来月7月は、図らずも大きな選挙がふたつある。
東京都民にとっては、お疲れさまなことだ。
なぜお疲れさまかといえば、現在、適切な議員や都知事を選ぶためにどのようにしたら良いのかが、よくわからなくなってしまっているように思えるからだ。
だからこそ、疲れてしまうのだ。
選挙権が18歳に引き下げられ、高校生がどのように選挙をしたらよいかという模擬投票のニュースがよく見られる。
私が生活しているなかでは、さまざまな会合や雑談において、「日本の政治はこれでいいのか」という話題が出る。
しかし若者の世代においては、選挙権の拡大とはうらはらに、一部を除いて、政治に対する関心が一世代前より少なくなっているのかもしれない。
この原因を考えなくてはならない。
政治離れと言われる現象の背景のひとつには、政治における矛盾があるのではないだろうか。
つまり、国民の代表として国家の経営を委託するために代務者を選ぶのであれば、代務者はこの委託を受け、命がけでこの国をより良い社会にするために問題解決をし、意思決定をし、国の進むべき方向の設定を行わなければならない。
にもかかわらず、現在の日本の政治家は「国民の理解を得て」という発言を連発する。
これは矛盾ではないか。
なぜならば、すでに選挙を通じて「国民の理解」は得られているからだ。
「国民の理解を得る」ということが、具体的にどういうことなのか、そのあたりがいまいち判然とせず、私などはどこか矛盾を感じてしまう。
「国民の理解」という語が、議会のパフォーマンスにおける言葉遊びになってしまってはいないだろうか。
多くの国民のフラストレーションは、政治家が信念と自信をもって判断を下し、それを着実に実行するという基本的なコンセプトが、いまやきちんと実現されていないことにあるのではないだろうか。
二言目には「国民の理解を得て」「民意を吸い上げて」と言うのは、そろそろやめにしてもらいたいものだ。
これは例えば、企業の経営者がいちいち「株主の理解を得て」経営を行っているわけではないのと同じことである。
2016年6月18日土曜日
2016年6月15日水曜日
189:人間の根
ファミリーレストランなどでは、装飾として花瓶に花が活けられているのをよく見る。
もちろん、このほとんどは造花である。
さて、造花に対していくら水をやり肥料をやっても、造花は造花であるので、育つわけではない。
この造花と本物の植物の違いとは何か、と考えてみると、それは「根」があるかないか、ということだ。
この造花と本物の植物の違いを人間にあてはめて考えてみたい。
人間も、根がない造花的な人間にいくら教育や指導という水、肥料を与えても、育つはずがないだろう。
そこで、学校教育においても、企業内教育においても、人間の「根(Roots)」は何か、という視点から、ひとの成長を考え直してみてはどうか。
このコンテクストでの「根(Roots)」の定義は、例えばウェブスターによると、ものごとの不可欠な要素、行動やクオリティーの源といったようなものが当てはまるだろう。
しかしこれでは抽象的であるので、人間の根というものについての定義をここで私なりにしてみたいが、しかしいささか逆説めいてしまうのだが、これは各自が死ぬ気で考えるものであり、それぞれに違ってもよい、というものなのである。
私個人としては、探求心、あきらめないということ、目的意識を持つ、自分の歴史を意識すること、などを挙げたいが、必ずしもこれらでなくても構わない。
ともかく、個人として、何か自分の意識の支えとなるようなものを「根」として持っていることが、非常に重要なのではないか、ということである。
やや話はズレてしまうかもしれないが、ある友人の元代議士と近頃会い、彼との会話のなかで、舛添都知事の話題が出た。
そこで、政治家のモラルや倫理観において、どこに線引きをするか、という質問を私はされた。
例えば、公用車で別荘に行く、ということが、果たして政治倫理に触れるかどうか、といったことである。
私は、個人としての人間の行動規範があるかどうかにかかっている、と答えた。
例えば、秘書官の「この程度のことは公費でまかないましょう」という発言に振り回されるようでは、公人の資格はない。
自身の行動基準、倫理観で判断するべきだ、と私は思う。
これは各々で違ってよい、ということでもある。
例えば公用車で別荘に行く、そのときに途中で家族を乗せていくかどうか、という問題が出てくるだろう。
私自身が公人であったとすれば、これは倫理規定に触れることではない。
ただ、週末にも運転手を引き留めておいて使うということは、私は公人としてはやらないだろう。
これは先ほどの「根」にかかわる問題であるだろうし、また良識(Common Sense)の問題でもあるだろう。
もちろん、このほとんどは造花である。
さて、造花に対していくら水をやり肥料をやっても、造花は造花であるので、育つわけではない。
この造花と本物の植物の違いとは何か、と考えてみると、それは「根」があるかないか、ということだ。
この造花と本物の植物の違いを人間にあてはめて考えてみたい。
人間も、根がない造花的な人間にいくら教育や指導という水、肥料を与えても、育つはずがないだろう。
そこで、学校教育においても、企業内教育においても、人間の「根(Roots)」は何か、という視点から、ひとの成長を考え直してみてはどうか。
このコンテクストでの「根(Roots)」の定義は、例えばウェブスターによると、ものごとの不可欠な要素、行動やクオリティーの源といったようなものが当てはまるだろう。
しかしこれでは抽象的であるので、人間の根というものについての定義をここで私なりにしてみたいが、しかしいささか逆説めいてしまうのだが、これは各自が死ぬ気で考えるものであり、それぞれに違ってもよい、というものなのである。
私個人としては、探求心、あきらめないということ、目的意識を持つ、自分の歴史を意識すること、などを挙げたいが、必ずしもこれらでなくても構わない。
ともかく、個人として、何か自分の意識の支えとなるようなものを「根」として持っていることが、非常に重要なのではないか、ということである。
やや話はズレてしまうかもしれないが、ある友人の元代議士と近頃会い、彼との会話のなかで、舛添都知事の話題が出た。
そこで、政治家のモラルや倫理観において、どこに線引きをするか、という質問を私はされた。
例えば、公用車で別荘に行く、ということが、果たして政治倫理に触れるかどうか、といったことである。
私は、個人としての人間の行動規範があるかどうかにかかっている、と答えた。
例えば、秘書官の「この程度のことは公費でまかないましょう」という発言に振り回されるようでは、公人の資格はない。
自身の行動基準、倫理観で判断するべきだ、と私は思う。
これは各々で違ってよい、ということでもある。
例えば公用車で別荘に行く、そのときに途中で家族を乗せていくかどうか、という問題が出てくるだろう。
私自身が公人であったとすれば、これは倫理規定に触れることではない。
ただ、週末にも運転手を引き留めておいて使うということは、私は公人としてはやらないだろう。
これは先ほどの「根」にかかわる問題であるだろうし、また良識(Common Sense)の問題でもあるだろう。
2016年6月11日土曜日
188:「再発防止」の意味
企業で不祥事が起きたときに、ほとんどの場合、当該企業のCEOおよび担当役員が記者会見を行い、判で押したように90°の角度で頭を下げる。
その際、取材記者から、「再発防止の具体的な方策は何か」という質問は、ほとんど聞かれない。
本来ならば、不祥事の真の原因を追究して、その原因をどのように取り除くのかということが確認されなければ、本当の再発防止にはならないのではないか。
余談になるが、なぜ判で押したように責任者が90°頭を下げるのか気になったことがある。
調べてみれば、広告代理店やPR会社が、「不祥事発生時の記者会見のリハーサル」を企画し、企業に売り込んでいる、ということだった。
リハーサルの模様をビデオに録り、評価やアドバイスを行うというものだそうだ。
これは大変いい商売であるらしい。
なんとも情けない話であるようにも思われるのだが。
話を戻すと、「再発防止」ということについて、単に「心を入れ替えます」という精神論だけでは意味がないのである。
もちろん誠意をみせ、きちんと謝罪するということは日本社会では必要なことではあるのだが、一方で問題現象の原因(複合原因の場合もある)をきちんと想定し、検証して、それを除去するための諸対策を確認することなしに再発防止は担保できないのである。
「不祥事」というのは、必ず過去におきたことであるのだから、事実としての情報が、確実に存在しているはずなのだ。
「不祥事」が起きたときに、それをもたらすどのような諸変化(諸原因)が存在したのか、ということを、企業はきちんと考えなければならないし、またマスメディアもそのことをきちんと問わねばならない、と私は考える。
その際、取材記者から、「再発防止の具体的な方策は何か」という質問は、ほとんど聞かれない。
本来ならば、不祥事の真の原因を追究して、その原因をどのように取り除くのかということが確認されなければ、本当の再発防止にはならないのではないか。
余談になるが、なぜ判で押したように責任者が90°頭を下げるのか気になったことがある。
調べてみれば、広告代理店やPR会社が、「不祥事発生時の記者会見のリハーサル」を企画し、企業に売り込んでいる、ということだった。
リハーサルの模様をビデオに録り、評価やアドバイスを行うというものだそうだ。
これは大変いい商売であるらしい。
なんとも情けない話であるようにも思われるのだが。
話を戻すと、「再発防止」ということについて、単に「心を入れ替えます」という精神論だけでは意味がないのである。
もちろん誠意をみせ、きちんと謝罪するということは日本社会では必要なことではあるのだが、一方で問題現象の原因(複合原因の場合もある)をきちんと想定し、検証して、それを除去するための諸対策を確認することなしに再発防止は担保できないのである。
「不祥事」というのは、必ず過去におきたことであるのだから、事実としての情報が、確実に存在しているはずなのだ。
「不祥事」が起きたときに、それをもたらすどのような諸変化(諸原因)が存在したのか、ということを、企業はきちんと考えなければならないし、またマスメディアもそのことをきちんと問わねばならない、と私は考える。
2016年6月8日水曜日
187:納税義務
どの国でも、収入や財産に対して一定の税金を課する、ということになっている。
つい最近私も、親から相続した不動産に対して、「固定資産税 都市計画税 納税通知書 在中」と書かれた封筒が送られてきた。
これまでは納税ということについて、それほど強く意識することなく都民の義務としてこれに従ってきた。
しかし、今回の報道での都知事の発言をみていて、はじめて都に対して税を納めるということに心理的な抵抗をおぼえた。
あれだけのひどい行動、発言を行った都知事が公人として責任を感じ、辞任をするのであれば、当然納税する。
退任しなければ、正直に言ってしまえば納税はしたくはない。
もちろん納税をしたくはない、などと言っても仕方のないことではあるが、一方で例えば、知事が辞任するまで税金を供託するという方法があるかもしれない。
知事が辞めるまで供託するということが、都民のせめてもの抵抗として考えられないか。
もちろんこれは非現実的で、技術的に不可能な、突拍子もない発想かもしれないけれども、これを国家レベルで行うと、どうなるのだろうか。
革命にでもなるのだろうか。
良識のない政治家の存在を知りながら税金をただ納める、というのも、なかなか遣り切れない話ではないか。
つい最近私も、親から相続した不動産に対して、「固定資産税 都市計画税 納税通知書 在中」と書かれた封筒が送られてきた。
これまでは納税ということについて、それほど強く意識することなく都民の義務としてこれに従ってきた。
しかし、今回の報道での都知事の発言をみていて、はじめて都に対して税を納めるということに心理的な抵抗をおぼえた。
あれだけのひどい行動、発言を行った都知事が公人として責任を感じ、辞任をするのであれば、当然納税する。
退任しなければ、正直に言ってしまえば納税はしたくはない。
もちろん納税をしたくはない、などと言っても仕方のないことではあるが、一方で例えば、知事が辞任するまで税金を供託するという方法があるかもしれない。
知事が辞めるまで供託するということが、都民のせめてもの抵抗として考えられないか。
もちろんこれは非現実的で、技術的に不可能な、突拍子もない発想かもしれないけれども、これを国家レベルで行うと、どうなるのだろうか。
革命にでもなるのだろうか。
良識のない政治家の存在を知りながら税金をただ納める、というのも、なかなか遣り切れない話ではないか。
2016年6月4日土曜日
186:平和とは何か
数日前、米国留学帰りと昔の教え子5、6人との会話のなかで、「平和」の定義についての話題になった。
PCで検索するなどして「平和」の定義を参照することもあったが、これは、というものは見つからなかった。
学問的に、一般通念的に妥当であるかはわからないが、ここで、私なりに長年考えてきた平和の定義について披露をしてみたい。
「平和」とは、あらゆる種類の紛争や対立が、ひとびとの生命や財産に対する脅威なくマネージされている状態だと私は考える。
人間や人間社会から憎悪や悪意がなくなることはないだろう。
これは人間の性であり、これを前提にした上で、どのように殺戮を回避するのか、ということを考えなくてはならない。
例えば、これは以前にも書いたことがあるかもしれないが、ある人はBuisinessを、「平和時における戦争の状態(peace-time form of war)」と見事に定義していた。
ビジネスの世界ですら、当然人間同士の競争はあるのである。
オバマ大統領が広島を訪問し、平和に対する論議がなされるときに、わたしが上に挙げた定義がすこしでも役にたてばうれしい。
余談めいてしまうが、私は以前の号で、原爆使用についての謝罪をアメリカに求めてはいけない、と書いたが、実際には日本側からそのような発言はどこにもみられなかった。
このことは、日本人の、黒白とけじめをつけずにグレーなエリアの存在を認めることにより、問題の解決を図るという智恵が発揮された良い例なのではないかと思う。
PCで検索するなどして「平和」の定義を参照することもあったが、これは、というものは見つからなかった。
学問的に、一般通念的に妥当であるかはわからないが、ここで、私なりに長年考えてきた平和の定義について披露をしてみたい。
「平和」とは、あらゆる種類の紛争や対立が、ひとびとの生命や財産に対する脅威なくマネージされている状態だと私は考える。
人間や人間社会から憎悪や悪意がなくなることはないだろう。
これは人間の性であり、これを前提にした上で、どのように殺戮を回避するのか、ということを考えなくてはならない。
例えば、これは以前にも書いたことがあるかもしれないが、ある人はBuisinessを、「平和時における戦争の状態(peace-time form of war)」と見事に定義していた。
ビジネスの世界ですら、当然人間同士の競争はあるのである。
オバマ大統領が広島を訪問し、平和に対する論議がなされるときに、わたしが上に挙げた定義がすこしでも役にたてばうれしい。
余談めいてしまうが、私は以前の号で、原爆使用についての謝罪をアメリカに求めてはいけない、と書いたが、実際には日本側からそのような発言はどこにもみられなかった。
このことは、日本人の、黒白とけじめをつけずにグレーなエリアの存在を認めることにより、問題の解決を図るという智恵が発揮された良い例なのではないかと思う。
2016年5月28日土曜日
185:恥ずかしいということ
読売ジャイアンツの野球賭博に関する取材への反応の多くは、「これは恥ずかしいことだ」とするものが多かったように思う。
世界社会に対して日本の恥ずかしいところに国民が目を向け、問題視する必要があるとおもう。
例えば、国際社会で恥ずかしいことのひとつとして、TPP交渉の日本側担当大臣の言行を挙げざるを得ない。
私の米国人の友人には、実にばかばかしいことだ、という発言も飛び出した。
あのような品性を持つひとを、日本を代表する交渉相手としていたことになんともいえない複雑な心境を持つ。
国の経営を預かる国会議員の諸先生は、国民の模範とするべき立場にあるという認識をぜひ持って頂きたい。
国民の政治離れや不信感の原因のひとつに、政治にかかわる先生方へのリスペクトが薄まっていることもあるのではないだろうか。
世界社会に対して日本の恥ずかしいところに国民が目を向け、問題視する必要があるとおもう。
例えば、国際社会で恥ずかしいことのひとつとして、TPP交渉の日本側担当大臣の言行を挙げざるを得ない。
私の米国人の友人には、実にばかばかしいことだ、という発言も飛び出した。
あのような品性を持つひとを、日本を代表する交渉相手としていたことになんともいえない複雑な心境を持つ。
国の経営を預かる国会議員の諸先生は、国民の模範とするべき立場にあるという認識をぜひ持って頂きたい。
国民の政治離れや不信感の原因のひとつに、政治にかかわる先生方へのリスペクトが薄まっていることもあるのではないだろうか。
2016年5月25日水曜日
184:思考資源の開発 その1
178号でも触れたが、日本の優秀な頭脳集団を効率的に機能させるためには、現状を打破する何らかの試みが必要と思われる。
私は2010年に、有志とともに「思考資源開発機構」なるものの設立を試みたことがある。
現在においてもその必要性を感じる。
組織が行う意思決定の生産性を高めることが企業競争力の強化に欠かせない側面であることに異論はないだろう。
生産性を高めることは、組織が行う意思決定業務に共通の思考様式を導入することである。
音楽を例にとれば、洋楽には5線譜という約束事がある。
そのため演奏者は楽譜があることにより、合奏が可能となる。
これは共通の約束事を、各員が理解しているためである。
これに引き換え、日本の組織においては、「楽譜」に相当する共通のルールが存在しない。
そのため、「合奏」する場面で混乱が起きるのである。
さて、みなさんにもこの領域に対して関心をもってもらうために、例によってクイズを差し上げることにしたい。
ある組織において、統括部長は管理職会議の方法を改善しなければならないと感じている。というのは、現状は会議にまとまりがなく、とりわけ口数の多いメンバーが支配しがちで、実質的に何も成果が得られないまま多くの時間を費やしている状態である。
このような状況において、取り組むべき課題を明らかにしていく上で最も論理的な手順を表しているものを選びなさい。
①優先度を設定する。
②問題・関心事・課題を挙げる。
③どのように結論を出すかを決める。
④状況分析の範囲を限定する。
⑤全体像を見直す。
⑥複雑な問題を分析できるレベルまで細分化する。
(A)①→③→⑤→④→②→⑥
(B)④→②→⑥→①→③→⑤
(C)④→③→⑥→②→①→⑤
(D)⑤→⑥→②→③→①→④
ここで、議論が噛み合わないということは、ある参加者は(A)の手順で発想し、その上司が(C)に固執するような場合のことだ。
これではものごとを議論する前提自体で混乱が起こってしまうことになるだろう。
そこで解答を示すなら、(A)~(D)でムダの少ない効率的な議論の手順は(B)である。
状況分析の範囲を決める→その範疇に存在する問題を列挙する→複雑な問題を、処理しやすい部分に分解する→複数化された問題に優先順位をつける→どのように結論を出すのか決める→全体像を見直す
以上でお分かりのように、結論が求められる会議等においては、集中討議ができるように、結論に至る段取りの理解を共有することが重要である。
私は2010年に、有志とともに「思考資源開発機構」なるものの設立を試みたことがある。
現在においてもその必要性を感じる。
組織が行う意思決定の生産性を高めることが企業競争力の強化に欠かせない側面であることに異論はないだろう。
生産性を高めることは、組織が行う意思決定業務に共通の思考様式を導入することである。
音楽を例にとれば、洋楽には5線譜という約束事がある。
そのため演奏者は楽譜があることにより、合奏が可能となる。
これは共通の約束事を、各員が理解しているためである。
これに引き換え、日本の組織においては、「楽譜」に相当する共通のルールが存在しない。
そのため、「合奏」する場面で混乱が起きるのである。
さて、みなさんにもこの領域に対して関心をもってもらうために、例によってクイズを差し上げることにしたい。
ある組織において、統括部長は管理職会議の方法を改善しなければならないと感じている。というのは、現状は会議にまとまりがなく、とりわけ口数の多いメンバーが支配しがちで、実質的に何も成果が得られないまま多くの時間を費やしている状態である。
このような状況において、取り組むべき課題を明らかにしていく上で最も論理的な手順を表しているものを選びなさい。
①優先度を設定する。
②問題・関心事・課題を挙げる。
③どのように結論を出すかを決める。
④状況分析の範囲を限定する。
⑤全体像を見直す。
⑥複雑な問題を分析できるレベルまで細分化する。
(A)①→③→⑤→④→②→⑥
(B)④→②→⑥→①→③→⑤
(C)④→③→⑥→②→①→⑤
(D)⑤→⑥→②→③→①→④
ここで、議論が噛み合わないということは、ある参加者は(A)の手順で発想し、その上司が(C)に固執するような場合のことだ。
これではものごとを議論する前提自体で混乱が起こってしまうことになるだろう。
そこで解答を示すなら、(A)~(D)でムダの少ない効率的な議論の手順は(B)である。
状況分析の範囲を決める→その範疇に存在する問題を列挙する→複雑な問題を、処理しやすい部分に分解する→複数化された問題に優先順位をつける→どのように結論を出すのか決める→全体像を見直す
以上でお分かりのように、結論が求められる会議等においては、集中討議ができるように、結論に至る段取りの理解を共有することが重要である。
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