2017年9月27日水曜日

279:平等、対等について

政治家の発言に、日本とアメリカはイコール・パートナーだ、対等な相棒だ、といったことがよく聞かれる。
一方、日本は米国の属国であり、ただ言いなりになっている国家である、という声もまた聞こえる。

これから国際的な問題解決を効率的に推進する条件のひとつとなるのが、上の例でも問題になっていた「平等」「対等」であるだろう。
この言葉を定義するのは非常に難しいだろうが、しかしさまざまな社会や国家が価値観を共有し、共に問題に取り組んでいくということが重要である。
そして、価値観を共有し、共同してものごとに取り組むとき、その集団の構成員は平等な存在である、と考えてよいのではないだろうか。
中国にGDPで抜かれてしまった、など、国力といったことに捉われる必要はない。

またこういった実際的な目標が重要である一方で、「平等」「対等」という語がどういった定義であるのかという共通認識を持つということも極めて重要であるだろう。

2017年9月20日水曜日

278:大きな目標を持つこと

以前の記事で引いたJFKのスピーチを別の視点で考えると、どのような発想が見えてくるだろうか。
国連の安全保障理事会の北朝鮮に対する制裁を見ても、国際社会が連携して相手国、すなわち北朝鮮を封じ込めようという意図が当然のことながら強く見られる。
しかし、夢のような話ではあるが、北朝鮮を同じ土俵に乗せて協力し、東アジアの安定のために共同で何かできることはないか、という発想を私は持ってしまう。

実際の外交問題は素人にはわからない複雑な要素があることは認識した上で、より大きな目的のために、敵対している社会や国といった当事者が共同の目標を持つという次元の論議があってもいいのではないかと思う。

経済協力といった次元の話ではなく、地域社会や、広く言えば世界社会で、ひとびとの生命と財産に脅威を与えるような状況をつくらないようにどのようなことができるかを考えていく必要がある。
相手国に何を要求するのかではなく(例えばこの文脈では核開発をしないようにという北朝鮮への要求)、相互に共同で何ができるのかということを考えたい。

夢のようなことを語っていると思われるかもしれないが、しかしこのような大きな目標を持つことは、非常に重要なことでもあると思う。

2017年9月16日土曜日

277:北朝鮮に関する一般市民の心配事

一般市民のひとりである私が、安全保障や外交の問題について専門的なコメントをする資格はない。
しかしながら、一般市民は、アクシデントだとしても、もし北のミサイルが日本に落ちた場合の影響を考えてしまうだろう。
実際先日、子育てをしている主婦の知人が、北のミサイルの問題について、本当に日本にミサイルが落ちたらどうするのか、と口にしていたが、これは子供を抱える人として当然の心配である。
このことに対して、国民を代表する国会が具体的で適切な方策を真剣に考えているようには、少なくとも私にはあまり見えない。

実際、政治の現場では、北朝鮮の行動はある程度予測できるにもかかわらず、具体的な対応がなされず、抽象的なコメントや他力本願、つまり安全保障理事会や安保法制への言及以上のものはない。
このような状況では、一般市民の生命や財産に対する脅威に政治が真剣に取り組んでいるかどうかが疑われる。
なんとかしていただきたいものである。

2017年9月13日水曜日

276:花粉の話

友人の米国人の受け売りだが、米国中西部の農場主についての話である。
この農場主は品種改良に熱心で、独自にとうもろこしの新種をつくることに成功し、近隣の農場よりも非常に大きな収穫を得ていた。
しかし、詳しく検証すると年によって収穫量にバラつきがあった。
この原因を考えると、気候条件によって、隣の農場から劣性の花粉が飛んできており、これが収穫量に影響しているのではないかということに彼は思い当たった。
風に乗って飛んできてしまうものである以上、この花粉を防ぐ方策はない。
そこで彼はあえて新種を近隣の農場に分けてゆき、結果、地域全体は栄えたということだった。

ここまで、特記すべきことはない。
しかし、私の友人がここから続けたことが興味深かった。
曰く、コミュニケーションのなかで人間の発信する情報は、上の話の花粉と同じように、実はどこでどのように実を結んでいるのか追跡できないものなのだ。
だからこそ我々ができるだけ「良い花粉」を発信することが、個人だけでなく世の中を良くしていくことにつながるのではないか、ということだった。

今日のIT時代、テレビやインターネットでも、「良くない花粉」がばらまかれてはいないだろうか。
もちろんメディアに限ったことではなく、本質的な事柄について考えさせるような「良いconversation」がなされることを期待したいものである。

2017年9月6日水曜日

275:国会議員は君子たれ

今回は短めのものでご容赦を。
表題の「君子」の定義をするならば、「学識・人格共に優れた立派な人。人格者」となるだろう。
現在、議員を務める人に「君子」は、果たしてどれくらいいるだろうか。

「君子」を国会議員として選出できるような選挙の仕組みを、どのように考え、つくるのかということが今日の日本の課題ではないだろうか。
世襲制の延長線上に何があるのだろうか、などと思ってもしまうのである。

2017年8月30日水曜日

274:依頼心の強い国民?

現政府の政策は、教育改革、一億総活躍、高等教育無償化、社会保障の充実など、国が提供するサーヴィスに偏重しているように思われる。
この結果として、依頼心の強い、自主的判断で行動できない、自己責任を負わない国民を育てることになってしまうのではないだろうか、と私は危惧している。

言い換えれば、国が国民に提供する政策が目につき、国民が国家にどのような貢献をするべきかを示唆するものは見えていないということだ。
以前の記事に関連させて言えば、政策が"Me First"的で、地域や社会を考えるという発想が希薄であるように感じられるのだ。


この延長線上で国防や安全保障を考えた場合、国家が国民を守るのか、国民が国家を守るのか、といった永遠の問題についても議論が必要になってくるかもしれない。

今日の選挙制度がこういった事態の背景にあるようにも思う。
選挙民の多くも、残念ながら代議士先生方が我々に何をしてくれるのかという発想が強い。
ひと昔前の国政で仕事をした代議士は、田中角栄にしろ、中曽根康弘にしろ、大平正芳にしろ、代議士として当選することを優先せず、国家のあるべき姿を考え、国政に当たってきたのではないかと思う。


ともあれ、政府の支援を期待するばかりでなく、国民が主体的に考え、行動する社会をつくりたいものである。

2017年8月26日土曜日

273:「○○ファースト」の先に何があるのか

他の国のことで恐縮であるが、先日、J.F.ケネディ元大統領の57年前の就任演説をじっくり読んでみた。
この演説は高い評価を受け、日本でも当時話題になったものだったが、あらためて読み返すと、そこにはアメリカ国民の大国としての自負と、大国であるがゆえの責任が表れており、感銘を受けた。

2017年の現在、トランプ大統領は"America First"と言い、小池都知事は「都民ファースト」と言っている。
あくまで私見ではあるが、その行きつくところは"Me First"なのではないだろうか。

もちろん"me"つまり自分が大切であるのは自明のことだ。
しかし社会があってこそ自分自身が存在するという認識に立てば、社会(you)もまたきわめて重要なものであるということに気づくはずだ。
要は、"me"(自身)、"you"、あるいは"us"という要素のバランスをどのように考えていくのかということではないだろうか。

"America First"に相対する発想は、例えば前述のケネディ元大統領のスピーチで実は既に述べられている。
... my fellow Americans: ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country.
国があなたのために出来ることを求めるのではなく、あなたが国のためにできることを求めなさい。

また世界社会に向けては、次のようにも述べている。
My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.

アメリカがあなたがたのためにすることではなく、人類の自由のために私たちが共にできることを求めなさい。


このケネディ氏のメッセージは、米国民に対するものであると同時に、自由を信奉する日本人に対するものでもあるだろう。
先ほども述べたように、"America First"や「都民ファースト」は"Me First"に向かっていく。
この"Me First"は、各々が責任ある個人として確立し、社会を構成していくような「個人主義」とも、似て非なるものだ。


「○○ファースト」という発想の限界と、その先に一体何があるのかということを私たちは考えてみなくてはならない。