2016年6月15日水曜日

189:人間の根

ファミリーレストランなどでは、装飾として花瓶に花が活けられているのをよく見る。
もちろん、このほとんどは造花である。




さて、造花に対していくら水をやり肥料をやっても、造花は造花であるので、育つわけではない。
この造花と本物の植物の違いとは何か、と考えてみると、それは「根」があるかないか、ということだ。
この造花と本物の植物の違いを人間にあてはめて考えてみたい。


人間も、根がない造花的な人間にいくら教育や指導という水、肥料を与えても、育つはずがないだろう。
そこで、学校教育においても、企業内教育においても、人間の「根(Roots)」は何か、という視点から、ひとの成長を考え直してみてはどうか。


このコンテクストでの「根(Roots)」の定義は、例えばウェブスターによると、ものごとの不可欠な要素、行動やクオリティーの源といったようなものが当てはまるだろう。


しかしこれでは抽象的であるので、人間の根というものについての定義をここで私なりにしてみたいが、しかしいささか逆説めいてしまうのだが、これは各自が死ぬ気で考えるものであり、それぞれに違ってもよい、というものなのである。
私個人としては、探求心、あきらめないということ、目的意識を持つ、自分の歴史を意識すること、などを挙げたいが、必ずしもこれらでなくても構わない。
ともかく、個人として、何か自分の意識の支えとなるようなものを「根」として持っていることが、非常に重要なのではないか、ということである。








やや話はズレてしまうかもしれないが、ある友人の元代議士と近頃会い、彼との会話のなかで、舛添都知事の話題が出た。
そこで、政治家のモラルや倫理観において、どこに線引きをするか、という質問を私はされた。
例えば、公用車で別荘に行く、ということが、果たして政治倫理に触れるかどうか、といったことである。
私は、個人としての人間の行動規範があるかどうかにかかっている、と答えた。
例えば、秘書官の「この程度のことは公費でまかないましょう」という発言に振り回されるようでは、公人の資格はない。
自身の行動基準、倫理観で判断するべきだ、と私は思う。
これは各々で違ってよい、ということでもある。


例えば公用車で別荘に行く、そのときに途中で家族を乗せていくかどうか、という問題が出てくるだろう。
私自身が公人であったとすれば、これは倫理規定に触れることではない。
ただ、週末にも運転手を引き留めておいて使うということは、私は公人としてはやらないだろう。


これは先ほどの「根」にかかわる問題であるだろうし、また良識(Common Sense)の問題でもあるだろう。

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