2015年12月26日土曜日

159:日本国憲法改正

平和安全法制が議会を通過し、来年3月に施行されるということだ。
政府が次に持ち出す案件のひとつは、いうまでもなく憲法改正であろう。
私は憲法の専門家ではないけれども、第9条については大きな関心を持っている。


最新の(平成24年度の)自民党改憲案の9条を下記に参照する。


日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。 
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。 

 
下線を引いた部分が、変更部分である。
上記は現行の憲法9条と本質においては不変である、と私は思う。
平和憲法の精神は、不動であると解釈してもよいだろう。


ここでいくつかのことを述べたい。
まず、憲法改正に反対の立場の人々は、上記のように、9条の変更が細かいものであること、またその平和憲法の精神は変わっていないことを理解しているのだろうか。
ヒステリックに反対を唱えるのではなく、どこが、どのように変わり、そこにどのような問題があるかもしれないのか、ということを冷静に議論しなければならない。
そこで、もう少し続き(改正案で付け加えられた部分)を見てみよう。




9条の2。



我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮権者とする国防軍を保持する。

  1. 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
  2. 国防軍は、第一項の規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
  3. 前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
  4. 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。
また9条の3は以下。
国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。
だらだらと引用してみたが、9条の3が意図する真意がよく理解できない。
「国民と協力して」とは、いったい何を意味するのだろう。
私は改正に基本的には賛成だが、その細かい内容についてはまだまだ議論の余地があるように思う。


上に述べたように、あくまでも平和憲法の精神は維持されている、とわたしは考えている。


国際紛争の解決する手段としては武力の行使等を用いない、という崇高な発想は、唯一の原爆被爆国であるという背景も持つ我が国の憲法にふさわしいと思う。
ただし議論をさらに一歩踏み出すなら、ここで私たちが突き付けられている課題は、武力の行使を放棄するのであれば、国際紛争を解決するための、平和的な手段を開発する必要があるのではないか、ということだ。
国際紛争は必ず起こるものだ、という現実から逃避はできない。





2015年12月23日水曜日

158:民主主義とジャーナリズム

民主主義社会において、ジャーナリズムの占める位置づけと責任が重要なものであることは言うまでもないだろう。
民主主義は“choice”を前提としている。
選挙行為の本質が、複数の候補者から有権者が国政を委託する人物を選ぶことであるのだから、ジャーナリズムはふたつの重要な情報を有権者に提供する責務があることになるだろう。
ひとつは、直面する社会情勢の中でどのような基準をもって候補者を選ぶかという情報。
もうひとつは、候補者自身にかんする情報。
特に、後者の情報がなければ、選挙民が候補を選ぶことは困難になる。
具体的に言えば、候補者がどのような社会とのかかわりあいを持った人物なのか、また、どのような政治信条を持つ人物なのかについての正確な情報がなければ、選挙そのものがいびつなものになってしまうのではないだろうか。


情報発信を担うマスメディアに期待されるところは大きいのである。
また欲を言えば、事実関係のニュース(「だれが・どこで・いつ・なにを・どの程度、等」)以外に、事件や案件の本質・動機・背景等といった「なぜ」にかかわる問題も知りたいのが、私たちの関心である。



2015年12月16日水曜日

157:国務大臣の更迭理由

12月6日の産経新聞のトップ紙面は、高木復興相の政治資金問題であった。
国の経営を司る大臣のスキャンダルの報道を見るたびに、一般国民は情けない思いをすると同時に悲しくなる。


私企業において、役員にかかわる不透明な資金の流れが発覚すれば、その役員が退任してひとまずは一件落着となるだろう。
この単純なことを政治の世界に期待することができない背景には、何があるのだろうか。


この記事によると、更迭検討の理由として「復興政策で遅れが生じ、来年夏の参院選挙に悪影響が出かねないとの懸念」とあった。
このことが更迭の理由であるという発想には、納得できないものがある。
国の経営が主体ではなく、選挙に勝つことを重要視する発想を疑問に思う。


政治家の皆様方、選挙や国からの政党助成金の獲得に時間を割くことも必要とは思いますが、ほどほどに願いたいものです。
また、マスメディアの皆さんも、閣僚の更迭の理由が選挙がらみだという報道も、一般市民には納得しがたいものがあることを理解いただきたいと思うのです。

2015年12月12日土曜日

156:お雇い外国人

多くの方々がご存知のように、維新後の明治政府は「お雇い外国人」を登用した。
これらの記録は、横浜市にある、横浜開港資料館で多く公開されている。
日本の近代化は、これらの外国人に負うところが多である。


ところで、現代の「お雇い外国人」成功事例は、カルロス・ゴーン日産自動車社長に見ることができるだろう。
ちなみに、あまり知られてはいないが、ゴーン氏はひとりで乗り込んだわけではなく、約20名のエキスパートを連れてきたと聞く。


色々と批判はあるが、ゴーン氏のおかげで日産自動車が消えてなくなってしまうことが防がれたという事実は認めざるを得ないだろう。
行政改革が遅々として進まない状況を打破するためには、この際、お雇い外国人の採用、といったような思い切った発想の転換が必要かもしれない。


日本の組織にある先輩・後輩のようなある種のしがらみに囚われずに、客観的な人事政策が実現できなければ、組織の改革はおぼつかないだろう。
この発想は、必ずしも西洋の人間を称揚するものではない。
アジア系などの人間でも全くかまわない。
要は、多国籍でのオペレーションに関して実績を持ち、環境変化に適切に対応できる人物であればよいということである。

2015年12月5日土曜日

155:「誰が」と「何が」

洋の東西を問わず、知名人・有名人の発言が重要視されることはごく自然だろう。
(ここで言う有名人とは、いわゆる“big name”や“public figure”、つまり著名な人物や公的な人物のことを指す。)


この有名人が一流の人物であれば問題はないが、ただ名前が知られているということだけでは困る。
マスメディアはセンセーショナリズムの延長線上で情報を発信すること以外に、ジャーナリズムとしての使命があるのではないか。
これは、私なりに考えると、社会や読者・視聴者に真実を報じるとともに、警告を発し、問題意識を喚起すること、またものごとの本質について論議を促進するような役割を果たすことが重要ではないか、ということだ。


一般国民の声、意見、提案がマスメディアで取り上げられる場面というのは「投書欄」くらいだろう。
そして、この「投書」という概念がいかにも日本的であると思う。
「投書」は「親書」と異なり、返書を期待しないものである。


私の経験を申し上げると、かなり前に乗用車を購入した際、納車された車のブレーキ液がほとんど空の状態だったことがあった。
そこで、製造メーカーの社長に、親書を送り、「これは親書であるから、ぜひ文書でご回答頂きたい」と書いた。
無視されたため、数週間後、督促の手紙を出した。
すると、広報部門の責任者が、菓子折りを持って訪問してきたのだった。


このように、日本では、大衆の人間が大きな組織の責任者に親書を書いて送っても、反応はないのである。
ところが、著名人の発信は、これをすぐにマスメディアが取り上げる傾向にあるのではないか。
極論をすれば、内容がどうあれ、取り上げられることになる。


日本では、「誰が」言ったのか、ということが重要視され、「何が」言われたのかということには注意が払われないように思われはしないだろうか。
欧米がすべて正しいとは言わないが、新しい発想に関する意見をメディアの編集長に送れば、取り上げられる可能性があり、それが社会正義につながるという認識を持ちたい。
我が国においても、革新的な意見や提案が新聞の「投書欄」という片隅に追いやられることなく、価値ある市民の声が反映されてほしいものである。
「誰が」でなく、「何が」が重要なのだ。

2015年12月2日水曜日

154:立会演説会

立会演説会
選挙運動の一方法で,公職の候補者が一堂に会して行われる演説会。公職選挙法は,衆議院議員参議院(地方選出)議員および都道府県知事の選挙については公営立会演説会を行うことを義務づけていたが,聴衆の数の減少等の事情により,1983年の法改正で廃止された。


上記はインターネット辞典、マイペディアからの引用である。
聴衆の数の減少が演説会の廃止の原因のひとつとされているが、今日ほど立会演説会の復活が望まれている時はないのではないかと思う。
選挙区別に、立候補者が選挙民の前で自身の主義・主張や政治信条を堂々と討議する場面があってこそ、選挙民は主体的な判断により候補者を選ぶことができるのではないだろうか。


テレビ・ラジオによる所信表明演説の影が薄くなってきている。
国政選挙において、都市部の有権者が支持政党を持たず、またこれが持続しているという現象もある。
この無党派の選挙民を選挙に参画させることが、健全な民主主義が機能するひとつの条件となるのではないかと思う。
そのためには、1983年に廃止された立会演説会を、この際復活させてもらいたい。
仕事を持った人が参加できるような時間帯や場所を選べば、会場がいっぱいになるのではないかと思う。
また有権者も、万障を繰り合わせて、自分が政治判断を委託しようとしている人間を選ぶのだという責任感を持ちたいものだ。

2015年11月28日土曜日

153:憲法9条は無抵抗主義か

安倍政権における安保法案の衆議院可決以来、日本国憲法がアメリカでどのような評価をされているかについて調べてみた(http://www.loc.gov/law/help/japan-constitution/article9.php)。
驚くなかれ、ここでは、平和憲法は“Pacifist Constitution”と書かれていた。
“Pacifist”とは、平和主義者・反戦主義者、暴力に反対する人、という意味と同列に、「無抵抗主義」という意味でもあるらしい。


またこの記事では、以下のように書かれている。



General MacArthur was the first person to write down the idea that the Japanese constitution would renounce war.  Researchers agree that the idea was first introduced between General MacArthur and Prime Minister Shidehara. However, there has been a debate as to which one conceived the idea.  Both claimed the other told them first, a debate now impossible to settle because both have passed away. 



おおざっぱに要約すると、当時の占領軍最高司令官マッカーサー元帥が、はじめて戦争放棄を日本の憲法に入れるべきだ、と考えたとされているが、学者の間では、当時の幣原首相との会話の中で、このような議論があったということが知られている。
相互に相手が、この平和憲法のアイデアをはじめて出したと言い合ったということだ。
しかし今では事実がどうであるのか、検証の方法はない。


ここで言えることは、日本国憲法は、米国側が一方的に押し付けたものではないと解釈して良いのではないか、ということだ。
つまり、改憲派のひとたちがよく言うように思われる、押し付けられた憲法であるから修正するべきだ、という議論には、やや疑問があるのではないだろうか。


むしろ、憲法の改正・修正(Amendment)において、我々が知りたいことは、どの条項をどのように変えるかという具体的な議論についてではないか。
具体的な議論がなされてはじめて、Amendmentの方向が明確にされるのではないか。


現行憲法を全面的に日本人が書き直すという主張もわかるような気はする。
前述の“Pacifist”を「無抵抗主義」という意味で取るとすれば、それが非現実的であることは言うまでもなく、実際には現存の自衛隊は安全保障のために不可欠だろう。
しかし、国際紛争の解決に武力を使わないという理想を憲法に掲げている先進国は他にない。
問題は、この精神を将来にどのように現実的に生かすかということであるように思う。


新しい戦争の形態が増加する傾向の中で、闘争・紛争を戦争状態になる一歩手前で制御(Manage)する手段の開発を日本のイニシアティヴでやりたいものだ。
西洋文明からのものだけではなく、「非・西洋」の知恵も、日本を中心として結集させたい。

2015年11月25日水曜日

152:日本人の発想法はユニークか

今年11月8日に、内閣府が主催する、サイバーセキュリティに関する国際会議が沖縄で開催された。
これに関連して、米国の参加者のひとり、元・米国立サイバーセキュリティーセンター長官との少人数の勉強会が同月10日に東京で開かれ、私も参加をした。


私はサイバーセキュリティに関するド素人だが、次のようなコメントがなされた。
・各国政府がやりとりする情報は、そのほとんどがどこかで盗まれていると考える時代である。
・ファイアウォールと言われる技術のほとんどは、やがて破られる。なぜなら、攻撃する側が常に有利だからである。
・日本は、この分野で遅れていると言わざるを得ないが、かえって、最新の技術を導入できる立場にあることが有利である。
・2020年のオリンピックまでに、日本はこの分野で大発展をし、世界を変えることになるだろう。
・ところで、日本人は正直で、まじめで、善良すぎることを懸念する。(「人を見たら泥棒と思え!」という日本のことわざを生かさなければならないということだろう)


私は、元長官にふたつの質問をした。
まず、“Do Japanese think differently?”
この問いに対し、彼は躊躇なく“Yes”と答えた。


ふたつ目の質問は、“Is Japanese logic unique and different?”
これに対しては、彼は上手く答えにならないような説明を長くしていたため、「Noでしょう?」と確認をしてみたところ、頷いた。


つまり、我々はロジックにおいて違いはないものの、その使い方が西洋と異なっているということだろう。
要は、どのように国際社会で通用するような考え方をするのかが問われている。


ちなみに、以前も書いたが、中国ではエンジニアは「工程師」と呼ばれる。
作業におけるプロセス=工程が強く意識されているということだろう。


日本人が国際社会で議論が噛み合わない理由のひとつは、プロセスを意識する「システム思考」に対して、日本の考え方が「暗算思考」「名人思考」であるということが考えられるだろう。


日本において、「システム思考」を啓蒙する必要があるように思われる。

2015年11月18日水曜日

151:国際人の養成

世界社会で活躍できる人物の養成が急務といわれて久しい。
関係省庁等も、思い出したようにこの領域の重要性を認識して予算を付けているようだ。


139号でもこの話題には触れたが、今回は国際人の条件について、もう少し具体的に書いてみたいと思う。
これは、どのような状況下でも、誰とでも対等に仕事ができるための条件である。


①会議の席上で相手を黙らせることができる。
②異質文化の中で平常心を持ち続ける。
③相手の人物評価(組織内での力関係の判断)ができる。
④するどい質問ができる。
⑤仕事以外の話題が提供できる(リベラル・アーツ的)。
⑥Noではなく、選択肢が提案できる。
⑦プロブレム・ソルビングの進め方の「定石」としての国際基準を知っている。
⑧初対面から相手と深いコミュニケーションができる。
⑨相手や組織に対し、建設的な影響力が与えられる。
⑩問題の本質をおさえて、相手を説得できる英語力を持つ。
⑪信頼されるための、人間としての信念・主義・倫理観を持つ。


など、思いつくままに、無責任に書いてみた。




また、内容はズレるが、機会があるごとに、言葉の定義を開示していきたい。
知っているつもりの言葉でも、その定義を問われると難しい、というものは意外と多くあるように思われるのです。
例えば。




bankruptcy「破産」とは
流動資産から債務を完済できない事業(または個人が所有する財産)を清算するための法的手続き。


どうでしょうか。
今回はこの辺で。

2015年11月14日土曜日

150:パブリック・スピーキング

日本において、教育改革の必要性が盛んに言われている。
この論議の中でぜひ加えていただきたい領域が「パブリック・スピーキング」である。
日本人が国際舞台で、発信をできない背景には、我が国の教育の中にパブリック・スピーキングという科目がないことも、そのひとつにあるのではないかと思う。


ちなみに、ハーバード大ではSPCH-100として、“Fundamentals of Public Speaking”というコースがあるようだ。
目的は、聴衆の注目を集め、持続させるための、内容と伝達スキルを身に付けるということだ。
またインディアナ大ではCMCL-C 121 “Public Speaking”、スタンフォード大でも同様にENGR “Public Speaking”という科目があるようである。






先進国間における日本のサイレンスが問題であった時代ではもうない。
途上国のリーダーが国際会議でパブリック・スピーチを堂々とする様を見ると、日本の発信力の弱さの原因を考えてしまう。
国際舞台で活躍する人物がすべて留学などによる海外経験者である必要はない。
しかし、このパブリック・スピーキングというという領域を、公衆に向けて意見を堂々と主張するという文化のない日本において、確立することが急務ではないかと思う。


パブリック・スピーキングの本質は、与えられた演題に対して、どのような諸本質を伝えるのか、そのための論理的なシナリオが作成できること、その場で聴衆を分析し、適切な対応ができること、関心を掴み持続させる技術、などである。
これらは、あくまでスキルであり、訓練すれば身に付くものである。しかし裏を見れば、訓練しなければ身に付かないものである。
これが、コミュニケーション学の基本になるのではないかと思う。

2015年11月11日水曜日

149:中3に英語全国テスト

少し昔の記事ではあるが、2015年6月6日の産経新聞によると、文科省は31年度から、読む・聞く・書く・話すの四技能の習得度を確認するため、国際標準規格CEFRを用いた英語の新テストを導入する予定であるらしい。
ヨーロッパで開発されたCEFRをどのようにして日本の中学生の英語検定に用いるのかはよくわからない。


ただ、日本人の文化的背景を考えると、この「読む」「聞く」「書く」「話す」の四つを、同じウエイトで扱うということに疑問を持つ。
特に「聞く」ことについて考えてみれば、一方的に聞いて理解する能力が必要とされる場面は、古今東西を問わずラジオ放送くらいのものだ。
従って、「聞く」と「話す」を同列に考えていること自体、問題があるのではないか。





また翻って、英語における話す能力は、書く能力に直結していると言っても過言ではない。
ここで誤解してほしくないことは、以前の内容と重複するかもしれないが、自分で書いた文章が不完全であっても、その文章を読んで発信することが、「話す」コミュニケーションとしての、英語教育の重要なポイントであるということだ。




私自身、若いころに、英語によるコミュニケーション能力を向上させるために、ある設定したテーマに対し、かなり高度な英文を書き、それを声に出して読む練習をしたことがある。
くどいようだが、教科書的例文(他人が書いたもの)を丸暗記する方法もあるが、自分が書いたものを自分で覚えてみることの重要性も認識したい。


このことが、以前にも触れたハーバード大のフォーレー学長が言う、説得ある文章力と説得あるスピーキングにつながる。
格調ある英文であるのに越したことはないが、説得ある(Persuasive)ことが重要であり、流暢さだけが必要なわけではないことは肝に銘じたい。
説得あるということは、必ずしも文法的に正確な文章を話すということを意味しないと考える。


中3の英語全国テストに話を戻そう。
上に挙げたようなことから考えて、西欧文化圏における語学能力の検定制度をそのまま我が国に適応することには、慎重を期するべきではないだろうか、と考える。

2015年11月4日水曜日

148:日本のハロウィン狂詩曲

ここ何年か、日本でもハロウィンが催しとしての賑わいを見せているようだ。


しかし、そもそもハロウィンとは何なのであろうか?
これは元々は宗教的なお祭りとしてあったものだが、その後特にアメリカで、ほぼ宗教色を脱色したかたちで普及したイベントであるようだ。
私もアメリカに滞在していた当時のことを覚えているが、その内容とは、子どもたちが仮装して街の家々を訪ねて歩き、キャンディなどのお菓子をねだる(“Trick or Treat!”)ものだ。


人々が楽しむイベントに水を差すことになるかもしれないが、子どもの遊びや楽しみを、大の大人にまで持ち込む感覚を、なんなのかと思ってしまう。
ハロウィンをコマーシャル化、商業目的化する背景にはそれを演出する人々がいるに違いない。
営業妨害をするわけではないが、超えてはならない一定の秩序や良識の範囲内でやってほしいものだ。


外国人がどう見るかを過度に気にする必要はないかもいれないが、日本人が幼稚化している、というような印象だけは与えたくないものだ。

2015年10月31日土曜日

147:企業の競争力と問題解決力

ここに2001年1月30日付の日経新聞の切り抜きがある。
タイトルは「教育を問う」。
これは日経新聞が実施した、「社長(頭取)100人アンケート」により明らかになった、彼らの懸念についての記事である。


これによれば、彼らは若手社員の「社会常識・マナーの欠如」「コミュニケーション能力(の低下)」などを懸念しており、さらに、最も多かったのは「進んで問題を見つけて解決する能力」で28.5%であり、この状況が続けば、将来「支障が出る」と50.0%が回答した。
また記事では、このことと教育の問題とが関わっており、日本の教育が抱える問題で最も深刻な点は? という質問に対し、56.0%が「問題発見・解決能力の不足」と答えたことが強調されている。


さて、残念ながら、15年経った今日、この状況が改善されているとは思えない。
どうすれば良いか。


ひとことで言えば、教育の知識偏重を改め、児童・学生に対し、「ものごとを考える」教育を行うことの重要性を認識すべきだ。
これは、言うは易し行うは難しであろう。
具体的なヒントを私なりに考えるとすれば、大学を卒業するまでに、下記に記すような教育の成果を出すことではないだろうか。


それは、直面する問題の本質を押さえ、解決し易い部分に分解し、優先順位を付けて、個々の問題をどのような思考手順で分析し結論を出すか、というプロセスを構築できる能力を開発するということだ。

2015年10月28日水曜日

146:ベニーズってなに?

以前配信した「142:リスクへの合理的な分析手順」に対してかなりの反響を頂いたので、今回も同じようなクイズを作った。
どうぞお考えください。


べニーズというレストラン・チェーンは、全国にフランチャイズを展開している。
最近、ある店舗において、顧客からの苦情の増加が本社に報告された。
苦情の内容は、料理の質に関連したものであった。
ベニーズは過去にも、工場の品質管理が原因で、料理の質に関して広範囲な地域で問題を起こしたことがあった。


今回の状況に対して、本社の責任者はどのように対応するのが最適か。
①主力工場における品質管理の徹底を指示する。
②苦情を申し出た顧客への個別対応をフォローする。
③当該レストラン以外で同様の苦情が出ているかどうか確認する。
④当該レストランの信用の回復案を店長に提出するよう指示する。




















解説。
この状況は、問題現象の原因を究明するものである。


①苦情の原因が食材にあるという短絡思考であり、的外れな指示を出してしまっている可能性がる。
②原因究明にはまったく関連しない行動である。当該状況の影響を最小化するための暫定的な対策でしかない。
④これも原因の究明にはつながらない。対策に短絡しており、適切でない。


よって、答えは③
これは、想定できる原因を消去するための重要な情報となる。
過去に工場において問題があったからといって、今回もそうであると考えるのは短絡的である。
もし当該店舗以外に問題が発生していないのであれば、問題が工場における品質管理、あるいは配送などにはないという判断の根拠になる。

2015年10月24日土曜日

145:意思決定と優先順位の混同

日本民族が2700年ものあいだ存続をし、繁栄をしてきたということは、歴史の中で適切な意思決定がなされてきたからであろう。


ここで不思議なことがある。
『広辞苑』をはじめとし、主な辞書類に「意思決定」という単語は見当たらない。
「意思」も「決定」ももちろんある。
しかし、「意思」は「何かをしようとするときの元となる心持ち」、「決定」も「物事をはっきりと決めること」くらいの定義しかない。


日本人は過去において、どのような言葉を用いてものを決めてきたのだろう。
調べてみると、三つの概念が出てくる。


①「極む」
これは、「見極める」という表現にあるように、現在の用語で言えば、組織の将来の方向や性質をきめること。


②「決む」
これは単純に経験や知識や直観などでものごとをきめること。


③「定む」
これは、最適なものをきめること。


今日使われているDecision Makingは、この「定む」に当たるものだということを指摘しておきたい。
それは、あるテーマに対して、複数の案から最適な方策・手段を「選ぶ」ということ、つまりChoiceということである。


これに引きかえ、優先順位はまったく異質のものであることを認識したい。
優先順位とは、複数の課題がある場合に、どこから手を付けるか、ということを判断することである。
つまり、優先順位はひとつのものを選ぶ、ということではない。
他に先駆けて行使する項目を判断する、というだけのことであり、つまりその事項がいくつあってもかまわないということだ。


では、この優先順位を判断する基準は何だろう。
常識的に言えば、三つの切り口がある。


①重大度
例えば、その案件の及ぼす影響が、組織の一部に対してなのか、あるいは全体に対してなのか、という基準。


②緊急度
即座に対応しなければならないのかどうか、という基準。


③拡大傾向
案件を放置しておいた場合、大きな問題になるか、あるいは消滅することになるのか、という基準。


これらの側面を考慮した上で優先順位を決めると、間違いはないだろう。
要は、意思決定と優先順位は、全く異なる考え方であり、用途もその使い方も違うのである。

2015年10月21日水曜日

144:Consequenceと北方領土

素朴な質問をしてしまう。
これは、時事問題ではあるが、日本人の思考法にも関連があり、具体的に言えばConsequenceの問題に関わるものであるだろう。


それは、北方領土の返還問題であり、国土といういわば不動産の所有権の問題である。
一朝一夕では解決できないことは承知の上で、いくつかのことを考えてみたい。


ロシアが簡単に領有権をあきらめるとは思わないが、仮に返還が行われた場合、どのようなConsequenceが起こるかということを真剣に考えてもらいたいものだ。


まず、現在居住しているロシア国籍の人たちをどうするのか。
彼らの国籍についての混乱が起こるだろう。
彼らは立ち退きを拒否するであろうし、転居を実施するためには莫大な補償が発生するだろう。
また、仮に返還されて日本の領土になった場合、北方四島に本土並みのインフラを提供する義務が発生し、膨大な費用が発生するだろう。


これら以外にも様々なConsequenceが考えられるが、つまり単純に北方領土を返還せよ、と主張することは問題含みではないか、と言いたい。


領海・排他的経済水域、漁業権がことの本質であることはもちろん承知している。
とすれば、大事なことは四島の返還ではなく、その四島に付属する海域について取引できるような知恵は果たしてないのだろうかということだ。

2015年10月17日土曜日

143:Consequenceとは――後先のことを考える

単純に辞書を引くと、Consequenceの日本語訳は「結果」とある。
さらに辞書によると、「(良くない)結果」「成り行き」「(人・事の影響などの)重要さ、重大さ」とある。


現在の我々の社会生活において、このConsequenceという考え方が、どのような影響を及ぼしているかについて考えてみたい。
私の考える本来のConsequenceの意味は、「ある行動をとった場合に起こり得る(悪い)結果」である。
このことは、意思決定を行った場合と同じで、一般に言われる「デメリット」に匹敵する。
「デメリット」をさらに明確にするならば、「起こり得る悪い現象」と言えるだろう。


このConsequenceは、西洋から入ってきたものではない。
日本の知恵の中に「後先を考えて行動しろ」という言葉があるが、これは「将来のことを考えて判断しろ」ということだ。


このように、Common Sense(良識)の範疇として使われてきた考え方が、現在の日本の社会で全くと言って良いほど活用されていないのではないか。
例えば最近起こった、マンションの基礎工事の資料を改竄した結果、建築物に傾きが生じたという報道があったが、これもこのConsequenceの考えに関わるのではないか。


つまり、現場がコンプライアンス違反をした場合に、どのようなConsequenceが起きるか、という分析を積極的にしてもらいたいということだ。
利益優先のために現場が行う違反を、現場の担当者が、どのようなことになるかを想定して上司に報告し、また、その上司が会社幹部に警鐘を鳴らすという一連のシステムができていないのではないか。
会社の中において、違反がどのようなConsequenceをもたらすかという想定がきちんとなされていないことがこういった事件を起こすのではないか。
このような想定を行うことはそう難しいことではないはずだ。


Consequenceにいついて考える、つまり、後先について考えるということを、具体的にやってもらいたいものである。

2015年10月10日土曜日

142:リスクへの合理的な分析手順

今回は、息抜きに皆さんに若干考えて頂く機会を提供したい。
下記の状況に対して、どのような手続きが最も効率が良いかをお考え頂きたい。


ある地方自治体の知事は、中期事業計画を立てる際に、緻密さに欠けているのではないかと不安を抱いている。知事はこういった不安を解消するために、部下に論理的/体系的な思考手順を共有してもらいたいと考えている。
知事の不安を解消するためにリスク分析する場合のステップとして、適切な順番に以下のものをどのように並べればよいか。


①将来起こり得る問題を想定する。
②問題が発生した時の対策を立案する。
③問題の起こり得る可能性のある領域を探す。
④予防対策を立案する。
⑤リスクを分析する範囲を決定する。
⑥考えられる原因を洗い出す。












色々な考え方があるかもしれないが、私は次のような手順が合理的であると考えるが、皆さんはどうだろう。
⑤リスクを分析する範囲を決定する。
③(その範囲内で)問題の起こり得る可能性のある領域を探す。
①(その領域内で)起こり得る問題を想定する。
⑥(それらの問題の)考えられる原因を洗い出す。
④(その原因を取り除くための)予防対策を立案する。
②(予防対策が機能しなかった場合に)問題が発生した際の(影響を最小化する)対策を立案する。


リスクへの対応を考えるときに、合理的な手順を踏むことが効率的であることを認識頂けたのではないかと思う。

2015年10月7日水曜日

141:国会議員の資格

最近のテレビの健康関連のコマーシャルに、元国会議員の杉村太蔵氏がよく登場する。
いかがなものかと思われる。
太った腹を出す姿と国会議員のイメージがどうしても合わない。
コマーシャル出演の動機は、金銭的なものと、知名度を高めるというものがあるのかもしれない。
そこで考えてしまう。


それは、国会議員として、国の経営に携わる人物としての品格である。
手段を選ばずに知名度を高めることが選挙に勝つ方法であれば、これはまことに情けない発想だと言わざるを得ない。
元とはいえ、これでは国会議員の名が泣くように思う。


この背景として、有権者の見識も問われるのではないだろうか。
国の経営をまかせる人物として、知名度よりも、重要なものがあることを認識したいものだ。
それには、メディアが選挙の際に、選挙民に対し、立候補者に関する情報を提供することが重要ではないだろうか。

2015年10月3日土曜日

140:有識者会議とは何か

最近の政府の問題解決へのアプローチを見ると、やたらと「有識者会議」による重要問題の検討が目につく。
近い例で言えば、福島の原発への対応にも、この有識者会議がなされたことが報道された。


我々は無意識のうちに、有識者会議を、問題解決に対する権威ある頭脳の集まりであると思いがちだ。
しかし、有識者による判断業務が最も適切なものであるかどうかは疑わしいのではないだろうか。
当該案件に対して、専門的な知識を持つ集団がいつも適切な判断をするとは限らない。






ではどう考えたら良いか。
私が思うに、有識者・知識人の集団よりも、「賢人」集団の判断こそが適切な結論を出すのではないかと思う。


それでは、この「賢人」とは一体何なのだろうか。
私が思う「賢人」とは、見識があり、自身の領域で継続した実績を持つと同時に、公に対しての深い関心とコミットメントがある人物のことである。
例えば、私の考えでは、稲盛和夫氏のような人物が「賢人」である。
彼は京セラ・第二電電(KDDI)を創業し、また破綻した日本航空の再建を成し遂げた「実績」を持つ。
また先端技術部門、基礎科学部門、思想・芸術部門の3部門において大きな貢献を果たした人物に毎年贈られる「京都賞」を1985年に創設するという、「公」への深い関心も持った人でもある。
私も以前この賞の式典に招待を受け、出席したことがあったが、稲盛氏の偉大なところのひとつは、この式典にも晩餐会にも彼は表に出ず、裏方を貫いたということである。
また賞の名前を「京都賞」とし、「稲盛賞」などとしなかったことにも注目したいが、この理由をお聞きする機会にはまだ恵まれていない。


僭越ではあるが、稲盛氏が京セラで成功を納めた後、全く異質の第二電電・日本航空という企業での実績を出した背景には何があるのだろうか、ということを考えてみたい。
このあたりに「賢人」の「賢人」たる由来があるように思う。


それは「合理性」にあるのではないか。
経営における、理念と合理的な発想がその本質にあるのではないかと私などは勝手に考えている。


国家的なテーマに対し、有識者会議にもこのような「賢人」と呼び得る人物を参画させることが望ましいのではないだろうか。
「賢人」とは、「有名人」のことではない。

2015年9月30日水曜日

139:グローバル人材

以前にも述べたが、国際社会で活躍できる日本からの人材の養成が急務であるにもかかわらず、この分野で目立った進捗はあまり見られない。
そこで、もう一度「グローバル人材」ということについて述べてみることにする。


国際社会での実績が認められた日本人として、古くは珍田捨巳を挙げてみたい。
珍田伯爵は、知る人ぞ知る、日本を代表する外交官であった。
一流の外交官として様々なポストを歴任したが、特に第一次世界大戦後のパリ講和条約における珍田は、当時のウィルソン米大統領や、ロイド・ジョージ英首相、クレマンソー仏首相らの厚い信任を得ていたということだ。
その背景には、自身の主張を持ち、それを貫き説得できるという力を有していたことがあるだろう。


また、新渡戸稲造の国連事務次長時代の活躍については多くを語る必要はないだろうが、私が感銘を受けた案件のひとつは、フィンランドとスウェーデンのオーランド諸島における領土問題の解決を図ったことであった。
この解決の見事な点は、これをフィンランドの帰属にさせつつ、スウェーデン系の住民が多いことを考慮し、諸島に自治権を認めた。


このように、日本には世界社会が認める人物が存在したことを我々は忘れてはならないだろう。
しかし、グローバル人材に関して、限られた紙面で論ずることは難しい。
もう少し具体的な話として、ここでひとつのヒントとして言ってみたいのは、世界で活躍するアスリートたちについてである。
例えば、世界ラグビー選手権で強豪南アを日本が破るという大金星が最近達成されたことが思い出されるが、この日本チームはまさに「ボーダーレス」なチームであった。
これはラグビーに限らず、サッカーなど他の競技でもある程度同じだろう。


言いたいのは、人種や国籍などの「ボーダー」など関係ないということだ。
このような現象が政治・経済の分野に広がり、「ボーダーレス」の考え方の中に「グローバル人材」があるのだ、という認識が共有されれば良いと思う。


最後に私の経験談をひとつ。
一昔前に、ある大企業の幹部が、テキサスに建設される工場の責任者としてアメリカに発つということで私のところにあいさつに来た。
ちなみに、当時は「グローバル人材」ではなく「国際人」という用語が用いられていたものだった。
私の彼へのアドバイスは、目標として「テキサス州の知事と会うことのできるような人脈をつくれ」というものだった。
彼は2年をかけ、見事これを達成した。


脱線が続いてしまったが、「グローバル人材」の重要な要件のひとつは、相手が誰であれ、初対面から相手と深いコミュニケーションを図り、信頼関係を構築できるということではないかと思う。

2015年9月26日土曜日

138:クリエイティビティ

優秀な頭脳集団である日本が、世界に認められる優秀な製品を出していない分野がふたつある。
これらはいずれも、ソフトウェアの分野である。


OS関連の製品がまずひとつ。
マイクロソフト・オラクル・SAPに匹敵するような技術は日本には存在しない。
むしろ日本企業は自社のシステムを設計する際、これらの企業のソフトウェアを使わなければならないのだ。


金融商品がふたつめである。
ウォールストリートなどから発信される金融派生商品は数多くあるが、日本からは出ていない。


これはなぜなのだろうか?
よく言われることかもしれないが、これは、日本人の「創造性」(Creativity)の開発が進んでいないということであろう。


そもそも、「創造性」にはふたつの側面があるのではないか。
ひとつは、天才的なひらめきのこと。
「降ってくる」などと言われているように、発想が理屈なしに出てくることである。
こちらが世間での「創造性」のイメージに近いのかもしれない。


しかし、もうひとつあるだろう。
論理的な、ロジカルな発想の積み上げによって何かを生み出すことがそれである。


天才を教育によってつくることはできないだろう。
しかし、論理的な人間を教育によって開発することはできるはずである。
欧米をはじめとする海外の企業がOSや金融派生商品を生み出した背景には、ロジックによるアプローチがあると言える。


日本での「創造性」による新しい技術や製品の開発は世界を圧倒してきた。
この「創造性」は主に、実際に存在するものに対して、実験を積み重ねることで構築されてきたのではないだろうか。
これが我が国の製造業の強みであった。


ハードウェア産業からソフトウェア産業になった途端、日本の創造的技術力が機能しなくなったとは言えないだろうか。
研究室で行う実験を、頭の中で知的に、論理的に展開するアプローチ(「創造性」)の開発ができていなかったからではないかと思う。


例えば、大型コンピュータの処理速度を現在の10倍にするという高い水準の目標を立てたとしよう。
この目標に対して、どのような思考上のアプローチがあるだろうか。
①まず、この目標を達成する上で重要となる複数の領域を明確にする。
②それらの領域で達成が困難な項目を複数挙げる。
③達成できない背景となる要因を明確にする。
④その要因を取り除くためにはどのような技術が必要か判断し、それを開発する。
⑤要因を取り除くための方策が非現実的なものであるならば、副次的な代替方策を開発する。


このようなシステマティックな発想が製造現場における実験に該当するのではないかと思う。
「創造性」を開発する・発揮するということは、より高い目標を達成するための阻害要因をどのように克服するか、という関係者の考え方のベクトルを重点的に合わせるということだ。

2015年9月23日水曜日

137:就職とJob

就職というのは、どこかの組織に入り、生計を立てるということであろう。
ところが、日本的経営の利点と言われてきた終身雇用と年功序列が恐ろしい勢いで崩壊しているのが現状だ。


にもかかわらず、多くの学生が就活に多大なエネルギーを費やしていることに疑問を持つ。
これからの「就職」の概念は、組織に終生所属することよりも、自分の能力が発揮できる「Job」を見出すことがその本質ではないだろうか。
その組織が日本の大企業であれ、国際機関であれ、外資系であれ、自営業であれ、NGOであれかまわないのである。


では、「Job」をどう考えたら良いか。
この言葉の英語による定義は"a piece of work"であり、そして"work"の意味は"perform its function"あるいは"to produce results or exert influence"である。
これを意訳すれば、「所属する組織の中で自分がなすべき事柄に対し、成果を生み出し相手に影響を与える」ということになるだろう。


また、典型的な日本組織の人事部の機能が変化しつつあることも認識したい。
極論をすれば、採用の権限は人事部ではなく、ある事業に責任を持つ事業部長となる時代が来る可能性があるだろう。
なぜならば、採用しようとするポジションの詳細なjob descriptionを書き、候補者を適切に選ぶことができるのは事業部長であるからだ。


そうなると、人事部の機能は、会社全体の給与体系や、社員の福祉計画といった組織全体に関わる包括的な業務となるのではないかと思う。

2015年9月19日土曜日

136:国際連合

私は国際関係についての学問的素人であるため、発言する資格はないかもしれないが、国連の総会における各国の一票の重みについて考えてしまう。
現在の国連加盟国193か国の人口に大きな差があるということから、国連総会の機能とはいったい何なのだろうと考え込んでしまう。


国連加盟国の中の人口格差がかなり顕著であることは否めない。
加盟国はその人口に関わらず総会で一票を持っている。
少し調べてみると、例えばオセアニアにあるツバルという国は、2013年の世界銀行の統計によれば、人口がわずか9,900人ということである。



人口の大小に関わらず、主権国家であれば加盟の資格があることから、このような国も堂々と総会での一票を持つことになるのだろう。
これを批判し、否定するつもりは毛頭ないが、民主的な運営がなされている国連のあり方について、素朴な疑問を持ってしまう。


安全保障理事会の常任理事国は米英仏露中の5か国であり、日本の常任理事国入りが実現しない背景には、各国の利害関係、あるいは第二次世界大戦の主要戦勝国で占められているということもあるが、国際社会の安定性を担保するためには、当然ドイツや日本が加わることが自然であると私は思う。


ドイツはEUの重要国であり、日本は憲法9条を持つ平和国家としての実績から考えても、世界社会がこれを理解すると思える。



常任理事国入りの条件は何なのだろう。
国際社会に対する大分な役割を日本は果たしてきた。
それは例えばODEや国連に対する拠出金という形であった。
これらに加えて、国際社会に対して、日本の貢献という存在感を表すためにどうしたら良いのか。
それは、ひとことで言えば、日本ならではと思われる独自の理念を確立し効果的に伝達することではなかろうか。
例えば、平和憲法を持つ我が国の理念の根源を「Peace Power」とするということだ。

2015年9月16日水曜日

135:世界競争力ランキング(IMD)と日本の思考資源開発

スイスの国際経営開発研究所(IMD)が毎年5月に発表する世界競争力ランキングにおいて、2015年の我が国の評価は27位というものであり、世界の工業先進国として依然低迷しているようである。
この組織のランキングに一喜一憂する必要はないかもしれないが、無視することもできない。


このランキングの根拠は、マクロ経済(経済成長、政府の効率性(Efficiency)、企業の効率性(Efficiency)、インフラ)の4つの切り口からの分析である。
関心のある方はネットで調べていただきたいのだが、詳細を見ると、経済成長が29位、政府の効率性が42位、企業の効率性が25位、インフラが13位ということだった。


私はここ十数年、特に政府の効率性と企業の効率性がどのように改善されるか見守ってきた。
しかし残念ながら、ほとんど改善はされてこなかった。


ご存知の方も多いと思うが、1980年代後半から90年前半は1位であったことを考えると、政府の効率性42位ということに関して、何らかの対策を考えなければならないことは自明である。


政府の効率性が先進国の中で極端に低いという現実の背景には何があるのか。
戦後の経済成長の歴史を考えると、1980年代に発生した米国との貿易摩擦までの期間と、それ以降を比較する必要があるだろう。
例えば、1981年からはじまる日本の対米自動車輸出の自主規制では、ピークの84年では185万台に規制された。


この時期までは、日本は欧米の経営モデルや問題解決へのアプローチ法を手本とし、これを踏襲すればよかった。
しかし、この対米貿易摩擦を機に、日本は様々な状況において主体的に意思決定をしなければならない立場にはじめて立ったのではないか。


主体的・自主的に意思決定をするということは、経験や過去の数字の分析以外に、意思決定をするための論理的な思考の枠組みが必要になる。
つまり、トライ・アンド・エラーが許されない時代になったということだ。


この中で、どのように改革を図っていけば良いのだろうか。
「効率化」をしなければならない中で、私が思うに、重要なことのひとつは、知識偏重教育の抜本的な改革である。
たびたび述べていることかもしれないが、英語のintelligence、中国語の「智力」(変化に対して迅速に、適切に対応できる能力)を国としてどのように強化するのかという大テーマがある。


アジアにおいて我が国よりもランクが高い国が、どうしてそのような高い意思決定の効率性を獲得できたのだろうか。
私の考えでは、国の高官になる人物を欧米に留学させ、彼らが論理的な思考様式を身に付けて帰国することによって、政府の意思決定に対するアプローチが効率的になっているのだ。


このテーマを言い換えれば、日本人の優秀な頭脳という思考資源の開発をどのように展開するか、ということになってくるだろう。
国や企業組織の効率性を高めるための国家プロジェクトが発足しない限り、この問題は長期に日本の国際競争力へのマイナスとなっていくに違いない。


このことは、国際社会でのネゴシエーションにおいて、議論が噛み合わないことにも関連してくるだろう。

2015年9月12日土曜日

134:「真面目」ということについて

私は以前、「真面目」という観点から人間を4つの種類に分けて考えてみたことがある。
そのことについて、今回は少し書きたい。


人間は次のように分類されるのではないだろうか。


まず、「一見真面目で本質も真面目」。
このような仁徳者は、学者などになってもらうのが良いだろう。


「一見不真面目で本質も不真面目」。
これはちょっとどうしようもない。


上のふたつはともかく、ここからが大事である。


「一見真面目で本質不真面目」。
実は最も質が悪いのはこの種の人間である。
いま日本にはこのような人種が多すぎるのではないだろうか。
オリンピックのシンボルマークのデザイナーもまた、この種の人間のように思われる。


「一見不真面目で本質真面目」。
私が最も力点を置きたいのはこの人種である。
上のようによろしくない状況にあると思われる日本を、ダイナミックに動かしうるのはこういった人々ではないか。


おおざっぱな分析ではあるが、「真面目」ということについて考えてみた次第。
みなさんはどのように考えるだろうか。


本来ならば、これからの社会においての「真面目」という言葉の定義からはじめなければらないところなのだろうが、そこはみなさんに考えていただきたい。

2015年9月9日水曜日

133:日本らしさとは

夏で暑いので、短めの記事ですがご容赦ください。


「日本らしさ」に類するような言葉はよく耳にされる。
最近目立つものと言えば、「日本食」「アニメ」「漫画」といったものだろう。


しかし、これだけで良いのだろうか?


こういったものも良いが、例えば勤勉さ、努力、良識、誇り、尊敬心、礼儀、独立心、開拓者精神、正直さ、真面目さ、責任感……といったものが「日本らしさ」の中身であってほしいと思う。


こういった要素がなければ日本が内部から真に良くなっていくことはないのではないか、と思うし、また、日本がこういった美徳を身に付けてはじめて、世界に向かって「日本らしさ」をきちんと発信することができるのではないか、と思う。

2015年9月2日水曜日

132:「失脚」ということについて

最近、ほとんど死語となってしまった日本語に「失脚」がある。
広辞苑の定義によれば「立場を失うこと。要路の地位を失うこと。」とある。


先日、「村上ファンド」の経営者であった村上氏についての報道がなされた。


刑事責任を問われ、執行猶予付きではあったにせよ、経済犯としての有罪判決が出た人物。
この人物が経済界に復帰したということが堂々と報じられた。


私はこのことに疑問を持つ。
犯罪者が堂々と経済界に復帰をするということが許される社会で良いのだろうか。


先進経済国として、これはどうなのかと思う。


この村上氏は、東大法科卒で、通産官僚だった人物である。
村上氏個人に対して恨みはないが、国の税金で教育を受けた人間は、それなりの自覚を持って各界で活躍してもらいたいものだと思う。

2015年8月26日水曜日

131:モノを決めるときのものさし

2020年の東京オリンピックにまつわる重要課題の中に、最近問題となっている事項が目立つ。
ひとつは、多額の資金を無駄にした競技場デザインの選定。
もうひとつは、シンボルマークの選定。


前者には政治的な要素が多く絡んでいたと報道されている。
対して後者は、複数のシンボルマーク案からの最適な選定をすることだというもっと単純な捉え方ができそうだ。
つまり、後者には客観的な判断をする際の「ものさし」に問題があった、あるいは「ものさし(選定基準)」について考えることなく、感覚的に判断を行っていたのではないかということだ。




ここでの「ものさし」とは「選定基準」のことであり、これについては決定をまかされている人たちの合意がなければならない。
シンボルマークを例にとれば、「斬新性」「日本的であること・日本における開催の意義性(平和国家)」「美的であること」「インパクトがある」などが挙げられるだろう。
仮にこの4項目であれば、それらの項目にかけるウエイトについても合意しておかねばならない。


この「ものさし」の確定に委員会はいったいどれほどの時間を割いたのだろうか、と疑問に思ってしまう。
さらに、ここでは、あるデザインを選んだ後、どのような問題が発生しうるのかという点についても考えなければならないが、このことについても検討はされなかったのではないか。


これとはやや離れた問題だが、重要で基本的な問題として、国として公の立場にある人たちのブレインにどんな人間がいるのか、ということについても関連して考えたい。


余談になるが、以前銀座のあるクラブで紀伊國屋書店の創業者と会話をしたことがある。
私を含む4、5人は当時、国際業務のコンサルティング会社を設立しようと計画していた。
すると、近くで飲んでいた上の創業者が途中から私たちの会話に入り、一言話を披露してくれた。


ある人が銀座で超一流の顧客を集める超高級クラブを創業しようと、数十人のホステスを他店から高給でスカウトし、集めることに成功した。
しかしこのクラブはわずか一年で閉店してしまった。
理由は、ホステスの容姿に関しては厳しく見たが、そのホステスがどのような顧客を抱えているかについては考慮をしなかったのだ。
結果、店には想定していなかったような顧客、ガラのよくないような連中も出入りするようになってしまい、クラブは「超一流の顧客」の集まる社交場になどはとてもならず、閉店する運びになったということだ。


内容は違うのだが、似たようなことがいま起きつつあるのではないかと私は思う。
著名で、雄弁で、交友関係が広い人間に、どのような人間関係があり、彼の背後にはどんな人間がいるのかということまで考えなければ、とんでもない不祥事が起きてしまう、ということだ。
官邸におけるブレインが一見優れた人間に見えたとしても、果たして彼の背後にどのような人物がいるのか、ということまでは気が配られていないのではないか、ということだ
このような現象が社会に蔓延することを危惧する。

2015年8月22日土曜日

130:日本国と沖縄県

私のだいぶ前のブログ記事で、沖縄問題の解決策を述べたことがある。
それは、日本人が太平洋戦争後、長きに渡って沖縄県民に安全保障上の負担をかけてきたことに対し、国としてけじめを付けるべきだということだった。
具体的には、内閣総理大臣が国として、沖縄県民にこれまでの負担や犠牲に対して正式に謝意をこと。
そして、これからも安全保障上の拠点として負担を継続することへの補填として、消費税の免除をすることが大分の処置ではなかろうか、と書いた。


このことは継続して検討するに値するかもしれないが、今回は最近の関連する話題について述べたい。


昨今の政府と沖縄県知事とのやり取りの結果、「沖縄振興予算」として年間3000億円台の確保が同意された。
2012年の総務省統計局のデータによると、沖縄県の人口は約141万人。


この人口に対してこの金額が払われるということへの妥当性を議論する資格は私にはないだろう。
しかし、8月8日の産経新聞の報道によると「政府は沖縄振興と辺野古移設はリンクしないと繰り返し説明」とあるが、これを鵜呑みにしてはならないように思う。


「沖縄振興」とあるが、その目的がいまひとつ見えてこない。
今日、沖縄県だけに県の振興予算が特別に認められる根拠とは一体何なのだろう?

2015年8月19日水曜日

129:訂正と追記

116号「謝罪とは」で、私は米国政府が、日系米国市民に対する戦時中の不当な扱いについて取り上げた。
ここで「このことは政府の主体的な判断によるもので、日系米国市民の要求に応じたものではない」という結論を述べたが、しかしこれは正確ではなく、ここで若干の訂正と、新しい発想を表明したい。


この件に関して事実関係を確認したところ、1978年に米政府に対して、戦時中の不当な扱いへの謝罪・補償を求める運動が日系人から起こったということだ。
これに対し米国政府は謝罪し、適切な対応をしたということが事実である。


ところが、私が主張したいことは、この日系米国人に関する出来事はあくまで米国の国内問題であり、その国民の当然の権利が侵害されたことに対して謝罪が要求されたということである。
私が116号で述べた「謝罪する・しない」の図式について言えば、これは国内問題ではない。
よって、このふたつの案件は別の扱いをしなければならないだろう。


およそ国の為政者は、時として不適切な判断をすることがあり、この間違った判断から他国に迷惑をかけるという事例は、歴史において枚挙に暇がない。


成熟した国家は、平和国家として存続する責任を自覚しなければならず、また、為政者がとる行動に関して、責任を取らなければならない。
その責任は主体的であり、他国から指摘され、強制されるような場合には、そこからまた新たな対立を生んでしまうことは、歴史が証明している。


そこで、憎悪・復讐の気持ちから他国に謝罪を要求することが国際社会の安定に役立つかどうか、ということを吟味する必要があるのではないか。
また、謝罪を要求する目的が何であるかを明確にすることも和解につながる大きな要素ではないかと思う。


日本は、米国と中国を除いて、過去の戦争賠償を自主的に行ってきた。
賠償を行うということは、加害者が非を認め、被害者にその償いをするという意味を持つ。


しかし、悩ましいことは、賠償を行ったからといって、加害者の立場は変わらないし、場合によっては被害者が謝罪要求を延々と続けることを覚悟しなければならないのかもしれないということだ。

2015年8月15日土曜日

128:日本人にとっての8月とは

平和を願望する日本人にとって、8月は特別な意味を持つ。
それは、8月15日のポツダム宣言受諾前後に起こった歴史的事実を考えれば明らかだろう。


1945年3月10日の東京にはじまり、名古屋・大阪と続く大空襲では、多くの市民の犠牲者が出た。




ワシントンのアーカイブスにある米国核実験記録によれば、第一回の核実験が7月16日、米国ニューメキシコ州で行われた。
第二回が8月6日、場所は広島。ウラニウム型の原子爆弾が、リトル・ボーイの作戦名で投入された。
これは世界初の実戦(Combat)使用だった。


第三回目の実験は8月9日、長崎。プルトニウム型のものがファット・ボーイの名で投入。
備考には、「これが最後の実戦使用」と記されている。


同日8月9日は、ソ連が日ソ中立条約を破棄し、対日参戦を行った日でもあり、ソ連軍147万人が満州・朝鮮半島に軍事侵入した。


補足すれば8月16日には、同じくソ連が日本領南樺太に侵攻・占領、18日の千島列島についても同様だった。


そして8月15日、ポツダム宣言が受諾、昭和天皇の玉音放送がなされ、太平洋戦争が終結した。
以前も書いたが、これは実質的に「終戦」ではなく、「敗戦」であった。


8月28日には、米軍の先遣部隊150人が厚木飛行場に降り立った。
大きな抵抗はなく、円満に進駐が開始されることになった。


8月30日、連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが同じく厚木に到着し、その足ですぐさま横浜に設置された総司令部に移動した。
同日には、1万3000人の海兵部隊が、百数十隻の上陸用舟艇で日本各地に上陸した。


そしてこの進駐の動きはその後の9月2日、午前9時4分、米国ミズーリ艦上における降伏文書調印へとつながってく。


毎年8月15日には、日本武道館で全国戦没者追悼式が、天皇・皇后両陛下および内閣総理大臣、衆院・参院議長、最高裁判所長官らの出席のもと、開催されてきている。
これはおそらく半永久的に行われる国事であることは間違いない。


これら8月に起きた歴史的出来事を、平和国家日本がどのように解釈し、未来の日本が向かうべき方向を模索することが求められている。

2015年8月12日水曜日

127:松井一實広島市長の記者会見

8月6日の広島原爆投下70周年に先立ち、松井一實広島市長が7月23日に外国人記者クラブ(通称)で記者会見を行った。
市長は世界からの核廃絶を訴え、できるだけ多くの外国の指導者が広島を訪れ、原爆の恐ろしさを実感してほしいというメッセージを発信した。


約45分の記者会見終了後、私はふたつの質問をした。
ひとつは、広島市民や広島市が、米国に対して原爆投下に対する謝罪を要求したことがあるかどうか。
もうひとつは、もしそれが否であれば、その背景にある根本的な考えは何か。
というものであった。


第一の質問への答えは、市民の一部にそのような「会話」はあったが、正式な形で米国に謝罪を要求したことはない、というものであった。
第二の質問に対しては、市長は「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」の文言で有名な原爆死没者慰霊碑の画像をスクリーンに映し、「これが答えです」と言った。


大げさに言えば、人類に対する戦争犯罪とも言うべき原爆投下に対して、上のような対応が過去70年間続いてきたということを、世界の良識があり平和を熱望する人たちと共に、未来の平和につなげていくためにはどのように具体的な運動がなされなければならないか、ということが問われているのではないかと考えた。
くどいかもしれないが、このことは、唯一の被爆国である日本に突き付けられている大きな課題であると言っても過言ではない。

2015年8月8日土曜日

126:意思決定のコスト

驚くことに、『広辞苑』の最新版(第6版)に「意思決定」という語は掲載されていない。
また、意思決定の定義をどう考えるかという質問に対して、多くの人はとまどう。
そして、「それは決めることだろう」といった回答が圧倒的に多い。
同じ質問を欧米や東南アジアでしたことがあったが、どのような定義がでてきたか。
それは "Makeing of a choice"というものだった。
つまり、意思決定とはdecision makingのことである。
これは、複数の選択肢(Alternative)から最適な案を選ぶ分析行為なのだ。


ちなみに、我々の先達はものを決める際、3つの異なった表現をしていたようだ。
それは「極む」「決む」「定む」である。
このように区別を行い、ものごとの判断をしていたようだ。


「極む」は究極的に求める方向に関連し、必ずしも論理的・分析的なアプローチは採られない。
「決む」は経験や知識によるもので、これも同様に、必ずしも分析を必要としない。
この意思決定(Decision making)は3つ目の「定む」に該当すると私は思う。


choiceをするという行為には、情報が必要である。
情報をいかに加工し、結論を得るかという発想が重要である。


情報の加工とは、意思決定の場合には、複数選択肢を選ぶための判断基準を設定することと、それらに対し各々の選択肢がどのように評価されるのかということだ。
少し理屈っぽくなってしまったが、この情報の加工という行為が、効率的に・客観的に行われなければ、意思決定が迅速に・適切に進行することにはならない。


意思決定のコストは、結論に至るまでの資源(ヒト・カネ・時間)がどれくらいかかるかということだ。
直近で意思決定コストが高かった最大の案件とは、言うまでもなく、東京オリンピックの総合スタジアム建設に関する意思決定行為であった。
ものを決める作業にかける目に見えないコストに関心を持つという姿勢が、国の成長戦略にも直接関わりが出てくるのではないかと言いたい。

2015年8月5日水曜日

125:東芝問題と日本の思考様式

東芝の不正経理が発覚し、同社の信用が内外で問われている。
これは、組織のgovernanceの問題と同時に、日本人の思考様式にも原因の一端があるように思う。


私は短絡というお叱りを常々受けているが、あえてこの問題について私見を申し上げるならば、背景のひとつにあることとして、上司に対して異論を述べることが許されない日本の組織の風土があることを指摘したい。


これからの時代、上司が間違った判断したと思える場合、それにchallengeできない組織風土は健全なものと言えないことは明白だ。
これは、いままで日本を成功裏に導いた年功序列・終身雇用の制度が崩壊しつつあることとも関係がある。


経営スタイルが顕著に変容している一例は、日本にもオフィスを置く外資系企業であろう。
彼らは成果主義を採っており、現在、組織に身を捧げることよりも、与えられた仕事に対する達成が評価される社会に移行しつつある。


このような状況の中で、組織人は独立した存在として、与えられたjobを達成することこそが重要だ、という意識の変革が当然求められているだろう。


であれば、上司の理不尽な指示に従わず、自身の判断を貫く自由があり、またそれが認められる社会へと移行する時代が来るのではないかと思う。
さらにそこでは、上司の指示に対し、ただ反対を唱えるのではなく、その指示に従って行動した場合の結果(Consequence)が与える影響について発言できるのが大事だろう。


これはそれぞれの社会人が「公」に資する割合によって変わってくるものだが、この潜在的な結果の蓋然性(Probability)について上司に意見する勇気がこれからの日本人にあってしかるべきだと私は思う。


このように、東芝の教訓を、組織人全体の問題として考える必要があるだろう。
それは、繰り返しになるが、「公」と「私」のウエイトをどのようなバランスでとるかということである。

2015年7月29日水曜日

124:国防費は「経費」か「投資」か

118号「新しい防衛費の使途」で発信した考え方の延長にあることを、今回は書きたい。




中国は例外的な傾向を見せているが、先進諸国の軍事費の増減はおおよそ横這いの傾向にあると言っても良いだろう。
本年7月7日のUSA Todayによれば、米陸軍は4万人の要員を削減し、最大で57万人規模であったところを、2017年までに45万人まで削減するということだ。
新しい戦争の形態を迎えた今日、地球規模の関心事として、GDPに対する国防予算の比率をどれくらいにするのが最適かという議論もされているように思う。


ところで世界社会は、日本の国防費をどう見ているのだろうか。
参議院で審議されることになる安保法制の改定の可否が、我が国の安全保障に重要な影響を及ぼすことは言うまでもない。


しかし、この議論を未来志向として全く別の次元で発想してみることも必要ではないか。
それは、国防費を国の「経費」として位置付けてきた今日までの発想のイノベーションができないかということだ。
ここでイノベーションを定義するならば、「革命(Revolution)」とは異なり、積み上げてきた現実に新しい要素を加えて高次元のものを創出するということである。


この国防費を「経費」から「投資」として考えることがひとつのイノベーションになるのではないかと思う。
「投資」であれば、当然「配当」を生まなければならない。
この「配当」が何であるかについて、国民的な、そしてグローバルな討論がなされるならば、新しい次元の国防の概念につながるのではないかと思う。


ここでの「配当」とは、あらゆる対立が戦争状態にならないようmanageされている状態のことだ、と私個人は考える。
従って、外交関係というのは、友好的であるに越したことはないが、緊張の連続でもあるという認識も必要かもしれない。
作為的に友好関係を確立する必要が必ずしもあるとはいえないのではないか。


これについてはまた別の機会に触れたい。

2015年7月25日土曜日

123:無条件で還ってきた沖縄

沖縄問題を論じるときに、避けて通れない視点が「どのような経緯を経て沖縄が日本に返還されたか」ということです。
沖縄における悲惨な日米の戦闘については、これを教訓としなければならないことは言うまでもないでしょう。
問題は、どのような目的・意図をもって悲惨な過去を語り継ぐか、ということではないでしょうか。


余談になりますが、1990年ごろはじめて沖縄を訪問した際、嘉手納空軍基地の滑走路の先端にあった学生運動家たちの見張り塔はすでに三階建の建物になっており、その最上階に土産店の女主人と会話をしたのでした。
その店主が言うには、彼女の母親が、本土からのメディアの取材が迷惑であると言っている、ということでした。
そのメディアは、「戦争の悲惨さを語り継がなければならない」という主張をしていたそうです。
しかし、彼女が取材を嫌がる理由と言うのが、立派なものでした。


①旧日本陸軍の沖縄県民に対するひどい扱いについて触れなければならないが、日本人である自分はそれをしたくはない。
②忘れよう、忘れようと思っていること、つまり家族から大きな犠牲が出たということを思い出すのは嫌だ。
③悲惨さだけを語っても、将来は明るくない。


私はいまでもこれらをよく覚えています。
特に3番目は印象的でした。
これは現在の私たちも考えなければならないことでしょう。


余談が長くなりましたが、本論に戻します。
世界の歴史の中で二国間の戦争の結果、戦勝国が相手の領土を自国のものとする例は枚挙に暇がないでしょう。
27年間に渡る米国の支配にあった沖縄が、最終的には無条件で返還され、現在は日本の領土となっている、というような例は、世界史の中でも例外的なものではないでしょうか。


このことを我々は、どのような教訓として生かすのかということが、現在問われていることのひとつではないかと思うのです。
この沖縄への処遇に対して、旧ソ連による北方領土の占領と、それに続く現状のことを考えてしまうのですが……。

2015年7月22日水曜日

122:知識の質問と智力の質問

前号の内容に、質問は3つの目的で分けて考えるとよいということを書きました。
その第二の目的に「判断業務に関わる情報を収集する」ということがありましたが、これはさらに、大きく2つの性格の質問に分けることができます。
今回はそのことについて少し書きたいと思います。


日本語の「知恵」にあたる中国語は「智力」だということを前に書きました。
この知力の定義は、ある案件に十分な知識がなくても問題解決ができる能力、と中国のある学者は定義しました。


知識にのみ頼って問題解決をしてきた人たちを、私はものごとを「こなす」達人と言います。
これに対して、十分な知識がなくても、自身の論理的な枠組みを駆使することにより、直面する問題がどんなものであっても結論を出すことのできる人たちを、ものごとを「捌く」達人であると言ってきました。


仕事を「こなす」ということは、自分の専門領域内であれば、効率よく達成できるでしょう。
ところがそこに新しい要素が入ると、自信を失うことになるかもしれません。


知識に頼る人は、ある問題事項に対して、「この成分は何か」「この設計はどうなっているか」などの内容(content)に関わる質問をしがちです。
これが彼らの知識に沿っていれば「こなす」ことができるでしょうが、専門外のことであれば対応するのは難しいでしょう。


対して、智力のある人は、ある問題事項に対して「これはあれと比べて何が違うのか」という質問を発します。
彼らは似たものと比較することで対象の特徴をつかんでいき、結論へと思考を絞り込んでいくことができます。
これを結論への過程(process)の質問と言うことが出来るでしょう。


このように、「判断業務に関わる情報を収集するための質問」にも大きく2種類あるということが言えるのではないでしょうか。

2015年7月18日土曜日

121:日本人の質問力

よく言われる笑い話に、国際会議の名議長の資格は、インド訛りの英語でベラベラとしゃべるインド人の発言を封じ、いかに日本人からの発言や質問を引き出すか……というものがあります。

日本人の英語会話力が、先進国の中で最も低いレベルにある理由については後に述べるとして、この件についてひとつ申し上げたいことは、英会話力の主要な部分は相手をしてしゃべらせる、ということです。
これは、状況にあった適切な質問ができるかということに関連してきます。


相手の話が理解できない場合は、「もう少しゆっくり話してくれ」「この単語の意味がわからない」「もっと単純な言葉で説明してくれ」「分からないので、言い直してくれ」などなどの質問をすることです。
また、それでもわからないのであれば筆談をすれば良いのです。


話がやや逸れたかもしれませんが、日本の社会は「非・質問社会」であるという特異性を認識する必要があるでしょう。
以前書いたことに重なりますが、日本ではどうしても「質問すること」が「責めること」と同じように考えられているきらいがあります。


ここで、質問の目的を考えると整理ができるでしょう。
乱暴かもしれませんが、質問の目的を3つに分けて考えてみます。
第一は、「誰が責任者なのか」「どうしてこんなことをしたんだ」などの「責任を問うこと」。
第二が重要で、それは「判断業務に関する情報を収集すること」。
これにはいくつかの下位区分が考えられるでしょう。「なぜそんなことが起きたのか(原因究明)」「なぜそれを選ぶのか(意思決定)」「なぜそんなことが起きるのか(リスク)」「なぜそこから手をつけるのか(優先順位)」といったものです。
第三は「社交上の人間関係を円滑にすること」。
「ご趣味は何ですか」「最近関心を持っていることはなんですか」などの質問がこれに当たるでしょう。
この際、政治・宗教の話は避けるべきだとされています。
私個人としては、これらの話も多いにすべきと考えますが、それでも、口論にならないよう気を付けることは大事でしょう。




上記の第一と第二の分類を意識することにより、質問力の向上につながるでしょう。
そして、情報収集のための質問には、経験と論理的な思考形態が不可欠と言えるでしょう。

2015年7月15日水曜日

120:新選挙権年齢の設定について

選挙権年齢が6月17日に参議院本会議で全会一致で可決されました。
この根拠についての十分な審議がなされなかったのは非常に残念なことです。
日本における過去の投票率が50%台で推移していることへの危機感があったのかもしれません。


ここで最も問題であるのは、なぜ投票率が低いかという原因の究明がほとんどされていないまま短絡的に法案が通過してしまったということです。
選挙権年齢が18歳になったからといって、投票率が向上するという保証はありません。


しばらく前に、民主党の岡田代表と蓮舫議員がある高校に招かれ、この件についてのパネルディスカッションを行うというテレビ番組を見る機会がありました。
男子生徒のひとりが、真剣なまなざしで次のような質問をしました。
「政治に参加できるという重みを新たに自覚しました。しかし、どのような基準で私たちの代表を選べば良いのでしょうか」
ところが、この質問に対し、適切な回答はなされませんでした。
岡田代表は、この単純明快な質問に対し、具体的な回答はせず、ある法案の審議についての詳細な説明をしたにすぎませんでした。
この現実を見て、私は大変な危機感を持ちました。


私は、この18歳の高校生の質問を、永田町の全議員にしたとき、どのような回答がされるのだろうと想像してしまいます。
あるいは、国会議員に「あなたの政治信条はなんですか」という質問をした場合、具体的に説得力をもって回答できる先生方が、果たしてどれくらいいるのだろうと考えてしまいます。


もし私が議員で、同じような質問をされたとすれば、次のような基本的な条件を18歳の彼に答えるのではないかと思います。
・国政を第一とし、自己犠牲を払ってでも、有権者と国のために仕事をする覚悟がある。
・あらゆる環境変化に対し、迅速に自身の意見を構築できる。
・選挙民から負託を受けた、という重大な意識を常に持ち、行動する。
・国際社会における日本の立場について、常に意識をしている。
・スキャンダラスな事態が発生した場合は即座に辞任する覚悟がある。
・社会から認められる人格の形成に努めている。
・きちんとした来歴と、確立した自身の専門分野を持つ。


これらは、必ずしも適切ではないかもしれませんが、国会議員を選ぶときに必要な発想ではないでしょうか。
新選挙権年齢の設定にあたって、こんなことを考えてしまいました。







2015年7月11日土曜日

119:日米関係についての素人の私見

国の安全を一国のみで担保することができないことは、我々の共通の認識でしょう。
従って、日本にとって日米の同盟関係がいかに重要であるかということを再認識したいものです。

また、日米間の歴史について、再認識することも必要かもしれません。
少し調べてみました。
2国間の関係のはじまりは、1856年に日米和親条約、1858年に日米修好通商条約、1894年に日米通商航海条約がそれぞれ調印されたことです。

少し時間を飛ばして、戦後の日米関係を語る時に、ふたりの米国人について述べる必要があるでしょう。
ひとりはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサー、もうひとりは駐日米国大使マイク・マンスフィールドです。

マッカーサーは、1945年8月30日に厚木に上陸し、同年9月4日にミズリー艦上にて降伏文書(Statement of Surrender)に調印しました。
これに調印したのは米国・中国・英国・ソ連・カナダ・フランス・オランダ・ニュージーランドの8か国でした。

このマッカーサーの占領政策が寛大であったがために、奇跡的な戦後の復興が実現されたことについて、例えば当時の英国サッチャー首相も、日本の復興は日本人の努力のみでなく、米国の施策によるところも大きい、と来日時に語っていました。

マッカーサー自身も降伏文書調印時に、次のような演説をしています。
「この厳粛な式典を転機として、流血と殺戮の過去から、より良い世界、信頼と理解の上に立つ世界、人間の尊厳と自由、寛容、正義の完成を目指す世界が生まれることを私は心から切望する。

これは、多分に政治的な意図があったにせよ(また、この「正義」が誰の「正義」であるのか、という難しい問題があるものの)、日本に対する基本的な、好意的な姿勢を表したものと受け取って良いのではないでしょうか。
その結果、日本は上に述べたような復興を遂げることができたと言えると思うのです。

もうひとりのマンスフィールド大使に関して。
彼は12年間の在任期間に47都道府県をすべて訪問したと言われています。
彼は、日米間は世界で最も重要な二国間関係だとまで表明していたようです。
発言の当時では、この2国関係は西洋とアジアの関係として述べられたと思われますが、今日的に解釈すると、西洋文明圏と非西洋文明圏における最も重要な2国間関係だと解釈したいのです。

そうなると、日米関係をどのように「対等」に位置づけるかということが大きな課題になってくるでしょう。

現在、中国が日本を追い抜き、世界第二位の経済大国となっています。
また、国内で日米関係を日本の「追従」「追随」と捉えている人がいるという問題もあるでしょう。

では、このような状況で、どのように考えたら「対等」になるでしょうか。
「対等(equal)」は「量的なもの」「大きさ」「数量」「価値」「程度」において同等である、という定義があります。
一方で、権利・特権・能力(実行力)・地位において同等であるという定義も見られるようです。

そこで、重要なのは、日本にとっての「特権(privilege)」をどう考えるかということになるでしょう。

私は、この「特権」は、世界社会に対して、日本の特性を表した独特の貢献というprivilegeと考えたいのであります。

2015年7月8日水曜日

118:新しい防衛費の使途

以前発信した内容にもありましたが、日本の防衛パートナーの米国は1945年、つまり太平洋戦争終結時まで、現在の「国防省」の名称は「戦争省(Department of War)」でありました。
戦争省が持つ予算は、すべて敵国にいかに勝利するかということに使われていたのではないでしょうか。
極論すれば、効率よく敵を殲滅するための兵器・方法の開発やメンテナンスに使われていたということです。



このような防衛費に関する既成概念に、新しい次元の考え方を注入することが、平和国家に与えられた使命のひとつではないかと思うのです。
平和国家として、その基本にあった憲法9条の前半部分の精神を生かし、「国防」という概念に新しい側面を導入できれば、これは日本としての大きな主張となるのではないかと思うのです。


具体的には、毎会計年度の防衛費・国防費のごく一部を充当して平和建設のための基金とする動きを、日本がイニシアティブをとって主張していければ、と考えます。



翻ってみれば、第二次世界大戦収束後、急速に伸びた国連加盟国の多くは、旧宗主国より解放された旧植民地であるという認識を持つ必要があるでしょう。
つまり、いわゆる途上国と言われている国連加盟国が、主権を持ち、国としての尊厳(dignity)を持つ平和国家としてあらねばならないということです。
問題は、経済についてだけではないのです。
これら途上国が主権を持つ、自立した平和国家を建設することになれば、国際社会の安定に大きな影響を及ぼすことになると思うのです。

この発想を構築し、現実的なプランとして策定するには、世界的な規模での協力が必要となることでしょう。
真に平和を望む国家が、その国防費の一部を割いて、非武力による「国防」を外交努力とは別の次元で推進することは、平和国家日本から発信すべき内容に値するのではないかと考えます。















2015年7月1日水曜日

117:積極的平和主義と未来志向

6月25日、西室泰三日本郵政社長を座長として、第6回の21世紀構想懇談会が開かれたという報道がありました。
この懇談会も、第7回をもって終わると聞いています。
この会での議論を踏まえて、総理が自身の考えをまとめた談話を策定することになるでしょう。


私は一国民として、中国や韓国はもとより、米国が注視しているこの談話の内容が、積極的平和主義と未来志向を柱とした、これまでにない斬新な日本としての意思表明であってほしいと望むのです。
その内容は、平和国家の国民の総意として、真に世界の平和と安定に結びつく発想と、具体的な活動を示唆するものであってほしいのです。


平和憲法9条が、国際紛争の解決手段としての武力を放棄したのであれば、それに代わる方策を考える責務が日本にはあるのではないでしょうか。
これを私はPeace Powerと呼びたいのです。


この構想を真に平和を渇望する国家の賛同を得て、世界規模での平和実現への具体的な方策の策定につなげることができれば、日本が真に平和を望む国家であると国際社会で認識されることにつながるのではないでしょうか。


この具体策については近日中に発信したいと思います。
今回はここで失礼いたします。

2015年6月27日土曜日

116:謝罪とは

広辞苑(第六版)によると、「謝罪」とは、「罪やあやまちをわびること」とだけあります。

日本のように、殺人を犯しても20年やそこらの懲役で済んでしまうような、ものごとのけじめに甘く、よく言えば「寛大」な国民性を共有する社会の中では、「謝った/謝らない」の問題だけで終わってしまうということが、この辞書の表現に表れているように思います。
また、一部上場企業で不祥事が起きると、責任者がワンパターンに取材陣に謝罪し、45°の傾きで頭を下げる、という光景が見られます。

日本人は謝罪という行為をかなりあいまいに扱っているのではないか、と考えます。

アメリカでの謝罪の例を具体的に挙げてみましょう。
例えば、太平洋戦争時における、日系米国人市民の強制収容に対し、1988年にレーガン大統領が米国政府として初めて謝罪をし、また、1991年にはブッシュ大統領も謝罪・補償を行いました。
これは、日系米国人の謝罪要求に対応したことではなく、政府が主体的に行ったものだということに注目したいものです。

国際関係論の学者でもない素人の発想ですが、「謝罪」というのは主体的に・自主的にされるものであり、相手に要求され、それに屈服するような形でなされるものではないのだと思います。

最後に、国民の一人として思うことは、日本の過去の行為に対して謝罪を要求している国があるようですが、「要求されたから謝罪する」「謝罪することを要求する」という発想は、賢い発想ではないのではないかということです。
みなさんはいかが考えられるでしょうか?

2015年6月24日水曜日

115:歴史認識についての素人考え

本格的な調査をせずにこのような発言をすること自体、軽率かもしれませんが、あえて述べることに致します。


過去の対立や紛争に関して日中・日韓ほど、その収束の見通しが立たない例はあまりないのではないでしょうか。
特に歴史認識の問題に関して、状況はかなり混沌としたものになっているような印象を受けます。


これにはどのような問題があるのでしょうか?
素人考えですが、私個人としては、ここでは「共通の・統一された歴史認識をつくらなければならない」という観念がそもそも非現実的なのではないかと思います。


2つの国の間で「完全に統一された歴史認識」をつくることなど、果たしてできるのでしょうか?
私はそれは不可能だと思いますし、だからこそ現在の日韓・日中の歴史認識をめぐる議論も、非常に混乱しているのではないかと考えます。


大事なことは、まず、両者で「同意できる事実関係を確認する」こと、そして、その他のことについては「事実関係が証明できないことを確認し合うこと」の2点ではないでしょうか。


この2点を踏まえた上で、それぞれの当事者国が、自らのこれまでの歴史や文化や国民性に合わせて、個別に歴史記述を行えばよいのではないかと思うのです。
そして、それぞれに対し、相互に干渉しない、という取り決めを行う、ということです。


以上、素人考えで書いてきましたが、みなさんはどう考えられるでしょうか?

2015年6月17日水曜日

114:教育の目的とは

我々国民から見た政治家の責務は、国が直面する重大課題を棚卸し、優先順位を付けて、具体的なソリューションを策定・実施することではないでしょうか。
この中の優先課題のひとつが、「日本の教育をどうするか」ということだと思います。


広辞苑によれば、「教育」とは「教え育てること。望ましい知識・技能・規範などの学習を促進する意図的な働きかけの諸活動」とあります。
また、教育基本法の前文の一部を引用すると、「我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する」とあります。

これは、前文でしかないのですが、教育の本質を分かりやすく記述したものかどうか疑いたくなります。
私の単細胞的発想で言えば、教育の目的は「自分で考え、結論を出し、行動ができる人間をつくりあげる」ということではないかと思うのです。

あえてさらに言えば、この能力を発揮するために何が必要かと言うと、「知識」「智力」「遂行力」「技能」「理念・信条」の5つではないかと思うのです。

「智力」には若干の説明が必要かもしれません。
「智力」とは、与えられた情報を加工して、自分なりの結論を出す力と考えます。
日本人が見落としがちなことですが、この得られた結論を実施した場合に起こり得る「まずい現象」への事前の策を講じておくことも必要でしょう。

また、「遂行力」とは、英語で言うabilityですが、ふつう日本語にすると「能力」となるでしょう。
しかし、英語の辞典を引くと、第一義にはPower to Doとあるように、これはいわゆる日本語の「能力」とはまた別の概念であるため、「遂行力」としました。

これらの5要素の大元は、実はユダヤ教の聖典である『旧約聖書』にあります。
今日、ユダヤ人が優秀であると言われる背景には、これらの要素が、彼らの教育の中心にあるからではないかとさえ思います。

日本の教育論も、目的と手段を混同しないで、まず目的に関する討論がなされることを望むものです。

2015年6月10日水曜日

113:「ビジネスは平和時における戦争の形態である」

ほぼちょうど1年前に、アメリカの「戦争省」のことについて書きました。


そして今年、安倍総理の70周年談話策定の最終段階に入ってきているようです。
ここで、もう一度、平和ということについて書いてみたいと思います。


平和国家日本が世界に訴えたいことのひとつは、平和国家として平和を唱えるだけでなく、また戦争反対を繰り返すだけでなく、戦争を未然に予防するための方法論を確立しよう、という提唱だと考えます。


そもそも人間社会には、常に対立・闘争があり、それがエスカレートすると、悪意や憎悪と化し、収集がつかなくなると武力闘争になります。
その結果、国対国の戦争という枠組みから、ISISやテロといった新しい戦争の形態が生まれています。


そこで、対立の状況から戦争という人殺しの状況に発展しないための、一線を越えないための方策を確立することを、日本のイニシアティブで発信することが、平和を唱える国の責務ではないでしょうか。


「ビジネスは平和時における戦争の形態だ」という言葉がありますが、これは非常に面白い考え方です。
この考え方に立てば、ビジネスが本物の戦争状態に発展しないように、法律など、様々な社会的な決まりがある、とも考えられます。


これを実際の戦争にも当てはめることはできないでしょうか?
つまり繰り返しになるかもしれませんが、国際的な規模で方法論を模索し、みなでその決まりを守ることで、戦争状態への突入を避けることはできないだろうか?ということです。


貧乏反対!を唱えるだけでは暮らしはよくなりません。
と言ったら平和運動を展開している人たちに失礼でしょうか。

2015年6月5日金曜日

112:国防と殉職

集団的自衛権についての論議が最近活発ですが、この中で、関係者が意図的に避けている論点があるように思います。
それは端的に言えば、日本の自衛隊であれ他国の軍隊であれ、いったん戦争状態になれば、隊員の殉職が「あり得る」という可能性についてであります。


このことは、警察官や消防士であれば、最悪の場合、職務中に命を落とす場合があることを承知の上で任命を受ける……ということと何が違うのでしょうか?
はっきり言えば、自衛隊の隊員は、日本の防衛のため命を落とす可能性があることを承知の上で職に就いたはずだ、ということです。
また、国民もマスメディアもそのことを認識しても良いのではないでしょうか?


同盟関係なくして一国の防衛ができないという状況は、みなが認めるところでしょう。
「あってはならないこと」ではなく「あり得ること」として、自衛隊員が殉職するかもしれないことを認めたうえで、安全保障を考える必要がある、と考えます。


このことを言い出し、いわゆる「進歩的知識人」により袋叩きに遭うのを恐れて、あえてこの可能性に触れずに議論が進んでしまう、というどうもおかしな状況があるように思います。


外国の友人と安全保障に関する議論をするときに、「日本の人たちは、戦争状態になった場合、自国を防衛するために、自衛官が犠牲になるということがあってはならないと考えているのか」と問われることがあります。


私は答えに窮します。

2015年6月3日水曜日

111:米国プレシディオ国立公園

先月上旬、母校(DePauw大学)の理事会に出席のため訪米し、帰りにサンフランシスコに立ち寄りました。
目的は、サンフランシスコ平和条約が締結されたオペラハウスと、安全保障条約が署名されたプレシディオ国立公園を再度ぜひ訪問してみたかったからであります。
このオペラハウスは、第一次世界大戦を記念して建てられたもので、正式名称をWar Memorial Opera Houseと言います。


余談ですが、私がここを初めて訪問した際、このWar Memorialという名称に違和を感じたのを覚えています。
そして、返信は期待することなく、当時のブラウン市長にWar MemorialをPeace Memorialに変えてはどうかという意見書を出したものでした。


当時、吉田茂元総理はプレシディオ陸軍基地(当時)に向かい、そこで日米安全保障条約を一人で証印をしたと言われているようです。


しかし、展示された当時の記念写真の中の、吉田茂が周りをアメリカ人関係者(ディーン・アチソン国務長官やジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問)などに囲まれ、座して書面にサインしているものに、なんと池田勇人の顔が半分写りこんでいることを発見させられたのです。
吉田元総理が「一人で」調印したというイメージが強かっただけに、これには驚きました。


そして、ほど近くにはゴールデンゲートブリッジもありますが、この太平洋側に多くの砲台跡があるのにもやはり驚きました。
これは、太平洋戦争当時、日本の攻撃を想定して造られたものだそうです。


この夏の安倍総理の敗戦70周年談話が草案されているおり、私自身も日米関係に関して様々なことに考えを巡らせている最中に、このようないくつかの驚きがあったことは新鮮で面白い体験でした。


2015年5月29日金曜日

110:NPT最終文書案

平成27年5月23日付産経新聞の記事で、NPT(核拡散防止条約)最終文書案をめぐる交渉についての報道がされました。
見出しでは「中国 歴史で押し切る」、「『想定外』 日本、苦しい交渉」とありました。


日本はこの文書案に、広島・長崎へ世界の指導者の訪問を促す文言を盛り込もうという動きだったようですが、中国の軍縮大使の「日本は戦争の被害者の立場を強調している」という予期せぬ批判に遭い、結局この文面は削除されてしまった、ということでした。
「被爆地訪問」は「被爆した地域の経験を直接共有する」といったような後退した形で一応は文書案に残ったようですが、核廃絶問題にまで歴史認識を絡めるという中国の行動に日本側は苦戦した、ということでした。


この中国代表の発想は、犠牲になった被爆者や負傷者の立場を冒涜していると私は思います。
なぜならば、原爆の被害者が、加害者である米国に対して謝罪や賠償を要求した事実は聞いたことがないからです。


唯一の被爆国である日本が、核の拡散防止に対して平和を愛する国民としての発信にもっと工夫が必要であると感じました。
この日本の発信が、より説得力のあるものになったら、と思います。


その背景として、上記のように、日本は米国に対して、謝罪や損害賠償を要求していないという事実を重く考えたいものです。

2015年5月27日水曜日

109:21世紀構想懇談会

この懇談会の正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」というなんとも長たらしいものですが、この会議はすでに5回開催されたとの報道がありました。


この安倍総理の戦後70年談話を発信することについて、世間では意見が分かれています。
色々な意見が出ましたが、しかしひとまずこの談話が行われることは確実だと思われます。


そこで重要なのは「談話の目的は何なのか?」ということです。
それは下記のような項目ではないか、と私は考えます。


①日本の人たちが真に世界平和に貢献したいと思っていることが伝わること
②非西洋文化からの世界社会への平和に関する斬新なメッセージであること
③日本国としての尊厳が高らかに掲げられること
④多くの人たち(国内外)から賛同が得られること
⑤日本国としての世界社会における役割が具体的に表明されること


一人の日本人として、今回の安倍談話がどのようなものになるか、ということに大変関心がありますし、ぜひともそれが「さすが日本!」と呼ばれるようなものであってほしいのです。


内容については、この懇談会が提示し、最終的には安倍総理が策定することになるのでしょうが、それが、これまでにない格調の高い、上に挙げたような項目を達成できるものになって頂きたいと思います。
そして、唯一の被爆国であるからこそ、「平和とはなんであるか」「防衛費の使い道はどうするか」について全く新しい次元の、未来を見据えた発信してほしいのです。


このような内容を反映した70年談話となることを望みます。
なお、この件については継続して具体的な考え方を発信したいと考えています。