ブレインストーミングの目的が不明確なため、その結果が散漫になる可能性が高く、またSが考慮されておらず適切な指示とはいえない。



2016年3月2日水曜日

171:国際社会はどう評価するか

日本が米国に次ぐGDP2位の時代には、日本および日本人は、国際社会で高い評価を受け、尊敬もされていた。
「失われた10年」が30年になろうとしている今日、日本への国際社会の評価はますます低下の一途をたどっているだろう。


ところで、ハーバード大教授の、Joseph S. Nyeが「ソフト・パワー」という概念をはじめて使ったのは1990年の『不滅の大国アメリカ』であると本人が述べている。
氏は、「ソフト・パワーとは(中略)強制や報酬ではなく、魅力によって望む結果を得る能力である。ソフト・パワーは国の文化、政治的な理想、政策の魅力によって生まれる」と定義を行っている。


今回の前経済再生担当相の利権に基づくスキャンダルはNye教授の言う「ソフト・パワー」の力を著しく低下させたといっても過言ではない。
ひとりの日本人として、肩身の狭い思いをしないひとがいるとすれば、彼は、国際社会における恥をしらない、と言われても仕方がないだろう。
「恥を知れ」などと言うとずいぶんと日本的な考え方ではないか、と思われもするかもしれないが、英語でもこれに類する表現に"Shame on you!"があることは言い添えておきたい。




日本のメディアは、日本の現職の閣僚に対してはものごとを遠慮して言う傾向があると思われる。
その証左として、今回の甘利辞任劇が国際社会の日本のイメージについておよぼす影響について書いた日本のメディアはなかったように見受けられる。


このような政治の実態がつづくと、冒頭に述べたNye教授の言う(日本の)「ソフト・パワー」は、急速に凋落していくことを我々国民は心配する。

2016年2月25日木曜日

170:永田町の修身教育

最近の報道を見ていると、日本人のよい特性として、「思いやり」「やさしさ」「親切」といった社会生活におけるひとびとの気づかいにかかわることばが多いように思う。
これは日本人の美徳として大いに評価される。


ところで、以前永田町で、日本の教育において、「修身」「道徳」を復活するべしという議論がさかんになされた。
しかし、この声は最近まったく聞こえてこない。
それどころか、社会を活性化し、正しい方向にもっていくために不可欠といっても過言ではない「正義」「公平」「公正」「良識」「尊厳」「正直さ」「誠実さ」「敬い(Respect)」「勇気」といった表現がまったく見られない。
社会が自己革新をし、前進をするときにやさしさや思いやりだけがそのドライビング・フォース(駆動力)にはなりえない。
若者が未来の日本をつくっていくのには、こういった考えが必ず必要であるのではないか、と思うのだ。


古い人間の発想として葬るなかれ。

2016年2月17日水曜日

169:ちょっと気になる表現

つい最近の新聞に、日本交通と大塚製薬が連携し、キャンペーンを展開するという報道があった。
この記事の中に、ある商品が無料で「もらえる」という記述があった。
どうでも良いことなのかもしれないが、この「もらえる」という表現がどうも気になってしまう。


「もらう」という言葉には、どこか企業側が上の立場、消費者の側が下の立場、というように聞こえるニュアンスがありはしないだろうか。
「あげる」企業と、「もらう」消費者、といったような上下関係のことだ。
実際、辞書にも「もらう」には「請うて自分のものとする」といった定義も記載されている。
私のような古い人間からすると、ものを無条件で「もらう」ことには抵抗があるのだが、みなさんはどのように感じるだろうか。


この表現を、企業が「提供する」といったような表現に置き換えることはできないのだろうか。
企業の広報や報道に携わる人間には、もう少しこういった言葉のニュアンスに気を配っていただきたいものだと思う。
ささいなことなのかもしれないが。

2016年2月10日水曜日

168:政治家という立場


政治家という責務ある立場に立つことについて、私が最近思い出すエピソードをふたつ書いてみたい。


ひとつめ。
ひと昔前、当時のインディアナ州知事であった友人のフランク・オバノンを訪ねたことがあった。
執務室に面談に行ったときの話である。
知事は予定が詰まっていた様子で、20~30分待たされることになった。
ここで、秘書が、日本人形や刀剣といった、日本の伝統工芸品を私のところに持ってきて、これらを値踏みしてくれと頼んできたのだった。


当時といえば、日本企業の米国進出が盛んな時代で、有利な進出条件を引き出すため、知事に会おうとする日本企業の多い時代であった。
秘書が私に値踏みを頼む理由がよくわからず聞いてみたところ、面会者が持ち込んだ知事への土産は、すべて価値を概算・記録し、保管しなければならないという法律がある、とのことだった。


米国にはロビイストによる活動もあるようだが、政治家への贈り物に対してこのような規定があるということと、日本の「口利き」の現実とのギャップに茫然としてしまった。


ふたつめ。
米国上院で活躍し、共和党の院内総務も務めたヒュー・スコットという人物がいた。
中国通であると同時に親日家でもあり、日本にもたびたび訪問していた。
理由はわからないけれども、非常に親しくさせてもらっていたものだった。


私が妻とワシントンを訪問した際、スコット議員が上院議員食堂で昼食をご馳走してくれた。
この時、和紙でできた便箋のようなものを何の気なしに手土産に彼に贈ったのだった。
するとスコット議員はにわかに表情を変え、私を近くの売店へと連れて行き、プレゼントだと言ってボールペンを買い、渡してきたのであった。


ここに私は、米国で公の責任ある立場に立つということの厳しさを見たように思う。

2016年2月4日木曜日

167:「議論」とはなにか

このたびの安保法制の国会審議において、116時間もの議論がなされたと言われている。
これはデータと取りはじめてから歴代4位の数字であるそうだ。
そこで、政治家は言う。
「時間をかけて、国会できちんと議論することが重要だ」


議論の時間とその結果としての質は、比例するものなのだろうか?
日本語の辞書による「議論」の定義は、「互いに自分の説を述べあい、論じあうこと。意見を戦わせること。また、その内容」とある。
私はあんぐりとしてしまう。
これでは議論をする目的がまったく不明瞭だ。
議論をする目的のひとつは、結論を出すことにあるのではないか。


意見を述べあう「作法」もまた必要だ。
「作法」とは、私なりに言えば、ものごとの手順のことである。


効率の良い議論のためには、結論に至る考え方の手順を「作法」として共有することが必要であり、この「作法」を知らずに議論を行っても、堂々巡りや、筋の通らない混乱を招くことになると考える。
議論を行う場合、どのような考え方の手順を踏んで結論を出すか、という関係者の合意があってはじめて、意義のある議論がされることになるだろうと思う。
今更ではあるが、もちろん、結論を出すことを目的とせず、継続して話し合うようなものもあるだろうが、ここでは結論を求められる議論に限定して考えている。


国民の多くが国会の委員会での議論に不満を持つ理由のひとつは、この議論の「作法」が理解されていないからであるように思う。
国際的に通用する議論の「作法」への認識が求められている。


欧米の例で恐縮だが、会議の運営法の原点として、“Robert's Rules of Order”(「ロバート議事規則」)という19世紀後半につくられた「作法」がある。
国際社会では、このような「作法」がスタンダードとして存在している、ということの重要性を認識したい。