2016年6月29日水曜日

192:地政学的「平和」の定義とは?

国際政治の専門家に叱られるかもしれないが、日本の安全保障について考えている一国民として、いささか垢にまみれた「平和」ということばの定義を、私なりに披露してみることにしたい。




地政学的にみた「平和」とは、あらゆる紛争や対立が、ひとびとの生命・財産に対して脅威を与えないようにマネージメントされている状態である。


人間や、人間社会に憎悪やもめごと、対立が避けられないという現実を踏まえて、平和をどう定義するかについて、これといった普遍的な定義はないのかもしれないが、上が私なりの定義である。
みなさんの批判を仰ぎたい。


ベトナム戦争時代、当時平塚に住んでいた私は、御殿場の駐屯地にいる米兵と会話をする機会があった。
彼は、ベトナム戦争の悲惨な体験から、彼なりに平和について考え、まさに上の定義に近い話を私にしたのだった。
これは私なりの平和概念の原点といってもいいようなエピソードである。
余談めいてしまうが、ここに記しておくことにする。

2016年6月22日水曜日

191:ピースパワー論

憲法9条をどうするかという議論が盛んになってきている。
9条は、以下のようになっている。


日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
私は、この9条の理念は素晴らしいものであると思う。
9条改定派の人々がいうように、これは確かに戦後アメリカによってつくられたものであるのかもしれない。
しかし、だからといってこの素晴らしい理念を捨てて構わない、ということにはならないのではないだろうか。


さて、しかしここで書きたいのは、上の考えとは関連しつつも、ややちがったトピックについてである。
それはつまり、「国際紛争を解決する手段としての武力の放棄」を憲法でうたうのであれば、平和国家たる日本は、武力に代わる紛争解決の手段を開発することが、世界社会に対する使命なのではないか、ということだ。
私はこの紛争状態をマネージする方法論開発の構想を、近年「ピースパワー論」というかたちで考えている。
これはあくまでまだ試案であるし、また内容としてもあまりに非現実的なものでもあるのかもしれない。
しかしこういった考えが、平和とは何か、これを実現するためにはどのようなことが必要か、といった議論の刺激になれば非常にうれしい。
少しずつではあるが、この「ピースパワー論」について、これからみなさんにお伝えしていければと思う。

2016年6月18日土曜日

190:国民の政治離れは本当か

来月7月は、図らずも大きな選挙がふたつある。
東京都民にとっては、お疲れさまなことだ。
なぜお疲れさまかといえば、現在、適切な議員や都知事を選ぶためにどのようにしたら良いのかが、よくわからなくなってしまっているように思えるからだ。
だからこそ、疲れてしまうのだ。




選挙権が18歳に引き下げられ、高校生がどのように選挙をしたらよいかという模擬投票のニュースがよく見られる。
私が生活しているなかでは、さまざまな会合や雑談において、「日本の政治はこれでいいのか」という話題が出る。
しかし若者の世代においては、選挙権の拡大とはうらはらに、一部を除いて、政治に対する関心が一世代前より少なくなっているのかもしれない。
この原因を考えなくてはならない。


政治離れと言われる現象の背景のひとつには、政治における矛盾があるのではないだろうか。
つまり、国民の代表として国家の経営を委託するために代務者を選ぶのであれば、代務者はこの委託を受け、命がけでこの国をより良い社会にするために問題解決をし、意思決定をし、国の進むべき方向の設定を行わなければならない。
にもかかわらず、現在の日本の政治家は「国民の理解を得て」という発言を連発する。
これは矛盾ではないか。
なぜならば、すでに選挙を通じて「国民の理解」は得られているからだ。
「国民の理解を得る」ということが、具体的にどういうことなのか、そのあたりがいまいち判然とせず、私などはどこか矛盾を感じてしまう。
「国民の理解」という語が、議会のパフォーマンスにおける言葉遊びになってしまってはいないだろうか。






多くの国民のフラストレーションは、政治家が信念と自信をもって判断を下し、それを着実に実行するという基本的なコンセプトが、いまやきちんと実現されていないことにあるのではないだろうか。
二言目には「国民の理解を得て」「民意を吸い上げて」と言うのは、そろそろやめにしてもらいたいものだ。


これは例えば、企業の経営者がいちいち「株主の理解を得て」経営を行っているわけではないのと同じことである。

2016年6月15日水曜日

189:人間の根

ファミリーレストランなどでは、装飾として花瓶に花が活けられているのをよく見る。
もちろん、このほとんどは造花である。




さて、造花に対していくら水をやり肥料をやっても、造花は造花であるので、育つわけではない。
この造花と本物の植物の違いとは何か、と考えてみると、それは「根」があるかないか、ということだ。
この造花と本物の植物の違いを人間にあてはめて考えてみたい。


人間も、根がない造花的な人間にいくら教育や指導という水、肥料を与えても、育つはずがないだろう。
そこで、学校教育においても、企業内教育においても、人間の「根(Roots)」は何か、という視点から、ひとの成長を考え直してみてはどうか。


このコンテクストでの「根(Roots)」の定義は、例えばウェブスターによると、ものごとの不可欠な要素、行動やクオリティーの源といったようなものが当てはまるだろう。


しかしこれでは抽象的であるので、人間の根というものについての定義をここで私なりにしてみたいが、しかしいささか逆説めいてしまうのだが、これは各自が死ぬ気で考えるものであり、それぞれに違ってもよい、というものなのである。
私個人としては、探求心、あきらめないということ、目的意識を持つ、自分の歴史を意識すること、などを挙げたいが、必ずしもこれらでなくても構わない。
ともかく、個人として、何か自分の意識の支えとなるようなものを「根」として持っていることが、非常に重要なのではないか、ということである。








やや話はズレてしまうかもしれないが、ある友人の元代議士と近頃会い、彼との会話のなかで、舛添都知事の話題が出た。
そこで、政治家のモラルや倫理観において、どこに線引きをするか、という質問を私はされた。
例えば、公用車で別荘に行く、ということが、果たして政治倫理に触れるかどうか、といったことである。
私は、個人としての人間の行動規範があるかどうかにかかっている、と答えた。
例えば、秘書官の「この程度のことは公費でまかないましょう」という発言に振り回されるようでは、公人の資格はない。
自身の行動基準、倫理観で判断するべきだ、と私は思う。
これは各々で違ってよい、ということでもある。


例えば公用車で別荘に行く、そのときに途中で家族を乗せていくかどうか、という問題が出てくるだろう。
私自身が公人であったとすれば、これは倫理規定に触れることではない。
ただ、週末にも運転手を引き留めておいて使うということは、私は公人としてはやらないだろう。


これは先ほどの「根」にかかわる問題であるだろうし、また良識(Common Sense)の問題でもあるだろう。

2016年6月11日土曜日

188:「再発防止」の意味

企業で不祥事が起きたときに、ほとんどの場合、当該企業のCEOおよび担当役員が記者会見を行い、判で押したように90°の角度で頭を下げる。
その際、取材記者から、「再発防止の具体的な方策は何か」という質問は、ほとんど聞かれない。
本来ならば、不祥事の真の原因を追究して、その原因をどのように取り除くのかということが確認されなければ、本当の再発防止にはならないのではないか。


余談になるが、なぜ判で押したように責任者が90°頭を下げるのか気になったことがある。
調べてみれば、広告代理店やPR会社が、「不祥事発生時の記者会見のリハーサル」を企画し、企業に売り込んでいる、ということだった。
リハーサルの模様をビデオに録り、評価やアドバイスを行うというものだそうだ。
これは大変いい商売であるらしい。
なんとも情けない話であるようにも思われるのだが。




話を戻すと、「再発防止」ということについて、単に「心を入れ替えます」という精神論だけでは意味がないのである。
もちろん誠意をみせ、きちんと謝罪するということは日本社会では必要なことではあるのだが、一方で問題現象の原因(複合原因の場合もある)をきちんと想定し、検証して、それを除去するための諸対策を確認することなしに再発防止は担保できないのである。


「不祥事」というのは、必ず過去におきたことであるのだから、事実としての情報が、確実に存在しているはずなのだ。
「不祥事」が起きたときに、それをもたらすどのような諸変化(諸原因)が存在したのか、ということを、企業はきちんと考えなければならないし、またマスメディアもそのことをきちんと問わねばならない、と私は考える。

2016年6月8日水曜日

187:納税義務

どの国でも、収入や財産に対して一定の税金を課する、ということになっている。
つい最近私も、親から相続した不動産に対して、「固定資産税 都市計画税 納税通知書 在中」と書かれた封筒が送られてきた。


これまでは納税ということについて、それほど強く意識することなく都民の義務としてこれに従ってきた。
しかし、今回の報道での都知事の発言をみていて、はじめて都に対して税を納めるということに心理的な抵抗をおぼえた。


あれだけのひどい行動、発言を行った都知事が公人として責任を感じ、辞任をするのであれば、当然納税する。
退任しなければ、正直に言ってしまえば納税はしたくはない。


もちろん納税をしたくはない、などと言っても仕方のないことではあるが、一方で例えば、知事が辞任するまで税金を供託するという方法があるかもしれない。


知事が辞めるまで供託するということが、都民のせめてもの抵抗として考えられないか。
もちろんこれは非現実的で、技術的に不可能な、突拍子もない発想かもしれないけれども、これを国家レベルで行うと、どうなるのだろうか。
革命にでもなるのだろうか。


良識のない政治家の存在を知りながら税金をただ納める、というのも、なかなか遣り切れない話ではないか。

2016年6月4日土曜日

186:平和とは何か

数日前、米国留学帰りと昔の教え子5、6人との会話のなかで、「平和」の定義についての話題になった。
PCで検索するなどして「平和」の定義を参照することもあったが、これは、というものは見つからなかった。
学問的に、一般通念的に妥当であるかはわからないが、ここで、私なりに長年考えてきた平和の定義について披露をしてみたい。



「平和」とは、あらゆる種類の紛争や対立が、ひとびとの生命や財産に対する脅威なくマネージされている状態だと私は考える。
人間や人間社会から憎悪や悪意がなくなることはないだろう。
これは人間の性であり、これを前提にした上で、どのように殺戮を回避するのか、ということを考えなくてはならない。

例えば、これは以前にも書いたことがあるかもしれないが、ある人はBuisinessを、「平和時における戦争の状態(peace-time form of war)」と見事に定義していた。
ビジネスの世界ですら、当然人間同士の競争はあるのである。


オバマ大統領が広島を訪問し、平和に対する論議がなされるときに、わたしが上に挙げた定義がすこしでも役にたてばうれしい。


余談めいてしまうが、私は以前の号で、原爆使用についての謝罪をアメリカに求めてはいけない、と書いたが、実際には日本側からそのような発言はどこにもみられなかった。
このことは、日本人の、黒白とけじめをつけずにグレーなエリアの存在を認めることにより、問題の解決を図るという智恵が発揮された良い例なのではないかと思う。