2016年5月21日土曜日

183:現役米大統領の広島訪問 その2


オバマ大統領の広島訪問は、日本がアメリカに「一本とられた」という感じすらするのである。
米国の一部市民の強い民意に逆らってまで行われるこの訪問は、歴史に残るものであると私は断言する。
そこで、米国と対等になるためには世界社会に向け、平和国家としての決意を表明する必要があると我が国のトップは認識しなければならない。
それは唯一の被爆国としての、世界に向けたメッセージであり、かつ、国際社会における日本国の向かうべき方向を示すものでもあってほしい。
これは日本外交が、日本のあり方を世界に示す上での大きなチャンスでもあるのだ。
現実的な平和の維持に日本がどのような貢献ができるかについて、国民的な議論を起こす良いきっかけになるのではないか。




平和、ということについて言えば、自民党の平成24年の憲法改定論では、9条の前半は以下のようになっている。
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
ここでは全く現行の憲法からの変更は行われていない。
自民党の憲法改定案ですら、このように憲法の平和の思想を変えないままにしていることは、日本国民が平和を真に求めるひとびとであることの証左ではないだろうか。
(ただし、第2項の改定案については、精査を行う必要があるように私には思える。)


日本が憲法のなかで国際紛争を解決する手段としての武力を放棄したのだとすれば、武力衝突を回避するための、オルタナティヴな手段を開発する世界社会への義務があるのではないだろうか。


今日までの平和維持は、抑止力としての軍事力、外交努力、途上国自立のためのODA援助、あるいは「ソフト・パワー」と呼ばれるものなどによってなされているのだろうが、しかしこれらに加えて、これらとは次元の違う平和のための概念を、日本が打ち出せないものかと常日頃考えてしまう。


ここで広島の話題に戻れば、177号でも触れたが、広島市民の原爆への対応は、新しい平和について考える良い事例であろう。
広島市民は、加害者である米国に対し、謝罪や賠償を要求する運動ではなく、原爆の恐ろしさを世界に認識させるための「ノーモア広島、ノーモア長崎」を打ち出した。
このことは、紛争解決に対し、当事者たちが勝者・敗者あるいは加害者・被害者という発想ではなく、これを超えたレベルでものごとを発想する、ということの重要性を我々に示唆してはいないだろうか。


あるいは非西洋の視点から平和について考えることも必要である。
未開というと差し障りがあるかもしれないが、たとえばアフリカ大陸や南アメリカの奥地に存在する部族間の紛争解決に我々が学ぶこともあるのかもしれない。
なぜなら、彼らは紛争や対立の手段として相手を完全に殲滅することはしないだろうからである。
なんにせよ、これまでの方法論とは全く異なる、平和維持のためのメソドロジーを、我々は考えなくてはならないように思われるのだ。

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