2016年5月28日土曜日

185:恥ずかしいということ

読売ジャイアンツの野球賭博に関する取材への反応の多くは、「これは恥ずかしいことだ」とするものが多かったように思う。
世界社会に対して日本の恥ずかしいところに国民が目を向け、問題視する必要があるとおもう。


例えば、国際社会で恥ずかしいことのひとつとして、TPP交渉の日本側担当大臣の言行を挙げざるを得ない。
私の米国人の友人には、実にばかばかしいことだ、という発言も飛び出した。
あのような品性を持つひとを、日本を代表する交渉相手としていたことになんともいえない複雑な心境を持つ。


国の経営を預かる国会議員の諸先生は、国民の模範とするべき立場にあるという認識をぜひ持って頂きたい。
国民の政治離れや不信感の原因のひとつに、政治にかかわる先生方へのリスペクトが薄まっていることもあるのではないだろうか。

2016年5月25日水曜日

184:思考資源の開発 その1

178号でも触れたが、日本の優秀な頭脳集団を効率的に機能させるためには、現状を打破する何らかの試みが必要と思われる。
私は2010年に、有志とともに「思考資源開発機構」なるものの設立を試みたことがある。
現在においてもその必要性を感じる。


組織が行う意思決定の生産性を高めることが企業競争力の強化に欠かせない側面であることに異論はないだろう。
生産性を高めることは、組織が行う意思決定業務に共通の思考様式を導入することである。


音楽を例にとれば、洋楽には5線譜という約束事がある。
そのため演奏者は楽譜があることにより、合奏が可能となる。
これは共通の約束事を、各員が理解しているためである。
これに引き換え、日本の組織においては、「楽譜」に相当する共通のルールが存在しない。
そのため、「合奏」する場面で混乱が起きるのである。


さて、みなさんにもこの領域に対して関心をもってもらうために、例によってクイズを差し上げることにしたい。




ある組織において、統括部長は管理職会議の方法を改善しなければならないと感じている。というのは、現状は会議にまとまりがなく、とりわけ口数の多いメンバーが支配しがちで、実質的に何も成果が得られないまま多くの時間を費やしている状態である。
このような状況において、取り組むべき課題を明らかにしていく上で最も論理的な手順を表しているものを選びなさい。
①優先度を設定する。
②問題・関心事・課題を挙げる。
③どのように結論を出すかを決める。
④状況分析の範囲を限定する。
⑤全体像を見直す。
⑥複雑な問題を分析できるレベルまで細分化する。


(A)①→③→⑤→④→②→⑥
(B)④→②→⑥→①→③→⑤
(C)④→③→⑥→②→①→⑤
(D)⑤→⑥→②→③→①→④








ここで、議論が噛み合わないということは、ある参加者は(A)の手順で発想し、その上司が(C)に固執するような場合のことだ。
これではものごとを議論する前提自体で混乱が起こってしまうことになるだろう。
そこで解答を示すなら、(A)~(D)でムダの少ない効率的な議論の手順は(B)である。


状況分析の範囲を決める→その範疇に存在する問題を列挙する→複雑な問題を、処理しやすい部分に分解する→複数化された問題に優先順位をつける→どのように結論を出すのか決める→全体像を見直す


以上でお分かりのように、結論が求められる会議等においては、集中討議ができるように、結論に至る段取りの理解を共有することが重要である。

2016年5月21日土曜日

183:現役米大統領の広島訪問 その2


オバマ大統領の広島訪問は、日本がアメリカに「一本とられた」という感じすらするのである。
米国の一部市民の強い民意に逆らってまで行われるこの訪問は、歴史に残るものであると私は断言する。
そこで、米国と対等になるためには世界社会に向け、平和国家としての決意を表明する必要があると我が国のトップは認識しなければならない。
それは唯一の被爆国としての、世界に向けたメッセージであり、かつ、国際社会における日本国の向かうべき方向を示すものでもあってほしい。
これは日本外交が、日本のあり方を世界に示す上での大きなチャンスでもあるのだ。
現実的な平和の維持に日本がどのような貢献ができるかについて、国民的な議論を起こす良いきっかけになるのではないか。




平和、ということについて言えば、自民党の平成24年の憲法改定論では、9条の前半は以下のようになっている。
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
ここでは全く現行の憲法からの変更は行われていない。
自民党の憲法改定案ですら、このように憲法の平和の思想を変えないままにしていることは、日本国民が平和を真に求めるひとびとであることの証左ではないだろうか。
(ただし、第2項の改定案については、精査を行う必要があるように私には思える。)


日本が憲法のなかで国際紛争を解決する手段としての武力を放棄したのだとすれば、武力衝突を回避するための、オルタナティヴな手段を開発する世界社会への義務があるのではないだろうか。


今日までの平和維持は、抑止力としての軍事力、外交努力、途上国自立のためのODA援助、あるいは「ソフト・パワー」と呼ばれるものなどによってなされているのだろうが、しかしこれらに加えて、これらとは次元の違う平和のための概念を、日本が打ち出せないものかと常日頃考えてしまう。


ここで広島の話題に戻れば、177号でも触れたが、広島市民の原爆への対応は、新しい平和について考える良い事例であろう。
広島市民は、加害者である米国に対し、謝罪や賠償を要求する運動ではなく、原爆の恐ろしさを世界に認識させるための「ノーモア広島、ノーモア長崎」を打ち出した。
このことは、紛争解決に対し、当事者たちが勝者・敗者あるいは加害者・被害者という発想ではなく、これを超えたレベルでものごとを発想する、ということの重要性を我々に示唆してはいないだろうか。


あるいは非西洋の視点から平和について考えることも必要である。
未開というと差し障りがあるかもしれないが、たとえばアフリカ大陸や南アメリカの奥地に存在する部族間の紛争解決に我々が学ぶこともあるのかもしれない。
なぜなら、彼らは紛争や対立の手段として相手を完全に殲滅することはしないだろうからである。
なんにせよ、これまでの方法論とは全く異なる、平和維持のためのメソドロジーを、我々は考えなくてはならないように思われるのだ。

2016年5月18日水曜日

182:現役米大統領の広島訪問 その1

タイトルの話題について。
4月30日の177号で簡単に触れたことではあるが、もう一度よく考えてみると、これは前代未聞と言っても過言ではない歴史的な出来事となるだろう。


伊勢志摩でのG7サミット終了後、オバマ大統領が安倍総理とともに慰霊碑を訪れ、太平洋戦争で亡くなられた両国の犠牲者に哀悼の念を表する予定である。
大いに結構な、素晴らしいことだと私は思う。


G7で出される共同声明以上に、オバマ大統領の広島訪問が重要なものだと世界は受け止めるだろう。
なぜなら、G7は毎年行われるものであるが、オバマ氏の広島訪問はこれが最初で最後であるからだ。
私が間違っているかもしれないが、海外のメディアもこの訪問をG7の成果以上に重要視し、報道するのではないか、と考えている。



レームダック化した大統領とはいえ、任期中に自国の戦争犯罪ともいうべき行為にケジメをつけるというオバマ氏の発想について、我々日本人はもっと深い思考をしてもよいのではないかと思う。
この判断は、おそらくオバマ大統領自身の信念の、熟考の末の表れだとみて良いだろう。
その背景には、就任直後2009年、プラハでの核兵器の廃絶を訴える演説の理念を、行動に移さなければならない、という意志があるのではないか。


日本において、安倍総理の祖父である岸信介は、若者をはじめとする大変な国民の反対を押し切ってまで、自身の政治信念に基づき、安保条約に調印した。
安倍総理が今回の安保法制の成立に自身の政治信念をかけていたのかはわからない。
政治を行う議員に確固たる政治信念・理念を求めることは、現在の日本では非現実的な夢物語なのだろうか。
現首相にも、直面の選挙で議員数を増やすか増やさないかという関心を超えて、祖父の信条をかけた国の将来を左右するような業績を残してもらいたいと思う。

2016年5月14日土曜日

181:問題解決と意思決定、問題と課題

問題解決という言葉ほど垢にまみれて長期間使われてきた熟語はないだろう。
先月91歳で亡くなった、私の恩師であり友人のC.H.Kepner博士は、問題を次のように定義した。
「問題とは、あるべき姿に対する逸脱が発生し、そこにギャップが生じている状態」
この定義が比較的広く現在でもつかわれている。


これを踏まえて、問題解決と意思決定という、簡単に使われ、混同されもするふたつの言葉の関連について考えたい。
要は、どちらを上位概念として位置付けるかである。


意思決定がなされているという「あるべき姿」に対して、なされていないという逸脱が発生しているのであれば、この状況を「問題」として差支えない(問題解決が上位概念)。
あるべき姿からの逸脱という状況を改善するために最適な選択肢を決定するということもまた考えられるだろう(意思決定が上位概念)。


どちらを上位概念にもっていくかは当事者が判断することであり、一概には言えないけれども、このような整理をすることにより、分析の効率が改善されると思う。
言葉の定義や、その関連について、きちんと確認をしながら物事を考えたいものである。






また、問題解決ということについてもう少し考えたい。
問題解決をするとき、多くの場合、問題を処理しやすい諸要因に分けて、それらを課題として扱うという智慧が必要である。


「問題」という語の他に、「課題」という語が登場してしまい、ややこしくなってきてしまったかもしれないが、「課題」をここで簡単に定義すれば、「次にとる行動」のことである。
次にとる行動とは例えば、原因を究明する、選択肢を選ぶ、リスクへの対応を講じる、調査を行う、実態を把握する、優先順位を付けるなどである。
よって、次にとる行動が示唆され、理解されているときにしか「課題」という表現はふさわしくない。


従って、平たく言ってしまえば、問題解決というものは、問題が分割され、結果生じた諸課題が処理されることで達成される、と考えるのがよいだろう。




ちなみに、問題解決の手法を経験的に分類すると、下記のようになる。
・経験や知識から状況を把握して、解決策を引き出す
・直観によって解決策を導く(過去に同一の現象があれば、それが参考になる場合もある。しかし、同じような現象でも原因が違う場合もあるので注意)
・ある種の天才的なひらめきによって解決策を得る
・論理的な分析によって問題を解決する


もちろん4つ目の論理的な分析が、私がここで強調したいものだ。
とはいえ、私の経験では、直面する問題の8割程度は第一と第二のアプローチで処理できてしまう。
しかしこれでは上手くいかないことも存在するのである。

よく考え、根拠を明確にして、論理的に結論を出す、ということが、このときなくてはならないものなのである。

2016年5月11日水曜日

180:分析という行為の本質

「分析」という言葉に関して、『広辞苑』では以下のように定義がされている。
「ある物事を分解して、それを成立させている成分・要素・側面を明らかにすること」
この定義は、日本的であり、ものづくりを得意とする思考の特徴である。


我々は、「分析」と言ったときに、つい、それを目に見えるモノについてのものだ、と考えがちではないだろうか。
しかし、実際には、「分析(Analysis)」という語には、目に見えないものについて精緻に考える、ということも意味している。


ここで言いたいのは、思考過程・思考様式のような、目に見えないものについても、我々はきちんと「分析」を行い、これを確認する必要があるのではないか、ということだ。
これが行われず、目に見えるものについての「分析」ばかりが先行すると、判断業務にムリやムダが生じ、必要のないものごとに様々なリソースが割かれることになってしまうだろう。


以前の記事でも話題に挙げた、目的と手段ということについても、判断業務の「分析」として考えると、よりスピーディに精度の高い結論を得ることにつながるのではないか。


「分析」の定義にあるように、ものごとを分解して対応することが難しい背景には、日本語の特徴があると思う。
つまり、単数形と複数形を意識して区別しない言語であるということだ。


組織で上司が部下に対し、「君の部署の問題は何か」という質問をしたとしよう。
回答する担当者は、多くの場合、「これが問題です」というひとつの問題を提示するに違いない。
これでは全体像を開示することにならない。
あるいは「対策は何だ」という質問も、「諸対策は何か」とする方が望ましいだろう。


回答に複数形の“s”を付ける発想を意識したいものだ。

2016年5月7日土曜日

179:目的と手段の混同

日本人に限らず、ものを決める場合、どうしても目的と手段を混同し、これらを区別をして分析をする意識が薄いことがある。
それは、手段に短絡することである。


例えば、会社で何かを購入する立場の人間は、どうしてもカタログを集める、そして各社の担当者から商品についての情報を取るということになるだろう。
これはまさに目的を考えずに手段に短絡するような一例である。


ある会社の企画部が企業買収よる事業拡張を検討する場合、どうしても対象となる候補会社を考え、それぞれに対しての情報を集める、という方法を取るに違いない。
これも手段への短絡である。


手段に短絡するひとつの原因には、ものごとの情報を集めるということには、知的好奇心を満足するという誘惑がある、平たく言ってしまえば、それは楽しいことだからだ、ということがある。
ところが、経営資源(ヒト・モノ・カネ・情報など)の有効活用を考えた場合、また手段に短絡した分析の堂々巡りを防ぐためには、「何のために、何を、どうする」という分析テーマの設定をすることが重要である。
この例で言えば、「事業規模拡大のために、買収する企業を、選定する」ということになる。
タイトルにもあるこの場合の目的というのは、上記のここでいう「何のために」に該当する。


例えば
①5年後の年間売上が20%増加すること
②当社の技術的弱点の強化につながること
③買収金額はできるだけ少なくすむこと
④グローバル戦略対応に貢献できること


など、十数項目の目的が設定されるだろう。
これらの「目的」に対して、「手段」である対象の複数の買収候補がどのように評価されるか、という発想をしていくのである。
実際の大型案件に対する判断業務は複雑なものであるが、目的と手段を分けて考え、手段を検討する前に、諸目的について合意を得ておくことが望ましい。


このような考え方は、我々の日常の判断事項にも応用することができる。
仮に下記のような問題を想定したとすると、みなさんだったら、どのようなアプローチをされるだろうか。




中村さん一家は、両親と同居することを決めたため、新居の購入を検討している。
中村夫人は購入金額に基づき、いくつかの不動産会社を回っている。
中村氏も友人に相談し、いくつかの物件が候補として挙がっている。
さらに、子供の通学、病院への利便性、職場までの通勤なども考慮に入れなければならないと思っている。
このようななかで、あなただったらどのように考えるだろうか。


A.最初に購入物件のおおよその地域を選ぶ。
B.まず購入する住居を判断するための項目について合意をする。
C.信頼性の高い大手の不動産会社に専門的なアドバイスを求める。
D.新居を決める前に銀行の融資計画を相談する。






ここまでの説明から、言うまでもなく、効率的なアプローチはBであろう、ということになる。

2016年5月4日水曜日

178:日本が持つ資源

日本には、数多くの優秀な人材があると言われる。
しかし、あまりこのことについて深く考えられることはなく、例えば「技術力ある日本」というような短絡的な解釈・理解が流布してはいないだろうか。


黒川清という人物がいる。
彼はつねづね「イノベーション」という語を「技術革新」と訳したことは誤りだった、という主張をしている。
「イノベーション」とは、単なる技術の問題ではなく、ものごとを考えるということについても用いることができる語なのだ、ということだ。


私がここで言いたいのも、そのようなことである。
私は、日本の重要な「資源」を効果的に活用し、非製造分野に活用するためには、何らかの工夫が必要だとかねがね考えている。
ここで言う重要な「資源」とは、思考資源のことだ。


製造業だけではもはや経済のまわらない現在、国を挙げて日本の思考資源を開発し、ソフトの分野における商品をつくることにつなげる思考が求められているのではないか。


ちなみに、思考資源の活用の原点は、『広辞苑』の「思考」の定義、すなわち「問題・課題に出発し、結論を導き出す観念の過程」であり、つまりここで重要なのは考える「過程(process)」である。
よって、思考資源を有効活用するには、問題解決や意思決定における、結論に至る考え方の工程・作法を知り、共有する、つまりこれらの標準化を行う必要がある、ということになるだろう。





このことは、日本の教育改革においても、知識偏重教育を考え直すような大きな課題であると思うのだが、いかがだろう。
日本人の思考資源を、知的な領域で結集し、効果的に活用していくことができるような仕組みが必要なのではないか。