2017年2月22日水曜日

241:クリティカル・シンキングを考える

教育改革が必要であるという声をよく聞く。
しかし、その内容については本質的な議論がなされてきていないように思う。
文部政策においても、問題点に対して解決策に短絡することが多いのではないだろうか。
例えば「日本の国際化の促進がなかなか進まない→国際コミュニケーション力不足→英語教育に力を入れる」などの短絡的な政策はその典型である。

もっと本質的なことに関して、日本の教育制度の改革の必要性を感じている人は多く、私もそのひとりである。
一時期「論理的思考」や「クリティカル・シンキング」といった思考領域の強化が叫ばれ、多くの書籍も出版された。
しかし、これも一過性だったようで、最近はあまり聞かなくなってはいる。

しかし、そもそも「クリティカル・シンキング」とは一体何なのだろうか。
私なりに「思考」に関する調べ事をした結果、「クリティカル・シンキング」に関するいくつかの表現および解説が出てきたので、今回はこれを下記に紹介したい。

・「クリティカル・シンキングは、能動的に(actively)、かつスキルをもって(skillfully)、抽象化すること(conceptualizing)、応用すること(applying)、分析すること(analyzing)、総合すること(synthesizing)、そして/あるいはまた、観察(observation)、経験(experience)、熟考(reflection)、推論(reasoning)、コミュニケーション(communication)によって集められた、あるいはそれによって生じた情報の価値を、信念(belief)や行動(action)の指針として見極めることを行う、知的に(intellectually)訓練された(disciplined)プロセスのことである。」(マイケル・スクリヴェン、1996)
・「最も正式(most formal)定義は、クリティカル・シンキングを以下のように定義している。それはすなわち、分析(analysis)、総合(sythesis)、問題認識(problem recognition)、問題解決(problem solving)、推論(inference)、評価(evaluation)といった、意図に基づく、合理的で(rational)より高次の(higher order)思考スキル(thinking skills)の応用である。」(T. A. アンジェロ、1995)
・「クリティカル・シンキングは、思考そのものを評価する(assess)思考のことである。」(Center for Critical Thinking, 1996)
・「クリティカル・シンキングは、次のように思考する能力である。①その強み(strength)と弱み(weakness)を認識する(recognize)こと。またその結果として、②その思考を、より改善された形態(improved form)で再構築する(recast)こと。」(Center for Critical Thinking, 1996)

引用が多くなってしまったので、「クリティカル・シンキング」の重要な一側面である「論理思考(logical thinking)」についての私なりの定義を最後に書きたい。

論理思考能力(logical thinking ability)とは:直面する課題(issue)を明確にし(clearify)、結論(solution)に至る科学的(scientific)で体系的(systematic)な思考プロセス(thinking process)を構築できる普遍的な能力(universal ability to structure)

このような能力が整理されていると、相手が誰でも、どこででも、どんな状況下でも対応することができるのである。
ただ単に「英語力をつける」というだけではなく、このような「思考の型」を日本人がきちんと身につける必要があるのではないだろうか。

2017年2月17日金曜日

240:日本国憲法の無改正

ある会合で、駒澤大学名誉教授西修氏の憲法改正についての話を聞く機会があった。
西教授の話の中で興味深かったことのひとつは、さまざまな国の憲法制定年と、その後の憲法改正の回数をまとめた資料であった。
これに基づき、いくつか簡単に例を挙げたい。

・アメリカ:1787年制定。1992年までに18回改正、27か条の追補。
・オーストラリア:1901年制定。1977年5月までに8回改正。
・ドイツ:1949年制定。2015年1月までに60回改正(のべ201か条)。
・中華民国:1947年制定。2005年6月までに7回改正(うち1回は無効判決)。
・ノルウェー:1814年制定。改正は頻繁(400回以上とも。近年2014年に「大改正」)。

これらに対して、日本国憲法は、1946年制定以来、無改正で現在まで続いている。
日本での憲法改正の議論に慣れていると、海外での改正の多さに驚くのである。

西氏によると、戦後当時GHQ民生局でオリジナル・ドラフトを起草した8人と1984~85年の間に面談をしたところ、「まだあの憲法を使っているのか? 1か条も変えていないなんて!」とあきれられたという。

憲法改正反対論者の主義主張はさておき、世界情勢が激変する中で、憲法が無改正であり続けているという事態を直視する必要があるだろう。
憲法制定にどのような経緯があったにせよ、日本人が主体的に、自身で改正する必然を認めざるを得ない。
現在の憲法が普遍的なものとは言えず、これをそのままのかたちで無理に継続しようとすることは非現実的である。

2017年2月15日水曜日

239:三菱自動車と経済産業省

昨年、三菱自動車の軽自動車燃費データ改ざんが発覚し、メディアは大きくこれを取り上げた。
経営陣は責任を追及され、信頼を失った三菱自動車は日産の業務提携を受けざるを得ないという状況に陥ったことはみなさんの記憶に新しいだろう。
このとき、メディアは鬼の首をとったようにこの不祥事を取り上げ、激しく三菱自動車を攻撃した。

ところで、昨年12月26日の日本経済新聞では、経済産業省が繊維産業部門にかんする統計データの改ざんを行っていたということが、ひっそりと報道された。
読者のみなさんの中には「そんなものか」と読み過ごされた方もあるかもれない。
その他のメディアの動きに関しても、私の知るところ、日経以外でこの改ざん問題が取り上げられているところは見なかった。
しかし私は、このことを重大なマスメディアの問題として取り上げる必要があると考える。
その対象や内容が何であれ、国家が発表する統計が改ざんであったことは、国民にとってきわめて重大な関心事であるはずだ。

昨年4月30日の神奈川新聞の論説で、「報道の独立性に危機」という見出しで記事が掲載された。
これはデービッド・ケイ米カリフォルニア大教授が、国連特別報告者として日本の「表現の自由」について調査を行うために来日した際の会見を取材した記事であった。
ケイ氏は、「(新聞や出版などの)活字メディアも政府を批判する記事の掲載が難しくなってい」る、との見解を示したということだった。

現在の日本に充満する恐ろしい傾向として、「何が言われたか」ではなく「誰が言ったか」かを重要視する傾向がありはしないだろうか。
上の会見や記事において、ケイ氏は非常に重要なことを述べているのである。
にもかかわらず、この意見は大メディアには取り上げられなかった。
それはおそらくケイ氏が「有名な」人物ではなかったからである。
きわめて危険な傾向ではないだろうか。

時の権力者の言うことばかりが報道され、正当なサイレント・オピニオンが無視される現象に、我々は注視しなければならない。

2017年2月4日土曜日

238:新しい日米安全保障条約の意味

日米安全保障条約は、1951年9月8日に調印され、翌年4月28日から効力を持つことになった条約である。
この調印日は、サンフランシスコ平和条約が締結され、日本が国際社会に復帰した日でもある。
安保条約に関しては、歴史的に「防衛費タダ乗り」論といった批判を内外から受けてきた。
確かに、米国の「核の傘」のもとで我が国の安全が保障されてきたことはまぎれもない事実であろう。

このように日本の戦後処理に際して寛大であった米国は、それ故に、中国からいまだに非難されている。
背景のひとつとして、日本が戦争賠償金を中国に支払っていないという事実もあるだろう。
蒋介石が賠償支払いの必要性を論じなかったこともあって日本が中国に賠償を支払わなかったことは、現在日本ではあまり話題にならないが、重要な事実としてあったことである。
また同様に米国も日本に戦争賠償を要求しなかった。

さて、昨今の中国の台頭という現実に対して、日米安保体制の本質や目的もかなり変わってきているという実態を認識する必要があるのではないだろうか。
安保体制は日本の安全を守るためにのみ存在した条約であったが、今日では、アジア地区全体の安定と安全保障を担う条約にその意義が変化しつつあることの認識を持ちたい。
日米安保体制の本質の拡大がアジア全体の安定に及ぶのだ、という認識を日米両国はもとより、アジア諸国が共有する必要があるのではないだろうか。

2017年2月2日木曜日

237:世界秩序はどうなるのか

本題に入る前に、なぜ私のような年配者が好き好んでこのような発信をするかについて述べたい。
世の中の大きな変革期を前にしたとき、いちばん危険なことは、「仕方がない」「どうしようもない」といったように現実から目を背け、あきらめ、想像性や夢の芽を潰してしまうことだ。
悲劇はそこから始まるのである。
日本人のひとりとして、傍観することが危険であるという認識から、このブログを続けることにしたい。

ところで、米国民は民主主義という制度に則ったかたちで、ドナルド・トランプという人物を大統領にしてしまった。
これに対し言いたいことはたくさんあるが、日本人として発信したいことのひとつは、トランプ大統領が持つ国際感覚についてである。
それは、彼の日本への無知に対し、いちいち説明をして理解を求めるといった対応をとるのは建設的でないことを認識したいということだ。
日本はそれよりも、トランプ大統領の本質的な東洋に対する見方を踏まえた上で、氏に対峙する必要があるだろう。

最近の報道によると、トランプ大統領は日本を中国と同列で指弾している。
曰く、「日本と中国は、過去通貨切り下げを行い、市場を弄んだ」と言ったということである。

日本は民主主義を尊ぶ国であり、米国との共通の理念を持つ、中国とは社会体制も異なった国である。
しかし、このことをトランプ氏に理解させることは不可能だ。
したがって日本は、これを前提に米国と付き合わなければならないのである。


総理は昨年11月の会談でトランプ氏を「信頼できる指導者だ」と評した。
しかし、「信頼関係」というものはあくまで結果としてあるものである。
「信頼関係」ははじめからあるものではないということだ。
対立や利害の不一致を理性的に、知恵を以て解決した結果として、それは生じるものであることを理解したい。
対立する主張を有利に導くためには、駆け引きも必要になってくるのである。

例えば、2月1日の北海道新聞によれば、1月28日、安倍首相とトランプ氏は「日米同盟のゆるぎない姿を世界に発信していくことで一致した」ということだが、しかしトランプ氏はこの「一致」の後、舌の根も乾かないうちに、最初に挙げたような日本と中国を同一視し、攻撃する発言をしたのである。

我が総理が言う「信頼関係」では、このような状況への対応は不可能だ。
つまり現実には、緊張の連続のなかで、ソリューションを見つけるべく理性的な対応が必要なのだ。

また、安倍総理のスケジュールに関して、本年2月10日にワシントンに行き首脳会談、11日にフロリダに行きトランプ氏所有のゴルフ場でプレイを楽しむというような調整が外務省では取られているとの報道もされている。
大統領就任後、ひと月も経たないにもかかわらず、多忙な大統領がフロリダで日本の首相との「信頼関係」のためにゴルフをするということが現実的にあり得る話なのだろうか。
調整の結果について、幸運を祈ると私は述べるのみである。

ことほど左様に、新大統領のご機嫌伺い、すなわちトランプ氏が日本の立場を理解していたら……というスタンスは、追従以外の何物でもないことを認識したい。

さて、トランプ氏の中東・アフリカ7か国からの入国禁止の政策に対し、フランス・ドイツ・イギリス・カナダの首脳からの批判が出たようだ。
日本は沈黙を保っていて良いのだろうか。