今月26日(土)の日本経済新聞の1面トップに、「カジノ20年までに3ヵ所」という記事が載っていました。また、電通の組織に、カジノ&エンタテインメント事業部とカジノ・観光プロジェクト部が創設されたそうです。
これはどう考えてもおかしいと思いませんか。
残念ながら、社会通念として、カジノはギャンブルであり、日本の明治時代には「賭博場」として、世間の裏社会に存在するものと考えられていたのではないでしょうか。
自民党政権が復権して以来、日本は世界社会に対して貢献をし、尊敬される国として再興することが、盛んに言われてきました。
そこで、日本に3ヵ所カジノを開設するという国の方針について、次のような疑問や憂慮を持つのは私だけではないでしょう。
①米国や他国にも、合法的なカジノはありますが、例えば米国の首都ワシントンにはありません。世界に誇れる日本を作ろうという国民の希望の中で、その首都である東京に開設することは絶対に避けていただきたいものですが、皆さんはどう考えますか?
②米国最大の都市であるニューヨークにカジノを作るという提案があったと聞きます。しかし、多くのニューヨーク市民の反対にあって、開設された場所はハドソン川を隔てたニュージャージー州のアトランティック・シティでした。その背景には平均的な庶民からギャンブルを遠ざけるという狙いがあったのかもしれません。
③世界で最も有名なラスベガスも米国の見識から社会に最も遠いネバダ州の砂漠の真ん中に作られました。これもやはりギャンブルや賭博が社会に与える影響を考慮した結果であったのかもしれません。
④ご存知のようにアジアの先進国であるシンガポールは2ヵ所のカジノの開設を政府が認めました。しかし、運営は米国のラスベガスサンズ社100%子会社などであり、政府はカジノの将来に対して慎重な姿勢を崩していないとの報道があります。もし国益に反することがあれば、ただちに閉鎖できる体制が作れる国情であるともいえます。これは日本では難しいでしょう。
⑤上記①でも書きましたが、世界に誇れる日本を作ろうとする中で、外国の友人に「カジノができるので、ぜひ観光に来てください」と胸を張って言う気にはなれないのですが、皆さんはどうでしょう。
上記以上に色々な問題点が考えられますが、新聞社や報道機関が、政府主導のカジノの開設についてどう思うか、世論調査をぜひ早急にしていただきたいと思います。
最後に皆さんで考えたいのは、天下の電通がどのような目的を持って、「カジノ&エンタテインメント事業部」と「カジノ・観光プロジェクト部」を開設したのか、その真意を知りたいということです。
また、政府主導ということは、各国にある日本の大使館がカジノ促進をしなければならないのでしょうか。これこそ国辱的な事態と言わざるを得ません。これが日本の将来のあるべき姿と多くの国民が考えているのでしょうか。
2014年7月29日火曜日
2014年7月24日木曜日
43:言論の自由の有難さ
先日6月11日の「ジャパン・タイムズ」に、「ニューヨーク・タイムズ」の記者Ted Rallの記事が掲載されました。
テーマは、「米国兵士はもっと戦線離脱したらどうだ?」であり、2009年6月、アフガニスタンでBowe Bergdahl曹長が水とノートと筆記用具をバックパックに入れ、全ての装備を残したまま戦線からwalked away=立ち去った、という事例を紹介しています。
また、この記事は、アメリカの湾岸戦争を真っ向から批判する内容でもあります。
また、朝鮮・ベトナム・イラクなど、1945年以降の米軍の対外進攻の中で、下院で承認されたものは一つとしてなく、全て「違法」なものであるとしています。
さらに、各戦争における、民間人を巻き込んだ不幸な事故等も「それが承知の上で行われたものだ」とまで書いています。
アメリカの大メディアである「ニューヨーク・タイムズ」の記者がこのような記事を「ジャパン・タイムズ」に掲載したということ、これ自体私には大きな驚きでした。
言論の自由を尊重するアメリカの健全さがここに伺えたような気持ちがしました。
健全さとはつまり、事実を臆せず発信していくというメディアの役割を十分に果たしている、ということです。
ここでは、記事がいかに政府の政策に反することであっても、事実を、主体性を持って国民に知らせるという義務が果たされています。
悲しいことですが、一方で我が国のマスメディアの実態はどうか、と考えざるを得ません。
我が国には、太平洋戦争を推進するため、メディアが強力に政府の後押しを行った、という過去があります。
もちろんその内容においては異なりますが、本質的なところでこの様式が保たれているのではないか?
現在でも事実を抑圧しがちな体質である日本メディアを見て、私はこのように大いに不安になるのです。
テーマは、「米国兵士はもっと戦線離脱したらどうだ?」であり、2009年6月、アフガニスタンでBowe Bergdahl曹長が水とノートと筆記用具をバックパックに入れ、全ての装備を残したまま戦線からwalked away=立ち去った、という事例を紹介しています。
また、この記事は、アメリカの湾岸戦争を真っ向から批判する内容でもあります。
また、朝鮮・ベトナム・イラクなど、1945年以降の米軍の対外進攻の中で、下院で承認されたものは一つとしてなく、全て「違法」なものであるとしています。
さらに、各戦争における、民間人を巻き込んだ不幸な事故等も「それが承知の上で行われたものだ」とまで書いています。
アメリカの大メディアである「ニューヨーク・タイムズ」の記者がこのような記事を「ジャパン・タイムズ」に掲載したということ、これ自体私には大きな驚きでした。
言論の自由を尊重するアメリカの健全さがここに伺えたような気持ちがしました。
健全さとはつまり、事実を臆せず発信していくというメディアの役割を十分に果たしている、ということです。
ここでは、記事がいかに政府の政策に反することであっても、事実を、主体性を持って国民に知らせるという義務が果たされています。
悲しいことですが、一方で我が国のマスメディアの実態はどうか、と考えざるを得ません。
我が国には、太平洋戦争を推進するため、メディアが強力に政府の後押しを行った、という過去があります。
もちろんその内容においては異なりますが、本質的なところでこの様式が保たれているのではないか?
現在でも事実を抑圧しがちな体質である日本メディアを見て、私はこのように大いに不安になるのです。
2014年7月17日木曜日
42:軍事力は“コスト”なのか、“投資”なのか
我々は何の疑問もなく、国防費は国を守るための「コスト」として捉えています。世界中で再び国防費の拡大こそが抑止力として平和を維持すると、考えられているのはないでしょうか。安部政権も例外ではありません。
国を守るためには、どのようなコストをかけてもしょうがないという、考え方に流れてはいけないのではないでしょうか。なぜなら、この考えでは、エンドレスな軍拡競争が再現されるかもしれないからです。これは恐ろしいことです。
日本人は唯一の被爆国として、このような軍拡レースの一翼を担ってはいけないと思うのです。しかし、米国との友好関係を続けることが日本の安全につながるというジレンマもあります。
米国も昨今の中東状況から軍事力と外交手段では、さまざまな紛争を解決することが非現実的であると考え始めているように見えます。そこで、日本はどのような考えを展開したら良いのでしょうか。これが、スッキリしないので、日本人の中にイライラが溜まっているのです。どうしようかという議論が日本人の間でもうちょっとなされてほしいものです。
確かに防衛費は国を守る「コスト」ではありますが、国を守るための「投資」という発想ができないかと考え続けています。国防費は投資であるという発想をすれば、「配当」は戦争がない状態といえるでしょう。ところが、現実は無配当が続いています。それどころか、増資、増資と軍拡に向かっています。
軍事費をどうやったら「配当」を生むことになるか。そして「配当」とは何か。その答えを出す努力をすることが、平和を愛する日本人に突きつけられた課題ではないでしょうか。
国を守るためには、どのようなコストをかけてもしょうがないという、考え方に流れてはいけないのではないでしょうか。なぜなら、この考えでは、エンドレスな軍拡競争が再現されるかもしれないからです。これは恐ろしいことです。
日本人は唯一の被爆国として、このような軍拡レースの一翼を担ってはいけないと思うのです。しかし、米国との友好関係を続けることが日本の安全につながるというジレンマもあります。
米国も昨今の中東状況から軍事力と外交手段では、さまざまな紛争を解決することが非現実的であると考え始めているように見えます。そこで、日本はどのような考えを展開したら良いのでしょうか。これが、スッキリしないので、日本人の中にイライラが溜まっているのです。どうしようかという議論が日本人の間でもうちょっとなされてほしいものです。
確かに防衛費は国を守る「コスト」ではありますが、国を守るための「投資」という発想ができないかと考え続けています。国防費は投資であるという発想をすれば、「配当」は戦争がない状態といえるでしょう。ところが、現実は無配当が続いています。それどころか、増資、増資と軍拡に向かっています。
軍事費をどうやったら「配当」を生むことになるか。そして「配当」とは何か。その答えを出す努力をすることが、平和を愛する日本人に突きつけられた課題ではないでしょうか。
2014年7月10日木曜日
41:よくわからない集団的自衛権
今の時期に集団的自衛権の解釈を改定する必要性や目的は何でしょうかと、思わざるを得ません。政府も説明しませんし、報道でもほとんど解説されていません。
一般の日本人はまた戦争に巻き込まれるのではないかという単純な不安を持ち続けています。私たちが目にする報道では、新解釈に使われる言葉の表現に多くの紙幅が費やされているようです。
ところが、肝心の「何のために解釈を変えるか」という目的について、ほとんど討議がなされていないことが不思議なのです。
憶測で考えられるのは、政府が日米安保の強化のために解釈の変更をしようとしているということです。日本は日米安保条約のおかげで、経済発展を遂げました。また冷戦下における米国にとってもメリットがあったはずです。そのメリットをさらに追及すること自体に問題はないと思います。
しかし、70年近く戦争で一人の犠牲者も出していない日本は、自国流の正義と自らの国益を追求するために世界中で始終戦争をしている米国とは、一線を画したいものです。このことが一般の日本人の不満につながっているのではないでしょうか。
つまり安保条約があるからといって、平和憲法を持つ日本人が、軍事による抑止力のエスカレートによって世界平和が実現できると考えることは非現実的ではないかと思うのです。
世界中が、米国主導の軍事による抑止力だけでは紛争を防ぐことが不可能であることを知るようになりました。そこで、平和国家として大きな認識を持たれている日本と日本人が、どのようなアイデアを持って、この問題の解決を図ったらよいか――。みなさん、どうしましょうか。
一般の日本人はまた戦争に巻き込まれるのではないかという単純な不安を持ち続けています。私たちが目にする報道では、新解釈に使われる言葉の表現に多くの紙幅が費やされているようです。
ところが、肝心の「何のために解釈を変えるか」という目的について、ほとんど討議がなされていないことが不思議なのです。
憶測で考えられるのは、政府が日米安保の強化のために解釈の変更をしようとしているということです。日本は日米安保条約のおかげで、経済発展を遂げました。また冷戦下における米国にとってもメリットがあったはずです。そのメリットをさらに追及すること自体に問題はないと思います。
しかし、70年近く戦争で一人の犠牲者も出していない日本は、自国流の正義と自らの国益を追求するために世界中で始終戦争をしている米国とは、一線を画したいものです。このことが一般の日本人の不満につながっているのではないでしょうか。
つまり安保条約があるからといって、平和憲法を持つ日本人が、軍事による抑止力のエスカレートによって世界平和が実現できると考えることは非現実的ではないかと思うのです。
世界中が、米国主導の軍事による抑止力だけでは紛争を防ぐことが不可能であることを知るようになりました。そこで、平和国家として大きな認識を持たれている日本と日本人が、どのようなアイデアを持って、この問題の解決を図ったらよいか――。みなさん、どうしましょうか。
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