2014年12月31日水曜日

73:死ぬ気で知恵を出そう(地方創生等について) 

12月19日の日経新聞のトップ記事に、「地元就職なら奨学金」との見出しが出ていました。
内容は、大学在学中に奨学金をもらっていた学生が卒業後、地元で就職すると、政府が交付金を出してその返済を減免する、という制度が2015年度からはじまる、というものでした。


このような制度がはたして定着するか疑問を持ちます。
地方で自分の望む仕事がない場合にはどうすればいいのでしょう。
また、大都市出身の学生は奨学金減免のチャンスがない、という不平等もあるように思います。


そもそもこれらの発想は「地方創生」の促進が目的であるならば、このようなレベルの方策しか政府のお偉い方々に発想できないのか、と悲しい思いです。


現実的ではないかもしれませんが、私の意見では、もっと抜本的な対応が持てなかったのだろうかと思います。
解決策としていくつかの案が考えられてしかるべきではなかったでしょうか。


例えば一つは、東京にある大企業の本社機構を、地方の工場などの有力ビジネス拠点に合併させてしまう案は検討されたのでしょうか。
東京に本社のない日本の代表的企業は京セラ・ユニクロ・任天堂など様々なものがあるでしょう。
そして、経営上の支障もないようです。


であれば、東京の本社を地方に移すためにどうしたら良いか。
例えば、ゼネコン等の反対はあるにしろ、東京の高層ビル・マンションの建設に一時的な規制をかけてみてはどうでしょう。
そうすれば、地代・家賃が高騰、固定費が増加し、利益が圧迫されることになります。
すると経営陣は固定費削減のための対策を打つことになるでしょう。
つまり、経営の収益向上のため、東京から本社を移転することになるでしょう。


より限られた予算で土地の購入ができ、居住環境は大いによくなります。
物価が安いので、生活コストも低く抑えられるなどのメリットが考えられます。
さらに、秋田にある国際教養大学のように、ビジョンを持った地域リーダーが高等教育の設備を建設し、成功させれば、「地方創生」が実現できるのではないでしょうか。
また、群馬交響楽団や別府のアルゲリッチ音楽祭のように地方の文化に貢献する例もあります。


このような発想を政治家のみなさん方が10年前に思いついていれば、狭い日本列島の有効活用につながったのにと残念に思います。


ちなみに、冒頭の奨学金の話に戻りますが、奨学金は「これからの国をしょって立つ若者に対する投資Investment」であるのです。
投資は「返済」するものではなく、その「配当Dividend」を生まなければなりません。
その配当は、投資を受けた学生がどれだけ社会に自分の得意分野で貢献できるか、ということであり、また、母校に対する寄付行為等であるでしょう。
そもそも、「返済」が前提であるならば、個人が銀行から融資を受けるのとなんら変わりはありません。
これは本質的に「奨学金」とは言えません。

2014年12月26日金曜日

72:グローバルビジネスの波

先月、あるパーティーでビー・エム・ダブリュー株式会社の社長と雑談する機会がありました。
日本に赴任してまだ数か月の彼は、殊ビジネスのことになると、社内でのコミュニケーションに戸惑ってしまう、とこぼしていました。
代表的な例は、ある重要会議で「プランBは何か?」と質問したときに全くの沈黙になった……ということがあったようです。
また、具体的な質問に対して、具体的な・適切な答えが返ってこないということも言っていました。


その結果フラストレーションを感じる場面が多いことが悩みの種となっているようでした。


第一の問題に対しては、日本語が単数と複数の区別をしないため、「プランB」というオルタナティブがその思考様式に現れていないことを説明しました。
(「次善の策」という言葉はあるものの、伝統的にこれは「最善の策」ほど緻密に練られたものではないように思います。)


第二の問題に対しては、日本は、基本的に「非質問社会」であるためだ、と答えました。
「根回し」という考え方は世界中どこにでもありますが、日本においては、この「根回し」の過程で「案件は完璧なものとして練り上げられるのだ」という共通見解が出来上がってしまい、結果それに対する質問が発生しない……というやや特殊な事情があるように思います。


と同時に質問の目的について日本では混乱がある、ということも説明しました。
多くの場合、日本でなされる問いは、「責任を問う」場合が多いのではないでしょうか。
実際には、これの他に「情報を収集する」「根拠を明確にする」「リスクを明らかにする」などの機能があるのですが、日本ではこれらが混同されているようなのです。


(試しに「問」という漢字が付く単語を並べてみました。「質問」「設問」「疑問」「尋問」「詰問」「拷問」……このように「問う」ということばには、単に「情報を求める」意味と「相手の責任を追及する」意味が混在しているようです。)


つまり、彼が質問した際、部下たちは「何かの責任を問われる」という思いが先に来る場合が多いので、黙ってしまう、あるいは具体的に答えない……ということがあったのではないでしょうか。


社長夫妻は大変な親日家で、もっと日本のことを知りたいという意欲から、私の話を気に入ってくださり、先日食事をご馳走してきました。


日本人の思考様式についての議論になり、彼がメモを取るほどに熱心なものとなりました。


彼は40代後半、ドイツ生まれ・ドイツ育ち、ドイツで教育を受け独仏英の3か国語に通じており、BMW入社後、ロシア・インドを経て日本の責任者となったそうです。


私はある質問をしました。
「日本BMW社幹部の国籍はどのようなものなのか?」


彼によれば、ドイツ・アメリカはもとより、なんとタイの女性がいるとのことでした。
彼女は最高財務責任者CFOであるとのことです。


着任当時、色々な差別で大変苦労したものの、現在は信頼される責任者として業務に就いているそうです。


余談になってしまいますが、日本社会における女性の進出も、このような優秀な外国籍女性を登用することで風穴があきはしないでしょうか。


「グローバルビジネス」というと海外でのオペレーションと考えがちですが、日本社会の内側でも既にグローバル化が進んでいるのだ、ということを我々はより認識しなければならないでしょう。

2014年12月24日水曜日

71:人生に宗教は必要か?

数年前、閣僚を務めたこともある、私が尊敬できる政治家に「今の日本の教育で最も欠けているものは何か」と質問したことがありました。
返ってきた言葉は「学校で宗教を教えていないことです」でした。
私はこれを意外に思いました。
特定の宗教を布教するのではなく、人間の存在をはるかに超えたものがある……という認識を持つことが大切だ、ということでした。


世界のリーダーたちに「あなたの宗教は何ですか」という質問をした場合、ほとんどの人間は即座に答えることができるでしょう。
翻って日本のリーダーはどうでしょう。
この疑問は、宗教心もない人間がリーダーになってよいものか、という疑問にもつながります。


戦前はこの領域を「修身」として扱っていました。
ひとことで言えば、「人間として自分に恥ずかしくない道を歩め」ということでした。


日本にはもともと神様に関わる言葉はたくさんありますし、都市の街角に地蔵が立っていたり、寺社仏閣の前で立ち止まって頭を下げる、新年には初詣に出かける……といった宗教的なイベントや宗教の名残がたくさんあるようです。


クリスマスイブにキリストの誕生をクリスチャンは祝う。また、商業的にはクリスマスセールが展開される。その延長で、やはり、人間を超越した存在がある……かもしれない、くらいのことを考えても良いのではないでしょうか。


「美しい日本」という言葉を世界に売り出しているようですが、この「美しさ」の中には、宗教心を持つ民族であるという要素もあってほしいと私は思うのです。

2014年12月22日月曜日

70:第47回衆院選の投票率 その2

今回のような低投票率の原因を「政党の魅力が乏しい」の一言で片づけることができるのでしょうか……
私はできないと思います。


魅力ある政党にするためにはどうしたらよいのか……という議論は全くナンセンスです。
適切な・効率の良い国の経営をするために政党があるのであって、魅力のある政党をつくることが目的ではないのです。
あえて魅力のある政党とは何か考えれば、その党に所属する議員や未来の候補者がどのような政治信条を持ち、どのくらい有権者と接点があり、国政に責任が持てるのかに関わるのではないでしょうか。


アメリカでは、ほとんどの議員は市民からの相談や提案の親書に真摯に回答するため、手紙を読み・内容を検討し、これを峻別する秘書を置いています。
この秘書は当然、議員宛にきた親書に返信を出しています。


しかし残念ながら、日本では我々が選んだ代議士事務所に特定の案件で親展を出しても、まず回答は期待できません。
社会にとってプラスになるような提案を代議士に出しても反応はないでしょう。
あるいは、選挙区内での問題事項の解決案を出すよう依頼しても、行動は期待できないでしょう。


選挙の投票率を改善するために、代議士・候補者が年間を通じて出来るいくつかのことを考えてみました。
 
①自身の選挙区で重要な政治・社会案件に関するディスカッションを行う対話集会(タウンミーティング)を公民館・集会所・あるいは個人の家で行ってもいいのではないでしょうか。
②財政・教育・外交等国家運営の重要案件に対してよく勉強し、自分自身の意見・信念を確立し、機会あるごとに有権者に伝える努力の輪を広げていく。
③有権者からの国政に対する注文を聴く会を定期的に開催する。「国民の意見を政治に反映させる」などというお題目は、この底辺の部分から始まるはずです。


これらは有識者会議などという「知的ハコモノ」から出てくる提案などよりも、はるかに現実的なのではないでしょうか。
上記以外にもっと良いアイデアがあると思いますが、政治と国民の距離を縮めることが投票率のアップに結び付くことは明らかでしょう。
その方法を議員先生も有権者も必死になって考えなければ、この国の民主主義はますます機能しないことになってしまいます。

2014年12月20日土曜日

69:第47回衆院選の投票率 その1

総務省の発表によると、今回の選挙の投票率は52.66%と戦後最低の結果でありました。
この数字を見て、問題意識を持った国民が多くいてほしいと思います。


市民が比較的安心し、安全な国の選挙率を調べてみるとどうなるでしょう。
スウェーデン・アイスランド・デンマークは8割以上、ドイツ・イギリスで7割前後、米国はその特殊な事情から予想より低い42%という数字が並びます。
米国の実態を私が弁解するつもりはありませんが、いわゆる知識層における投票率はかなり高いと思われます。


また投票に行かなかった場合に罰則がある国もあるようです。
このような国の投票率は無論高く、シンガポール・オーストラリア・ベルギーでは9割前後の投票率となっています。


さて、最近の総務省のHPに投票率を改善する方法として、「投票を義務化したらどうか」というものがありました。
民主主義の精神から言っても、このような発想は健全とは思えません。
なぜならば、以前にも書きましたように、投票は国民の「権利」であり、「義務」ではないからです。


問題が起こるとその原因を解明しないで対策に短絡する傾向が誰にでもあるでしょう。
これには非常に危険な場合があります。


例えば、ビジネスで言えば、売り上げ目標が未達成である。
その真の諸原因を究明することなく、営業員のノルマを上げたりすることでは問題は解決しません。


これと同じように、なぜ我が国の国政選挙の投票率が下降してきているのでしょう(昨年は59%)。
今回、よく言われているように「なぜ選挙をするのか」がよく国民に理解されないまま選挙が実施されたために投票率が低くなった、という指摘もあります。
無論これも正しいのでしょう。しかし、原因はそれだけではないと思うのです。
この原因を明確にし、その原因に対しての対応を試みることが賢明な・理性的なアプローチであると思うのです。


この低投票率の現象は、議会制民主主義の機能を揺るがしかねない危機であると言っても過言ではないでしょう。


各紙の解説を読んでも、この状況の本質に迫る論議は深くなされていないように思います。
投票年齢を18歳に引き下げたり、将来の投票者である子どもたちへのキャンペーンを増やしたり……といったその場しのぎのような提案もあるようです。


政党側の魅力(今回の場合は野党)が乏しいために有権者が投票に行かなくなっている……という指摘もあります。
この「魅力が乏しい」ということについて腰を据えて議論をする必要があると思うのです。


続きはその2にしたいと思います。

2014年12月19日金曜日

68:消費税増額実現の前提

来年度(27年度)の国家予算が過去最大の約95兆円と見通しが立つ一方、地方債も併せた国の借金はおよそ1000兆円と、約500兆円のGDPの倍もの量となっています。
我々一般国民からすると、これはまるでどこか遠い国の話を聞いているような気がします。
(しかも実際には、もっと大変なことになっているのかもしれません。)


マスメディアは、いたずらに国民を不安に陥れてはいけないという名目のもとに、あまりこのようなことを報道しません。
これでは、国民に危機感など生まれないでしょう。


国民がこのような実態を自分たちに関わる問題として捉えるためにはどうしたらいいのでしょう。


ひとつの方法は、国民が国の経営を委託している代議士・国会議員がこの問題の深刻さをどのようにして国民に認識させるのか……ということを考えたらどうでしょう。
2012年5月から、復興財源確保の一部として、議員の歳費(給与)は2割カットされていましたが、残念ながら今年の5月に元に戻ってしまいました。
この5月に、「なぜ戻すのか」という根拠について報じられたことは記憶にありません。


ひとまずこの点についての疑問はさておき、消費税の増税のためには、議員自らがその歳費を大幅にカットし、国民にも協力を求めることが筋ではないでしょうか。


特に大きな法改正など必要なく、前例もあるのですから、来年度からでもすぐにできることだと思うのですが。


私企業で業績が低下すれば、まず社長の賃金がカットされ、暫時経営に責任を持つ役員が減俸となるでしょう。
「業績が悪化したからまず社員から救済金を求める」などという発想など当然通りません。


このような当たり前の発想を政治の世界でも是非持って頂きたいものです。

2014年12月10日水曜日

67:なぜ日本の選挙は白けるのか? その2


「その1」の続きです。


さて、「適任者を選ぶ」ということは、複数の候補者の中からのchoiceです。
当然のことながら、複数の候補を判断する場合には、「判断基準」というものが必要です。
例を挙げると、
①社会への貢献の実績、あるいはその可能性。
②議員になるにあたり、どのような政治信念を持っているか。
③国を経営するための見識(物事の本質を見通す、すぐれた判断力)があるか。
④人としての信用度が高いこと。
などなど……基本的な項目が考えられます。


国民が選挙に関心を持たなくなった背景には、上記のような項目に対して立候補者の情報がないためではないでしょうか。


選挙法改訂が話題になって久しいです。
定数の削減も重要なことです。
しかし、11月の時事調査によると60%以上の人が「支持政党なし」ということであり、こちらも非常に大きな問題と言えます。
選挙に際して、各候補者の情報をきちんと発信しなければ、このような選挙に関心を持たない国民が盛り上がってこないのは当然でしょう。


また、選挙に参加することは国民の権利なのか、義務なのかという議論があります。
私の考えでは、それは無論、権利であります。
(「適任者」と思う者がいなければ白紙を投票することもまた権利の行使です。)


「絶対に投票しなければならない」などということはないのです。


だからこそ、選挙のための前提条件づくりを進めないと国民と政治との距離は狭まらないのです。




加えて。知人や友人に「自分は○○さんを支持します」ということやその根拠を自由に発信でき、議論できるような雰囲気が出来てこなければ、とも思うのです。

2014年12月5日金曜日

66:日本の選挙はなぜ白けるか? その1

米国の中間選挙が11月にありました。
結果、共和党が両議会の多数派となり、オバマ大統領の執政が困難になったと報道されました。
この中間選挙に関して、米国国民はもちろん、世界中が関心を寄せました。


翻って日本では、12月2日に公示された第47回衆議院選挙を前に、多くの国民が当惑しているのが現実ではないでしょうか。


ところで、選挙の本質は何なのか? ということについて国民一人一人が自問自答したいものです。
つまり、選挙をするということの本質を捉え直してみる必要があるのではないかと思うのです。


広辞苑によれば、選挙とは、「多人数の中から投票などにより適任者を選びだすこと」とあります。
来る衆議院選挙は、いまや国の存亡をかけた選挙となるという危機意識をもって臨まなければなりません、と言ったら大げさでしょうか。
国民が選出する議員の資質と、今日までの実績を踏まえた選定がなされなければ、辞書の言う「適任者」を選ぶことはできないでしょう。


適切に適任者を選ぶためにはどうしたら良いのでしょうか。
今日、知名度やポピュリズムを頼りに選ばざるを得ない傾向がますます強くなっています。
こんな中で、国民はどのような発想をしたら良いのでしょう。


一昔前までは、「公開討論会」などが地域別に開催され、少なくとも適任者を選ぼうと志す国民は熱心に候補者の声に耳を傾けたものでした。
ちなみに、最近ある代議士先生に、なぜ討論会がなくなったのかと訊ねたことがありました。
すると笑いながら、「討論会にサクラを配置して故意にヤジなどを飛ばさせ、混乱を起こす例が増えたため中止した」との答えが返ってきました。
真に情けない話です。
選挙法を改正してでも、妨害行為は検挙すればいいのです。
こんな簡単なことが出来ないなど、私は悲しく思います。


話がそれてしまいました……やや長い内容なので、続きは「その2」として発信します。

2014年12月3日水曜日

65:税金の無駄遣いをどうするか?

近代国家において、国民が国に税金を納めるのは当然のことです。
一方、国はこの税金を最も有効に活用する義務があります。


納税者は、税金がいかに有効に使われているかに最も関心があり、税金の無駄遣いが発覚すれば、税金を納入することに抵抗を感じるのではないでしょうか。


ところで、役所の中に、会計検査院というものがあります。
この機能は税金の無駄遣いを明らかにし、内閣に提出するものです。


ちょうど今月、11月の7日に、去年度(25年度)の検査結果が報告されました。(http://www.jbaudit.go.jp/
これを見てみると、検査の対象となる政府機関が独立行政法人などを含めて23機関にも及ぶことにまず驚かされます。


各省庁の税金の無駄の実態を把握することだけではなく、それに政府がどう対応するか、ということを国民は一番知りたいのだ、と私は考えます。
このような要請を政府にすると、おそらく「全力を投入し極力無駄を省くように鋭意努力する」というような抽象的な発言が毎年繰り返されているというのが現実でしょう。


政府から何らかの具体的な行動を引き出すために、どのような方法があるでしょうか。
税金の不払い運動をやれば、おそらく税務署から督促状が送られ、最終的には差し押さえということになるでしょう。


これ以外の有効な方法をずっと考えてきました。
実現性は別にして、この問題について、国民が政府を動かす方法として、「税金の供託運動」を国民規模で起こすというのはどうでしょうか。
具体的には、ある特定の無駄案件に対し、何らかの対応がなされない限りは供託を解除しない、という要求をするものです。


供託金は法務省の供託所という機関に納められます。
このように、供託金はきちんと国家には入るため、国家の運営自体には影響しないでしょう。


しかし、国税庁や財務省の対応が混乱し、何らかの手を打たなければならない、と対応を引き出すことができるのではないでしょうか。


税金の無駄遣いに関心ある人たちが、この税金の供託運動をすることにより、国民が国を動かすことにつながるでしょう。
どなたか、このアイデアを実行して頂ける人はいないでしょうか?
このまま放置すれば、状況が改善されないことは自明ですし、それどころかむしろ悪化していくことでしょう。
国民は何か行動を起こさなければなりません。

2014年11月24日月曜日

64:日中韓の歴史認識

ある少人数の会で、谷垣禎一・自民党幹事長の話を聞く機会がありました。
当然、政治家として、この問題に触れられました。


谷垣幹事長のアイデアは、歴史問題をはじめ、存在する懸案事項を関係各国が共同して解決策をつくりだすことが重要ではないかというものでした。
また谷垣幹事長は「3つの国の歴史文化・メンタリティが異なっているので、結論は各々別々で良い」といった趣旨のことも言われました。
3国間が同意した各国別々の歴史認識を作り上げるということです。
重要なのは、それぞれの国の歴史認識をつくる際に、共同作業をするということなのだ、ということでした。


どうも、日中・日韓の歴史問題は、両国間で一致した内容で同意されなければならないという「呪縛」があるように思います。
この谷垣幹事長の発想は、まさにこの呪縛を解くための賢いヒントとなっているような気がしました。

63:マスメディアはもっと''Why''を考えよう

2国間の外交交渉の中で、日朝の拉致問題ほど多くの時間がかかり、またご家族・関係者の心境を考えると胸が痛むことはないでしょう。


複数の人命が他国によって不当に拉致され、その実態すら明らかにされないことに対し、日本以外の大国であれば、もっと強硬に交渉を進めているのではないかと思います。
そこで、マスメディアはなぜこの問題の交渉が進展しないか、堂々巡り、振り出しに戻ることの繰り返しなのかについて、もっとジャーナリスティックな視点で分析をしないのかと思います。
報道されることは、「いつ・誰が・どこで・なにを」話したのかという現象に関するものだけで、「なぜ時間がかかっているのか」ということには触れられていないのかと思います。


なぜ毎回のように振り出しに戻るのだろうか、一般の国民も、そのことの背景を考えたら良いと思うのです。


人命にかかわる案件が、これだけ長く解決しない背景にはなにがあるのか、と思ってしまいます。
この状況に無関心で及び腰であってはいけないと思います。


このことを、マスメディアが取材し、分析してほしいのです。
原因がどこかにあるに違いないのではないか。


なんと、横田めぐみさんが拉致されてから、37年が経過しています。


話は飛びますが、日韓の平和条約締結時に日本が韓国に支払った戦争賠償金は無条件に(当時のレートで)3億ドル。
これは、当時の日本の外貨準備高の27%にあたるものです。


これだけの賠償・またそれ以外の経済援助がなされたのが韓国に対する日本の戦争賠償でありました。




このことを考えると、北朝鮮が高額の賠償を要求するためのレバレッジとして、このような方法をとっている面があるのではないか、と思わざるを得ません。
マスメディアは「なぜ」この問題の解決が進まないかということに対して、もっと本質を突く議論をしてもらいたいと思います。
それが、マスメディアの使命ではないでしょうか。


欧米では、「報道」のことを「プレス(Press)」と呼びます。
この言葉には、「押す」だけでなく、「強いる」というような意味合いがあります。
実際、欧米では、報道の「強いる」力によって正義がなされたということは多くあるでしょう。


最後に、日本のマスメディア(Press)の力で、真実がさらけ出されるような結果を出してほしいということは多くの国民が期待していることではないでしょうか。

62:傍観から行動へ

アベノミクスの成否を世界社会が注視しています。
この成否に対して最も関心を持つべきであるはずの日本人に、興味のあるような人が少ないのはどうしてでしょうか。


会社は潰れても国は潰れない、と国民も政治家も役人も思っているのではないでしょうか。
ところが、我が日本丸は大きな問題を山積みにしており、いわば船が傾き、太平洋をゆらゆらと暢気に漂流しているのではないかと思うのです。


では、なぜ日本人は暢気にしていられるのでしょう。
それは、船で言えば、各々の客室に入れば、実に立派な・満足すべき状態であるからだと思うのです。
ベンツやBMWを持って、適当に海外旅行もする、服装もおしゃれな服装をして、テレビを見れば女性の肌・髪の毛・痩身などなどのコマーシャルが目につきます。
一部の低所得者を除いて日本人はある程度、自分の現状に満足しているのではないでしょうか。


国の財政・医療費の負担・年金問題・低所得者の増加…などの穴が日本丸の船腹に空いたらどうなるのだろうと心配するのは私ひとりではないと思いたいのです。


しかし、国会の赤い絨毯を踏んで歩く先生方にはそのような緊張感が見られない、と恐ろしい思いをしている方は多いのではないでしょうか。
生産工場で不良品が発生し、それを放置しておけば、不良品の山ができ、人々は解決策を考え、再発防止・改善を考えるはずです。
ところが、国会でどのような不良品、つまり悪法・判断の過ちがあっても目に見える形で山のようにはなりません。


もっと深刻なことを言えば、国会では誰一人責任をとる必要ではないのです。
衆議院を解散することが責任をとることなのでしょうか。


わが日本丸が浸水する前に、日本人は傍観から行動へと舵を切らなくてはならないと思うのです。

2014年11月22日土曜日

61:目的と手段 / 日中首脳会談について

人間の癖・傾向としてある行動を起こすときに、どうしても「手段」に短絡してしまうということがあるでしょう。


例えば、事務所でコピー機を購入しようという話になったとしましょう。
まず多くの人がするであろうことはカタログを集めるという「手段」であるでしょう。
「目的」を考えずに「手段」を考えることで適切にな成果が達成されるのであれば、「目的」について考える必要なないでしょう。


なぜ「手段」に短絡するのでしょうか。
それは、あまり頭を使わなくても済んでしまう、安易ではあるが、興味を満足させることができるものだからです。


このような発想が例えば「コピー機を買う」といった単純なことに使われるのはいいですが、「国の外交」といった、国民の生命や財産にかかわることに応用されるのは、たまったものではありません。
先日11月8日の報道では、日中首脳会談の話題でもちきりのようでした。
しかし、「懸案は棚上げ」なる報道も同時に見られるようです。


はたしてここに「目的」はあるのでしょうか。
これはまさに「手段の目的化」
首脳会談を開く、ということ自体が目的化しているように思えるのです。



中身についてくどく触れたくはありませんが、合意された四項目のうちの一つは「尖閣諸島など東シナ海の海域において近年緊張状態が生じていることについて異なる見解を見解を有していると認識」したというものです。
これは全く中身のないものではないでしょうか。


多数の中国漁船が日本近海に出没し、不法と思われる行為をしているにもかかわらず、なんとも暢気な外交姿勢なのでしょうか。




目的を設定した首脳会談であったなら、つまりアジアの安全・安定を維持するために両国にとって優先すべき具体的な懸案事項について、論議をし、合意するという「目的」があったならば、この会談はまず開かれることは期待できなかったでしょう。


日中首脳が会談したことが「外交の成功」であると思う人がいたら、これはとんだ思い違いであると断言できるでしょう。
安倍総理の目的は日中会談を実現させることだけであったなら、日本外交の「勝利」でしょう。
アジアを含む諸外国の反応が楽しみです……

60:質問を嫌がる日本人 その2

9月17日に発信した51号「質問を嫌がる日本人」にはかなりの反響がありました。
特に、責任を追及するような質問と、ものごとを判断するための情報を得る質問を区別することが重要だという整理ができたと思います。






ものごとを判断する際の質問を分類すると
「なぜ複数の課題のうち、それから手をつけるのか」「なぜそのような問題(現象)が起きたのか」「なぜその案を選ぶのか」「なぜそれらの対策でリスクがカバーできるのか」
の4つが考えられるでしょう。


今回はこのうち、特に「なぜその案を選ぶのか」という質問において、どのようなものが「鋭い質問」となるかを考えたいと思います。






鋭くない質問とはどのようなものなのでしょう。
モノを決めるときの質問で考えてみます。


「マンションを買う」というテーマがある場合、不動産業者に次のような質問をするのが一般的ではないでしょうか。業者に提示された案に対して……
「間取りの詳細はどのようなものですか?」「価格はどれくらいか?」「近隣の環境はどうか?」「築何年の物件なのか?」「値上がりは期待できるか?」「周囲にはどのような交通機関があるか?」
……このようなものです。


これらの質問は、ある特定の物件について詳細を知るための質問です。


もしこれで気に入って購入する場合は良いですが、他の複数の選択肢が提示されたときには、全く異なる種類の質問が必要になるでしょう。


それは例えば
「間取りはできるだけ広いものはどれか」「なるべく低い価格の物件はどれか」「生活上の利便性が高いものはどれか」「物件の建築年数が短いものはどれか」「値上がりが期待できるものはどれか」「交通機関へのアクセスが15分以内であるものはどれか」
といったものです。


このような質問は複数の物件を選ぶ際に、結果として判断基準として使うことができるでしょう。


このように鋭い質問とは、モノを決めるときの判断基準を確立し、効率的により良い選択をすることに繋がる質問と言ってもいいでしょう。



2014年11月8日土曜日

59:政治に対する意識改革

あれだけ期待された女性経産大臣があっという間に更迭されました。
国の経営を任せている内閣と与党がこの有様ではしょうがないという声が、普段政治にあまり関心のない人々からすらも聞こえてきます。


この背景について私なりの考えを述べてみたいと思います。


まず、有権者の政治家に対する不信感が顕在化してきていること。
これは、政治家の倫理観や政治信念の欠如に原因があるでしょう。


国会議員に「あなたの政治信念はなんですか?」と質問した場合、即座に一言で答えが出せる議員はあまりないのではないでしょうか。
先生方が最も関心を持っているのは国の経営のことではなく、次の選挙でどうしたら当選できるかということでしょう。


倫理観について、例えば米国の医薬品業界ではどのように考えられているでしょうか。
処方薬はEthical drug、市販薬はover the counterと呼ばれています。


Ethical drugの意味は、「倫理観を持つ医師のみが扱いを認められている薬品」であり、over the counterは「薬局でカウンターごしに販売されるもの」として区別されます。


政治家もover the counterでは困るのです。
倫理観を持って、行動する意識を持っていただきたいものです。




次に考えたいのは、選挙で勝つことを最優先することは如何なものか、ということです。


自身の政治実績や理念・信念の実現を国政にどのようにして具現化するか、というウエイトを高く持っていただきたい。


具体的には、多くの政治家が温存している選挙区の後援会の意識が変わらなければならないと思います。
支持者同士が雑談の中で、「今年の弁当は去年のものより高級だった」という類のレベルの話をしているようでは支持する政治家は育ちませんし、政治そのものも良くならないでしょう。




3つ目に考えたいのは、マスメディアについてです。
今回の女性大臣の辞任劇について、メディアはどのような報道をしたでしょうか。


内容は、「脇が甘かった」「後援会の会計業務は人任せ」「安倍内閣にどのような影響が出てくるか」などが主で、論評のみの報道であり、「なぜこのような事態が発生したか」「再発を防止するためにはどのような手立てが必要か」といった本質を突いた議論はありませんでした。




最後に、有権者の意識が「政治ボケ」とでもいうべき、呆けた状態にあるのではないでしょうか。


「政治を良くしたい」という思いは誰にでもあるでしょう。
であれば、我々の代務者である先生方を次の選挙で選ぶ際、単に知名度の高さで判断するのでなく、「国政にどのような貢献をしたか」「どのような政治信条を持っているか」「カネに対しての感覚が麻痺していないか」といった切り口で候補者を選ぶべきだと思うのです。




有権者も後援会も政治家自身も、思い切った「意識革新」をする必要があるのではないでしょうか。


ある識者によれば、「革新」とは、単に古いものを捨ててしまう「革命」ではなく、いままであったものに新しいものを加えることで価値を高める、ということです。


このような意味で有権者・後援会・政治家たちに「革新」をしていってもらいたいと思うのです。

2014年10月18日土曜日

58:バラバラな定義ではケンカになる!

学問的な用語を除けば、ある言葉や概念の定義を日常の中で定めるのは難しいでしょう。
また、あいまいなまま噛み合わない議論をすることが如何に多いか……という認識を持つ人もいるでしょう。


今回は、「論理的な思考ってなに?」ということと絡めつつ、定義の大切さについて考えたいと思います。



「論理的思考」とは何か。

ちょっと堅苦しくなりますが、「直面する状況のもとで、問題の本質を押さえ、合理的に結論を導き出すための観念の実践的なプロセス」だと私は考えています。


つまり、まず「テーマは何? 何の話をするの?」「どんな結論を出すの」というスタートとゴールが明確なら、おのずとそこに至るプロセスが見えてくる、ということです。これによって、議論が筋の通った、堂々巡りのないものになるでしょう。



……ただし、日常会話で毎回これを適応しろと言うつもりはもちろんありません。


ちなみに、ここでの「結論」とは、問題を明確にして優先順位を付けること。

ある問題(現象)の原因を究明し対策を策定する。最適な選択肢を選ぶこと。
或いは、リスクに対しての予防対策と発生時対策(起きた場合の影響を最小化する対策)。
或いは、無目的の「知的雑談」(これをホンダでは「わいがや会議ーー(わいわい、がやがや)ーー」と言ったそうです)などがあるでしょう。



次に、言葉の定義の大切さについてです。



例えば、「金融派生商品」という語があります。



これを私なりに定義すれば、「現に存在する資産から潜在的な価値をつくりだすために、二名あるいはそれ以上の関係者の間で結ばれる契約」といった感じでしょうか……。



私は金融証券の専門家ではないので、間違った部分もあるかもしれませんが。



ちなみにネットを検索したところ「株式、債券、金利、通貨、金、原油などの原資産の価格を基準に価値が決まる金融商品の総称」という定義も見られました。



言いたいのは、何かについて議論するときに、上でやってみたように①比較的核心的な言葉について、その定義を共有し、②「論理的思考」ということを意識することが非常に建設的だ、ということです。


2014年10月15日水曜日

57:情報は加工せよ!

モノの製造のプロセスを非常に簡単に概略すると、「原材料」が「加工」を通じて「完成品」になる、という流れでしょう。
この際、原材料の品質・加工方法の標準化・完成品のチェック……これらがなければ市場での信頼を得ることはできないでしょう。


この製造プロセスと、考え・結論を下すプロセスとを比較するとおもしろいことに気が付くので、今回は短くそれについて。



製造における「原材料」は、思考では「諸情報」にあたるでしょう。

「完成品」にあたる「結論」を出すためには、この「諸情報」を「加工」しなければならない……ということがこの比較の図式から見えてきます。




完成品=結論の品質は、この情報の加工のレベルに影響されることは言うまでもありません。

製造のプロセスでは、先ほども述べたように、この加工を標準化して品質を維持をしています。
同様に、判断業務をする場合にも、材料となる諸情報、つまり事実関係や諸意見・仮説の品質を確かめたうえで、「理性的に」加工することが、良い結論に結びつくのではないでしょうか。

2014年10月8日水曜日

56:「かっこいい人生」ってなんだ!?

「生きがいのある人生」「かっこいい人生」。


こういったものに多くの人々は憧れるものです。


そういった人生を送るためのきっかけを求めて、たまには人生について考えることもあるでしょう。
読書をしたり、ひとりで考えてみたり、友人・先輩・恋人と話をしたり……様々なことがあるでしょう。
そういった思いを、次のステージに持っていくための知恵を今回考えたいのです。


一部友人の受け売りになりますが、これには「4つのション」が必要だと私は考えます。


第一はミッション(Mission)。
「自分にしかできない」と思うこと、自分でイニシアティブをとっていく事柄。
公につながること、人の役に立つことがより良いでしょう。


第二はパッション(Passion)。
情熱のことですね。特に説明は必要ないでしょう。


第三はアクション(Action)。
いくら使命や情熱があっても、行動に移さなければ仕方ありません。


第四はディターミネイション(Determination)。
使命・情熱をもって行動に移したことを、決意を持って最後まで成し遂げる、ということです。


この4つが必要だと考えます。


このMissionというのは、なにも大げさなことを言っているのではありません。
「近所のお年寄りを気遣いってときどき様子を見に行く」とか、そういった些細なことで良いのです。


これはある意味では、自分の時間と関心を「投資」するということです。
相手が喜ぶという「配当」、これが人生をより豊かなものにしてくれるのです。



2014年10月1日水曜日

55:問題解決へのアプローチ

どんな組織でも、あるいは個人でも目の前の問題を解決する努力が仕事そのものです。


問題解決に関する本や雑誌は世の中に溢れるほどあります。その溢れている状況にもう一つアイデアを提供します。このアイデアが皆さんの問題解決へのアプローチの際に、少しなりとも頭の整理に役立てばと思うのです。


私は、目の前の問題を時系列で押さえてみたらどうかと提案します。それは、過去に起こった問題に対する解決なのか、今起こっている問題なのか、そして、将来起こり得る問題なのかと分類してみることです。


過去問題、現在問題、将来問題といってもいいでしょう。過去問題は「なぜそのようなことが起きたのか」という原因を究明するアプローチです。現在問題は「今決めなければならないこと」に対するアプローチです。そして、将来問題は「プランを実施するときに先読みをして心配な事柄をどうするか」を考えるアプローチです。


目の前の問題の多くは自分の経験や知識から結論を出すことができるでしょう。しかし、どのようにアプローチして良いかわからないときには、このように過去、現在、将来にまず分類してみることが、問題を解きほぐすきっかけを作るのに役立つと思います。


これらのアプローチの詳しい内容については、ブログで開示していくつもりですが、1991年出版の拙著『問題解決の思考技術』(日本経済新聞社)に詳しく書いてあります。この本は2001年に文庫化され、今でも書店に並んでいます。自己PRをしましたが、文庫は600円(消費税別)なので、良い投資になるのではないかと自負しております。

2014年9月29日月曜日

54:「備えあれば憂いなし」の意味

今日活躍しているビジネス人で、「泥縄の教訓」を知っている人はまず少ないでしょう。一方、小泉純一郎元総理が盛んに言っていたフレーズは、「備えあれば憂いなし」でした。


ところで、先達が残してくれた言葉の本当の意味がどのくらい理解されているでしょうか。



泥縄の教訓を知らない人は、「備えあれば憂いなし」を実際に意識して適用することはできないと思います。泥縄の教訓を理解することなしには使うことはできません。



人生に失敗はつきものであり、「失敗は成功の元」とも言われますが、失敗はできればしたくないものです。そこで、失敗しないために「泥縄の教訓」があるのです。



この本来の意味は家に泥棒が入ってから縄をなうのでは遅いという考え方です。常に起こり得る最悪の状況を考えて、それに対しての対策をあらかじめ事前に考えておくことが、失敗を防ぐ最良の方法なのです。



ところが、私たちは「うちには絶対に泥棒は入らない」という前提で生活しているのではないでしょうか。また入ったらその時にどうするかを考えたらいいという場当たり的な発想から大けがをすることもあるでしょう。縄をなうことが備えとなります。



ただし、備えにはもう一つの側面があります。それは備えがうまくいかなかった場合にどうするかも事前に考えておくことです。要は、「火の用心」と「火消し」の両方が必要であるということになります。



火の用心は、火が出ないように用心することであり、これが一つ目の備えです。それに対し、火消しは、万が一火が出た場合の影響を最小限に抑える、すなわち延焼を防ぐ役割を担い、これが二つ目の備えです。



英語でいうと、火の用心が“Preventive”(予防)、火消しが“Contingency”(発生時の対策)となります。これらの古くからの日本人の知恵は、グローバル社会でも十分に生かすことができるのです。


これを簡単に言えば、「何か行動を起こす時には、後先のことを考えてやりなさい」ということです。

ある行動をして、その後どのようなマズイことが考えられるのか、その前にどのようなリスクがあるのかを想定しなさい、ということです。

2014年9月24日水曜日

53:「外交」ってなに?



私たちの多くは(無意識のうちにであれ)この国の安全保障のことを少しは考えていることかと思います。




生命・財産に対する脅威から自分たちを守る安全保障の方法として、(抑止力としての)軍事力と外交活動があります。
私は個人的には、この二つでは世界の安定が守られない時代が来ているのではないか、と考えています。


私の考える「第三の道」、については今回は触れません。現在構想を練っているところです。






今回は2者のうちの片方、「外交」について書きたいと思います。
以前も述べた、西郷隆盛の遺訓(南洲翁遺訓)を取り上げ、また別の角度から考えてみます。




十七条には次のようなことが書いてあります。




「正道を踏み國を以て斃るゝの精神無くば、外國交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、圓滑を主として、曲げて彼の意に順從する時は、輕侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん。」




彼の言う「正道」を、私は「正義に基づいた行動」と解釈しています。
しかし、ここで難しいのは「それは誰の正義なのか?」ということで、これは私には
答えるのがとても難しい問いです。




あえて言えば、「世界の万人が認める良識で、かつ理性的な根拠に基づいたもの」つまりグローバルなものだ、と私は思います。






さて、これを踏まえてこの西郷の遺訓を現代風に書き直せば、


「グローバルに認められる正義に基づいて国として全力を尽くさなければ、「本来の」外交は成功しない。相手の強大さに怖気づき、角が立つのを恐れて自分の主張を変えてまで相手の言いなりになることは、軽蔑を誘い、結果的に友好関係はなくなり、従属関係に陥ることになる。」


と出来るでしょう。


「外交では票が集まらない」などという発想などではいけません。




強い外交力を持つためには、我々ひとりひとりが世界社会における一員として、「正道」を意識しながら、日本の向かうべき方向を考え、論じることが必要不可欠だと私は考えます。


もちろん、ただ意地を張っていればいい、ケンカを売ればいいということではないのです。
「理性に基づく緊張関係」。これこそが外交の要なのです。





52:インテリジェンスの意味

私たちが「インテリジェンス」という言葉を聞いて、どのようなイメージを持つでしょうか。まず、「情報」や「知識」が豊富な人を思い浮かべるでしょう。


あるいは米国のCIA(Central Intelligence Agency)は、日本語では「中央情報局」となり、ここでもインテリジェンスは「情報」と訳されているようです。


余談ですが、CIAを相手の国家機密を取得するというスパイ活動を行う機関であることを表す場合もあります。


日本人は現在でもインテリジェンスを「情報」としかとらえていないのでないでしょうか。このような考え方は国際社会では通用しません。しいて言えば、インテリジェンスとは、情報を「加工」して、どのような結論を導き出すかという能力という解釈が妥当でしょう。


単なる「知っている」「知らない」という次元ではなく、その本質は「情報をもとに自分なりの判断ができる能力」といえるのです。


つまりインテリジェンスの定義は、「新しい状況に直面したときに迅速に適切に対応できる能力」ということになります。


この出典は英英辞典の「Webster」で、言語は“The ability to respond quickly and successfully to a new situation.”となります。


このことは、経験や直感で判断できないときに、ロジカルに理性的に分析ができる能力、つまり、「考える力」といえます。いわゆる世の中のインテリと呼ばれる人たちも、知識万能ではなく、一つの情報から考え抜いて最適な答えが出せる能力を持った人であってほしいものです。

2014年9月17日水曜日

51:質問を嫌がる日本人

そもそも、広辞苑で「質問」を引くと、「疑問または理由を問いただすこと」という一文しか出てきません。インターネットのデジタル大辞泉によると「わからないところや疑わしい点について問いただすこと。また、その内容」とあります。


一体現代人は何のために質問をするのでしょう。このことをよく考えましょう。情報化社会において、どのような方法で情報を取るのでしょうか。ものを決めるときどのような基準で判断するのでしょうか。リスクを考えるときどのようにして起こるかもしれない危険を知るのでしょうか。


答えは明確です。もう皆さんお分かりのように、質問というツールを使うしかないのです。情報の方から都合よく飛び込んでくるというケースがあれば、それは全くラッキーなことです。


私は日本経済新聞社から2003年に『質問力』という本を出版しました。この本は日経ビジネス文庫となり、今日でも書店に並んでいます。なぜいまだに売れているのでしょうか。それは私たち日本人が質問するということの本質を理解していないため、それを整理するのに役に立つからではないでしょうか。


もう一つ重要なことは、上記の日本の辞書にあるように、質問することは「問いただす」ことにつながると私たちが考えていることです。責任を問いただす、失敗を問いただすなど、相手を責めるために使われることが多いのではないでしょうか。


つまり、情報や根拠、あるいは動機を明らかにするための質問と、相手の非を問いただすための質問は、意識して区別する必要があります。質問される方も、堂々と対応したら良いのです。


ですから、質問とは相手を責めることではありません。会議などで質問ができないと相手にされない時代がきています。特に海外では質問をしないと、この人は本件に関して全く関心がないか、議論に真剣に参画していないか、質問するポイントがよくわかっていないのではないかというように、あまり評価されない人物になってしまいます。


日本にも同じような状況が早晩くるでしょう。質問力を強化することを意識したいものです。しかし、やたらに質問しようということではありません。「鋭い質問」が重要なのです。これについては、またの機会に触れたいと思います。

2014年9月10日水曜日

50:なぜ日本はある分野で弱いのか?

これだけ優秀な人間がひしめいている日本にも、世界で後れを取っている分野があります。その代表的なものを3つ挙げます。


1つ目は、IT分野で世界をリードし、世界標準として認められている基本ソフトやサービスがないこと。例えばSAPやOracle、Cisco、Microsoft、Google、Appleなどは日本発ではありません。


2つ目は、金融商品の分野です。優秀な人材を集めている邦銀や日本の証券会社から、世界で扱われるような金融派生商品は出ていません。日本の会社は海外で開発された金融派生商品を販売しているに過ぎないといっても過言ではないでしょう。


3つ目は、次元と内容が異なりますが、世界で活躍しているグローバル人材がほとんどいないことです。これだけの高いレベルの日本でありながら、グローバルに活躍している人たちは非常に少ないのです。


一方で、シンガポールやインド、またヨーロッパ出身の人材はCEOとして世界企業で活躍しています。その背景は人間が持って生まれた能力だけで説明はできないのではないでしょうか。


日本が現在進めている教育改革は方法論に関するものが多いのが現状です。あるべき人材が備えなければならない要件についてその特質を明らかにし、それらを学ぶためのカリキュラムを構築することに重点を置いてほしいと思います。


ですから、教育改革をまとめる際は、各年代の人材育成の目的を複数項目列挙し、その上で達成するための方法論を論じていくべきではないでしょうか。

2014年9月3日水曜日

49:問題解決の基本

問題解決を英語でいうと、“Problem Solving”となります。


ところで、この“Problem”という言葉の定義を理解しなければ、良い問題解決はできません。


様々な解釈がありますが、ビジネスにおける定義は一般的に「あるべき姿と現実の間に生じている差異」のことをいいます。


例えば、ある会社で現実が「売り上げ目標が未達成」であるのに対し、あるべき姿が「売り上げ目標が達成していること」であれば、その差異が発生している状態を“Problem”と言います。


ですから、この差異は「望ましくない状況」、「不具合」、「不良」、「クレーム」などを指します。当然、これらを解決するためには、「なぜこのような状況が起きたのか」という発想で原因を究明し、適切な対策を取る必要があります。


ここで、重要なことは、起きている問題現象を分析課題として明確にすることです。ここでいう課題とは、次の分析や行動に結びつく発想や記述がなされていなければなりません。


私は一体何をしたらいいんだ、何を考えたらいいんだ、どのような結論を出したらいいのか、などが誰にでもわかる形で表現される必要があるのです。


例えば、物が売れていないという現象を課題としてまとめるならば、「ワインの売上げ目標が未達の原因究明と対策」となります。つまり、簡単に言うと、「何がどうしたのか」という問いに答えることです。


この「何が」が、具体的に押さえられていれば、的確な原因が究明されることになり、具体的な対策が見えてきます。先の例を用いるなら、売れてないワインを具体的にすることです。


ワインのうち高級ワインだけが売れていないのであれば、「高級ワインの売上げ目標が未達の原因究明と対策」が課題となり、原因を具体的に特定することができ、対策も具体的になります。


一般的には物が売れないから「営業にハッパをかけろ」、「宣伝をしろ」という短絡的な対策が取られがちですが、このようなことでは真の問題解決には程遠いと言えるでしょう。

2014年8月28日木曜日

48:沖縄の負担をどう減らすか

本年3月19日付の私のブログ「沖縄の問題をどうするの?」について、また言及します。


ご存知のように、日本に存在する米軍基地の75%が沖縄に集中しています。沖縄県民にとって、このことが日本人として不公平ではないかと不満を持つことは当たり前でしょう。また本土の我々が、この問題を根本的に解決する努力を怠ってきたことは否めない事実です。


しかしながら、日本の国防にとって、日米安全保障条約の存在は不可欠であり、いくら日本が軍事拡張をしても、単独では国を守れないのは、自明のことです。


その結果、普天間基地の移設をはじめ、年内には日米間で抜本的な見直しが行われると報道されています。


ただし、日米安保条約の見直しと、沖縄の負担軽減は次元の違う問題として、個別に解決することが現実的ではないかと思うのです。沖縄県民と政府の軋轢は国内問題であって、安保条約の見直しには直接関連性がないと米国側は考えるのではないでしょうか。


無論、この問題が単純に分解することで解決するとは思いませんが、日本の国内問題として扱うならばよく言われるように、沖縄の負担軽減をする方法を複数策定して、最適な方法を順次実施するということになるでしょう。


そこで、素人考えとして、技術的なハードルはあるにしても、沖縄県に対しては今後消費税の導入をしないという案も選択肢の一つになるのではないかと思うのです。その目的は、

・戦後70年に及ぶ沖縄県人の苦労に報いる。

・沖縄経済の活性化につなげる。

・同盟軍である米国に対する悪い感情を和らげ、更なる友好関係を促進する。

などが考えられるのではないでしょうか。


全く素人考えではありますが、その実現可能性について研究をされたらいかがかと思います。このような提案は、自分が選出した代議士に対してなされ、検討されたうえで議員立法として展開することが本来の民主主義のあり方だと思うのですが。

2014年8月21日木曜日

47:人間らしく生きる条件

日本全体が、人生の「目的」や「生きがい」を探したり、あるいは「幸せ」を求めたりするために、フォーラムに出席したり、サークルに参加したりして、模索している状況が続いているようです。


このことは、十分な成果を出していると思います。相互のコミュニケーションが促進されたり、相手に対する思いやりが生まれたり、他人の苦しみが理解できたりなどが成果でしょう。


それらを踏まえて次のステップをどうするかが、今問われているのではないでしょうか。そこで、必要なことは、「行動を起こすこと」です。それは、自身のスキルの向上であったり、見聞を広めることであったり、または社会奉仕であったり、さまざまな行動が考えられます。それらの中から自分で選択をするのですが、その行動を成功に導くためにどのような発想をしたらよいでしょうか。


ここで述べる発想の原点は、私の中学時代の恩師である米国人教師が話したことです。そのタイトルは「人間が最も人間らしく生きるための5つの条件」でした。それを皆さんにご披露します。


1.目的(Purpose)
どんな行動でも「何を目的にするか」ということを明確にする必要があります。そこで、初めてどのように行動していくかの計画が作れるのではないでしょうか。

2.見通し(Perspective)
その計画が自分にとって現実的であるかどうかの見極めをすること。現実的でなければハードルを下げることも必要でしょう。

3.成長の確認(Increasing Skill)
自分の行動が目的に向かって進歩しているかどうかの確認が必要になります。

4.歓び(Joy)
この歓びはHappinessとは若干ニュアンスが違います。それは自分の努力によって勝ち得た時の歓びです。ですから、苦しい中にも歓びがあるという気持ちを持つことが大切なのでしょう。それは、最終的な目的があるから乗り越えられるのです。

5.帰属本能(Sense of Belonging)
色々な活動の中で仲間ができるはずです。それは集団になります。その集団の一員であるという自覚が仲間の信頼を得ることにつながるのでしょうか。


これらの5条件の中で、最も重要なのが行動を起こす場合のその目的が何であるかを具体的に見極めることではないでしょうか。この目的があれば、迷いが生じた時に軌道修正をすることが可能になるからです。

2014年8月14日木曜日

46:論理(筋が通る議論)、感性(物事を深く心に感じ取る働き)、行動(とにかくやってみる)

最もユニークな企業として世界で活躍しているホンダの話をしようかと思います。


ホンダが、日本の自動車メーカーとして米国に一号工場を建設したことはよく知られています。
当時私はコンサルタントとしてこの重要なテーマに参加しました。
熱海にあった「デシジョン・ルーム」というところで、河島喜好二代目社長(故人)以下、全役員の参加した五日間の合宿研修でした。


爾来、ホンダには大変お世話になり、私が展開していた論理的な思考様式を全社の社風の一部とされました。創業者の本田宗一郎翁は、常々「論理なきところ、行動なし」と言われ、ものを決める場合の論理性・合理性を重要視されていました。
そして、ホンダグループ全体の社風・文化が、「ラショナル(論理的・合理的)」になり、このことがその当時の週刊文春に取り上げられたこともありました。


また、ホンダのもう一つの側面が、論理に全く関係のない、人間の感性に関するものであると思います。


晩年の本田翁の秘書を務めたある人物がいます。
彼によれば、本田翁が散歩をするときなど、よくお供をしたそうです。
あるとき、道端に美しい小さな草花が咲いていたのを本田翁が見つけました。
普通であれば、そのまま通り過ぎるでしょうが、彼は「こんな綺麗な花は見たことがない!」と大感激し、しばらく立ったまま観察していたところ、やおら地面に横たわり、至近距離から花をご覧になった、ということでした。

本多翁をはじめ、ホンダの役員の方は、この感性を磨くために、「一流のものに常に接することが必要です」と、言われてきました。だから、世界のオーケストラの演奏の鑑賞や、世界の名画に接するといったことを、日常茶飯事にされていたようです。


感動があるから行動があり、その行動が論理的でなければ、成功はおぼつかない。例の秘書はこのように感じたとのことでした。


ちなみに、本田翁のお別れの会は青山の本社で行われ、飾られていた花は全てコスモスでありました。
ご挨拶に立たれていた喪主は、ご夫人ひとりでありました。
ここにも、あの偉大なホンダを創設した人物の人間性の一面を見たように思い、私もまた「感動」したのでした。

2014年8月7日木曜日

45:就活とディスカッション

聞くところによると、就活時の企業による審査の過程では、少人数でのグループディスカッションが行われ、参加者がどのような発言をするかなどを企業側が見るということが多いようです。


例えば、「当社の新しい事業を考えなさい」というテーマが提示されたとしましょう。
アプローチとしては、ブレストで出来るだけ多くのアイデアを抽出して、それを集約する方法もあるでしょう。


しかし、これでは不十分なのです。
なぜか? それは、このディスカッションの進め方について、参加者の合意が得られていないことが問題なのです。
出発点から結論に行く筋道が合意されていなければ、重点思考の議論ができず、話が拡散してしまいます。そして声の大きい人がエイヤで結論を出すことになるでしょう。


そこで重要なことはどうすれば自分のリーダーシップを発揮できるかです。


第一は、どのような流れで議論をするかということを皆さんで同意しましょうという発言をすること。例えば、新しい事業が満たすべき条件を5項目くらい協同で挙げていく。新規性がある、マーケット規模が大きい、高利益率が確保できる、当社の経営資源が活用できる、立ち上げ資金が少なくて済むなど。


第二は、これらの条件を満たすような事業をブレストでできるだけ多く挙げる。


第三は、挙げられた事業アイデアを複数案ごとにグループ化してみる。


第四は、それらの中でどれが一番有利であるかを判断する。


第五は、もしその案を実施した場合のリスクを評価し、対策があるかどうかを検討する。


ディスカッションの場面であれば、上記のように、どのようなプロセスで話を進めるかを構築し、グループに提案することがリーダーシップの側面であると思います。要は、就活のディスカッションの場では、素早く結論に至るプロセスを考えることこそ、評価されるポイントではないでしょうか。

2014年7月29日火曜日

44:日本の品格とカジノ事業

今月26日(土)の日本経済新聞の1面トップに、「カジノ20年までに3ヵ所」という記事が載っていました。また、電通の組織に、カジノ&エンタテインメント事業部とカジノ・観光プロジェクト部が創設されたそうです。


これはどう考えてもおかしいと思いませんか。


残念ながら、社会通念として、カジノはギャンブルであり、日本の明治時代には「賭博場」として、世間の裏社会に存在するものと考えられていたのではないでしょうか。


自民党政権が復権して以来、日本は世界社会に対して貢献をし、尊敬される国として再興することが、盛んに言われてきました。


そこで、日本に3ヵ所カジノを開設するという国の方針について、次のような疑問や憂慮を持つのは私だけではないでしょう。

①米国や他国にも、合法的なカジノはありますが、例えば米国の首都ワシントンにはありません。世界に誇れる日本を作ろうという国民の希望の中で、その首都である東京に開設することは絶対に避けていただきたいものですが、皆さんはどう考えますか?

②米国最大の都市であるニューヨークにカジノを作るという提案があったと聞きます。しかし、多くのニューヨーク市民の反対にあって、開設された場所はハドソン川を隔てたニュージャージー州のアトランティック・シティでした。その背景には平均的な庶民からギャンブルを遠ざけるという狙いがあったのかもしれません。

③世界で最も有名なラスベガスも米国の見識から社会に最も遠いネバダ州の砂漠の真ん中に作られました。これもやはりギャンブルや賭博が社会に与える影響を考慮した結果であったのかもしれません。

④ご存知のようにアジアの先進国であるシンガポールは2ヵ所のカジノの開設を政府が認めました。しかし、運営は米国のラスベガスサンズ社100%子会社などであり、政府はカジノの将来に対して慎重な姿勢を崩していないとの報道があります。もし国益に反することがあれば、ただちに閉鎖できる体制が作れる国情であるともいえます。これは日本では難しいでしょう。

⑤上記①でも書きましたが、世界に誇れる日本を作ろうとする中で、外国の友人に「カジノができるので、ぜひ観光に来てください」と胸を張って言う気にはなれないのですが、皆さんはどうでしょう。


上記以上に色々な問題点が考えられますが、新聞社や報道機関が、政府主導のカジノの開設についてどう思うか、世論調査をぜひ早急にしていただきたいと思います。


最後に皆さんで考えたいのは、天下の電通がどのような目的を持って、「カジノ&エンタテインメント事業部」「カジノ・観光プロジェクト部」を開設したのか、その真意を知りたいということです。


また、政府主導ということは、各国にある日本の大使館がカジノ促進をしなければならないのでしょうか。これこそ国辱的な事態と言わざるを得ません。これが日本の将来のあるべき姿と多くの国民が考えているのでしょうか。

2014年7月24日木曜日

43:言論の自由の有難さ

先日6月11日の「ジャパン・タイムズ」に、「ニューヨーク・タイムズ」の記者Ted Rallの記事が掲載されました。


テーマは、「米国兵士はもっと戦線離脱したらどうだ?」であり、2009年6月、アフガニスタンでBowe Bergdahl曹長が水とノートと筆記用具をバックパックに入れ、全ての装備を残したまま戦線からwalked away=立ち去った、という事例を紹介しています。


また、この記事は、アメリカの湾岸戦争を真っ向から批判する内容でもあります。
また、朝鮮・ベトナム・イラクなど、1945年以降の米軍の対外進攻の中で、下院で承認されたものは一つとしてなく、全て「違法」なものであるとしています。
さらに、各戦争における、民間人を巻き込んだ不幸な事故等も「それが承知の上で行われたものだ」とまで書いています。


アメリカの大メディアである「ニューヨーク・タイムズ」の記者がこのような記事を「ジャパン・タイムズ」に掲載したということ、これ自体私には大きな驚きでした。
言論の自由を尊重するアメリカの健全さがここに伺えたような気持ちがしました。


健全さとはつまり、事実を臆せず発信していくというメディアの役割を十分に果たしている、ということです。


ここでは、記事がいかに政府の政策に反することであっても、事実を、主体性を持って国民に知らせるという義務が果たされています。


悲しいことですが、一方で我が国のマスメディアの実態はどうか、と考えざるを得ません。


我が国には、太平洋戦争を推進するため、メディアが強力に政府の後押しを行った、という過去があります。
もちろんその内容においては異なりますが、本質的なところでこの様式が保たれているのではないか?
現在でも事実を抑圧しがちな体質である日本メディアを見て、私はこのように大いに不安になるのです。

2014年7月17日木曜日

42:軍事力は“コスト”なのか、“投資”なのか

我々は何の疑問もなく、国防費は国を守るための「コスト」として捉えています。世界中で再び国防費の拡大こそが抑止力として平和を維持すると、考えられているのはないでしょうか。安部政権も例外ではありません。


国を守るためには、どのようなコストをかけてもしょうがないという、考え方に流れてはいけないのではないでしょうか。なぜなら、この考えでは、エンドレスな軍拡競争が再現されるかもしれないからです。これは恐ろしいことです。


日本人は唯一の被爆国として、このような軍拡レースの一翼を担ってはいけないと思うのです。しかし、米国との友好関係を続けることが日本の安全につながるというジレンマもあります。


米国も昨今の中東状況から軍事力と外交手段では、さまざまな紛争を解決することが非現実的であると考え始めているように見えます。そこで、日本はどのような考えを展開したら良いのでしょうか。これが、スッキリしないので、日本人の中にイライラが溜まっているのです。どうしようかという議論が日本人の間でもうちょっとなされてほしいものです。


確かに防衛費は国を守る「コスト」ではありますが、国を守るための「投資」という発想ができないかと考え続けています。国防費は投資であるという発想をすれば、「配当」は戦争がない状態といえるでしょう。ところが、現実は無配当が続いています。それどころか、増資、増資と軍拡に向かっています。


軍事費をどうやったら「配当」を生むことになるか。そして「配当」とは何か。その答えを出す努力をすることが、平和を愛する日本人に突きつけられた課題ではないでしょうか。

2014年7月10日木曜日

41:よくわからない集団的自衛権

今の時期に集団的自衛権の解釈を改定する必要性や目的は何でしょうかと、思わざるを得ません。政府も説明しませんし、報道でもほとんど解説されていません。


一般の日本人はまた戦争に巻き込まれるのではないかという単純な不安を持ち続けています。私たちが目にする報道では、新解釈に使われる言葉の表現に多くの紙幅が費やされているようです。


ところが、肝心の「何のために解釈を変えるか」という目的について、ほとんど討議がなされていないことが不思議なのです。


憶測で考えられるのは、政府が日米安保の強化のために解釈の変更をしようとしているということです。日本は日米安保条約のおかげで、経済発展を遂げました。また冷戦下における米国にとってもメリットがあったはずです。そのメリットをさらに追及すること自体に問題はないと思います。


しかし、70年近く戦争で一人の犠牲者も出していない日本は、自国流の正義と自らの国益を追求するために世界中で始終戦争をしている米国とは、一線を画したいものです。このことが一般の日本人の不満につながっているのではないでしょうか。


つまり安保条約があるからといって、平和憲法を持つ日本人が、軍事による抑止力のエスカレートによって世界平和が実現できると考えることは非現実的ではないかと思うのです。


世界中が、米国主導の軍事による抑止力だけでは紛争を防ぐことが不可能であることを知るようになりました。そこで、平和国家として大きな認識を持たれている日本と日本人が、どのようなアイデアを持って、この問題の解決を図ったらよいか――。みなさん、どうしましょうか。

2014年6月12日木曜日

40:本当の「グローバル人材」とは?

「グローバル人材」云々となにやら騒いでいるのは、世界でもどうも日本だけのような気がしてなりません。
アジアにおいて、例えばシンガポール・マレーシアなど経済発展している国における重要関心事として、「グローバル人材」などということばは聞いたことがありません。


曰く、「日本人のアイデンティティを意識しろ!」「異文化に対する理解を深めよ!」「コミュニケーション能力を強化しろ!」などという聞き飽きたフレーズが飛び交っています。
例えばNYではたらく本当の「グローバル人材」は、こんなことをいちいち意識しているでしょうか?(笑)




「グローバル人材」であることは優れた人材の条件だ。
このような意識をもって人材開発を進めている組織は実際かなり多いかもしれません。
しかし、「グローバル人材」なる人間をつくっても、競争力があり利益を上げる集団になるとは私には思えません。
仲良しグループをつくるだけでは、組織の目的は達成できないでしょう。




このような発想には何がかけているのでしょう?
ひとことでいえば、「仕事ができる人間をつくる」ということです。




一昔前、ある企業の国際事業部長から、シカゴに派遣する責任者の人選について相談を受けたことがありました。
「厳正な銓衡の結果、英語に長け、アメリカの事情に明るい人間を派遣しようと思うが、一度面談をしてほしい」とのことでした。


私は面談で彼に2、3質問して驚きました。
彼には大きな商談をまとめた経験もなく、人脈づくりの実績もない、ただの優等生社員としか私には判断できなかったからです。
そこで私は事業部長の判断に反対であると述べました。


「基本的な部分さえできていれば、英語などというものは現地で必要に応じて上達するもの。それよりも国内で実績を残している人間を選んだ方がいい。」
といった趣旨のことを意見させてもらいました。


そこで英語の力は大したことがないが、国内で大きな結果を出した営業の人間が選ばれました。
彼にも面談しましたが、その「人の関心を引き寄せる力」「人と素早く関係性を構築する力」には感心したのを覚えています。


結局2人目の営業職の彼が渡米することになりました。
指令のひとつは「2年以内にシカゴの市長との関係をつくること」という難しいものでしたが、当初の貧弱な英語の力にも関わらず彼はクリアし、海外でも大きな実績を残したのです。


これこそが本当の「グローバル人材」なるものではないでしょうか?
英語ができる・できないなど些事でしかありません。
本当の「グローバル人材」とは、世界のどこででも・誰とでも・どんな状況でも目的が達成できるポテンシャルを持った人間のことを言うのでしょう。


仕事ができる・できない、というあたりまえの視点。これを判断の基準にする組織がもっと増えても良いのではないか? と私は思うのです。

39:「それ、大丈夫だね?」と言わないこと!

社会生活やビジネスにおいて、何か新しいことをするときに、それを相談されたり許可を与える立場の人間がよく言ってしまうことばに「それ、大丈夫だね?」というものがあります。
このことばに対して「大丈夫ではないです、だめです」と答える人間はそういないでしょう。
多少のリスクはあっても「大丈夫です」と言ってしまうのが人情というものです。


ツメが甘い計画が上がってきたときに、「それ、大丈夫だね」と問うほど危険なことはありません。
「甘い計画」とは、実施時に不具合が起きる可能性が高い。にもかかわらず上のような聞き方で済ましてしまうことは、重大な損害につながることになるのです。


ではどうしたらいいのでしょうか?


実は、いとも簡単な問いかけで解決できてしまいます。
それは、「この計画のヤバいところはどこだ?」「どのような問題が起こりうるか?」「それに対する処理は考えてあるか?」の3つです。


続けて読んでくださった方は気づいておられるでしょうが、これはひとつ前の記事の「ドロナワの教訓」と深く関連していることです。
起こりうるリスクへの対応策を事前に用意しておくこと。これは非常に重要なことだ、と私は強調したいのです。

2014年6月11日水曜日

38:ドロナワの教訓

年齢で言うと50才以下の人々には聞きなれないことばであろう、「ドロナワの教訓」について書きたいと思います。
「ドロ」とは泥棒、「ナワ」はその泥棒をふんじばるための縄を意味し、その教訓は「泥棒が入ってから縄を綯うことは遅すぎる愚行である」というものです。


このことは、最近よく使われる、リスクを取らなければ物事は変わらないということにも関連してくるように私は思います。
リスクを取って何かまずいことが起きた際、対応が事前に計画されていれば、慌てることなく事態に当たることができるでしょう。


「ドロナワ」にならないためには、「泥棒が入る」という「まずいこと」を事前に想定すること、これが必要になってくるのです。


この「教訓」が死語になった背景は、おそらく戦後あまりにも順調に復興がなされたため、「泥棒は入らない」=「まずいことは起きない」という誤った過信が生まれてしまったためではないかと思います。
あるいは「泥棒が入った」=「まずいことが起きた」ことでの悪影響も、高度成長の中で相殺され、意識されづらくなっていたのかもしれません。


失われた20年という長いトンネルの先に薄光が見えた今日、リスクを取って前進するには、リスク(計画からのズレ・起こりうるまずいこと)は発生するものという前提で考え、それらが起きた時の影響を最小化する対策(''contingency plan'')をあらかじめ策定しておくことが肝要なのです。

37:日本人の寛容さ

(すこし俗な内容になるかもしれませんが)最近の韓国や中国との歴史認識問題を考えると、これらは「どのように相手と和解をするべきか?」というテーマでくくることができるように思います。
このような永遠のテーマを論ずる資格が私にあるとは思いませんが、あえて唯一の原爆被爆国の国民として、過去の不幸な出来事をどう処理すればよいのか、ということについて述べてみたい。


通常、被害者は加害者に対して強い立場にいます。
例えば交通事故で相手に怪我を負わせたとしましょう。
仮に幸いに傷が完全に治癒し、賠償がキチンとなされたとしても、被害者が加害者に対して「あのときの傷が寒い日にはうずくんですよ。」などと言ってしまえば、加害者としてはこれは弱ってしまうでしょう。


日本に話をスライドさせれば、しかし、原爆よる「被害者」である多くの友人が相手国家を傷つけた、という事実はありません。
これは人類に対する犯罪であると言う他ないような凄まじい殺戮である原爆投下、これを日本人はどのように和解に持っていったのでしょう。


被爆者が世界社会に対して訴えたことは''No More Hiroshima, No More Nagasaki''でありました。
また、あの忌まわしい出来事から69年を経て、いまさらことを荒立てて声高に被害者意識を強めるようなメンタリティを、多くの日本人は持ちません。


このような寛容な国民性によって戦争後のアメリカとの和解はなされたのですし、また、日本人はこのような寛容さを日本の誇りとして考えても良いのではないかと私は思います。


今日でも、宗教戦争や部族間対立が絶えない国際状況の中で、問題解決の方法としてこのような日本人の寛容さが理解され、共有されることを望むのは、夢物語でしょうか。






全くの余談になりますが、私がはじめて広島を訪問したときのことです。
例の平和記念公園には、世界中の元首から色々な記念碑が贈呈されていました。
少し気になって、案内してくれた友人に、「アメリカからのものはどこにあるんだ?」と聞いたところ、答えは「それはない」ということでした。
私は、加害者であるアメリカから広島に何も送られていない! ということに当時憤りを感じたことを覚えています。


しかし、米国のオバマ大統領による広島訪問が先日ありました。
寛容さは勿論ですが、これは「長い時間をかけた寛容さ」でもあるのだというのが、原爆投下から70年近く経過した現在、彼の訪問を思う際に考えることなのです。

2014年6月1日日曜日

36:「戦争省」

太平洋戦争の記録映画に、アメリカ政府の中に「戦争省 Department of War」という役所が登場しました。
従って、「戦争大臣 Secretary of War」というポジションもあったということになるでしょう。


最近でこそ「国防省 Department of Defence」という穏当な名前になっていますが、その本質は実は変わっていないと私は思うのです。
すなわち、この省の唯一の機能は、軍事力を持つという抑止力によって国民の生命と財産を守る、ということだけなのです。
これはあくまで武力・軍事力中心的な発想の域を出ていません。


私はこの考え方の延長線上に日本が乗っかってしまうことを大変危惧します。
なぜかというと、名称はどうあれ、この省に投入される予算の使い道というのは、「人間をいかに効率よく殺戮するか?」という技術の研究・維持・実戦でしかないからです。


人によっては、軍事以外の方策で国を守る手段は外交であると主張します。
しかし、近年の実態を見れば、外交と軍事力による国益の確保は一体化しているように見えて仕方がないのです。
例えば日米関係で言えば、2プラス2という外務・防衛担当閣僚会議にそれは表れているでしょう。


安倍首相も「積極的平和外交」などと言っているように、平和を志向することを標榜している我が国がこのような路線を進んで良いものなのでしょうか?


私は、軍事に依らない新たな紛争解決の具体的methodologyを開発しなければならない、またそれを主導していくのは、平和憲法と良質な国民を持つ唯一の被爆国である日本である、と今考えているところなのです。

35:ちょっと好い話

東京の世田谷に長谷川町子の「サザエさん」で有名な桜新町という場所があります。
原宿や自由が丘のように開発がされず、昔のただずまいを残している数少ない場所です。


私の考えでは、「桜新町文化」のようなものがあるように思います。
それは、町全体をおおうあたたかさであったり、寛容さであったり……といった「ゆとり」であると言えるでしょう。




ある夕方、この町にあるファミリーレストランに家内と入ろうということになりました。
いざ入店してみると、3人の母親と10人程度の子供たちからなる一団がおり、子供たちはそれぞれ大騒ぎ、という状況でした。


子供たちの狼藉ぶりはかなりのものだったので、「余計なことを」と言われるのを覚悟で、3人の中で最も温厚で良識のありそうな母親に「少し度を越しているのではないでしょうか」話しかけました。


すると、この母親は即座に行動をとり、場はあっというまに静かになったのでした。


話はここでは終わりません。
母親の1人が、彼らの帰りがけ、わざわざ私の席まで来て次のように言ったのです。


「今日は良いしつけをして頂いてありがとうございました」


これは真に立派なものだった、と思います。

34:「男性」と「オス」のちがい

大変突拍子もないテーマではあるのですが、「男」についてひとつ書いてみたいと思います。



「日本の男性が小粒になった」とよく言われます。


先日、家内と街で昼食をとっていた際、20代後半と見られる2人組のOLが話をしていました。

聞いてみれば、「最近の男はダメね~」などと面白そうなことを話しており、興味を持った我々はその話に参加しました。
結果その2人と仲良くなってしまい、後日自宅に彼女らを招いて食事をしつつ色々と会話をしたのでした。

私の質問のひとつは、「同世代の男性をどう思うか?」でした。

これに対して彼女たちは間髪入れず「頼りない!」「志がない!」「だから恋もできない!」と返しました(笑)

そこで私はひとつ考えたことがありました。

人間の「男性」と動物の「オス」とは何が違うのだろうか、と。

共通する事項として、メスに対する関心・子孫を残そうとする本能・(動物にもよるでしょうが)家族への食糧の確保くらいは言えるでしょう。


ところが、どうも先日のOLの会話から読み取れることは、この「オス」としての要件以外に、「女性」が「男性」に持っていてほしいと思う何かがあるのではないか、ということでした。


それは「公」ということです。
どんな小さなことでも自分にしかできない何かがあり、それを実行して社会の役に立つ、という公共に対する関わりを持つということ。

これが「オス」と「男性」を分ける大きなちがいのひとつなのでは? とこの一件で私は思ったのでした。


2014年5月26日月曜日

33:発想の拡大とは?

今回は、ものを考えるとき、発想を拡大させるためには何が必要か? ということについて書いてみたいと思います。


例えばある受験生がいたとして、浪人するか第一志望でない大学に進学するかで迷っているとしましょう。
通常の考え方で言えば、浪人したとき、大学に進学したときのそれぞれのメリット・デメリットを考えることでしょう。


しかしこの考え方は、実は非常に狭い視野でしか考えられていない、水準の低いものだといえます。
どういうことかといえば、それは、この発想は「大学に進学するということ」を前提にして、その中でしかものごとを考えていない、ということです。


この前提を取り外すことによって、新しいopportunityが見えてくるでしょう。
「高校を卒業して大学に進学する」ということは、単なる選択肢のひとつであるという発想の転換を行ってみる、ということです。


例えば他にどんな選択肢があるのかというと


①期間を限定して実社会で仕事をする
②1年間世界漫遊旅行をする
③ひたすらひきこもって読書に耽る
④とりかく金づくりに邁進する


これらは極端な事例かもしれませんが(笑)、発想の転換はこのようにしてみたらよいのではないでしょうか。
この場合のテーマを言うならば、「18才からの数年間という時間を最も自分にとって有効に使うにはどうしたらよいか?」ということです




もうひとつ事例を挙げましょう。
中堅社員がいま働いている会社を辞めるか辞めないかで迷っているとします。


これも同じ発想で考えれば、「定年までの自分の時間の有効な使い方は何か?」という大きな視点から考えてみることです。


おそらくここには色々な基準があって、それらを参照しつつ彼は悩むことでしょう。
家族を養えるか/自身の能力の最大化が図れるか/家族と過ごす時間が増えるか/自分が抱いていた志につながる仕事であるか/人や公に貢献できるような仕事であるか
などなど


もちろん、このような考え方をして、正解が出るという保証はありません。
しかし、あらゆる角度から考察したことになり、最終的には「えいやっ」という自分自身による、思い切りの良い決断につながるのです。




ある重大なテーマに対して、狭い視点でなく、より高い次元から考えてみようとすること。
これによって発想の拡大と、よりよい決断が得られる、と私は考えています。

32:なぜ日本憲法を海外で議論するのか?

産経新聞は、今年5月1日に新憲法法案として昨年4月にまとめた「国民の憲法」要綱の一部の英訳版を発表しました。
その目的は「海外でも多くの人に内容を知ってもらい、国際的な議論を行ってもらう」ことにある、と報道されました。


しかしよく考えてもらいたいのです。
国際的に議論された結果、外国の識者から異論が出たり、改定の要求が出た場合、当事者である日本人は受け入れることになるのでしょうか?
他国の人に色々と言われて自主憲法ができるのか? と私は疑問に思います。
この時期に憲法改定を論じることは大いに結構だと思います。
しかし、悪く言えば外国の顔色を伺いながらその作業を進めるのは、私はいかがなものかと感じるのです。


西洋社会からどう思われようとも、日本が世界に対して規範をなるような憲法を、日本人の主体性をもってつくらなければならないと私は考えています。

2014年5月20日火曜日

31:留学の本質

私の米国の母校で、アジア情勢に関する小規模な講演をしたときのことです。
よくある光景ですが、講演後10人近い学生たちが私のところに集まり、色々な質問をしてきました。
私は質問者に「君はどこで外国生活をしたことがあるか?」と必ず聞いていました。
結果は、彼らはほぼ全員が外国生活経験者だったのです。




これは何を意味するのでしょうか?
自分と異なる文化と触れたことのある人々は、我々が住む地球という星全体に対しての興味を知らず知らずに醸成しているように感じます。
単一文化の中での閉じられた生活をしていない人間は視野が広く自立心が強いのです。



日本の若者が留学に対して関心を持たなくなった、と言われて久しくなります。
理由として、言葉・安全性・食事・現地に溶け込めない……など、閉鎖性を正当付ける理由しか挙
がってきません。


英語が流暢に話せなくてもなんとかなるものです。


人間としての人格を形成するとき、異質な価値を知ることは大いに役立つものです。
これを達成するために外国語を勉強し、外国の本を読んで日本は勉強してきたのです。
今、外国と接する価値を再認識したいものです。

2014年5月15日木曜日

30:「理解を求める」とは何?

例えば日米間で対立が起きて、その調整をするため、日本の政治家が外国の要人と重要案件で会談したときによく「理解を求めた」という言葉を使った報道が見られます。
本来ならば、表現として「主張を述べた」とか「案を提出した」「要求を出した」などが代わりのものとしてありうるはずなのに、すべて「理解を求めた」で済まされているようなのです。


日本人同士であれば、問題を解決するのに、一方の当事者が状況を説明して相手の「理解を求める」ということは自然なことでしょう。
しかし、よく考えてみると、「理解を求める」というのは、立場的に下の者が上の者に対してすることではないでしょうか?
実際、この表現を在日大使館が本国に送ると、「日本は''seak understanding''している」となり、相手国を有利にする結果になっているようなのです。
このように、ひとつの表現で日本の国益が損なわれるかもしれないのです。
しかしながら日本はこのような表現を使ってしまっているのです。
これは問題ではないでしょうか?
私はマスメディアに国際関係に関する記事の扱いに対して敏感になってほしいと思います。


日本でごく当たり前に使われている表現が、国際社会では大きくズレた認識を与えてしまう、という現実を知っておきたいものですね。

29:「米国と対等になる」こととは?

最近の論調に、「日本はいつまで米国に追従するのか」ということがあります。
「だから、米国から押し付けられた憲法を改定する必要がある」などという主張にもつながっていくようです。
また、「日本は米国の弟分である」という実に卑下した表現も使われることがあるようです。






「米国と対等になる」とは、いったいどういうことなのでしょうか?








「対等」ということを人間関係から考えてみましょう。
人と人は、その能力の違いがあるということで対等になれないのでしょうか?
それは違います。




私は「負い目」にポイントがあると思います。
借りを返していない・礼を尽くしていない・問題をあいまいなまま放置する・けじめをつけない・ルールを共有しない……など、相手に負い目を持つ状態である以上は、相手と対等になれないように思います。
反対に、きちんと相手に礼を見せていれば、たとえ能力に差があろうと対等な関係になれるのです。








国に話を戻しましょう。
経済力・軍事力・政治力が「対等」の判断基準になると思うなら、それは大間違いなのです。
現に、イギリスとアメリカは対等です。


軍事力に置いては両者は格段の差がありますが、世界は米英は対等な関係にある、と見ています。
しかし日本だけは、追従的な立場をとっていると自分で思っているのです。




日米関係においても、ここで指摘したようなことがらについて適切な処理をしていけば、対等な関係が確立されると思うのですが。
そしてその上に、友情と信頼関係が築かれるのではないでしょうか?