2014年5月26日月曜日

33:発想の拡大とは?

今回は、ものを考えるとき、発想を拡大させるためには何が必要か? ということについて書いてみたいと思います。


例えばある受験生がいたとして、浪人するか第一志望でない大学に進学するかで迷っているとしましょう。
通常の考え方で言えば、浪人したとき、大学に進学したときのそれぞれのメリット・デメリットを考えることでしょう。


しかしこの考え方は、実は非常に狭い視野でしか考えられていない、水準の低いものだといえます。
どういうことかといえば、それは、この発想は「大学に進学するということ」を前提にして、その中でしかものごとを考えていない、ということです。


この前提を取り外すことによって、新しいopportunityが見えてくるでしょう。
「高校を卒業して大学に進学する」ということは、単なる選択肢のひとつであるという発想の転換を行ってみる、ということです。


例えば他にどんな選択肢があるのかというと


①期間を限定して実社会で仕事をする
②1年間世界漫遊旅行をする
③ひたすらひきこもって読書に耽る
④とりかく金づくりに邁進する


これらは極端な事例かもしれませんが(笑)、発想の転換はこのようにしてみたらよいのではないでしょうか。
この場合のテーマを言うならば、「18才からの数年間という時間を最も自分にとって有効に使うにはどうしたらよいか?」ということです




もうひとつ事例を挙げましょう。
中堅社員がいま働いている会社を辞めるか辞めないかで迷っているとします。


これも同じ発想で考えれば、「定年までの自分の時間の有効な使い方は何か?」という大きな視点から考えてみることです。


おそらくここには色々な基準があって、それらを参照しつつ彼は悩むことでしょう。
家族を養えるか/自身の能力の最大化が図れるか/家族と過ごす時間が増えるか/自分が抱いていた志につながる仕事であるか/人や公に貢献できるような仕事であるか
などなど


もちろん、このような考え方をして、正解が出るという保証はありません。
しかし、あらゆる角度から考察したことになり、最終的には「えいやっ」という自分自身による、思い切りの良い決断につながるのです。




ある重大なテーマに対して、狭い視点でなく、より高い次元から考えてみようとすること。
これによって発想の拡大と、よりよい決断が得られる、と私は考えています。

32:なぜ日本憲法を海外で議論するのか?

産経新聞は、今年5月1日に新憲法法案として昨年4月にまとめた「国民の憲法」要綱の一部の英訳版を発表しました。
その目的は「海外でも多くの人に内容を知ってもらい、国際的な議論を行ってもらう」ことにある、と報道されました。


しかしよく考えてもらいたいのです。
国際的に議論された結果、外国の識者から異論が出たり、改定の要求が出た場合、当事者である日本人は受け入れることになるのでしょうか?
他国の人に色々と言われて自主憲法ができるのか? と私は疑問に思います。
この時期に憲法改定を論じることは大いに結構だと思います。
しかし、悪く言えば外国の顔色を伺いながらその作業を進めるのは、私はいかがなものかと感じるのです。


西洋社会からどう思われようとも、日本が世界に対して規範をなるような憲法を、日本人の主体性をもってつくらなければならないと私は考えています。

2014年5月20日火曜日

31:留学の本質

私の米国の母校で、アジア情勢に関する小規模な講演をしたときのことです。
よくある光景ですが、講演後10人近い学生たちが私のところに集まり、色々な質問をしてきました。
私は質問者に「君はどこで外国生活をしたことがあるか?」と必ず聞いていました。
結果は、彼らはほぼ全員が外国生活経験者だったのです。




これは何を意味するのでしょうか?
自分と異なる文化と触れたことのある人々は、我々が住む地球という星全体に対しての興味を知らず知らずに醸成しているように感じます。
単一文化の中での閉じられた生活をしていない人間は視野が広く自立心が強いのです。



日本の若者が留学に対して関心を持たなくなった、と言われて久しくなります。
理由として、言葉・安全性・食事・現地に溶け込めない……など、閉鎖性を正当付ける理由しか挙
がってきません。


英語が流暢に話せなくてもなんとかなるものです。


人間としての人格を形成するとき、異質な価値を知ることは大いに役立つものです。
これを達成するために外国語を勉強し、外国の本を読んで日本は勉強してきたのです。
今、外国と接する価値を再認識したいものです。

2014年5月15日木曜日

30:「理解を求める」とは何?

例えば日米間で対立が起きて、その調整をするため、日本の政治家が外国の要人と重要案件で会談したときによく「理解を求めた」という言葉を使った報道が見られます。
本来ならば、表現として「主張を述べた」とか「案を提出した」「要求を出した」などが代わりのものとしてありうるはずなのに、すべて「理解を求めた」で済まされているようなのです。


日本人同士であれば、問題を解決するのに、一方の当事者が状況を説明して相手の「理解を求める」ということは自然なことでしょう。
しかし、よく考えてみると、「理解を求める」というのは、立場的に下の者が上の者に対してすることではないでしょうか?
実際、この表現を在日大使館が本国に送ると、「日本は''seak understanding''している」となり、相手国を有利にする結果になっているようなのです。
このように、ひとつの表現で日本の国益が損なわれるかもしれないのです。
しかしながら日本はこのような表現を使ってしまっているのです。
これは問題ではないでしょうか?
私はマスメディアに国際関係に関する記事の扱いに対して敏感になってほしいと思います。


日本でごく当たり前に使われている表現が、国際社会では大きくズレた認識を与えてしまう、という現実を知っておきたいものですね。

29:「米国と対等になる」こととは?

最近の論調に、「日本はいつまで米国に追従するのか」ということがあります。
「だから、米国から押し付けられた憲法を改定する必要がある」などという主張にもつながっていくようです。
また、「日本は米国の弟分である」という実に卑下した表現も使われることがあるようです。






「米国と対等になる」とは、いったいどういうことなのでしょうか?








「対等」ということを人間関係から考えてみましょう。
人と人は、その能力の違いがあるということで対等になれないのでしょうか?
それは違います。




私は「負い目」にポイントがあると思います。
借りを返していない・礼を尽くしていない・問題をあいまいなまま放置する・けじめをつけない・ルールを共有しない……など、相手に負い目を持つ状態である以上は、相手と対等になれないように思います。
反対に、きちんと相手に礼を見せていれば、たとえ能力に差があろうと対等な関係になれるのです。








国に話を戻しましょう。
経済力・軍事力・政治力が「対等」の判断基準になると思うなら、それは大間違いなのです。
現に、イギリスとアメリカは対等です。


軍事力に置いては両者は格段の差がありますが、世界は米英は対等な関係にある、と見ています。
しかし日本だけは、追従的な立場をとっていると自分で思っているのです。




日米関係においても、ここで指摘したようなことがらについて適切な処理をしていけば、対等な関係が確立されると思うのですが。
そしてその上に、友情と信頼関係が築かれるのではないでしょうか?

2014年5月14日水曜日

28:平和主義は世界遺産

ある自民党の実力者のインタビュー記事が、なんと共産党機関紙である「赤旗」に掲載されたことがありました(2013年6月13日)。
当時はマスメディアでは富士山と世界遺産に関する論議がなされていた時期でありました。


富士山のことばかり報道するメディアが、今回お話したいことを取り上げなかったのはある種ミステリーだった思うのですが、以下の驚くべき発言をした人物は、古賀誠元自民党幹事長でありました。


さて、古賀元幹事長は「9条は平和憲法の根幹です。''浮世離れしている''と見られるかもしれないが、その精神が一番ありがたいところで、だから『世界遺産』と言っているのです。(中略)自衛隊は9条2項を1行変えて認めればいい、というのが私の考えです。ここは国民的議論をすればいい。」と述べています。


古賀元幹事長は、どちらかといえば自民党ハト派とは見られていなかった人物だと思います。このようなタカ派的な印象を与えていた人の発言であるだけに、これが大新聞で取り上げられていたら、大きなニュースになっていたのではないかと思うのです。


(この辺に国民に正しい情報や事実を公平・公正に提供するメディアの現在のあり方も見直してもらいたいと思います。)


当時、私はこの記事を読んで自民党そのものの質の転換を感じました。このように、いわゆるハト派的な発想のできる代議士が増えれば、世界中が心配している日本の右傾化が国民一般の意思ではないということが理解してもらえるのではないでしょうか。


日本人の誰一人として、侵略や領土の拡張を望んでいる者はいないと我々は思っています。しかし外国はそう見てはいませんし、私はそれが心配なのです。


自民党の実力者の中には日本人が大切にしてきた9条を重く考えている重鎮もかなりいることを皆さんはご存じでしょう。
日本人の8割が戦争を知らない時代になっている今日、世界に影響力を持つ日本がこのような平和志向の国民である、ということを知ってもらいたいのです。


また、古賀元幹事長も触れていた自衛隊に関して述べれば、現在自衛隊という名称はあるものの、実質は軍隊であるから軍隊と呼ぶべきだ、という議論があります。
しかし、警察予備隊から数えれば過去60数年に渡って平和日本を支えてきた自衛隊を西洋的なmilitary(軍隊)に呼び換えてしまうことは、いかにも惜しいと思います。
自衛隊のみなさんは実質的には軍隊であるという意識をお持ちでしょうが、世界の中で「自衛隊」という新しい概念を用いているのは日本だけである、という事実を認識し、誇りにしたいものです。

27:「難民を助ける会」への支持と私見

毎年、東京のサントリーホールで国際NGOである「難民を救う会」の大会が開催されています。
著名なアーティストによる演奏の他に、会の活動報告などがなされています。


この会には皇后陛下がご臨席されるのが恒例のようです。
皇后陛下は会の一部のみのご出席ですが、陛下がいらっしゃると場の雰囲気がたちまち厳かで、かつなごやかなものになり、一般国民から皇室の存在が受け入れられる理由が分かったように思いました。
皇室・王室を持つ国が国際的に一定の評価を与えられる理由もこのあたりにあるのかもしれません。


一般的に、難民と言われる人々は一時的な政治の不安定によって発生するものと私は考えています。
しかし、近年、難民の存在が常態化してきているように思います。


「難民を助ける」だけでなく「難民をつくらない」という発想のもとに、難民の増加・常態化を防ぐような運動がなければ、この現状は悪化の一途をたどるように思うのです。


難民を大量に発生させてしまうような国としての体裁を保っていない国に、一定の秩序を保てるような支援を行うことで「難民をつくらない」ということができるのではないでしょうか。
またこれは代理戦争を助長するような軍事支援ではあってはならないと思うのです。


もちろん、「難民の助ける会」の現在の仕事は素晴らしいものですし、私は同会を支持しています。


ただその一方で、日本からの発信が少ない今日、このような視点に立った国際的な組織が日本から生まれてほしい……と考えてもいるのです。



2014年5月13日火曜日

26:外交の原点

西郷隆盛の遺訓に次のような文句があります。


「正道を踏み国を以て斃るるの精神なくは外国交際は全かる可からず彼の強大に委縮し円滑を主として曲けて彼の意に従順する時は軽侮を招き好親却って破れ終に彼の制を受るに至らん。」


「外交を成功させるためには、国として全力投球することが必要であり、むやみに自説を相手に合わせて変えるべきではない」といった位の意味になるかと思います。


「正道」の考え方など、参考になる部分は多いでしょうが、今日でも全面的に通用するかと言えば疑問は残るでしょう。




もう予想がついている方もいるでしょうが、TPPの話です。


米通商代表部のフロマン氏を相手に大変な努力をしているTPP議論の最終的な結論が、日本の将来に大きな影響を持つことはもちろんその通りでしょうが、しかしこれだけ時間がかかっていることがかえって結論にマイナスにはたらきはじめているように思います。


日本側は「これだけ努力をしたんだ」という発想で話をしがちですが、米国側から見れば、「なぜこんな譲歩をするのにこれほど時間がかかるんだ?」という苛立ちにつながるでしょう。


西郷の話に戻れば、「正道」の今日的解釈は国際的に通用する「良識」といえるのではないでしょうか。
『広辞苑』による「良識」の定義は「社会人としての健全な判断力」とあります。
社会人だけでなく、国同士の付き合いにおいても、相手の立場に立ちながら考える健全な判断力=良識が求められているでしょう。


「相手の言いなりになっては駄目だ!」という単なる精神論では国際連盟の会議を途中退席した松岡洋介と変わりがないようにも思えはしないでしょうか。
相手の強大さに屈することはもちろん外交としてレベルの低いものでしょう。しかし一方で良識をもって相手と対話を行うことも必要なことに思われます。


結局、相手の言いなりにならず、しかし相手も思いやりながら対話するには、自説がきちんと道理にかなっていることが必要なのでしょう。
日本のTPPに関する主張は道理にかなっているか? 
これをもう一度考えた上で、最終的な議論のテーブルについてほしいものだ、と私は思うのです。

25:信用社会から契約社会に移行しない日本人

世界の趨勢として「自由化」が大いに叫ばれた時代があり、日本社会においても小泉総理の時代を中心に自由化の促進が目指された時代がありました。
実は「規制緩和」とは、英語の正確な訳には当たりません。元の英語はde-regulationであり、要は「規制撤廃」なのです。
しかし日本では、オブラートに包んだ「規制緩和」という言い方がされたのです。


「規制緩和」がされると、日本が「契約社会」に移行し、契約概念がシビアになり、結果、日本にもっと弁護士が必要になるという予測のもと、法科大学院があちこちに設置されました。
法科大学院を置いてはみたものの、一部の大学を除いて応募者は少ない、ということも聞きます。さらに、弁護士になったはいいものの、十分な仕事がないという実態もあるようです。


それは自明のことだと私は思います。なぜなら、日本人と日本社会が信用主体の状態から簡単に契約がすべてと考える状態に変わるとは思っていないからです。
今日でも、日常的に交わされる覚書や契約書に「捨印」を押すという慣習が残っています。我々は現在でも、抵抗なく捨印を押しているのが現状で、これはまさに日本における信用社会の側面が根強いことを示しているでしょう。


私の憶測に過ぎませんが、世界全体が西洋式の契約社会ではありえないと思うのです。
人の人格や信用に重きを置く、ということも社会においてなくてはならないものであるでしょう。
その意味から、日本発で信用社会の有効性を発信することも日本人としての世界社会に対する貢献だと思うのです。