2017年12月20日水曜日

291:フラストレーションをプラスのエネルギーに変える その1

最近、社会現象に対して不平・不満を持つ人々が多い。
内閣府による国民生活選好度調査では、国民の幸福度は10点満点中6.41というあまり高くない数字を示している。
憶測だが、「人生の生きがい」といった項目があれば、より低い数値が得られるのではないか。
あるいは講演会、勉強会、趣味の会、同窓会など、最近どの会合に出ても、政治や社会制度、外交、税金、教育など、あらゆる分野における不平・不満ばかりを聞く。

このフラストレーションという国民的なエネルギーを、どのようにして建設的な力にするのかということが、今日的な課題であるように思う。
このエネルギーをもって何かができないか、と最近つくづく考える。
持てる社会(Affluent Society)の、食うに困らない人々に、何をすべきかという目標意識がないことが問題である。

目標意識がないとき、
利口な人はどうするのかというと、ひとつは、金銭に走る。
つまり、最近のFintech(Finantial Technology)等によって財を増やし、強欲(Greed)を追及する。
このような過程は無限のものであり、決して満足感が達成されることはない。

二つ目に、趣味、遊戯、道楽に走る。
飲み会やグルメに始まり、海外旅行、ゴルフ、スポーツ観戦等々である。

三つ目が、健康である。
ジムに行く、サプリを飲む、女性の場合は美容も考えられる。
年配者の場合は健康診断に行き、医者に通い、健康に良い食品を食べるといったこともするだろう。

このような三つの項目(金、趣味、健康)は、もちろん快適な生活のためには必要な条件だろう。
しかし、それらが満たされていたとしても、多くの人間はフラストレーションを抱えているのである。

このように考えたとき、J.F.ケネディ元大統領の演説を思い出す。
そこでは、国が国民に何をするのかを求めるのではなく、国民が国に何をできるのかを考えるべきであり、また、他国が米国に何を求めるかでなく、米国が他国と共同して何をできるかを考えなくてはいけない、と述べられていた。
現在に置き換えれば、例えば国連が加盟国に何をするかでなく、加盟国が国連に何をできるのかといったことにもなるだろう(ただ、これは非現実的なことかもしれない)。
ここで言いたいことは、ものの捉え方を逆転させる必要があるということだ。

日本の場合に置き換えれば、他国と協力してどのような崇高な目標を持ち、その達成に何ができるかを考えなくてはいけない。
ではそれを、誰が考えるのか。
結論を言えば、個人ひとりひとりが考えなくてはならないのだ。
政治が考える、行政が考える、指導者が考える、賢人が考える……ではなく、社会の構成員ひとりひとりが頭から血を流して考えれば、何か出てくるのではないか。

これが、日本に蔓延しているフラストレーションを解消する方向のひとつではないか、と考え続けている。
個人がただ満足するだけのもの(金、趣味、健康)ではなく、より大きなレベルで何か目標を考えることが、真に満足感を生むのではないか。
その方向は
①大多数の人が納得するもの
②平和国家日本が前進するもの
③いままでにない崇高なもの
④世界社会が批判や反対ができないもの
である必要があるだろう。

上にも述べたが、これには平和をどう考えるかという問題が関わってくることだろう。
日本は唯一の原爆被爆国であるにもかかわらず、核拡散防止条約に批准していない。
その事実に無関心や無反応でいられる状況は長くは続かないはずである。

そこで、一人の日本人として長年考えてきたことを披露してみたい。
その詳細については、次号で書きたいと思う。

2017年12月6日水曜日

290:「理解を求める」は国際的に通用するか

問題や対立の発生に際して、その解決や同意に至る考え方の過程に混乱があるという状態が続いているように思う。
具体的には、「理解を求める」という言葉が、以前から気になっている。

この問題は、風呂敷を広げれば、米国の占領時代にも遡ることができるだろう。
日本が占領下時代に占領軍にある問題を突き付けられ、即座に同意ができない場合、占領下の当事者は「同意できない」とはいえず、まず「検討させていただきます」と言ったと想像する。
話を受けて、様子を見ようということである。
もしこれで何事もなく収束すれば、一見落着ということである。

しかし、それが上手くいかなかった場合、当該要求がいかに非現実的であるかということを相手に「説明する」というプロセスをとる。
これにも失敗した場合、当方の状況を相手に「理解してもらう」。

このような流れが当時の占領軍に対する日本側の交渉の流れであったように思う。
そして戦後72年経った今日でも、「相手の理解を求める」という表現は使われ続けている。
外交交渉の担当に対して失礼かもしれないが、「理解を求める」という表現には下の者が上の者に「頼み事」をするようなニュアンスがあるように思う。
日本の社会では当たり前にされる発想が、国際社会で日本を不利な状況に追い込む場合があるといったら考えすぎだろうか。

日本では、「理解を求める」と言うとき、責任者が「理解を求め」れば、相手はある程度譲歩をするだろうという発想が前提になっている。
しかし、果たしてこのような前提が国際社会で受け入れられるかどうか、疑わしいように思う。
ましてや、途上国との交渉において、相手に「理解を求める」と言うことは相手に誤解を与えるのみではないか。
ここで相手が「理解しません」といった場合、どうするのだろうか?

さすがにそこまで想定するのは現実的でないかもしれないが、少なくともこの「理解を求める」という表現については、国際社会では誤解や不利益を招きうるものであることは認識したい。

もちろん、この表現をマスメディアが使うことにも問題がある。
閣僚が他国に行き、「理解を求めた」といった言葉で報道を行うことは、上に述べたような趣旨から、ある意味で非常に危険なことなのだ。