2016年2月25日木曜日

170:永田町の修身教育

最近の報道を見ていると、日本人のよい特性として、「思いやり」「やさしさ」「親切」といった社会生活におけるひとびとの気づかいにかかわることばが多いように思う。
これは日本人の美徳として大いに評価される。


ところで、以前永田町で、日本の教育において、「修身」「道徳」を復活するべしという議論がさかんになされた。
しかし、この声は最近まったく聞こえてこない。
それどころか、社会を活性化し、正しい方向にもっていくために不可欠といっても過言ではない「正義」「公平」「公正」「良識」「尊厳」「正直さ」「誠実さ」「敬い(Respect)」「勇気」といった表現がまったく見られない。
社会が自己革新をし、前進をするときにやさしさや思いやりだけがそのドライビング・フォース(駆動力)にはなりえない。
若者が未来の日本をつくっていくのには、こういった考えが必ず必要であるのではないか、と思うのだ。


古い人間の発想として葬るなかれ。

2016年2月17日水曜日

169:ちょっと気になる表現

つい最近の新聞に、日本交通と大塚製薬が連携し、キャンペーンを展開するという報道があった。
この記事の中に、ある商品が無料で「もらえる」という記述があった。
どうでも良いことなのかもしれないが、この「もらえる」という表現がどうも気になってしまう。


「もらう」という言葉には、どこか企業側が上の立場、消費者の側が下の立場、というように聞こえるニュアンスがありはしないだろうか。
「あげる」企業と、「もらう」消費者、といったような上下関係のことだ。
実際、辞書にも「もらう」には「請うて自分のものとする」といった定義も記載されている。
私のような古い人間からすると、ものを無条件で「もらう」ことには抵抗があるのだが、みなさんはどのように感じるだろうか。


この表現を、企業が「提供する」といったような表現に置き換えることはできないのだろうか。
企業の広報や報道に携わる人間には、もう少しこういった言葉のニュアンスに気を配っていただきたいものだと思う。
ささいなことなのかもしれないが。

2016年2月10日水曜日

168:政治家という立場


政治家という責務ある立場に立つことについて、私が最近思い出すエピソードをふたつ書いてみたい。


ひとつめ。
ひと昔前、当時のインディアナ州知事であった友人のフランク・オバノンを訪ねたことがあった。
執務室に面談に行ったときの話である。
知事は予定が詰まっていた様子で、20~30分待たされることになった。
ここで、秘書が、日本人形や刀剣といった、日本の伝統工芸品を私のところに持ってきて、これらを値踏みしてくれと頼んできたのだった。


当時といえば、日本企業の米国進出が盛んな時代で、有利な進出条件を引き出すため、知事に会おうとする日本企業の多い時代であった。
秘書が私に値踏みを頼む理由がよくわからず聞いてみたところ、面会者が持ち込んだ知事への土産は、すべて価値を概算・記録し、保管しなければならないという法律がある、とのことだった。


米国にはロビイストによる活動もあるようだが、政治家への贈り物に対してこのような規定があるということと、日本の「口利き」の現実とのギャップに茫然としてしまった。


ふたつめ。
米国上院で活躍し、共和党の院内総務も務めたヒュー・スコットという人物がいた。
中国通であると同時に親日家でもあり、日本にもたびたび訪問していた。
理由はわからないけれども、非常に親しくさせてもらっていたものだった。


私が妻とワシントンを訪問した際、スコット議員が上院議員食堂で昼食をご馳走してくれた。
この時、和紙でできた便箋のようなものを何の気なしに手土産に彼に贈ったのだった。
するとスコット議員はにわかに表情を変え、私を近くの売店へと連れて行き、プレゼントだと言ってボールペンを買い、渡してきたのであった。


ここに私は、米国で公の責任ある立場に立つということの厳しさを見たように思う。

2016年2月4日木曜日

167:「議論」とはなにか

このたびの安保法制の国会審議において、116時間もの議論がなされたと言われている。
これはデータと取りはじめてから歴代4位の数字であるそうだ。
そこで、政治家は言う。
「時間をかけて、国会できちんと議論することが重要だ」


議論の時間とその結果としての質は、比例するものなのだろうか?
日本語の辞書による「議論」の定義は、「互いに自分の説を述べあい、論じあうこと。意見を戦わせること。また、その内容」とある。
私はあんぐりとしてしまう。
これでは議論をする目的がまったく不明瞭だ。
議論をする目的のひとつは、結論を出すことにあるのではないか。


意見を述べあう「作法」もまた必要だ。
「作法」とは、私なりに言えば、ものごとの手順のことである。


効率の良い議論のためには、結論に至る考え方の手順を「作法」として共有することが必要であり、この「作法」を知らずに議論を行っても、堂々巡りや、筋の通らない混乱を招くことになると考える。
議論を行う場合、どのような考え方の手順を踏んで結論を出すか、という関係者の合意があってはじめて、意義のある議論がされることになるだろうと思う。
今更ではあるが、もちろん、結論を出すことを目的とせず、継続して話し合うようなものもあるだろうが、ここでは結論を求められる議論に限定して考えている。


国民の多くが国会の委員会での議論に不満を持つ理由のひとつは、この議論の「作法」が理解されていないからであるように思う。
国際的に通用する議論の「作法」への認識が求められている。


欧米の例で恐縮だが、会議の運営法の原点として、“Robert's Rules of Order”(「ロバート議事規則」)という19世紀後半につくられた「作法」がある。
国際社会では、このような「作法」がスタンダードとして存在している、ということの重要性を認識したい。