2015年11月28日土曜日

153:憲法9条は無抵抗主義か

安倍政権における安保法案の衆議院可決以来、日本国憲法がアメリカでどのような評価をされているかについて調べてみた(http://www.loc.gov/law/help/japan-constitution/article9.php)。
驚くなかれ、ここでは、平和憲法は“Pacifist Constitution”と書かれていた。
“Pacifist”とは、平和主義者・反戦主義者、暴力に反対する人、という意味と同列に、「無抵抗主義」という意味でもあるらしい。


またこの記事では、以下のように書かれている。



General MacArthur was the first person to write down the idea that the Japanese constitution would renounce war.  Researchers agree that the idea was first introduced between General MacArthur and Prime Minister Shidehara. However, there has been a debate as to which one conceived the idea.  Both claimed the other told them first, a debate now impossible to settle because both have passed away. 



おおざっぱに要約すると、当時の占領軍最高司令官マッカーサー元帥が、はじめて戦争放棄を日本の憲法に入れるべきだ、と考えたとされているが、学者の間では、当時の幣原首相との会話の中で、このような議論があったということが知られている。
相互に相手が、この平和憲法のアイデアをはじめて出したと言い合ったということだ。
しかし今では事実がどうであるのか、検証の方法はない。


ここで言えることは、日本国憲法は、米国側が一方的に押し付けたものではないと解釈して良いのではないか、ということだ。
つまり、改憲派のひとたちがよく言うように思われる、押し付けられた憲法であるから修正するべきだ、という議論には、やや疑問があるのではないだろうか。


むしろ、憲法の改正・修正(Amendment)において、我々が知りたいことは、どの条項をどのように変えるかという具体的な議論についてではないか。
具体的な議論がなされてはじめて、Amendmentの方向が明確にされるのではないか。


現行憲法を全面的に日本人が書き直すという主張もわかるような気はする。
前述の“Pacifist”を「無抵抗主義」という意味で取るとすれば、それが非現実的であることは言うまでもなく、実際には現存の自衛隊は安全保障のために不可欠だろう。
しかし、国際紛争の解決に武力を使わないという理想を憲法に掲げている先進国は他にない。
問題は、この精神を将来にどのように現実的に生かすかということであるように思う。


新しい戦争の形態が増加する傾向の中で、闘争・紛争を戦争状態になる一歩手前で制御(Manage)する手段の開発を日本のイニシアティヴでやりたいものだ。
西洋文明からのものだけではなく、「非・西洋」の知恵も、日本を中心として結集させたい。

2015年11月25日水曜日

152:日本人の発想法はユニークか

今年11月8日に、内閣府が主催する、サイバーセキュリティに関する国際会議が沖縄で開催された。
これに関連して、米国の参加者のひとり、元・米国立サイバーセキュリティーセンター長官との少人数の勉強会が同月10日に東京で開かれ、私も参加をした。


私はサイバーセキュリティに関するド素人だが、次のようなコメントがなされた。
・各国政府がやりとりする情報は、そのほとんどがどこかで盗まれていると考える時代である。
・ファイアウォールと言われる技術のほとんどは、やがて破られる。なぜなら、攻撃する側が常に有利だからである。
・日本は、この分野で遅れていると言わざるを得ないが、かえって、最新の技術を導入できる立場にあることが有利である。
・2020年のオリンピックまでに、日本はこの分野で大発展をし、世界を変えることになるだろう。
・ところで、日本人は正直で、まじめで、善良すぎることを懸念する。(「人を見たら泥棒と思え!」という日本のことわざを生かさなければならないということだろう)


私は、元長官にふたつの質問をした。
まず、“Do Japanese think differently?”
この問いに対し、彼は躊躇なく“Yes”と答えた。


ふたつ目の質問は、“Is Japanese logic unique and different?”
これに対しては、彼は上手く答えにならないような説明を長くしていたため、「Noでしょう?」と確認をしてみたところ、頷いた。


つまり、我々はロジックにおいて違いはないものの、その使い方が西洋と異なっているということだろう。
要は、どのように国際社会で通用するような考え方をするのかが問われている。


ちなみに、以前も書いたが、中国ではエンジニアは「工程師」と呼ばれる。
作業におけるプロセス=工程が強く意識されているということだろう。


日本人が国際社会で議論が噛み合わない理由のひとつは、プロセスを意識する「システム思考」に対して、日本の考え方が「暗算思考」「名人思考」であるということが考えられるだろう。


日本において、「システム思考」を啓蒙する必要があるように思われる。

2015年11月18日水曜日

151:国際人の養成

世界社会で活躍できる人物の養成が急務といわれて久しい。
関係省庁等も、思い出したようにこの領域の重要性を認識して予算を付けているようだ。


139号でもこの話題には触れたが、今回は国際人の条件について、もう少し具体的に書いてみたいと思う。
これは、どのような状況下でも、誰とでも対等に仕事ができるための条件である。


①会議の席上で相手を黙らせることができる。
②異質文化の中で平常心を持ち続ける。
③相手の人物評価(組織内での力関係の判断)ができる。
④するどい質問ができる。
⑤仕事以外の話題が提供できる(リベラル・アーツ的)。
⑥Noではなく、選択肢が提案できる。
⑦プロブレム・ソルビングの進め方の「定石」としての国際基準を知っている。
⑧初対面から相手と深いコミュニケーションができる。
⑨相手や組織に対し、建設的な影響力が与えられる。
⑩問題の本質をおさえて、相手を説得できる英語力を持つ。
⑪信頼されるための、人間としての信念・主義・倫理観を持つ。


など、思いつくままに、無責任に書いてみた。




また、内容はズレるが、機会があるごとに、言葉の定義を開示していきたい。
知っているつもりの言葉でも、その定義を問われると難しい、というものは意外と多くあるように思われるのです。
例えば。




bankruptcy「破産」とは
流動資産から債務を完済できない事業(または個人が所有する財産)を清算するための法的手続き。


どうでしょうか。
今回はこの辺で。

2015年11月14日土曜日

150:パブリック・スピーキング

日本において、教育改革の必要性が盛んに言われている。
この論議の中でぜひ加えていただきたい領域が「パブリック・スピーキング」である。
日本人が国際舞台で、発信をできない背景には、我が国の教育の中にパブリック・スピーキングという科目がないことも、そのひとつにあるのではないかと思う。


ちなみに、ハーバード大ではSPCH-100として、“Fundamentals of Public Speaking”というコースがあるようだ。
目的は、聴衆の注目を集め、持続させるための、内容と伝達スキルを身に付けるということだ。
またインディアナ大ではCMCL-C 121 “Public Speaking”、スタンフォード大でも同様にENGR “Public Speaking”という科目があるようである。






先進国間における日本のサイレンスが問題であった時代ではもうない。
途上国のリーダーが国際会議でパブリック・スピーチを堂々とする様を見ると、日本の発信力の弱さの原因を考えてしまう。
国際舞台で活躍する人物がすべて留学などによる海外経験者である必要はない。
しかし、このパブリック・スピーキングというという領域を、公衆に向けて意見を堂々と主張するという文化のない日本において、確立することが急務ではないかと思う。


パブリック・スピーキングの本質は、与えられた演題に対して、どのような諸本質を伝えるのか、そのための論理的なシナリオが作成できること、その場で聴衆を分析し、適切な対応ができること、関心を掴み持続させる技術、などである。
これらは、あくまでスキルであり、訓練すれば身に付くものである。しかし裏を見れば、訓練しなければ身に付かないものである。
これが、コミュニケーション学の基本になるのではないかと思う。

2015年11月11日水曜日

149:中3に英語全国テスト

少し昔の記事ではあるが、2015年6月6日の産経新聞によると、文科省は31年度から、読む・聞く・書く・話すの四技能の習得度を確認するため、国際標準規格CEFRを用いた英語の新テストを導入する予定であるらしい。
ヨーロッパで開発されたCEFRをどのようにして日本の中学生の英語検定に用いるのかはよくわからない。


ただ、日本人の文化的背景を考えると、この「読む」「聞く」「書く」「話す」の四つを、同じウエイトで扱うということに疑問を持つ。
特に「聞く」ことについて考えてみれば、一方的に聞いて理解する能力が必要とされる場面は、古今東西を問わずラジオ放送くらいのものだ。
従って、「聞く」と「話す」を同列に考えていること自体、問題があるのではないか。





また翻って、英語における話す能力は、書く能力に直結していると言っても過言ではない。
ここで誤解してほしくないことは、以前の内容と重複するかもしれないが、自分で書いた文章が不完全であっても、その文章を読んで発信することが、「話す」コミュニケーションとしての、英語教育の重要なポイントであるということだ。




私自身、若いころに、英語によるコミュニケーション能力を向上させるために、ある設定したテーマに対し、かなり高度な英文を書き、それを声に出して読む練習をしたことがある。
くどいようだが、教科書的例文(他人が書いたもの)を丸暗記する方法もあるが、自分が書いたものを自分で覚えてみることの重要性も認識したい。


このことが、以前にも触れたハーバード大のフォーレー学長が言う、説得ある文章力と説得あるスピーキングにつながる。
格調ある英文であるのに越したことはないが、説得ある(Persuasive)ことが重要であり、流暢さだけが必要なわけではないことは肝に銘じたい。
説得あるということは、必ずしも文法的に正確な文章を話すということを意味しないと考える。


中3の英語全国テストに話を戻そう。
上に挙げたようなことから考えて、西欧文化圏における語学能力の検定制度をそのまま我が国に適応することには、慎重を期するべきではないだろうか、と考える。

2015年11月4日水曜日

148:日本のハロウィン狂詩曲

ここ何年か、日本でもハロウィンが催しとしての賑わいを見せているようだ。


しかし、そもそもハロウィンとは何なのであろうか?
これは元々は宗教的なお祭りとしてあったものだが、その後特にアメリカで、ほぼ宗教色を脱色したかたちで普及したイベントであるようだ。
私もアメリカに滞在していた当時のことを覚えているが、その内容とは、子どもたちが仮装して街の家々を訪ねて歩き、キャンディなどのお菓子をねだる(“Trick or Treat!”)ものだ。


人々が楽しむイベントに水を差すことになるかもしれないが、子どもの遊びや楽しみを、大の大人にまで持ち込む感覚を、なんなのかと思ってしまう。
ハロウィンをコマーシャル化、商業目的化する背景にはそれを演出する人々がいるに違いない。
営業妨害をするわけではないが、超えてはならない一定の秩序や良識の範囲内でやってほしいものだ。


外国人がどう見るかを過度に気にする必要はないかもいれないが、日本人が幼稚化している、というような印象だけは与えたくないものだ。