2018年6月9日土曜日

310:コンセプチュアル・スキルとは その3

「ある会社の事業部長は、事業部の行動計画を立てる際に、緻密さにかけているのではないかと不安を抱いている。
事業部長のこういった不安を解消するために、部下に論理的、体系的な思考基準を共有してもらいたいと考えている。」

不安を解消するためにリスク分析をする場合のステップとして、適切な順番に並べられているものを以下の中から選びなさい。

①将来起こりうる問題を想定する。
②問題が発生した時の対策を立案する。
③問題の起こる可能性のある領域を探す。
④予防対策を立案する。
⑤リスク分析を実施する範囲を決定する。
⑥考えられる原因を想定する。

(A)①→②→③→④→⑤→⑥
(B)⑤→③→①→⑥→④→②
(C)⑤→⑥→①→②→④→③
(D)⑥→①→⑤→④→③→②








正解は(B)である。

今回は「リスク分析」の領域である。
経営資源の有効な活用を考えると、リスク分析を行う範囲を決めなければならない。
さらに、過剰計画にならないよう、起こりうる問題をその発生確率と重要度により、絞り込む必要がある。

また、リスク対策においては、発生時対策が重要視され、予防対策が省かれてしまう傾向にあるが、これには注意が必要である。
つまり、「起こったらどうするか?」が重要であると同時に、「起こらないようにするためにはどうすればよいか?」という思考もまた、重要なのである。

リスク分析においては、以下のような手順で問いを立てていくことが望ましいといえるだろう。
・この計画のどこが危ないのか。
・そこにどんな諸問題現象が想定できるのか。
・それらの諸原因となるものは何か。
・それらの諸原因を除去する対策は何か(予防対策 Preventive)。
・発生時の影響を最小化する対策は何か(発生時対策 Contingency)。

ところで余談だが、「リスク」のとらえ方を、「起こりうる損傷(injury)、損害(damage)、損失(loss)」と整理すれば、対応しやすいことになるのではないか。

2018年6月6日水曜日

309:コンセプチュアル・スキルとは その2

「統括部長は管理会議の方法を改善しなければならないと感じている。というのは、現状は会議にまとまりがなく、とりわけ口数の多いメンバーが支配しがちで、実質的にあまり成果が得られないまま多くの時間を費やしている状態である。
このような状況で、取り組むべき課題を明らかにしていく上で、最も論理的な手順を表しているものを選びなさい。」

①優先度を決定する。
②問題、関心事、課題を挙げる。
③問題解決のためのプロセスを決める。
④状況分析の範囲を限定する。
⑤全体像を見直す。
⑥複雑な問題を分析できるレベルまで細分化する。

(A)①→③→⑤→④→②→⑥
(B)④→②→⑥→①→③→⑤
(C)④→③→⑥→②→①→⑤
(D)⑤→⑥→②→③→①→④









妥当な回答は(B)である。

当該状況は「状況分析」の問題である。
まず、「決定分析」の際と同様、分析の範囲を明確にし、その範囲内の問題点を列挙する。
(この「列挙」の際には、過剰な説明をしない、優先順位に関わる討議をしない、内容の優劣を論じない、ということが大事である。つまり、ここでは、問題点の洗い出しに注力するということである。)
大きな問題は、処理しやすい部分に分解し、優先順位を決め、各々の課題へのソリューションに至る考え方の工程、プロセスを確立し、最終的に全体像を確認する。

問いのフローは、以下のようになるであろう。
・何の状況分析をするのか。
・諸問題・諸課題は何か。
・大きな問題を分解・分離するとどうなるか。
・優先順位をどうするか。

2018年5月30日水曜日

308:コンセプチュアル・スキルとは その1

日本社会における生産性向上が課題と論じられて久しい。
製造業やサービス業に関する生産性もさることながら、思考の生産性、つまり意思決定の精度を上げないことには、組織全体の生産性そのものを上昇させることは難しい。


Robert. L. Katzハーバード大教授が、マネジメントに求められる3つのスキルとして、テクニカル・スキル、ヒューマン・スキルに加え、コンセプチュアル・スキルを挙げたことは記憶に久しい。
このような流れを受け、コンセプチュアル・スキルについて、多くの議論がなされたが、しかし今日まで明確な説明や定義はなされていないように思う。
遅ればせながら私なりにコンセプチュアル・スキルについて定義をすると、「直面する諸問題の本質を押さえ、優先順位を決め、結論に至る考え方の観念の過程を論理的に構築できる能力」である。

これから2、3回で、このコンセプチュアル・スキルについて、問題を出しつつ、いつくかの側面から書いてみたい。

このようなことを念頭に置いて、次の問題を解いてみてほしい。
論理的な観念の過程をどのように構築すればよいか、という、まさしく「コンセプチュアル・スキル」についての問題である。



ある中都市の職員たちは、ゴミ収集サービス会社の選定を行おうとしている。現在の会社との契約はあと6か月で終了するが、市の職員たちはこの会社のサービスに不満を持っている。この都市の人口は徐々に増加しており、市の職員たちは対応力のある会社を選びたいと考えている。一方、職員の中には、市独自で行うゴミ収集部門の設立を提案する者もいる。」

ゴミ収集の目的を満たす方法を選ぶための、適切な分析の順序を下記のなかから選びなさい。

①選定基準に照らし合わせて、様々な選択肢を客観的に比較する。
②新しい会社への要求基準をリストアップする。
③何を決定すべきかを決める。
④最も良いと考えられる会社の短所を分析する。
⑤選定基準となる項目を、必ず満たすべき項目と満たすことが望ましい項目に分類する。
⑥できるだけ多くの選択肢を考える。

(A)②→③→④→⑤→①→⑥
(B)③→②→⑤→⑥→①→④
(C)④→③→⑤→①→②→⑥
(D)⑥→③→⑤→①→②→④









正解は(B)である。

本問は、「決定分析」に関する問題である。

ここで最も重要なことは、まず決定するテーマを明確にしなくてはならないということである。
議論が拡散し、意義のないものになることを避けるためには、これをまず行うことが必要である。
その後、選定作業に入っていくが、ここでの要は、複数案を比較するための諸基準づくりである。
また、基準ができた後に一度振り返り、他に選択肢は構築できないかと考える作業も、抜け、漏れを避けるためには必要である。
最後に、提示されている選択肢を、選定基準に照らして評価することになる。

また、仮決定の作業がなされた後には、ここまででは、選ばれた選択肢の問題点が分析されていないため、当該の選択肢について問題点の分析を行っておくことも重要である。
最善の選択肢であることは、無謬の選択肢であるということにはならないからである。

さて、これを単純な問いの流れとしてまとめるとどうなるか。
・何を決めるのか。(決定事項)
・狙いは何か。(目的・目標)
・主目的、副次的目的は何か。
・ほかに方法はないか。(選択肢の拡大)
・まずいことは何か。(実施した場合のマイナス要因)

以上のような論理的な問いの流れ(枠組み)に沿うこと、あるいはこのような枠組みをその都度構築できる、ということが、決定分析という領野におけるコンセプチュアル・スキルであろう。
次回以降で、他領域に関しても、同様に問題を通じてコンセプチュアル・スキルについて考えてみたい。

2018年5月26日土曜日

307:数年ぶりの米国母校訪問

4月中旬、3年ぶりに米国インディアナ州にある、リベラルアーツ大学である、DePauw Universityという私の母校を訪問した。

実はこの大学は、第一号留学生が、1877年に渡米した日本人学生であるという、日本とも関連の深い大学である。
1838年に設立され、学生数約2500人。
私は同校の卒業生で、1998-2007年の間に理事を、以降は終身理事を務めている。

現在何と22名の日本人留学生がおり、また彼らのほとんどは短期の留学でないRegular Studentである。
学長から、日本人留学生を激励し、彼らの相談などにも乗ってほしいとの話があったことなどが、今回の渡米の目的だった。
現地では学長をはじめ、多くの教授と面談し、また日本人留学生22名全員と、3、4名ほどのグループごとに面談をした。
とりとめのないものになるかもしれないが、その際の感想を書いてみたい。

まず一つ目の印象は、いわゆる「人間力」、つまり初対面から相手と深いコミュニケーションを取ることのできる能力が高いと感じた。
これは私に対する質問の内容や、自分の意見を率直に述べる様子などから感じられたように思う。
もちろん率直といってもぶっきらぼうであるということではなく、配慮や敬意といったものが感じられ、表情が明るく、ほがらかで生き生きとした彼らとの会話は愉しい時間だった。

二つ目に、個々の学生の専攻や興味は多様だったが、ものごとの定義を明確にして会話を進める学生が多かった。
哲学を専攻する学生から「教育の定義はなんですか?」と聞かれたときには弱ってしまった。
また、なぜ?(Why?)という質問も多かった。
これは根拠に関する「なぜ?」であり、単なる事実関係の確認に関する「なぜ?」ではなかったように思う。

また三つ目に、彼らが米国での生活に慣れつつも、日本への愛情がうかがえたことも興味深かった。
これは、議員バッジを付けた先生方の国家の将来の方向に対する考え方よりもさらに真剣なものを感じた。
ともあれ、このことが示しているのは、これから国際的に活動する人々は、人間として成長する過程において、複数の文化的背景を持ちうるということだと私は思う。
過度に日本を批判するアメリカナイズされた態度に終始するのではなく、世界社会で活躍する際の、ある人の文化的ルーツが複数の国にまたがるということが可能であるのだという実感を持った。

18歳以下の人口が激減している日本においても、単に知識を与えるのみではなく、全人格的な教育を伝統に置いた高等教育機関が育っていくことが望まれるのではないか。

2018年5月23日水曜日

306:国家戦略特区って何?

国会の予算委員会が空転している加計問題は、国家戦略特区に関する内容であることを確認してみたい。
ちなみに、総理官邸HPによると、「国家戦略特区は、"世界で一番ビジネスをしやすい環境"を作ることを目的に、地域や分野を限定することで、大胆な規制・制度の緩和や税制面の優遇を行う規制改革制度です。平成25年度に関連する法案が制定され、平成26年5月に最初の区域が指定されました。」

というものであるようである。
空転を続ける国会で審議されている加計学園問題は、この「国家戦略特区」をめぐる議論である基本的な事実をまず認識しなければならないだろう。

2018年5月16日水曜日

305:The Bottom Line

米国でしばしば耳にする言葉に、The Bottom Lineというものがある。
私見では、これはものごとの本質、要点、結論といったことを意味する語である。
例えば会社の会議でまとまらない議論をガチャガチャと行っているような者がいれば、"What's the bottom line?"と聞かれてしまうことになる。

本日5月14日にテレビを付けると、たまたま衆議院予算委員会の国会中継が行われていた。
見ていた限りでは、国家予算に対する審議は全くなかったと言っていい。
内容は相変わらず加計学園の話題であり、若干の外交関連についての話もあったものの、ほとんどは前者の内容であった。

このブログでは、もっと建設的に、ポジティヴにものごとを考えてみたいと思ったものの、この件に関しては何とも批判的なことしか出てこない。

例えば、予算委員長の役割とは何なのだろうか?
ただ会を招集し、発言者の名前を呼ぶだけが議長の責任なのだろうかと考えてしまう。
会議の議長のあるべき姿とは、本題に外れないように議論を進めていくこと、また、結論を出すために会議を誘導することであると思うのだが、これは間違いだろうか?

また、より大きな問題として、質問の Bottom Lineは何かという疑問を持ってしまう。
つまり、根拠や結論に結び付く質問がないということが気になった。
質問のほとんどが、状況はどうなっているのか、誰が何をどこでいつどうしたのか、といった単なる事実関係を問うもののみに終始していたように思う。

ここでのBottom Lineは、例えば「なぜそのような状況が発生しているのか」、と問うことではないだろうか。
つまり、なんのために事実関係を明確にするのか、言い換えれば、事実関係を明確にすることにおけるBottom Lineは何か、ということがそれぞれの質問者の中でハッキリしていなければならないということだ。

さらに言えば、予算委員会のBottom Lineは何か? ということが最も重要であるだろう。
中継を見ていた人であればおそらく誰しもが感じるであろうこの疑問に、ぜひ議員の方々には応えていただきたいと思う。

この予算委員会の実態が、国民の税金の無駄遣いを如実に表していると言っては言い過ぎだろうか。

2018年5月5日土曜日

304:リスクを取ることの意味

元気のある企業や組織は将来に向けてリスクを取っている。
この「リスク」という言葉は、天下の広辞苑でも「危険」という程度の説明しかされていない。

しかし私は経験的に、リスクを三分類して考える。
まず、「起こり得る損害(damage)」。
次に、「起こり得る損傷(injury)」。
最後に、「起こり得る損失(loss)」。

例えば、価格競争に負ける、技術開発が遅れる、収益の低下、技術の漏洩、機会損失……
などと、企業で言えば様々な問題が考えられるだろうが、これらはその性格に応じて分類ができるということだ。

さて、広辞苑の説明などが示すように、「リスク」という言葉にはネガティヴな意味ばかりが与えられているように思われる。

しかし実際には「リスクを取る」ことが「危険」であり、ネガティヴなものであるのは、リスク(起こり得る諸問題)への対策がきちんとなされていない場合においてなのだ。
つまり、リスクを取り、例に挙げたような不利な状況が発生した場合に現実的に打つ手を想定・策定していれば、リスクを取るということ自体、マイナスな意味にはならないはずなのである。

例えば価格競争に敗れた場合においての現実的な対応策が考えられ、講じられるのであれば、リスク(損害、損傷、損失)に対して対策を打つことになり、結果としてリスクを克服することになる。

つまり、「リスクを取る」ということは、実は、「危険を冒す」ことなどでは全くないのである。
むしろ「危険」を、具体的に起こり得る現象として複数想定し、それらへの対策の有無を判断することが「リスクを取る」ということの本質であると言えないだろうか。

2018年3月20日火曜日

303:日本の教育におけるコンセプチュアル・スキルの重要性

日本の企業による、自社の存続をかけた企業買収が進行していると聞く。
このこと自体は結構なことと思う。

しかし、心配なことのひとつは、誰がその企業を経営し、監督するのか、あるいはそういった人材が現在育っているのかということだ。
もうひとつの心配は、経営環境の変化に対する柔軟性と「面子」のバランスをどうするのかということだ。
言い換えれば、「失敗したら撤退する」ということが、しばしば企業の「面子」によって妨げられるということだ。
「撤退する」ということは、あくまでひとつの選択肢であって、なにか人間的な敗北といったことではないのだが、人はしばしばこのふたつのことを混同して考えてしまいがちなのである。

さて、ひとつ目の「心配」に戻れば、長期的に見て、国際的に通用する人材の教育・育成が重要である。
その際、論理的な思考能力ということが当然ながら必須の要素となろうが、しかしながら、日本の現在の教育ではこの能力を開発するカリキュラムは整っていない、というのが現状ではないだろうか。
ゆとり教育の導入やその撤退という経緯はあるにせよ、日本の教育はまだまだ本質的に「知識偏重」のものである、と私は思う。
「知識」の重要性を否定するわけでは毛頭ないが、その獲得した知識も、実践のなかで「活用」されなくては意味がない。

少なくとも大学教育までには、様々な分野に応用可能な「コンセプチュアル・スキル」というものを(入門的にであれ)解説し、演習する機会が日本の教育に導入されてしかるべきではないだろうか。
直面する問題に対して、結論を導くための思考するプロセスを論理的に構築できる能力。
また、そのような能力を(暗算的なもの、特定の経験に基づくものではなく)様々な分野に応用可能なある「型」として持っているということ。
これこそ、国際的に通用する人材に求められ、また同時に、現在の日本の教育に欠けてしまっているものではないだろうか。

2018年3月10日土曜日

302:NHKと国会中継

現在、国民が聞いてもあまり熱心に聞けるような内容の国会ではないものの、この国民の政治への無関心に輪をかけるような現象が気になる。
それは、NHKのラジオ・テレビ両方の国会中継である。

たとえば、NHKの相撲の中継は結びの取り組みが定時の6時を過ぎても続けられ、それに続くニュースは取り組み終了後に延ばされている。

これに引き換え、まことに残念で悲しいことであるが、国会中継は重要なものであれ、11時56分頃を過ぎると「これで国会中継を終わります」と放送が中断されてしまう。
これは真剣に論議を聞いている国民には、後味の悪い結果をもたらす。
NHK自体が国会中継を大相撲中継よりも軽視しているのではないかとさえ思う。

このことを最近、安倍内閣の閣僚にある会での立ち話でした際、おどろくようなお言葉があった。
「そもそも国会論議は12時前に終わることになっているんだよ」。

「終わることになっている」とはどういうことなのだろうか。
国民はこのことをどう解釈すればよいのだろうか。

2018年3月3日土曜日

301:国会のイノベーション

国民の政治離れを論じることにエネルギーを費やすことが虚しいと考える人は、かなりいると思う。
私もその一人ではあるのだが、しかし傍観することもできないので、この古くて新しい問題についてふたたび書いてみたいと思う。
新聞によると、2月16日、国税庁前で、森友学園問題について予算委員会で証言をした、佐川現国税庁長官の罷免を求めるデモが行われたということだ。

国税を払うことを国民の義務と考えている善良な国民が、佐川国税庁長官の言動に対して批判をするのはもっともなことだ。

中には佐川氏の問題から、国税庁に対して税金を払うことに抵抗を感じている国民もいるかもしれない。
しかしながら、税金を払うことを拒否すれば、当然差し押さえという行政処分があり、私の記憶では12%の利息が延滞分にかかることになる。
このことを考えると、納税者は「お上」に対してまったく歯が立たない立場にあると言っていい。

国会というものはいわば日本株式会社を経営する経営陣の集団である。
しかし株主(国民)が経営陣に対して信頼を持たなくなっても、国民は選挙という方法以外に議員という経営者を変えることはできない。
だから、国民から選出される議員の資質や資格については別のところで述べるにしても、政治家や担当省庁のイノベーションをどのようにして行うことができるかが大きな課題である。
そこで、大変乱暴な提案ではあるが、常日頃考えていたアイデアを披露してみたい。

これは、国会議員がその職務を真剣に、忠実に行うために襟を正してもらうための苦肉の策である。

前述の佐川現国税庁長官の退任、あるいは税金の無駄遣いの改善、さらに言えば、全国会議員の身体検査(国民から不審に思われるような要素がないかのチェック)の実施。
このような国会そのものの「イノベーション」に手を付けないのであれば、国民は国税を法務省に「供託」をしてはどうか、ということである。
このことは、憲法上、法律上、手続き上その他色々なハードルがあり、非現実的であるかもしれないが、大きな改革がなされない限り、この国は国民のものとはならず、国家が滅びることになるのではないか。

何万人という国民が供託をすれば、国も動かざるを得ない状況になる。
供託した資金で国債を買って国家財政を安定させるといったことも考えられるかもしれない。
非現実的で夢物語と書いたが、政治や国会の状態をこれ以上放置することはできないと思う。

2018年2月23日金曜日

300:よい意思決定は正確な状況の把握から

国家予算の件について書いたが、関連して意思決定とについて書きたい。

国家の政策が順調に進まない場合、一般的にはさらに補正的に予算をつける場合が多い。
私の経験談で恐縮だが、マレーシア政府の英語教育の強化に関してコンサルティングをしたことがある。
国家予算をつかってどのようなカリキュラムを組むか、英語教師の強化教育をどうするか、英語ネイティヴ教師の採用をどうするか、などといったテーマの検討が行われていた。
しかしこの議論の延長では、費用が限りなく膨らんでしまいかねないと思い、ある簡単な事例を紹介した。

その事例とは、書類が詰まった4段のファイルキャビネットを隣の部屋に移動する必要がある、という状況である。

書類が大量に入っているため、どうやら人手での移動は不可能である。
そこで考えられることとして、キャビネットの重さを測る、移動計画書を策定する、移動するための方法を選ぶ、さらにその延長線上では移動するためのクレーンを設置する……といった途方もない案まで次々に考案されるかもしれない。
結果、総経費〇〇億円の決済を……ということになってしまう。

しかし当然のことながら、知恵者はキャビネットの引き出しを引いてそれぞれ移動させるということを思いつくだろう。
この例は大げさかもしれないが、しかし現実にもこれに近いことが行われているようにも思う
大きな問題を処理しやすい部分に分解し、個々に処理することが、良い意志決定につながるのである。

2018年2月16日金曜日

299:各省庁の課長補佐の問題意識

非常に古い話で恐縮だが、人事院主催の各省庁課長補佐研修の講習をしたことがある。
この研修は年2回、7年間に渡って実施されたものである。
期間は2日間、総勢約50人ほどだった。
古い資料を整理するなかで、平成12年の研修での参加者アンケートが出てきたので、その概略を披露することにする。

日本の教育がいまだに知識偏重にあるなか、教育改革の模索のひとつの視点として参考になればと思う。
つまり単に知識ばかりを覚えるのではなく、万人が共有できる考え方の枠組みを、日本でも構築しなければならないということだ。
この問題は日本人が国際社会で対等に渡り合うための避けては通れない領域と私は叫び続けてきた。




人事院主催各省庁課長補佐研修アンケートの要約

(個別の記入例は別紙)

講義内容:「管理者の思考と決断」
参加対象:各省庁課長補佐52
講師:飯久保廣嗣
実施時期:平成12年9月5日~6日
場所:国家公務員研修センター

設問(I) ラショナル思考の実務における必要性と有効性について……回答51

①必要性について
・「必要性については現時点では、何とも判断できない」といった23の回答を除き、ほぼすべての回答者がラショナル思考の必要性について肯定的に答えた。

・肯定的な意見として、役所における「政策決定」「業務遂行」において、ラショナル思考は必要と思われる、とするものが多かった。

・「実務において問題・課題を解決・対応していくためには問題等を列挙し、複数化し、優先度を設定し、原因の消去等思考プロセスは必要であり、有効である。」

・「前例主義」的な思考業務「非論理的思考」(人情・経験等)によって意思決定がなされがちな現状を変えるきっかけとして必要となり得るとする回答も散見された。

・また「雪印や神奈川県警・新潟県警の問題等」においても「ラショナル思考による対策」が必要だったのではないか、といった具体的な事案に触れた回答も見られた。

②有効性について
・必要性と同様、肯定的な回答が大半を占めた。

・「本省庁等においては必要性・有効性共に大であるとおもう。」

・「普段、意識せず行っている思考プロセスを論理的に整理してみることは有益。そのプロセスの中で自己の弱い部分が発見できれば、意識的にその部分を強化した思考にすると良い」

・有効性に関連して特に多かった点として、ラショナル思考の「体系性」が挙げられる。ともすれば直感的、経験的に判断してしまう業務において、対象をいちど図式化、数量化し、4つの思考領域に分けて分析するという論理的思考の体系性によって、議論・業務が効率化されたり、あるいはヌケ・モレのない判断が可能になるとした意見が多く観られた。

・肯定的な意見に限定を付すものとして、業務に当てることのできる時間に限りがあり、十分な分析ができない可能性を憂う回答、またラショナル思考を実際に導入するに際して先ほどの「前例主義」とバッティングするおそれを指摘する回答が散見された。

・肯定的な意見に限定を付すものとして、業務に充てることのできる時間に限りがあり、十分な分析ができない可能性を憂う回答、またラショナル思考を実際に導入して前述の「前例主義」とバティングする恐れを指摘する回答が散見された。しかし、6年前(当時係長であったと思われる)に飯久保講師の講義を受けた参加者からは、前回同様感銘を受けた、との印象的なコメントも残された。

設問(II)わが国の社会における思考様式(論理思考)の国際化に関する今後の必要性……  回答49件、無回答2

・上記と同様、肯定的な意見が大半を占めた。特に国際化に関しては、「絶対に必要」「ますます重要というか、必要性は増加していくと思う」など、その必要性について強く肯定的な意見を示す回答が多く見られた。

・具体的には、国際化という文脈において、他国と同じテーブルにおいて交渉する際、思考様式を共有することが必要であるとするものが非常に多かった。

・「国際社会の標準仕様に合わせていくということでは、こういったことは今後重要となると認識する。」

・「急速な国際化が進む社会において(中略)多くの人々が論理思考をマスターしていくべきである。」

・あるいは「わが国の国際社会への対応」への「はがゆさ」、「日本が国際社会から置いていかれる」といった問題意識があり、論理的かつ国際的に応用が可能なラショナル思考への評価へとつながっていると考えられる。

・「グローバル社会において日本の思考様式が通用する範囲には限界があり、行政自らが意識の改革を推進するべきと考える」

・「講義の中でおっしゃられていた通り、今日のわが国の国際社会への対応は歯がゆいと感じることが多すぎます。国際社会に大人として対応するにはこの思考様式は欠かせないと思われます。」

・より発展的な回答として、振り返って日本文化にもラショナル思考的な発想はあるのではないか、あるいは日本的な思考とラショナル思考の融合は可能か、等と問うものも見られた。

以上である。

大変残念なことに、現状の教育改革は、この領域に関心を払っているとは思えないのだが、いかがだろうか。

2018年2月10日土曜日

298:公的債務残高のGDP比(%)

IMF, Fiscal Monitorの2017年10月版で、主要7か国の公的債務残高が示されていた。
ここにそのデータを引用する。

公的債務残高のGDP比(%) 2017年
カナダ 89.6
米国 108.1
英国 89.5
ドイツ 65.0
フランス 96.8
イタリア 133.0
日本 240.3

このように、我が国は突出して国の「借金」が多い。
この数字についての解釈はもちろん色々あるが、国民として大きな関心を持たざるを得ない、国としての重要課題であることは間違いない。
国民も政治も、国に対しての依存を高めてしまうことが問題であるように思う。
「国が国民に何をするべきか」という要求に歯止めをかける必要があると同時に、政治や行政も国家予算の使途の無駄を省くということを真剣に考えてほしい。
家計をまかなう場合、借金に依存することは論外であり、また、家族も金の使い道に注意をしなければ家計は崩壊するのは当然のことである。

2018年2月7日水曜日

297:オーヴァープランニングは経営資源の無駄遣い

医療関連の情報システムを開発しているA社は、大口顧客から、発注した大型プロジェクトの工期を6か月短縮してほしい旨の要請を受けた。
A社では、この要請に応えるべく、設計、生産管理、営業、システムなどの関連部署が会議を重ね、新しい日程が設定された。
現在、関係者が集まって、この日程について詳しく検討する会議が開かれている。
営業部長としてなすべき最も適切な指示を下記の中から選びなさい。

A. 想定できるリスクをすべて洗い出し、あらゆる対策を講じるよう各部に指示する。
B. 期限に間に合うようなスケジュールを作成できるように各部に指示する。
C. このプロジェクトに大きな影響を与えるところを確認するよう各部に指示する。
D. ブレインストーミングを定期的に行い、起こり得る問題点を明確にし、対策を講じる。

解説
何かを変更する際には不随するリスクに対応しなければならない。
そこで、リスク対応とは何かといえば、PとSのパラメータを睨みながら、その影響を最小限に食い止める対策を講じることである。PとはProbability=発生確率、SとはSeriousness=重要度である。

A. リスクの重要度Sが考慮できていない。
全リスクを洗い出してそれらに対策を講じることは経営資源の無駄遣いである。
どのリスクが本件において重要なのかを意識しなければならない。よって誤り。

B. 単にプロジェクトの期限に間に合わせるためのスケジュール作成を指示しているだけで、「工期を短縮することによるリスクの分析」という重要なポイントを外している。よってこれも正解ではない。

C. 工期を短縮することで生じうるリスクについて経営資源を投下すべきところ、つまり重要なところを確認するように指示を出している。
即ち重要度を対策のベースにしており、正解である。

D. ブレインストーミングの目的が不明確なため、その結果が散漫になる可能性が高く、またSが考慮されておらず適切な指示とは言えない。

2018年1月31日水曜日

296:神戸製鋼の数値改ざん問題と分析的思考

タイトルの件について書きたい。

この問題に関するマスメディアの典型的な報道は、次のようなものであったように思われる。
「改ざんが発覚」「社長謝罪」「社内調査実施」「顧客の安全性に不安」「海外顧客の訴訟問題へ発展か」「原因は社内組織のたるみ・怠慢」「利益を優先するあまり品質管理がずさん」「日本の製造業の体質は大丈夫か」「再発防止の徹底」「役所による指導徹底」……
問題は「日本の製造業」といった漠然とした話題へとすりかわり、そして結局「気を引き締めて、皆で頑張ろう!」とでもいうような精神論的な結論へと落ち着いてしまう。

しかし、真に問題に対処するためには、分析的に考えることが不可欠なのではないだろうか。
以下は、あくまで私が考えた例であるが、最低でもこのような論理的・分析的な思考が必要であるように思われる。

分析的な対応の一例
・改ざん発生製品は具体的にどのロットか?
「ロットABCです」
・類似製品で改ざんが発生していないロットはあるのか?
「あります。XYZには改ざんはありません」
・ABCとXYZを比較して何が違うのか?
「改ざんロットABCは高品質製品で顧客の満足度が高く、仕様要求が年々高くなっています」
・ABCロットにどのような変化・変更があったのか?
「主要顧客からより高度な仕様が求められ、研究所が技術力で対応し、より高い仕様を設定しました」
・ABCロットの顧客の中で、改ざんが行われなかった顧客はいるのか?
「い社、ろ社、は社へのABCロット納品において改ざんは行われませんでした」
・では、そのい社、ろ社、は社の特徴は?
「仕様の許容数値の幅が大きいということです」
・使用許容数値の幅が大きいことから製品への影響は?
「ありません。これは実証済みです」

社長が謝罪しないと納得しないメディア(「反省はないのか」「経営陣の責任」「世間を甘く見るな」「責任を取って退任せよ」)は、しかし、ただ糾弾していればよい、というものではないはずである。
短絡思考、検証不足、非理性的な対応、非分析的な団子的処理などは困ったものであり、上記のようなもう一つのシナリオがあってもよいのではないだろうか。

2018年1月24日水曜日

295:企業の不祥事への対応

1月24日の産経新聞に、大林組社長退任の記事があった。
談合事件の責任を取り、白石社長が退任するという内容だった。

これは前日、テレビでも報道され、会見の模様も流れた。
謝罪後に関係者一同が立ち上がり、記者団に向かって90度頭を下げるという、謝罪会見ではおなじみの光景がなかったということに、私は目を止めた。
不祥事があるたびに社長が90度のお辞儀をする様は、なんとも気の毒であり、不快を与えるものだと私は思っている。
社会的に実績もあり、信用もある人物が、あのような屈辱的な姿を公衆の面前で曝すことは、企業そのもののイメージに傷を付けることになるし、組織の長たる品格を崩すことにつながる。
テレビで社長が謝罪するというただあいまいなだけの行動は、そろそろやめたらどうかと思う。
組織全体の責任者が社長であることは紛れもないが、何に謝罪しているか明確でない場合は、この儀式にあまり意味はない。
こんなことを続けたら、各省庁の不祥事のたびに、大臣は毎回90度のおじぎをしなくてはならなくなる。
このような状況は健全とは言い難い。
ある意味では、このような流れを止めてくれた白石氏に感謝したいくらいに思う。

2018年1月17日水曜日

294:軍拡の傾向にもっと注目を

昨年度のノーベル平和賞を受賞した団体ICANをはじめ、日本においても、核廃絶の運動が報道され、戦争の悲惨さが語り継がれている。
しかし一方で、北朝鮮の核の脅威がひとつのきっかけとなり、平和憲法9条を持つ日本も軍事予算の拡大を静かにはじめているように思われる。
具体的には、米国からのF35の増備をはじめ、防衛費の増額があたかも自然なことであるように行われているような危うさを感じてしまうということだ。
我々は、このような軍拡の傾向を、より注視しなければならないのではないだろうか。

ここで本質的なことを考えるならば、対立する国家グループが抑止力としての軍拡に国費を投入するならば、これはやがて過去に繰り返されたキリのない軍拡競争の再現となるだろう。
しかしながらメディアでは、そのような危険性について、ほとんど報道がなされない。
このような軍拡は、ただただ国費を産軍共同体へ投入していくということである。
しかし個人的には、国費をより平和的な目的に使うことができないものかと思うし、そのような国に、日本にはなってほしいものである。

Made in Japanの「モノづくり」で世界的評価を得た日本が、その対極に何をもってくるのか、ということが重要である。
もちろんモノづくりも重要なことであるが、情報や技術や資金がボーダーレスとなった今日、Made in Japanのレッテルはその輝きを失ってきている。
これに代わる"Made by Japan"的な「考え方」を世界に発信していくということにも、これからは注力していく時期なのではないだろうか。

2018年1月13日土曜日

293:フラストレーションをプラスのエネルギーに変える その3

前回と前々回で身の丈に合わない大きなことを言ってしまったことを若干後悔している。
しかし、国民の想いや知恵をひとつの政治的な流れにするためには、いくつかの条件が満たされる必要があると思う。
そのひとつが、国民が考える政治への知恵や提案がどのようなかたちで政治に反映されるかである。
昨今ではポピュリズムに頼った線香花火的なパワーもあるのだろうが、国民の発想が政治に反映されるより本質的な手段が確立できないものかと思う。

「投書」と「親書」ということで今回は書いてみたい。
日本の社会には、現在も「投書」という考え方が残っている。
数年前、国産の自動車を購入した。
ちょっとした不具合があり、当時の社長あてに「親書」として状況の詳細を送った。
数週間が経ち、販売店の担当が菓子折りを持って謝罪に来た。
しかし、当時の私の「親書」の意図は、販売店からの謝罪を要求するといったものではなくて、状況を伝えた私の「親書」に対し、社長からたとえ1、2行でもよいから何か返事が欲しかった、ということである。

また、数年前、ある件で当時の閣僚に「親展」を出した。
これに関しては、まったくなしのつぶてであった。

ただ意見を述べるだけの「投書」と異なり、本来、「親書」に対しては、これを送られた人間は返信を送る必要がある。
つまりここでは、仮に限られたものであれ対話が成立するということだ。
日本も政治家へ意見を「投書」するのでなく、「親書」という文化が必要なのではないか。
これは、一般的な「陳情」とはまったく違った性質のものである。

日本の政治家が異口同音に言うことのひとつに、「国民の意見を取り入れる」という決まり文句があるが、にもかかわらず実際に国民が親書を出しても反応はまったくない。
このような状態を変えることは至難の業には違いないが、国会議員に対する国民からの建設的な意見に対して議員が真摯な対応をすることが、政治と国民の距離を縮めることになるのではないかと思う。

これに関連したことで、有識者会議について。
メンバーをどのような基準で選んでいるのかはわからないが、当然のことながら圧倒的に「識者」が多い。
しかし、知識の豊富な人間が、必ずしも斬新な発想や、将来に対する真剣なコミットメントを持っているという保障はない。
「識者」に限らず、問題意識を持つ国民の建設的な発想を吸い上げる手段がないかと思う。
つまり、本当は「良識者会議」くらいで良いのではないか、と私は思う。

常に西洋先進国の真似をしろとは言わないが、各国の有力紙の社説などを見ると、単なる解説記事だけではなく、読者にとって社会の将来を考えさせるような知的刺激と啓蒙があるように感じる。

日本のマスメディアが解説ばかりに終始せず、社会の将来の方向性を決めるような啓蒙的な内容を掲載することを期待したい。

2018年1月9日火曜日

292:フラストレーションをプラスのエネルギーに変える その2

年頭に当たり、私もたくさんの年賀状をいただいた。
日本の文化習慣である年賀状の数は、欧米で交わされるクリスマスカードの比ではない。
余談だが、最近アメリカでは「メリークリスマス」というクリスマスカードはほとんど見かけなくなった。
基本的には"Season's Greeting"つまり年末のあいさつに代わってきている。
これにはおそらく、他宗教への配慮といった文脈によるものである。
さらに余計なことだが、とすればアメリカの硬貨や裁判所に刻まれた"In God We Trust"の文言などは例えばどうするのだろう? といった疑問も湧くが、それは置いておこう。

とはいえ、世界で最も影響力のある国ですらこのような矛盾を抱えている。
ドイツのメルケル首相、イギリスのメイ、フランスの̄マクロンのリーダーシップも決して安定したものではない。
我が国ではODAという途上国援助の予算も激減している。
そして独立した旧植民地各国も、そのすべてが経済的に独立し、安定しているとはいいがたい。
2018年は、このような状況下で平和国家日本はどう対処するのか、という大きな転換期のはじまりとなる年になるのではないか、と思う。

さて、前回のつづきの内容に関して書こうと思う。 前回「その1」で述べた国民的フラストレーションの背景にあるもののひとつは、これまで機能していた世界秩序が崩壊してしまったことに対して、誰も新しい方向性を打ち出していないことにあるように思う。
また平和に関しては、先進諸国による平和研究機関も、その成果に乏しい。
さらに、G7諸国のいくつかにおいては、その国益を守るという大義のもとでの、予測不可能な行動が目立つ。
結果として、安全保障という大義のもとに、防衛力強化のための高度な殺戮兵器への開発投資が進んでいる。
さらに、196もの国が加盟する国連が、平和維持の危機に際して迅速な対応を行うことを期待するのも難しい。

強大な経済力と軍事力を持ち、自国の影響を世界地図上へ拡大しようと試みる国家でさえ、泥にまみれた表現である「世界平和のために最大限の努力を惜しまない」と豪語している。
このスローガンを唱えている諸国が、実際にどの程度本気であるのかが問われているのではないか。
過去の戦争という負の遺産に対し、それを忘れないよう努力する日本人にとって、戦争の悲惨さを語り継ぐと同時に、平和の実現に対して、具体的な方策の提言を日本から世界へ向けて発信できないものだろうか。