2015年1月31日土曜日

80:日本をどこに持っていくか その5


世界社会は本年8月に出される、安倍総理の戦後70年の談話に注目しています。特に総理の姿勢が右傾化傾向と理解されている中で、このことが今後どのように展開されるかが心配されています。ところで、日本が軍事大国になることを国民の誰一人として望んでいないことは明らかです。


先進国の中で過去70年間、国際紛争の中で人命を一人も失わなかった国は日本以外にはないと思います。またこの間、日本は他の先進国と異なり武器輸出も行っていません。これらのことを踏まえた総理談話を発信してほしいものです。当然政府においては考慮されていると思いますが、一国民として下記の点を参考にしていただきたいのです。


1.太平洋戦争の敗戦国ではありましたが、唯一の被爆国として米国に対して謝罪や損害賠償を要求したことはありません。日本人は「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」として、被害者と加害者という立場を作ることを結果的に避けたのではないでしょうか。


2.アメリカに押しつけられたといわれる9条ではありますが、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄すると明記した憲法は画期的なものです。この精神が明確にメッセージとして伝わってほしいものです。しかし人間に闘争本能がある以上、国益を守るための手段を持つのは当然であると思います。


3.日本は近代工業国家の建設を達成した最初の非西洋社会の国です。その結果、品質の高い製品を世界に提供し、評価を得てきました。その背景は良心的な国民性を持つ人間集団が日本国であり、これからはQuality of productからQuality of peopleであることを強調していただきたいものです。


4.過去70年間、非西洋社会のリーダーとして世界の評価を得た国として、その背景にある歴史や伝統、そして良質の国民性を何らかの形で盛り込んでいただきたいと思います。


これら以外にも考慮すべき観点があるでしょうが、安部総理が標榜する積極的平和主義が理解されるためには、格調の高い平和国家の実績を持つ国としてのメッセージとなることを一国民として強く要望します。

2015年1月28日水曜日

79:日本をどこに持っていくか その4

名経営者と言われた歴史的人物・本田宗一郎翁に関する逸話は数多くあるでしょう。


本田翁の側近の話によると、「おやじさん」は長期計画を親の仇のように嫌っていたということです。
(ちなみに、ホンダでは創業者・本田氏が「おやじさん」、最高顧問・藤沢氏が「おじさま」、社長・川島氏が「お兄さん」と呼ばれていました)


この「おやじさん」の長期計画嫌いは社内でも有名でした。


理由の一つは、世の中は刻々と変わっているので、長期計画で予想されていないことが起きた場合、混乱が生じること。
二つは、この長期計画を立てるために費やした社員の労力を考えると、長期計画の変更に躊躇してしまうような状況が生じること。


このような理由で、長期計画はやめろ、という主張を本田翁はしていたようです。


しかし一方で彼は「方向だけは間違うなよ」とも言っていたそうです。


国の目標を考える場合にも、「変えること」「変えないこと」を踏まえ、国際社会の中で日本が進むべき「方向」を心ある人々で考えたいものです。

2015年1月26日月曜日

78:イスラム国の日本人殺害計画


日本にはあまり関係ないと思われていた事件が勃発しました。ご存知のようにイスラム国が日本人2人を人質に取り2億ドルを要求しているというものです。

新聞で報道される総理の対応は「人命を第一に考え、同時にテロには屈せず」というものです。仮にイスラム国の要求を呑んで身代金を支払えば、日本は脅迫に弱い国というレッテルを貼られてしまいます。テロに対峙している日本の友好国に不信感を与えてしまうことだけは避けたいものです。ではどうしたらいいでしょ うか。

外交の素人の考えで恐縮ですが、安倍総理は今回の外遊でイスラム国対策に2億ドルを拠出して、テロとの戦いのための連携を表明したことが利用されました。私が思うに日本国民はテロの卑劣な要求は確固たる姿勢で撥ねつける、つまり2億ドルを支払う意思がないことを早期に表明すべきだと思います。


総理が人道支援を目的とする2億ドルの拠出の表明がテロ組織の行動を誘発したのならば、この2億ドルの人道支援を中止するから人質を解放しろ、という対応ができないでしょうか。第三者を通じての交渉というのも考えられますが、確固たる姿勢を示してテロの要求には応じないという姿勢には具体的な行動が伴う必要があると思います。

2015年1月21日水曜日

77:日本をどこに持っていくか その3

アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの有名な言葉に次のようなものがあります。
O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。



さて、多くの人が「これからの日本はどうなるのだろう」と考えていることでしょう。
この課題に対して様々な研究がなされていると思われます。
そして、心ある政治家のみなさんも血の汗を頭にかいて将来の日本のことを考えていることでしょう。


日本の将来を感覚的に構築する天才が正しい方向を示せるのであれば、上述の変えること・変えられないこと……それらを識別する能力は必要ないでしょう。
しかしそうでないのなら、日本の将来を考える場合、「変えられるものを変えるだけの勇気」「変えられないものを受け入れるだけの冷静さ」「両者を識別する見識」をきちんと身に着け、国として「変えなければならないこと」「変えてはならないこと」を分析していく作業を心ある日本人がして欲しいものだと思うです。


すべてはそこからはじまるのではないでしょうか。

2015年1月14日水曜日

76:日本をどこに持っていくか その2

1964年開催の東京オリンピックで日本は大きな経済的恩恵を得ました。
オリンピックを誘致する国々は自国の発展、あるいはその発展を喧伝する傾向になってきているようです。


2020年東京オリンピックの開催に当たり、我が国が韓国や中国の発想の延長線上で自国の宣伝的な要素を持つことに私は懸念を持ちます。


確かに、今日の日本の総合力を以て開催すれば、世界から称賛される質の高いオリンピックになるでしょう。


しかしここで、前号に載せたクーベルタン男爵の言葉に、日本はいまこそ戻る時ではないでしょうか。
「平和でよりよい世界の実現」という基本精神に立ち返るのです。


設備・運営・選手へのサービスに関する予算を抑え、「さすが日本」と呼ばれる大会にしたいものです。
それは、規模や華々しさで「圧倒」するのでなく、オリンピックの原点に戻った「感動」を人々に与えるものであって欲しいと思うのです。
極論を言えば、これまでのオリンピックのイメージを変えてしまうくらいのものでもいいのではないかと思います。


例えば開会式のイベントはこれまでのような自国の顕示ではなく、パレスチナとイスラエルのような対立国同士が数百人単位で共演して平和のための行事を披露するとか、紛争地域の少数民族が協働して平和を訴える……あるいは、オリンピック種目にない競技者の少ないスポーツを数多く披露する。


などが考えられるのではないでしょうか。
無論、これらに関する費用は全て東京オリンピック委員会が負担する、という形です。


このように、近代オリンピック当初の意義を思い出し、これに沿う形で2020年東京オリンピックを構想する、というのはどうでしょうか。


また、まだ2024年のオリンピック開催地は決まっていないようですが、1964年の日本がそうであったように、(先進国でなく)途上国での開催をより増やし、先進各国が莫大な費用の一部を負担するような形をとるなどしつつ、その国の経済発展を促すようにするのが良いのではないか、とも思うのです。

2015年1月7日水曜日

75:日本をどこに持っていくのか その1

前号で触れた「国家目標」についてです。
第一は近代工業国家建設、第二は敗戦後の国家再建……これらは外的な要因なども相まって(比較的)容易に確立することができたのではないかと思います。


ところが1989年12月29日、大納会の日に日経ダヴで付けた38,957円44銭をピークに、翌年バブル景気は崩壊し、いわゆる「失われた10年」へと突入、これは今日では「失われた25年」になってしまっています。
この中で「第三の国家目標」の確立が内外から要請されていますが、ここで難しいのは、この状況が第一・第二のものと比べて、我々自身がつくってしまった内的な原因から生じたものであり、より対処が難しいということです。




さて、2020年に開催が決まった東京オリンピックで、日本は何を発信したら良いのでしょう。
日本の行く末を占うための大きな契機がつまっているように思います。


いわゆる「オリンピックを成功裏に」というスローガンは一体何を意味するのでしょう。
近代オリンピックの父、クーベルタンの提唱したオリンピックの精神(オリンピズム)は次のようなものです。

「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」
この結びにある「平和でよりよい世界の実現」という根本の精神 を2020年東京オリンピックでどのように反映させるか。
この機会にみなさんと考えてみたいと思うのです。 

2015年1月3日土曜日

74:謹賀新年

あけましておめでとうございます。
昨年は大変ご無礼を致しました。
本年も皆様のご多幸をお祈りしております。


さて、相変わらず混沌としている世界情勢の中で、国のあるべき姿についてこれまで色々と述べられてきました。
安倍総理の言う「美しい日本」をそのまま英文に直訳して日本の将来として世界に発信することは、果たしてこれでは通用しないのではないでしょか。
'Beautiful Japan'では、世界の人間は何を言っているのかわからないでしょし、これの内容が食文化や漫画・アニメだけでは悲しいものです。


国というものは、歴史・文化・自然・産業などに分解することができます。


この中で海外に日本のかたちを押し出していくに当たって重要なのは、「何が必要で、何が不必要か」を考えなければならないということです。


国を形作る要素は様々ですが、忘れてはならないことは、近年死語になっている「正直さ」「誠実さ」「勤勉さ」「約束を守ること」「倫理」など国民性を表す重要な概念ではないでしょうか。
「嘘をつくな」「正直であれ」「率直であれ」といった社会生活を正常に保つための要件を教育などを通じて継承すること、これは忘れてはならないものだと思います。


「美しい日本」をつくるのだとしても、これは必要不可欠なものに思えます。


蛇足になりますが、私が発信している「第三の国家目標」――第一は明治の近代工業国家建設、第二は敗戦後の国家再建、そして第三は東日本大震災を契機に求められる第三の国家目標――をどのように考えたら良いのか、今後私なりに意見を述べていきたいと考えています。