2016年10月29日土曜日

223:スタティックとダイナミックについて――英語力

一部の日本企業は、その存続をかけて、M&Aにより外国企業の買収を進めている。
いわば多国籍化している、ということである。
そこで、これらを日本人がマネージするためには、どうしても英語力を強化しなくてはならない。
日本人は、教育課程において、大学に進学した場合、10年前後の英語教育を受けている。
英文法、語彙(ボキャブラリー)、英文読解など、かなりの知識レベルの教育を受けてきている。
しかしこれは、あくまでもスタティックなものであり、これをダイナミックな英語力に変換するためにはどうしたらよいのか、ということが課題だろう。


スタティックをダイナミックに変換するひとつの重要な要素が、problem solvingの能力ではないかと思う。


すでに持っているスタティックな英語力をproblem solvingという領域と関連させることで、ダイナミックな展開が可能になるのではないかと思う。


ここで言うproblem solvingとは、当然のことながら、デファクト・スタンダード(de facto standard)としてのロジックに基づくもの、日本語で言えば、筋の通る、堂々巡りのすくない、思考の基本形態だということだ。


広辞苑による「思考」の定義を、ここでもう一度繰り返す。
思考とは、「問題や課題に出発し、結論に至る観念の過程」である。
これには、「行程」の意味がある。
もちろんここには、何かを思考するということにあるダイナミックな運動性の意味合いがこめられている。







このように、勉強での知識を、いかに動的に実際の思考のなかで展開していくのか、またそれを教育でのノウハウとしてどのように開発するのか、といったことの研究が急務であるだろう。

2016年10月26日水曜日

222:第二次世界大戦からの学習

過去の歴史について考える際、○年代、という風に10年単位で時期を区切る方法はよくあることだが、しかし昭和ひと桁をひとくくりで考えることに関しては、私は若干無理があるように思う。
それは、戦争で実戦の経験があるかないか、という大きな違いがこの10年で起きているからである。


このような考え方で分けるならば、昭和ひと桁に関して、昭和4、5年でひとつの線が引けるだろう。
私もちょうどその世代に属するのだが、そのような大きな変化の中に生まれた人間として、この国の将来を憂いているひとりであり、またこの世代から語り継がれるメッセージがかなりあるのではないかと自負している。


それは、単に戦争の悲惨さとか米国による占領時代の愚痴のようなものを語り継ぐということだけではなく、何か将来に対して建設的なものを残さなければならない、ということだ。


もちろん、日本が成るにまかせ、もう自然体でいいじゃないか、といった声もあるだろう。
しかしその一方で、このような焦りを持っている人間はかなりいるのではないかと思うが、どうだろう。


明治維新で近代工業国家を建設し、敗戦と戦争への反省から奇跡的な戦後復興を遂げた民族が、これからも何らかのかたちで世界社会のプレイヤーとして存続することに意義はあるのではないだろうか。


そこで、世界が新しい秩序を模索している状況で日本としてのあるべき姿を考える際、参考になるものとして、たとえば地球社会でその存在感を持続させているユダヤ系の人々が挙げられる。


以前にも触れたかもしれないが、一神教の神がユダヤ民族に与えた5つの要素が参考になるのではないか。
第一が‟Spirit of God”(宗教的な内容)
第二が‟Knowledge”(知識)
第三が‟Intelligence”(知力)
第四が‟Ability”(能力)
第五が‟Craftmanship”(技能)


これら五つすべてに触れると話が長くなってしまうが、たとえば日本の将来を考えると、‟Spirit of God”に当たる、理念とか哲学とか信念といった人間や人間社会の行動の軸になるようなものをどうするか、ということは非常に重要だ


また、‟Intelligence”の定義は、新しい状況に対して迅速に、適切に行動する能力(‟the ability to respond quickly and successfully to a new situation”)であり、つまり、この本質は、環境変化に対する迅速な意思決定とリスク対応能力といってもいい。


これから意識しなければいけないのは、上にあるような哲学や信念についての問題と、迅速な環境変化への適応能力の問題のふたつの点に絞り込まれるだろう。


前者は最近、「道徳教育」ということで話題にあがったものの、有効な方針は見いだせないままである。
‟Intelligence”に関しては、ゆとり教育から成果が出ていなかったことに関係する。
一般的に、ゆとり教育の目的は、自分で考え、自分で結論を出し、自分で行動を起こすということであったと言われている。
これ自体は良い目的だったように思うが、結果として上手くいかなかったようである。


このふたつの未解決のテーマについて、改めて課題として取り上げ、官民挙げて対応することを強く主張したい。

2016年10月22日土曜日

221:米国大統領選

米国大統領選に際して、三回のテレビ討論会の模様が、マスメディアで報道されてきた。
誰が大統領になるのかということは、日本にとって大きな関心事であることは間違いない。


しかしここで少し考えてみたい。
厳格な調査をしたわけではないが、世界の先進国のなかで日本ほどこれらの討論会をはじめとして、アメリカの政治や文化などについて詳細な報道をマスコミが行う国はないのではないか。
例えばフランスやドイツのメディアがアメフトやバスケットの試合をこれほど頻繁に取り上げているかどうか、疑わしい。


裏を返せば、これは世界社会に対する日本としての進むべき方向が出せていないという状況の反映であると言っても過言ではない。
我々は失われた20余年を経て、日本人として主張する何かを確立しなければならないと思うが、どうだろう。
対等な関係というのは、量的なものではなく、質的な問題である。
国土の大きさや人口、経済力ではなく、どういったことを主張するのか、ということが大事なのである。


米国大統領選の報道も大切ではあるが、過剰な報道は米国への関心の深さ、すなわち追従の姿勢と取られても仕方がないのかもしれない。
我々は、無意識に、不必要に米国のことを気にしすぎているのではないか。

2016年10月19日水曜日

220:「返還」から「帰属」へ――ロシアとの交渉


10月3日の日経新聞夕刊の一面に「4島帰属立場一貫――首相、北方領土交渉巡り」という見出しの記事が掲載された。
近頃疑問なことがらとして、本来この問題には、「北方領土返還」という表現が使われていたように思うのである。
しかしこの記事に見られるように、「返還」から「帰属」という語へ、日本の主張の変更のようにも見える用語の変遷が起こっているのである。
「返還」であれば、4島一括返還、あるいは2島に限定した返還、といったさまざまな選択肢を考えることができるが、これが「帰属」になると、果たしてどうなのか。
本年12月のプーチン大統領訪日でどのような条件が提示されるかは皆目わからないが、現状では決着をすることはかなり困難だろう。




そこで、国際連盟の事務局次長を務めた新渡戸稲造による、オーランド諸島に関する問題解決に北方領土問題解決のヒントを見出すことはできないだろうか。
この問題は、フィンランド領であるオーランド諸島の住民のほとんどがスウェーデン系であったことから、同諸島がフィンランドからスウェーデンに帰属を移したいと主張したことからはじまった。
これに対し、国際連盟は、1921年に「新渡戸裁定」として、オーランドのフィンランド帰属を認めつつ、一方でオーランドの自治権を認め、ここを非武装中立の地域とする、という見事な解決案を提示し、問題を解決に導いた。




このような前例を参考とするならば、ひとつの考えとして、4島の帰属は日本とし、自治権は住民であるロシア人に認めるということが考えられる。
このとき、両国の友好を促進するために、ロシア側は軍事基地を建設しないという一項が認められる必要があるだろうが、これが可能ならば、問題が一挙に解決する可能性が出てくるのではないだろうか。




ロシアはソ連時代、1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約に調印をせず、その後1956年に日ソ共同宣言で日本との国交を正常化したという歴史がある。
ここでは北方2島の返還と戦争賠償の放棄が約束されたわけだが、こういった歴史的経緯も踏まえ、これからの北方領土問題がどのように進展させるのかということが、国民の注目を集めているだろう。
素人考えだが、排他的経済水域と漁業権の問題に関しては、別途切り離して考えるのが賢明なのではないか、と考える。

2016年10月15日土曜日

219:4ション

人間の「生きがい」論はいつの社会でも論議になる話題であるだろう。
私の経験で恐縮だが、ひとつのものごとをやり遂げるときに、今日ではもはや「石の上に3年」ではなく、おおよそ10年はかかるように思う。
このような長期に渡る試行錯誤において私なりに役立つように思う「4つのション」を考えてみた。


まず第一が、「ミッション(Mission)」。
これは、自身が認識する使命感のようなものであり、志と言ってもいいであろう。
自分がいったいどのようなことを成したいのか、ということを常に意識することが重要だということである。


次に、「パッション(Passion)」。
これは情熱のことである。
上のミッションに際し、一心不乱に突き進むパワーのこと。


第三が、「アクション(Action)」。
ただ考えをめぐらせるだけでなく、実際に具体的な行動をとるということが大事である。


最後に「デターミネイション(Determination)」。
さらなる難関にぶつかったとき、あるいはよりチャレンジングな人生への冒険を行おうとするとき、勇気ある決断を行うことが、道を開くことにつながるように思う。

以上が「4ション」である。
このような発想が何かの助けになれば幸いに思う。

2016年10月12日水曜日

218:忘れてはならない戦後史

戦後70年を経た今日、広島・長崎や沖縄での悲惨な出来事、あるいは大都市への無差別爆撃などの経験が語り継がれている。
しかしもう一方の語り継がれるべき過去の出来事として、日本の戦後の復興に、当時どのようなことがあったのか、ということがある。



「奇跡的」と言われる日本の復興の背景にあった事実として、米国が第二次世界大戦後の日本人の社会生活の困難を救うために支出した「ガリオア基金(占領地域救済政府基金)」「エロア基金(占領地域経済復興基金)」がある。
外務省の資料によると、1946年から51年にかけて約6年間にわたり、約16億ドルの膨大な援助があった。
これは現在の価値に換算すれば、12兆円となるほどの莫大な金額である。
援助を受けた日本は1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約に調印し、国際社会での主権を回復した。

この基金の顛末は、のちに日米両国の協議の結果、日本が援助金のうち、4億9000万ドルを15年間で米国に対し返還することになり、その使途は途上国援助や日米の文化交流のために使われた。
日本が国際社会の助けのなかで、どのように復興を成し遂げたのか。
憲法改定論がこれから本格化するなかで、戦後日本の忘れられつつある歴史をもう一度認識し、将来の日本の目指すべき未来像を考えなければならない。

2016年10月8日土曜日

217:お気の毒な日本の防衛大臣

先日調べものをしていて、いくつか興味深い事実を発見したので、そのことについて書きたい。

2007年に「防衛庁」が「防衛省」に昇格してから15人目の防衛大臣が、現・稲田朋美防衛大臣である。
彼女のように、防衛大臣に文官を置くことが、各国の常識になっており、そのことに一切問題はない。


しかし、例えば米国と比較してみたとき、日本の防衛大臣の人数の多さ、そして米国の防衛大臣の経歴の確かさといったことに、あらためて驚かされた。

日本では、1954年から2007年の防衛庁時代に73人、上のように2007年から現在までの防衛省期に15人が大臣を務めている。
対してアメリカの国防庁では、1947年以来、国防長官は現在までわずかに25人なのである。

また米国国防長官のキャリアも注目に値する。
ケネディ時代の国防長官はロバート・マクナマラ(フォード元社長)。
ニクソン時代はエリオット・リチャードソン(保険教育福士長官、司法長官、商務長官を歴任)。
カーター時代はハロルド・ブラウン(元カリフォルニア工科大学学長)。
クリントン時代はウィリアム・ペリー(元国防次官、元スタンフォード大学教授)。
現役オバマ時代はアシュトン・カーター(元ハーバード・ケネディ行政大学院、科学国際関係センター長)。
といった大きな組織をきちんとマネージした経験のある人物が選任されている。



防衛大臣をどのような基準で選ぶのか、国民的関心がここに表れているといってもよい。

就任期間の長さにしても、就任以前のキャリアにしても、まことに残念ながら日本の防衛大臣は米国の国防長官に遠く及ばないように、個人的には思う。


これでは素人が横綱と相撲をしているほどのハンディがあるのではないだろうか。
日本が米国に追従している、と言われる背景の要因のひとつがここにあるのかもしれない。
稲田防衛大臣には、まことにお気の毒な話であるとも思う。

2016年10月5日水曜日

216:国会議員になってほしい人物

その昔、2001年から2004年の4年間、私は「Independent Opinion」という名前で、知人たちに向けてFAXを使って私見を発信していた。


そのバックナンバーを久しぶりにひも解いてみると、手前味噌ながらなかなか興味深いことが書いてあり、国民の選ぶ国会議員の条件について、厳しく再認識する必要を感じた。
当時私が挙げた条件は、次の項目にひとつでも該当する人間は候補者から外すべきである、というものだ。


①有罪・無罪にかかわらず刑事告発を受けた人物
②私利私欲を国家・国民よりも優先する人物
③経歴詐称に問われた人物や過去に不透明な部分がある人物
④企業社会であれば、社会的に葬られるような事件を起こした人物
⑤平然とウソをつき続け、反省の色を見せない人物
⑥知名度のみを売り物にするタレント議員


また上のようなことに補足して、選挙において、候補者を判断するための情報が十分に提供されることを強く望むものである。
これは報道の問題にかかわってくることでもあるだろう。


広辞苑によれば、「倫理」とは、「人として守り行うべき道。善悪の正邪の判断において普遍的な基準となるもの」とある。
もちろんこの「倫理」を意識し、これに沿った行動をとるということは国会議員に限った話ではないのだが、しかし、国民を代表する人物であるからには、この「倫理」に背くような人物が選挙で選ばれるようなことがあってはならないと思うのである。

2016年10月1日土曜日

215:ジャーナリズムとは何か

今年の4月19日に、国際人権法の専門家として「表現の自由」を担当する国連特別報告者である、デービッド・ケイ米カリフォルニア大教授の記者会見があった。
この内容は、4月30日、5月1日、5月2日の神奈川新聞で読むことができる。


約1週間の滞在後、同氏は、「日本の報道の独立性は、特定秘密保護法の実施もあり、重大な脅威に直面している」という見解を述べた。
各省庁やマスメディア機関を取材した結果、「政府を批判する記事を書いたところ、掲載が見送られた」「書いた記者は降職させられた」などの驚くべき記者からの発言があったそうだ。
国民が持つ「知る権利」の大きな根拠のひとつは、国民が政治を委託する人間を選ぶ権利にかかわっている。
なぜなら、この選ぶという行為のためには、自分の選ぶ人間が一体どのような人間なのかという情報を知る必要があるからである。
つまり、この「知る権利」が脅かされるということは、民主主義の根幹にもかかわるような大きな問題と言える。
国政を託す代務者を選ぶ場合、候補に関する詳細な情報がなければ、国民は適切な人物を国政に送ることはできない。


現内閣の延命が図られることによって報道の独立性に危機が生じているのだとすれば、マスメディアには本来のジャーナリズムに目覚めてもらいたいものだ。
ケイ氏が「当たり前ですが、ジャーナリストの役割は権力の監視です。政府の発表をそのまま新聞に掲載したり、テレビで流したりすることではありません」といっているのは、この意味で全く正しい。
ジャーナリズムに権力を監視するという役割があるということは「当たり前」なのである。
しかし日本ではその「当たり前」が成立しなくなってきている。
これは大きな問題だと思うのだが、いかがだろうか。




蛇足になるが、それにしても、テレビの報道で見る限り、現場の取材記者の年齢が20代であるという現象は、日本特有のものではないだろうか。
米国をはじめ、諸外国の記者、すなわちジャーナリストは、見識も経験も豊かであり、本質に触れる質問をすることができると思うのである。
ジャーナリズムとは何か、ジャーナリストとは何か、といったことをいままさに再認識しなければならないのではないだろうか。