2014年6月12日木曜日

40:本当の「グローバル人材」とは?

「グローバル人材」云々となにやら騒いでいるのは、世界でもどうも日本だけのような気がしてなりません。
アジアにおいて、例えばシンガポール・マレーシアなど経済発展している国における重要関心事として、「グローバル人材」などということばは聞いたことがありません。


曰く、「日本人のアイデンティティを意識しろ!」「異文化に対する理解を深めよ!」「コミュニケーション能力を強化しろ!」などという聞き飽きたフレーズが飛び交っています。
例えばNYではたらく本当の「グローバル人材」は、こんなことをいちいち意識しているでしょうか?(笑)




「グローバル人材」であることは優れた人材の条件だ。
このような意識をもって人材開発を進めている組織は実際かなり多いかもしれません。
しかし、「グローバル人材」なる人間をつくっても、競争力があり利益を上げる集団になるとは私には思えません。
仲良しグループをつくるだけでは、組織の目的は達成できないでしょう。




このような発想には何がかけているのでしょう?
ひとことでいえば、「仕事ができる人間をつくる」ということです。




一昔前、ある企業の国際事業部長から、シカゴに派遣する責任者の人選について相談を受けたことがありました。
「厳正な銓衡の結果、英語に長け、アメリカの事情に明るい人間を派遣しようと思うが、一度面談をしてほしい」とのことでした。


私は面談で彼に2、3質問して驚きました。
彼には大きな商談をまとめた経験もなく、人脈づくりの実績もない、ただの優等生社員としか私には判断できなかったからです。
そこで私は事業部長の判断に反対であると述べました。


「基本的な部分さえできていれば、英語などというものは現地で必要に応じて上達するもの。それよりも国内で実績を残している人間を選んだ方がいい。」
といった趣旨のことを意見させてもらいました。


そこで英語の力は大したことがないが、国内で大きな結果を出した営業の人間が選ばれました。
彼にも面談しましたが、その「人の関心を引き寄せる力」「人と素早く関係性を構築する力」には感心したのを覚えています。


結局2人目の営業職の彼が渡米することになりました。
指令のひとつは「2年以内にシカゴの市長との関係をつくること」という難しいものでしたが、当初の貧弱な英語の力にも関わらず彼はクリアし、海外でも大きな実績を残したのです。


これこそが本当の「グローバル人材」なるものではないでしょうか?
英語ができる・できないなど些事でしかありません。
本当の「グローバル人材」とは、世界のどこででも・誰とでも・どんな状況でも目的が達成できるポテンシャルを持った人間のことを言うのでしょう。


仕事ができる・できない、というあたりまえの視点。これを判断の基準にする組織がもっと増えても良いのではないか? と私は思うのです。

39:「それ、大丈夫だね?」と言わないこと!

社会生活やビジネスにおいて、何か新しいことをするときに、それを相談されたり許可を与える立場の人間がよく言ってしまうことばに「それ、大丈夫だね?」というものがあります。
このことばに対して「大丈夫ではないです、だめです」と答える人間はそういないでしょう。
多少のリスクはあっても「大丈夫です」と言ってしまうのが人情というものです。


ツメが甘い計画が上がってきたときに、「それ、大丈夫だね」と問うほど危険なことはありません。
「甘い計画」とは、実施時に不具合が起きる可能性が高い。にもかかわらず上のような聞き方で済ましてしまうことは、重大な損害につながることになるのです。


ではどうしたらいいのでしょうか?


実は、いとも簡単な問いかけで解決できてしまいます。
それは、「この計画のヤバいところはどこだ?」「どのような問題が起こりうるか?」「それに対する処理は考えてあるか?」の3つです。


続けて読んでくださった方は気づいておられるでしょうが、これはひとつ前の記事の「ドロナワの教訓」と深く関連していることです。
起こりうるリスクへの対応策を事前に用意しておくこと。これは非常に重要なことだ、と私は強調したいのです。

2014年6月11日水曜日

38:ドロナワの教訓

年齢で言うと50才以下の人々には聞きなれないことばであろう、「ドロナワの教訓」について書きたいと思います。
「ドロ」とは泥棒、「ナワ」はその泥棒をふんじばるための縄を意味し、その教訓は「泥棒が入ってから縄を綯うことは遅すぎる愚行である」というものです。


このことは、最近よく使われる、リスクを取らなければ物事は変わらないということにも関連してくるように私は思います。
リスクを取って何かまずいことが起きた際、対応が事前に計画されていれば、慌てることなく事態に当たることができるでしょう。


「ドロナワ」にならないためには、「泥棒が入る」という「まずいこと」を事前に想定すること、これが必要になってくるのです。


この「教訓」が死語になった背景は、おそらく戦後あまりにも順調に復興がなされたため、「泥棒は入らない」=「まずいことは起きない」という誤った過信が生まれてしまったためではないかと思います。
あるいは「泥棒が入った」=「まずいことが起きた」ことでの悪影響も、高度成長の中で相殺され、意識されづらくなっていたのかもしれません。


失われた20年という長いトンネルの先に薄光が見えた今日、リスクを取って前進するには、リスク(計画からのズレ・起こりうるまずいこと)は発生するものという前提で考え、それらが起きた時の影響を最小化する対策(''contingency plan'')をあらかじめ策定しておくことが肝要なのです。

37:日本人の寛容さ

(すこし俗な内容になるかもしれませんが)最近の韓国や中国との歴史認識問題を考えると、これらは「どのように相手と和解をするべきか?」というテーマでくくることができるように思います。
このような永遠のテーマを論ずる資格が私にあるとは思いませんが、あえて唯一の原爆被爆国の国民として、過去の不幸な出来事をどう処理すればよいのか、ということについて述べてみたい。


通常、被害者は加害者に対して強い立場にいます。
例えば交通事故で相手に怪我を負わせたとしましょう。
仮に幸いに傷が完全に治癒し、賠償がキチンとなされたとしても、被害者が加害者に対して「あのときの傷が寒い日にはうずくんですよ。」などと言ってしまえば、加害者としてはこれは弱ってしまうでしょう。


日本に話をスライドさせれば、しかし、原爆よる「被害者」である多くの友人が相手国家を傷つけた、という事実はありません。
これは人類に対する犯罪であると言う他ないような凄まじい殺戮である原爆投下、これを日本人はどのように和解に持っていったのでしょう。


被爆者が世界社会に対して訴えたことは''No More Hiroshima, No More Nagasaki''でありました。
また、あの忌まわしい出来事から69年を経て、いまさらことを荒立てて声高に被害者意識を強めるようなメンタリティを、多くの日本人は持ちません。


このような寛容な国民性によって戦争後のアメリカとの和解はなされたのですし、また、日本人はこのような寛容さを日本の誇りとして考えても良いのではないかと私は思います。


今日でも、宗教戦争や部族間対立が絶えない国際状況の中で、問題解決の方法としてこのような日本人の寛容さが理解され、共有されることを望むのは、夢物語でしょうか。






全くの余談になりますが、私がはじめて広島を訪問したときのことです。
例の平和記念公園には、世界中の元首から色々な記念碑が贈呈されていました。
少し気になって、案内してくれた友人に、「アメリカからのものはどこにあるんだ?」と聞いたところ、答えは「それはない」ということでした。
私は、加害者であるアメリカから広島に何も送られていない! ということに当時憤りを感じたことを覚えています。


しかし、米国のオバマ大統領による広島訪問が先日ありました。
寛容さは勿論ですが、これは「長い時間をかけた寛容さ」でもあるのだというのが、原爆投下から70年近く経過した現在、彼の訪問を思う際に考えることなのです。

2014年6月1日日曜日

36:「戦争省」

太平洋戦争の記録映画に、アメリカ政府の中に「戦争省 Department of War」という役所が登場しました。
従って、「戦争大臣 Secretary of War」というポジションもあったということになるでしょう。


最近でこそ「国防省 Department of Defence」という穏当な名前になっていますが、その本質は実は変わっていないと私は思うのです。
すなわち、この省の唯一の機能は、軍事力を持つという抑止力によって国民の生命と財産を守る、ということだけなのです。
これはあくまで武力・軍事力中心的な発想の域を出ていません。


私はこの考え方の延長線上に日本が乗っかってしまうことを大変危惧します。
なぜかというと、名称はどうあれ、この省に投入される予算の使い道というのは、「人間をいかに効率よく殺戮するか?」という技術の研究・維持・実戦でしかないからです。


人によっては、軍事以外の方策で国を守る手段は外交であると主張します。
しかし、近年の実態を見れば、外交と軍事力による国益の確保は一体化しているように見えて仕方がないのです。
例えば日米関係で言えば、2プラス2という外務・防衛担当閣僚会議にそれは表れているでしょう。


安倍首相も「積極的平和外交」などと言っているように、平和を志向することを標榜している我が国がこのような路線を進んで良いものなのでしょうか?


私は、軍事に依らない新たな紛争解決の具体的methodologyを開発しなければならない、またそれを主導していくのは、平和憲法と良質な国民を持つ唯一の被爆国である日本である、と今考えているところなのです。

35:ちょっと好い話

東京の世田谷に長谷川町子の「サザエさん」で有名な桜新町という場所があります。
原宿や自由が丘のように開発がされず、昔のただずまいを残している数少ない場所です。


私の考えでは、「桜新町文化」のようなものがあるように思います。
それは、町全体をおおうあたたかさであったり、寛容さであったり……といった「ゆとり」であると言えるでしょう。




ある夕方、この町にあるファミリーレストランに家内と入ろうということになりました。
いざ入店してみると、3人の母親と10人程度の子供たちからなる一団がおり、子供たちはそれぞれ大騒ぎ、という状況でした。


子供たちの狼藉ぶりはかなりのものだったので、「余計なことを」と言われるのを覚悟で、3人の中で最も温厚で良識のありそうな母親に「少し度を越しているのではないでしょうか」話しかけました。


すると、この母親は即座に行動をとり、場はあっというまに静かになったのでした。


話はここでは終わりません。
母親の1人が、彼らの帰りがけ、わざわざ私の席まで来て次のように言ったのです。


「今日は良いしつけをして頂いてありがとうございました」


これは真に立派なものだった、と思います。

34:「男性」と「オス」のちがい

大変突拍子もないテーマではあるのですが、「男」についてひとつ書いてみたいと思います。



「日本の男性が小粒になった」とよく言われます。


先日、家内と街で昼食をとっていた際、20代後半と見られる2人組のOLが話をしていました。

聞いてみれば、「最近の男はダメね~」などと面白そうなことを話しており、興味を持った我々はその話に参加しました。
結果その2人と仲良くなってしまい、後日自宅に彼女らを招いて食事をしつつ色々と会話をしたのでした。

私の質問のひとつは、「同世代の男性をどう思うか?」でした。

これに対して彼女たちは間髪入れず「頼りない!」「志がない!」「だから恋もできない!」と返しました(笑)

そこで私はひとつ考えたことがありました。

人間の「男性」と動物の「オス」とは何が違うのだろうか、と。

共通する事項として、メスに対する関心・子孫を残そうとする本能・(動物にもよるでしょうが)家族への食糧の確保くらいは言えるでしょう。


ところが、どうも先日のOLの会話から読み取れることは、この「オス」としての要件以外に、「女性」が「男性」に持っていてほしいと思う何かがあるのではないか、ということでした。


それは「公」ということです。
どんな小さなことでも自分にしかできない何かがあり、それを実行して社会の役に立つ、という公共に対する関わりを持つということ。

これが「オス」と「男性」を分ける大きなちがいのひとつなのでは? とこの一件で私は思ったのでした。