2016年12月21日水曜日

232:真珠湾訪問と日本における慰霊

このたび安倍総理が真珠湾を訪問し、オバマ大統領と共に、戦没者に対し哀悼の意を表することになった。
これ自体は大変結構なことである。

奇襲作戦による軍人の犠牲者と原爆投下による一般市民の犠牲を同じレベルで考えてよいのかという疑問も残る。
しかしいずれにしろ、これからの日米関係の強化を考えると、ひとつの節目として評価できるのだろう。

ところで、西洋文化圏の人々と日本人の間には、戦争の犠牲者に対する姿勢に本質的な違いがあるのではないだろうか。
例えば、イラク戦争などに際しての、戦没者への米国側のどの報道を見ても、犠牲者とその家族に対し哀悼の念を表する。
これに対し、日本人の多くは、犠牲者と家族に対する哀悼の念を持ち、慰霊を行うと同時に、このような犠牲をもたらす悲惨な戦争は、二度と起こしてはならないという強い意志を見ることができる。

このことは、「戦争は必要悪だ」ともとらえ得る西洋の考え方に対し、日本ではどのような状況でも殺戮はしないという想いが強くあることを示している。
またこの平和への強い想いは、世界に発信していかなければならない。
このメッセージを世界社会に発信することが、唯一の被爆国である日本の責任ではないだろうか。

2016年12月14日水曜日

231:謙虚さと曖昧さを重んじる日本人の発想

日本人同士の間でごく自然に使われている発想が、国際社会では通用しない、あるいは不利な状況をつくってしまう、ということを我々は知る必要がある。
日本において、利益相反の調整や問題解決の場面で使われる次のような特徴的な言葉がある。

例えば、
「理解を求める」「説得をする」「お願いをする」「話し合いをする」など。
結論を先取りしてしまえば、これらの表現は相手の情緒に訴える曖昧かつ謙虚な言葉であり、こういったものは国際社会では相手にまったく通じない、ということがあり得るのである。

「理解を求める」
相手に礼をつくして状況を説明し、相手に「理解を求める」としても、相手に「理解しません」と言われてしまえば、そこで終わってしまう。

「説得をする」
十分な情報をそろえて説得にかかっても、上と同様に相手が頑迷に説得に応じず、「意見が異なります」と言う場合はどうすればよいのか
「これだけ説明してくれたのだから…」といったかたちで、同情的に反応をしてくれるということは、海外では考えづらい。

「お願いする」
これは既にそもそも対等な立場ではないという前提からはじまってしまっている。
あるいは同情を引こうとするさもしさであると取られてしまう可能性もあるだろう。

「話し合うをする」
ただ漫然と「話し合う」といったことはあまり効果的ではなく、望むような結論がでてくることは考えづらい。

上のような発想では、どうしても相手の情緒・礼儀などに訴える面があるように思われる。
(例えば日本では「誰があいさつに来たのか」といったことが重視され、「社長自ら出向いてきたのだから……」といったかたちで、相手の「面子」が配慮されるといったことがある。もちろんこれは海外では見られない。)
もちろんそういったことが海外ではまったく不必要だ、ということではない。
しかし上記のように、日本社会でごく自然に使われている表現や、その背後にある発想が、異質文化との対応において、議論がかみ合わない原因となってしまう場合があることを認識したい。

では、どのように対応したらよいか。
ここで重要なのが、論理的に考える、ということだ。
つまり、「説得する」際にも、「話し合う」際にも、これらをすべて問題解決として、何らかの結論を出す課題・テーマとして扱い、論理的なシナリオとして取り扱うという発想が必要なのだ。
テーマに対して、どういった目的で、どのようなプロセスで議論を行うのか、またそれが上手くいかなかった場合はどうするのか、といったことを、シナリオとして構築する必要があるのである。

2016年12月7日水曜日

230:北方4島返還に関する素朴な疑問

北方領土の返還は、国家の主権が問われる大問題である。
この主権がおびやかされる状況に対しては、断固たる姿勢で臨む必要があることはいうまでもない。

この大前提を踏まえたうえで、私が日ごろ素朴に疑問に思うのは、国後・択捉島に既に居住しているロシア人住民の扱いをどうするかという点に関する議論がほとんど聞かれない、ということだ。

例えばいったん実現性を度外視すれば、いくつかの対応策が考えられる。
・返還後に日本領となるのであれば、ロシア人住民に日本国籍を与える。
・返還後、すべてのロシア人住民がロシアに帰国する。
・あるいは折衷的に、住民が自身で国籍などの進退を決める、など。
素人が書くとこれくらいの発想しかでてこないが、とはいえ様々な施策が想定されることは確かだろう。

どのような対応を考えるにしろ、その結果(Consequence)がもたらす様々な状況に現実的な対策があるかどうか、ということに関しての議論は避けて通れない。
無論、永田町や霞が関では検討がなされているとは思うが、その内容をそろそろ国民に開示していただきたい。
なぜならば、どのような対応策を採るにしろ、そのためのコストは必ず、我々日本人に降りかかってくるからだ。

最後に安全保障という面に触れれば、ロシアが軍事基地を建設しているという事実に対して、我が国も対抗し、北海道に対ロシアの防衛線をつくるという愚策だけは避けたいものだ。
自国の安全保障の強化に限界があるという意識を持ち、無意味な軍拡競争に陥ることだけはしない、という姿勢を表すことこそが日本の国益にもつながると思うが、どうだろうか。

2016年12月4日日曜日

229:責任者になってその日から仕事ができる人/できない人

1993年にIBMのCEOに就任し、業績が極めて悪化していた当時の同社の経営を再建したルイス・ガースナー氏の前職は、なんと食品会社ナビスコのCEOであった。
昨日までビスケットの会社にいた責任者が、次の日にはIT企業のCEOに就任し、見事再建を果たしたのである。
このことは何を物語るのだろうか。

その昔、私がかかわった企業の社長が、次のようにこぼしていた。
ある役員を抜擢して、成長事業の事業部長に任命した。
そのとき、この役員は社長に向かって、「私はこの分野の経験知識がまったくないので、一年ほど勉強させていただきます。」といった。
事業部の責任者になり、会社から給与を取りながら勉強させてくれとは何事だ。
と社長は嘆いていた。

このことは、ガースナー氏の件とまったく対照的だろう。
つまりルイス・ガースナー氏は、着任のその日から仕事を開始する能力を持っていたのである。
そしてこの能力の本質は、ある分野についての知識や経験から生まれるものではないのである。

それは、いわゆるマネジメント力と言われるものだ。
あえて私なりに「マネジメント力」の定義をするならば、「組織にとってのプラスを伸ばし、マイナスをコントロールする能力」となる。
ごく当たり前の表現ではあるが、これはいかに環境変化に迅速に、適切に対応できるかという思考能力である。
前にも述べたが、広辞苑による「思考」の定義には、「問題や課題に出発し、結論に至る観念の過程」とある。
つまり、どのような状況に接しても、ソリューションを導き出すための思考のプロセスを構築できる能力が重要なのである。

これに関連したことで、過去に役所のキャリアを民間企業が迎えた背景には、キャリアの人間が、どのような業界であれ、直面する状況に対し、ものごとの本質を押さえ、結論を出すためのプロセスが構築できる能力に長けている、あるいはそういった訓練を積んでいる、ということがある。
適切な判断をするための考え方のプロセスは必要不可欠なものであり、このことは日本の組織全体の課題である、という認識を持っていただきたい。
日本の企業が国際社会で存続するためには、世界で通用するコンセプチュアル・スキルとしての思考様式を確立する必要がある。

2016年11月26日土曜日

228:コンセクェンス(Consequence)という概念

Consequenceの日本語訳は、辞書によれば、「①結果 ②(影響の)重要さ ③結論」という定義である。
ところが、ウェブスター英英辞典によるこの概念についてのより詳しい説明をみれば、異なった次元が見えてくる。
これを私なりに要約すれば、Consequenceとは、ある意思決定をし、行動を起こした場合に、将来起こり得る現象、と言える。
また、行動にかんする因果関係という見方もできるかもしれない。

いずれにしろ、環境変化が激しい状態で、成功裏にものごとに対応するためには、ある判断を実行した場合、どのような現象が起きるのかということについて、事前に想定することが要求される。
つまり、まさしくConsequenceを意識することが求められるのである。

このような概念や発想が、現代社会で欠落しているように思われるのだが、その背景を考え直してみる必要があるだろう。
問題が発生したときに「総力を結集して対応する」では、遅いのである。

私の米国人の友人がよく語ることに、「Unattended Consequenceに気を付けろ」というものがある。
これは発生し得る現象を先取りして対応するということについて、Unattendedな(自分が無防備な)起こり得る現象に対する注意も考えにいれなければならない、ということだ。
彼は、日本人の発想にはこうした概念が欠落していると指摘した。

これは何とかしなければならない。
世界社会の変化に伴い、ますますConsequenceへの対応の重要性が増してくるように思われるのである。

これは言い換えれば、「熟考した末の判断であれば、まず問題はおきないだろう」という過信に気を付けなければならない、ということでもある。
「問題は起こるはずがない」という発想から、「問題は起こり得る」への転換が必要である。

2016年11月19日土曜日

227:電通の長時間労働問題

ここ十数年、企業の不祥事が起きたとき、判で押したように経営陣がマスメディアの前で謝罪し、90°の角度でおじぎをする場面がよく見られる。
これは、日本特有の現象であるといっても過言ではない。

海外では不祥事に際して、マスメディアに対して多くの経営者が画一的に謝罪的な対応をするということは見られない。
この謝罪場面は、諸外国の人々に奇異な印象を与えると同時に、企業の経営トップの威信などを失わせることにもなるだろう。

ところで、電通の若い社員が、自ら命を絶つという悲しい事件が起き、同社の社員への過度な勤務時間外労働が問題になり、日本社会に大きな影響を与えている。
企業の社会的責任が問われるなか、雇用者である電通が、社会に対して正式なコメントを出していないということを、どのように考えたらよいのか。

検察の家宅捜査が入っているのに経営陣が迅速な対応をしていないことは、いかがなものだろう。
捜査がひと段落した時点で、なんらかの対応を期待したい。

米国でトヨタ自動車の不祥事に、豊田章男社長自ら対応したような例もある。
画一的な謝罪を求めたいわけではない。
とはいえ、影響力のある大きな企業だからといって、知らん顔を通してもよい、ということにはならないのではないだろうか。

2016年11月12日土曜日

226:まさかの米国次期大統領

米国市民でもない人間が、大統領選の結果について四の五の言う立場には本来ないだろう。
しかし、なぜトランプ候補が勝利したかについては、大きな懸案ということもあり、私見を披露したい。

公職についた経験もなく、マスメディアの支持もあれだけない中、僅差ではあるものの、45代米国大統領になるトランプ氏の勝因を私なりに分析すると、次のようになる。

それは、創業オーナー経営者としての、強靭な目標達成への意志と、それを達成してきた実績が背景にあるのではないだろうか、ということだ。
何があっても、何と言われようと、自身が過去に掲げた目標を達成してきた「めげない」経験があったからこそ、大統領にも成れたのではないか、と思う。
過去に破産をしようが、批判を受けようが、自身が立てた目標を達成してきた自信がトランプ候補にはあったのではないだろうか。

大統領として、トランプ氏がどのような政策や外交を展開するかはまったくの未知数あり、そういった中で、日本は主体的な、自主的な複数のシナリオを事前に策定しておくことが肝要と思う。
新大統領の外交方針が出た後、それに対応するのでは遅いだろう。
なぜなら、ワンマン創業経営者でもあるトランプ新大統領は、トップダウンで強引に意思決定をする傾向があると見ていいだろうからだ。

ところで、米国大統領選挙は、上院議員の選出もあり、また重要法案の賛否を問うものであることの認識があまりされていない。
大統領選出以外の側面もあることを認識したい。

世界で様々な変化が起きつつある。
英国のEU離脱、フィリピンのドゥテルテ大統領の発言問題、トランプ候補の勝利、次に何が起こるのだろうか?

2016年11月9日水曜日

225:ローカルな小噺とグローバルな小噺 その2

前回の「その1」での「子供の将来は政治家だ」というジョークは、ある場所で披露したことがあったので、そのときのことについて簡単に書きたいと思う。


あるパーティで、わたしは米国人の友人と談笑していた。
お互いたのしく酒を飲んでおり、やがてジョークの披露合戦のような会話になっていった。
そこで私は上の「悪ガキ」のジョークを披露しはじめた。
途中までいったところで、酔った頭で大変なことに気が付いた。


彼は政治家だったのである。


結局しどろもどろになりながら話をうやむやにしてしまい、その場で「落ち」を披露することはなかった。
しかし数年の後、彼に再開した際、ふとそのときのことについて、実はこういうことだったんだ、と「落ち」も含めて告白してみたのだった。
怒られるだろうか、という思いもあったが、彼はむしろ笑いながら「どうしてその時に最後の落ちまで堂々と言わなかったんだ!」と予想外の文句までつけてくるのだった。


政治家にこれくらいのゆとりがあるというのは意外にも大事なことかもしれない。
もしこの相手が日本人の政治家だったら、上のような反応は期待できないだろう。
日本人の政治家にも、ゆとりと機転を持っていただきたいものだ。

2016年11月2日水曜日

224:ローカルな小噺とグローバルな小噺 その1

どの社会においても、ユーモア、笑いが大切なことは言うまでもない。
しかしユーモアにも、言葉や文化に関係なくグローバルに通用するものと、言葉や文化がわかっているからこそ面白いローカルなものとの2種があるように思われる。
今回はその両者の例を出し、比べてみよう。


ローカルな小噺をひとつ。


ある豪邸の庭に池があった。
その池の縁に、桐の下駄がそろえて置いてあり、池にはフナとコイが泳いでいた。


フナとコイのどちらかが、岸にあがって下駄を履いたが、はたして下駄を履いたのはフナとコイのどちらでしょうか?






答えは、フナ。


そのこころは……
「コイははかない」。
分かったでしょうか?








対してグローバルなジョーク。


ある家庭に悪ガキがいた。
両親が心配し、一計を案じた。
子供の部屋のベッドの上に、4つのアイテムを並べたのである。
ひとつ目は1万円札、ふたつ目はバイブル、みっつ目は酒の瓶、よっつ目は女性のヌード集。
子供がどれに一番関心を持つかということで、子供の将来を判断しようということである。


やがて子供が帰ってきた。
この4つを見て、悪ガキはただちに1万円札をポケットにねじこみ、バイブルを小脇にかかえ、酒のラッパ飲みをしながらヌード集を見始めた。
そこで、両親の結論:「この子は将来政治家になる。」


少し、次回に続きます。







2016年10月29日土曜日

223:スタティックとダイナミックについて――英語力

一部の日本企業は、その存続をかけて、M&Aにより外国企業の買収を進めている。
いわば多国籍化している、ということである。
そこで、これらを日本人がマネージするためには、どうしても英語力を強化しなくてはならない。
日本人は、教育課程において、大学に進学した場合、10年前後の英語教育を受けている。
英文法、語彙(ボキャブラリー)、英文読解など、かなりの知識レベルの教育を受けてきている。
しかしこれは、あくまでもスタティックなものであり、これをダイナミックな英語力に変換するためにはどうしたらよいのか、ということが課題だろう。


スタティックをダイナミックに変換するひとつの重要な要素が、problem solvingの能力ではないかと思う。


すでに持っているスタティックな英語力をproblem solvingという領域と関連させることで、ダイナミックな展開が可能になるのではないかと思う。


ここで言うproblem solvingとは、当然のことながら、デファクト・スタンダード(de facto standard)としてのロジックに基づくもの、日本語で言えば、筋の通る、堂々巡りのすくない、思考の基本形態だということだ。


広辞苑による「思考」の定義を、ここでもう一度繰り返す。
思考とは、「問題や課題に出発し、結論に至る観念の過程」である。
これには、「行程」の意味がある。
もちろんここには、何かを思考するということにあるダイナミックな運動性の意味合いがこめられている。







このように、勉強での知識を、いかに動的に実際の思考のなかで展開していくのか、またそれを教育でのノウハウとしてどのように開発するのか、といったことの研究が急務であるだろう。

2016年10月26日水曜日

222:第二次世界大戦からの学習

過去の歴史について考える際、○年代、という風に10年単位で時期を区切る方法はよくあることだが、しかし昭和ひと桁をひとくくりで考えることに関しては、私は若干無理があるように思う。
それは、戦争で実戦の経験があるかないか、という大きな違いがこの10年で起きているからである。


このような考え方で分けるならば、昭和ひと桁に関して、昭和4、5年でひとつの線が引けるだろう。
私もちょうどその世代に属するのだが、そのような大きな変化の中に生まれた人間として、この国の将来を憂いているひとりであり、またこの世代から語り継がれるメッセージがかなりあるのではないかと自負している。


それは、単に戦争の悲惨さとか米国による占領時代の愚痴のようなものを語り継ぐということだけではなく、何か将来に対して建設的なものを残さなければならない、ということだ。


もちろん、日本が成るにまかせ、もう自然体でいいじゃないか、といった声もあるだろう。
しかしその一方で、このような焦りを持っている人間はかなりいるのではないかと思うが、どうだろう。


明治維新で近代工業国家を建設し、敗戦と戦争への反省から奇跡的な戦後復興を遂げた民族が、これからも何らかのかたちで世界社会のプレイヤーとして存続することに意義はあるのではないだろうか。


そこで、世界が新しい秩序を模索している状況で日本としてのあるべき姿を考える際、参考になるものとして、たとえば地球社会でその存在感を持続させているユダヤ系の人々が挙げられる。


以前にも触れたかもしれないが、一神教の神がユダヤ民族に与えた5つの要素が参考になるのではないか。
第一が‟Spirit of God”(宗教的な内容)
第二が‟Knowledge”(知識)
第三が‟Intelligence”(知力)
第四が‟Ability”(能力)
第五が‟Craftmanship”(技能)


これら五つすべてに触れると話が長くなってしまうが、たとえば日本の将来を考えると、‟Spirit of God”に当たる、理念とか哲学とか信念といった人間や人間社会の行動の軸になるようなものをどうするか、ということは非常に重要だ


また、‟Intelligence”の定義は、新しい状況に対して迅速に、適切に行動する能力(‟the ability to respond quickly and successfully to a new situation”)であり、つまり、この本質は、環境変化に対する迅速な意思決定とリスク対応能力といってもいい。


これから意識しなければいけないのは、上にあるような哲学や信念についての問題と、迅速な環境変化への適応能力の問題のふたつの点に絞り込まれるだろう。


前者は最近、「道徳教育」ということで話題にあがったものの、有効な方針は見いだせないままである。
‟Intelligence”に関しては、ゆとり教育から成果が出ていなかったことに関係する。
一般的に、ゆとり教育の目的は、自分で考え、自分で結論を出し、自分で行動を起こすということであったと言われている。
これ自体は良い目的だったように思うが、結果として上手くいかなかったようである。


このふたつの未解決のテーマについて、改めて課題として取り上げ、官民挙げて対応することを強く主張したい。

2016年10月22日土曜日

221:米国大統領選

米国大統領選に際して、三回のテレビ討論会の模様が、マスメディアで報道されてきた。
誰が大統領になるのかということは、日本にとって大きな関心事であることは間違いない。


しかしここで少し考えてみたい。
厳格な調査をしたわけではないが、世界の先進国のなかで日本ほどこれらの討論会をはじめとして、アメリカの政治や文化などについて詳細な報道をマスコミが行う国はないのではないか。
例えばフランスやドイツのメディアがアメフトやバスケットの試合をこれほど頻繁に取り上げているかどうか、疑わしい。


裏を返せば、これは世界社会に対する日本としての進むべき方向が出せていないという状況の反映であると言っても過言ではない。
我々は失われた20余年を経て、日本人として主張する何かを確立しなければならないと思うが、どうだろう。
対等な関係というのは、量的なものではなく、質的な問題である。
国土の大きさや人口、経済力ではなく、どういったことを主張するのか、ということが大事なのである。


米国大統領選の報道も大切ではあるが、過剰な報道は米国への関心の深さ、すなわち追従の姿勢と取られても仕方がないのかもしれない。
我々は、無意識に、不必要に米国のことを気にしすぎているのではないか。

2016年10月19日水曜日

220:「返還」から「帰属」へ――ロシアとの交渉


10月3日の日経新聞夕刊の一面に「4島帰属立場一貫――首相、北方領土交渉巡り」という見出しの記事が掲載された。
近頃疑問なことがらとして、本来この問題には、「北方領土返還」という表現が使われていたように思うのである。
しかしこの記事に見られるように、「返還」から「帰属」という語へ、日本の主張の変更のようにも見える用語の変遷が起こっているのである。
「返還」であれば、4島一括返還、あるいは2島に限定した返還、といったさまざまな選択肢を考えることができるが、これが「帰属」になると、果たしてどうなのか。
本年12月のプーチン大統領訪日でどのような条件が提示されるかは皆目わからないが、現状では決着をすることはかなり困難だろう。




そこで、国際連盟の事務局次長を務めた新渡戸稲造による、オーランド諸島に関する問題解決に北方領土問題解決のヒントを見出すことはできないだろうか。
この問題は、フィンランド領であるオーランド諸島の住民のほとんどがスウェーデン系であったことから、同諸島がフィンランドからスウェーデンに帰属を移したいと主張したことからはじまった。
これに対し、国際連盟は、1921年に「新渡戸裁定」として、オーランドのフィンランド帰属を認めつつ、一方でオーランドの自治権を認め、ここを非武装中立の地域とする、という見事な解決案を提示し、問題を解決に導いた。




このような前例を参考とするならば、ひとつの考えとして、4島の帰属は日本とし、自治権は住民であるロシア人に認めるということが考えられる。
このとき、両国の友好を促進するために、ロシア側は軍事基地を建設しないという一項が認められる必要があるだろうが、これが可能ならば、問題が一挙に解決する可能性が出てくるのではないだろうか。




ロシアはソ連時代、1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約に調印をせず、その後1956年に日ソ共同宣言で日本との国交を正常化したという歴史がある。
ここでは北方2島の返還と戦争賠償の放棄が約束されたわけだが、こういった歴史的経緯も踏まえ、これからの北方領土問題がどのように進展させるのかということが、国民の注目を集めているだろう。
素人考えだが、排他的経済水域と漁業権の問題に関しては、別途切り離して考えるのが賢明なのではないか、と考える。

2016年10月15日土曜日

219:4ション

人間の「生きがい」論はいつの社会でも論議になる話題であるだろう。
私の経験で恐縮だが、ひとつのものごとをやり遂げるときに、今日ではもはや「石の上に3年」ではなく、おおよそ10年はかかるように思う。
このような長期に渡る試行錯誤において私なりに役立つように思う「4つのション」を考えてみた。


まず第一が、「ミッション(Mission)」。
これは、自身が認識する使命感のようなものであり、志と言ってもいいであろう。
自分がいったいどのようなことを成したいのか、ということを常に意識することが重要だということである。


次に、「パッション(Passion)」。
これは情熱のことである。
上のミッションに際し、一心不乱に突き進むパワーのこと。


第三が、「アクション(Action)」。
ただ考えをめぐらせるだけでなく、実際に具体的な行動をとるということが大事である。


最後に「デターミネイション(Determination)」。
さらなる難関にぶつかったとき、あるいはよりチャレンジングな人生への冒険を行おうとするとき、勇気ある決断を行うことが、道を開くことにつながるように思う。

以上が「4ション」である。
このような発想が何かの助けになれば幸いに思う。

2016年10月12日水曜日

218:忘れてはならない戦後史

戦後70年を経た今日、広島・長崎や沖縄での悲惨な出来事、あるいは大都市への無差別爆撃などの経験が語り継がれている。
しかしもう一方の語り継がれるべき過去の出来事として、日本の戦後の復興に、当時どのようなことがあったのか、ということがある。



「奇跡的」と言われる日本の復興の背景にあった事実として、米国が第二次世界大戦後の日本人の社会生活の困難を救うために支出した「ガリオア基金(占領地域救済政府基金)」「エロア基金(占領地域経済復興基金)」がある。
外務省の資料によると、1946年から51年にかけて約6年間にわたり、約16億ドルの膨大な援助があった。
これは現在の価値に換算すれば、12兆円となるほどの莫大な金額である。
援助を受けた日本は1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約に調印し、国際社会での主権を回復した。

この基金の顛末は、のちに日米両国の協議の結果、日本が援助金のうち、4億9000万ドルを15年間で米国に対し返還することになり、その使途は途上国援助や日米の文化交流のために使われた。
日本が国際社会の助けのなかで、どのように復興を成し遂げたのか。
憲法改定論がこれから本格化するなかで、戦後日本の忘れられつつある歴史をもう一度認識し、将来の日本の目指すべき未来像を考えなければならない。

2016年10月8日土曜日

217:お気の毒な日本の防衛大臣

先日調べものをしていて、いくつか興味深い事実を発見したので、そのことについて書きたい。

2007年に「防衛庁」が「防衛省」に昇格してから15人目の防衛大臣が、現・稲田朋美防衛大臣である。
彼女のように、防衛大臣に文官を置くことが、各国の常識になっており、そのことに一切問題はない。


しかし、例えば米国と比較してみたとき、日本の防衛大臣の人数の多さ、そして米国の防衛大臣の経歴の確かさといったことに、あらためて驚かされた。

日本では、1954年から2007年の防衛庁時代に73人、上のように2007年から現在までの防衛省期に15人が大臣を務めている。
対してアメリカの国防庁では、1947年以来、国防長官は現在までわずかに25人なのである。

また米国国防長官のキャリアも注目に値する。
ケネディ時代の国防長官はロバート・マクナマラ(フォード元社長)。
ニクソン時代はエリオット・リチャードソン(保険教育福士長官、司法長官、商務長官を歴任)。
カーター時代はハロルド・ブラウン(元カリフォルニア工科大学学長)。
クリントン時代はウィリアム・ペリー(元国防次官、元スタンフォード大学教授)。
現役オバマ時代はアシュトン・カーター(元ハーバード・ケネディ行政大学院、科学国際関係センター長)。
といった大きな組織をきちんとマネージした経験のある人物が選任されている。



防衛大臣をどのような基準で選ぶのか、国民的関心がここに表れているといってもよい。

就任期間の長さにしても、就任以前のキャリアにしても、まことに残念ながら日本の防衛大臣は米国の国防長官に遠く及ばないように、個人的には思う。


これでは素人が横綱と相撲をしているほどのハンディがあるのではないだろうか。
日本が米国に追従している、と言われる背景の要因のひとつがここにあるのかもしれない。
稲田防衛大臣には、まことにお気の毒な話であるとも思う。

2016年10月5日水曜日

216:国会議員になってほしい人物

その昔、2001年から2004年の4年間、私は「Independent Opinion」という名前で、知人たちに向けてFAXを使って私見を発信していた。


そのバックナンバーを久しぶりにひも解いてみると、手前味噌ながらなかなか興味深いことが書いてあり、国民の選ぶ国会議員の条件について、厳しく再認識する必要を感じた。
当時私が挙げた条件は、次の項目にひとつでも該当する人間は候補者から外すべきである、というものだ。


①有罪・無罪にかかわらず刑事告発を受けた人物
②私利私欲を国家・国民よりも優先する人物
③経歴詐称に問われた人物や過去に不透明な部分がある人物
④企業社会であれば、社会的に葬られるような事件を起こした人物
⑤平然とウソをつき続け、反省の色を見せない人物
⑥知名度のみを売り物にするタレント議員


また上のようなことに補足して、選挙において、候補者を判断するための情報が十分に提供されることを強く望むものである。
これは報道の問題にかかわってくることでもあるだろう。


広辞苑によれば、「倫理」とは、「人として守り行うべき道。善悪の正邪の判断において普遍的な基準となるもの」とある。
もちろんこの「倫理」を意識し、これに沿った行動をとるということは国会議員に限った話ではないのだが、しかし、国民を代表する人物であるからには、この「倫理」に背くような人物が選挙で選ばれるようなことがあってはならないと思うのである。

2016年10月1日土曜日

215:ジャーナリズムとは何か

今年の4月19日に、国際人権法の専門家として「表現の自由」を担当する国連特別報告者である、デービッド・ケイ米カリフォルニア大教授の記者会見があった。
この内容は、4月30日、5月1日、5月2日の神奈川新聞で読むことができる。


約1週間の滞在後、同氏は、「日本の報道の独立性は、特定秘密保護法の実施もあり、重大な脅威に直面している」という見解を述べた。
各省庁やマスメディア機関を取材した結果、「政府を批判する記事を書いたところ、掲載が見送られた」「書いた記者は降職させられた」などの驚くべき記者からの発言があったそうだ。
国民が持つ「知る権利」の大きな根拠のひとつは、国民が政治を委託する人間を選ぶ権利にかかわっている。
なぜなら、この選ぶという行為のためには、自分の選ぶ人間が一体どのような人間なのかという情報を知る必要があるからである。
つまり、この「知る権利」が脅かされるということは、民主主義の根幹にもかかわるような大きな問題と言える。
国政を託す代務者を選ぶ場合、候補に関する詳細な情報がなければ、国民は適切な人物を国政に送ることはできない。


現内閣の延命が図られることによって報道の独立性に危機が生じているのだとすれば、マスメディアには本来のジャーナリズムに目覚めてもらいたいものだ。
ケイ氏が「当たり前ですが、ジャーナリストの役割は権力の監視です。政府の発表をそのまま新聞に掲載したり、テレビで流したりすることではありません」といっているのは、この意味で全く正しい。
ジャーナリズムに権力を監視するという役割があるということは「当たり前」なのである。
しかし日本ではその「当たり前」が成立しなくなってきている。
これは大きな問題だと思うのだが、いかがだろうか。




蛇足になるが、それにしても、テレビの報道で見る限り、現場の取材記者の年齢が20代であるという現象は、日本特有のものではないだろうか。
米国をはじめ、諸外国の記者、すなわちジャーナリストは、見識も経験も豊かであり、本質に触れる質問をすることができると思うのである。
ジャーナリズムとは何か、ジャーナリストとは何か、といったことをいままさに再認識しなければならないのではないだろうか。



2016年9月28日水曜日

214:小泉純一郎元総理の記者会見

9月7日に、日本外国特派員協会(通称外国人記者クラブ)で小泉元総理の記者会見があった。
国内外合わせて150名程度の記者・関係者が集まり、主要テレビ局もカメラを回していた。
会見の内容は、以下のようなものであった。


・2011年3月11日の東日本大震災を受け、東北沖合で「トモダチ作戦」の名で救援活動を行っていた米国艦隊の多くの乗組員が、高濃度の放射能プルーム(雲)の直撃を受け、被爆し、すでに7名が命を落とし、現在も400名を超える人々がガン・白血病に苦しんでいる。
・「トモダチ作戦」に従事していた艦隊に、福島第一原発の事故による放射性物質の流出状況は伝えられていなかった。
・これを受け小泉元総理は被爆した元兵士、現役兵士、軍属など十名と面談をし事情を聴いたが、彼らはみな「自らの任務を果たすため、精一杯活動を行った。日本が好きだ」と述べていたという。
・彼らには健康保険の適用がないため、十分な治療を受けることもままならない。
・よって、「トモダチ作戦」で放射能被害を受けた元アメリカ兵士のため、「トモダチ作戦被害者支援基金」を設立する。




いかがだろうか。
このような実態を多くの一般国民が知らないで5年も経過がしていることをどのように考えれば良いのだろう。
日本のために力を尽くしてくれた人々に対して、日本人はどのように対応すれば良いのだろう。


このような状況が放置されてしまうことで、世界社会における日本の威信や尊厳が損なわれることを私は心配する。




ある外国人記者の、「総理大臣時代には原子力発電を容認していたにもかかわらず、現在ではむしろ原発そのものに反対するのは矛盾ではないか」といった質問に対し、小泉元総理が「当時は原子力安全委員会に騙されていた。過ちを改むるに猶なきなり」と率直に語っていたのが印象的であった。


私はこの基金に賛意を表したい。
ちなみに期間は平成28年7月5日~平成29年3月31日、基金の振り込み先は以下ということだ。




城南信用金庫 営業部本店 普通預金 844688
講座名「トモダチサクセンヒガイシャシエンキキン」
城南信用金庫、基金HP http://www.jsbank.co.jp/38/tomodachi_kikin.html



2016年9月22日木曜日

213:集団的自衛権と自衛隊

『シン・ゴジラ』という映画が最近話題になっているそうだ。
この作品では、「ゴジラ」という大きな問題をマネージするため、自衛隊の出動も大きくクローズ・アップされているらしい。
ところで戦後71年、日本の自衛隊は実戦において、ひとりの犠牲者も出していない。


自衛隊員は命をかけて職務を全うし、最悪の場合には命を落とすことも覚悟のうえであるだろう。
日本では国民感情として、日米安保条約の兼ね合いから、自衛隊員の犠牲者が出ることをなんとなく恐れているように感じられる。


しかし考えてみれば、職務のために危険を冒しているのは、何も自衛隊員だけではない。
消防士にしろ警察官にしろ、自らの職務を果たすために生命の危険を冒すことはある。
2015年5月、閣議決定された安全保障法案により「集団的自衛権」が認められた現在、自衛隊の問題にはさまざまな意見が飛び交っている。
人命を尊重し、自衛隊員の犠牲を恐れるのはもちろん結構ではある。
しかし一国の防衛のために自衛隊員が死傷する可能性があることを、まずいちど現実として受け止めてもいいのではないだろうか。
そこから議論ははじまるのではないだろうか。

2016年9月17日土曜日

212:行政における生産性と責任

企業の労働生産性を高める努力がなされている。
ここでの生産性とはインプットに対するアウトプットの効率性である、と簡単には言うことができる。
企業の生産性が悪いと業績は悪化し株価は下落、経営者は当然、責任を追及されることになる。

これと比較して、行政が行う作業の生産性について、関心を持つ必要があるように思う。
税金の投入というインプットに対して、どれだけの配当が出ているのか、という見地から国民は考え、行政を監視しなければならない。
直近の例で言えば、新東京都知事の判断による築地移転問題である。
この問題に対し、多大な資金が投入されている。
そしてその資金はもちろん、税金である。
当時の築地移転の意思決定の責任者や、その決定事項を実施してきた関係者の責任について、一体誰が責任を負うことになるのだろう。

国家レベルではどうだろうか。
『選択』9月号の記事「血税の焼却炉「産業革新機構」――二兆円が泡と消える「無能国営ファンド」」によると、経産省によってつくられた官僚ファンドが行った不適切な意思決定により、大量の税金がいかに浪費されたかということが書いてある。

民間であれば、投資に失敗した場合、それなりの責任が追及されるだろうし、また失敗の程度によっては企業自体がつぶれることにもなり得る。
「日の丸ファンド」的なものが失敗を起こした場合、一体誰が責任を取るのか。
ここでも行政における生産性と責任の問題は同様のように思われるのである。

常識的に言えば、例えばこのファンドの推進にかかわった国会議員が次の選挙で国民の信任を失う、というメカニズムがはたらくはずだが、日本では機能していない。
これは大いに問題であるように思うのだが、いかがだろうか。

2016年9月14日水曜日

211:日本の将来像

さまざまな機関での世論調査によると、日本の将来はあまり楽観的には考えられていないようだ。
例えば、平成26年の内閣府大臣官房政府広報室による世論調査の結果、50年後の日本の将来についてのアンケートでは、「明るい」33%、「暗い」60%(それぞれ「どちらかと言えば」を含む)であったということだ。
また、楽天による自主調査レポートによれば、9割近くのひとが、日本の将来を不安視している、ということだった。

こういった中で、日本の状況をいちど客観的に捉えて直してみることが必要だ。
例えば、下記のような分析結果が日本の将来に対しての問題意識を喚起する材料になるのかもしれない。
やや恣意的なチョイスではあるかもしれないが、参考にしたい。

・世界競争力(国別):26位(IMD、2016年)
・大学ランキング:東大20位、京大26位(世界大学学術ランキング、2015年)
・GDP:3位(IMF、2015年)
・一人当たりのGDP:26位(IMF、2015年)

・一人当たりの所得:34位(国連、2014年
・研究開発費:3位(UNESCO、2014年)
・軍事力:4位(クレディ・スイス、2016年)
・企業ランキング:トヨタ9位、ホンダ36位、日本郵政37位

(フォーチュン500社のうち52社が日本企業(国別の数では3位)、2016年)
・発行国債残高:1位(IMF、2015年)
・対GDPの教育予算率:115位(Central Intelligence Agecy、2013年)


こういったデータから、日本の将来に対してさまざまな問題が見えてくる。

京セラの稲盛和夫名誉会長は、15年ほど前、ある式典のスピーチのなかで、日本人として継承されていくべき資質として、誠意、礼節、信義、謙虚さ、思いやり、感謝の心といったものを挙げられた。

日本の将来に関する問題はさまざまにあるだろうが、将来像を構築する過程において、このような人間として基本的なValueを忘れてはならないと思うのである。

2016年9月7日水曜日

210:マスメディアはどうなっているの?

『選択』『FACTA』という月間誌がある。
これらには、新聞とは異なった論調の記事が多い。

下記に、『選択』『FACTA』から、「政治」トピックにかんする記事タイトルを列挙してみる。
・自民党「憲法改正案」のでたらめ(2016年8月号)
・安倍が難渋する「生前退位」問題(同上)
・安倍と「電通」の濃密なる癒着(同上)
・菅と二階の「冷たい同盟」(同年9月号)
・安倍「対中外交」に異変あり(同上)

『FACTA』
・安倍「AI戦略会議」は早くも負け戦(2016年6月号)
・「安倍改憲」は2018年夏(同年8月号)
・「安倍の次は稲田」当然の帰結(同年9月号)

これらの記事に関して、論評する資格は私にはない。
とはいえ、これらは新聞・テレビで取り上げられることはないが、国民に議論を促すような話題であるとは言えるだろう。

これらの記事は、安倍政権に批判的なものだと取れる。
しかしこういった批判的な事実が上のような雑誌では明らかにされながらも、NHKや読売新聞が行う第三次安倍再改造内閣の支持率は、8月3、4日の調査によれば55%(前回7月12、13日の調査では53%)と以前高い水準にある。

政治について考える際、新聞・テレビの論調と、上記月間二誌のような取材記事の間に大きなギャップがあることをまず認識しなければならないだろう。

2016年9月3日土曜日

209:働き方とはなにか?

「働き方改革実現推進室」というものが設置されたようだ。
安倍総理みずからが推進室の看板かけを行った、との報道もあった。
総理のコメントのなかには「非正規という言葉を一掃」「長時間労働を自慢する社会を変え、かつてのモーレツ社員という考え方自体が否定される日本にしていきたい」といったものがあった。
しかし、単純に「働き方を変えましょう」と言っただけでは不適切なのではないだろうか。

非正規社員の問題にかんしては、そもそも非正規社員というものが一体どのような背景で定着したのか、という分析をまずしていただきたい。
私が知る限り、他の先進国では、非正規社員という概念は存在しない。
その背景は、以前にも書いたけれども、まず組織に帰属し、それからJob(仕事)が与えられるという考え方がそもそもないからだ。
自分に適正がある仕事を決めてから所属する組織を選ぶという時代に、他の先進国では移行している。

長時間労働・モーレツ社員の問題については、意義あるテーマに没頭する研究者、個人事業経営者、農業従事者、医師そしていま流行りの起業家といった人々の仕事についてどう考えているのか、いまいち不明瞭である。
こういった人々について考えてみれば、長時間労働がそのまま悪いものだ、ということにはならないのではないだろうか。

働き方は政府が示すものではなく、国民それぞれが自己責任の範疇で自ら決めるものではないだろうか。

2016年8月31日水曜日

208:北方領土返還の意義

ソ連が日ソ不可侵条約を破り、1945年8月9日に満州に侵入したという事実は、日本人なら誰でも知っていることだろう。
また、同地にいた日本人を捕虜とし、シベリアに長年にわたって抑留したということも忘れられてはならない。


この歴史的な動きのなかで、戦後、北方四島は当時のソ連に占拠されるに至ったのだが、とはいえ、ここで考えてみたいのは、日本の国益を考えた場合、北方領土返還がどのような意義を持つのか、ということである。
いちど排他的経済水域についての問題を切り離して考えてみたとき、返還を実現することが、果たして国益に叶うことなのだろうか?


もちろん、日本人で北方領土に居住している人、また日本人で当時土地を持っていた人に対しては、相応の対応をしなくてはならないだろう。
しかし仮に、四島が返還されたら、どのような問題・課題が浮上するのか、と以下のようなことを考えてしまう。
①現在四島に住んでいるロシア人の扱いがどうなるのか
②四島のインフラの整備


①は、現在の住人への対応に様々な選択肢があり得るだろう。
いずれにしても、費用のかかる案件である。
そしてまた、その費用は国民の税金から出されることになる。


②にかんしては、具体的には本年7月30日の産経新聞の記事にあるように、北方四島は、インフラの整備などがきちんとされていない。
色丹島では水産加工場の最大手が経営破たんし、島内の穴澗村では、メインストリートも未舗装で、埃が舞わないよう散水車が出動するような状態だということである。
返還にともなって、こういったインフラをどうするのか、また整備するのであればその費用はどうするのか、といった問題が持ち上がることは間違いない。




このように、漁業権は別の交渉案件として考えることができるのであれば、北方領土の返還が日本の国益になるかどうかについて、はなはだ疑問が残る。


参考として、かつてのオーランド諸島における事例を挙げてみたい。
これは第一次大戦末期、オーランド諸島がフィンランドからの分離とスウェーデンへの帰属を求めたことから生じた問題であった。
これに対し、当時の国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造は、オーランドがフィンランドの所有にあることを認め、一方でオーランド居住民の8割がスウェーデン系であることから、住民の自治権も認めた、というものだった。
これは、問題を単純に分離or帰属といった見方で見るのではなく、双方が納得のいく落としどころを上手く定めた例だといっていいだろう。
例えばこういったことがらが、北方領土問題についての硬直した発想を柔軟にしてくれはしないだろうか。



2016年8月24日水曜日

207:日本人と英会話

現在、世界のグローバル化が進行しているとされているが、日本語が国際語になる可能性は残念ながらゼロである。
国際語はすっかり英語で定着しているようである。


これにあやかってか、英会話の学習にかんする教材や英会話教室といったものはゴマンとある。
それでもまだ、「英語が話せたらいいね」「聞きながすだけで英語が喋れるようになる」といった類の甘いことばに関心を持つひとが多いように思う。


しかし、英会話が上達する即効薬はないのである。
私は、英会話上達に関して三つの提案をしたい。


ひとつは、機転の利いた発想ができるかどうか。
これは相手に伝えたいことを、どのように機転を利かせ、自身が持っている英語力で相手に伝えるか、ということである。


友人に英語の教師がいた。
彼が九州の旅館組合に頼まれて、十数人の施設団を米国に連れて行ったときの話である。
参加者はみな、ほとんど英語の話せない人々であった。


ところが、あるときある参加者が、「先生、私の英語が通じました!」と報告にきたというのである。
状況は、ホテルの鍵を部屋に置いたまま締め出されてしまった、というものだった。
そこでその参加者はフロントデスクに行き、中学生でも知っている単語を4つ並べた。
これにより、彼は部屋に入ることができた。


この単語4つとは何か。
それは、"Key, inside. I, outside"というものであった。


こういったことが、実際の英会話で必要になる機転というものだろう。




ふたつ目は、自分が話すのではなく、相手に喋らせる、というものだ。
日本人には、自分が何か英語で話さなくてはいけない、という強迫観念があるように思われるのである。
これは日本人の英会話上達を妨げているもののように思う。
無理になんでもかんでも話そうとするのではなく、的確な質問をし、相手に話してもらう、ということは会話において重要な考え方である。




最後に、日本語を英会話に入れること。
私の友人の証券会社の人間は、外国人の参加する会議等で、英語で話していても平気で途中に日本語を挟んで話したものだった。
「わかりますか!?」などととつぜん日本語で言われれば会議自体にも緊張が出るという効果もあっただろう。
また、それ以上に、すべてを英語で話そうとしてつっかえたり萎縮してしまうことを気にせず、必要とあれば日本語でも何でも口にしてみる、という考え方が重要なのである。


以上、長くまとまりのないものになってしまったかもしれないが、私なりに英会話にかんする持論を提示してみた。
みなさんはいかがお考えだろうか?



2016年8月20日土曜日

206:リオのオリンピック

日本人が大いに活躍しているリオのオリンピックの表彰式で、金メダル受賞時に流れる国歌のテンポが、とても遅いことに今回気づかれた方が多くいるだろう。
実際、体操で大活躍した野村選手も、「団体の金メダル表彰式で君が代をチームみんなで歌おうとしたが、思った以上にテンポが遅くて大変だった」とうれしそうにインタビューで述べていたように記憶している。
どのような背景で遅いテンポになったのかは知る由はないが、私はこれをポジティヴにとらえた。


なぜか。
オリンピックには今回200か国以上が出場しているが、私の聞く限り、その中でも日本の「君が代」は、他の国のような西洋的なマーチ風の曲ではなく、特異な印象を与えられるものである。
私はこのような日本的で特異な国歌を、良いものだと今回のオリンピックで感じた。


そんななかでオリンピックを見たり、国歌を聞いたりしながら考えるのは、日本人であることの誇りとは何なのだろう、ということだ。
現在、日本人であることの誇り、ということは、非常にあやふやでわかりづらいものになってきているのではないだろうか。


もちろん、こういったことに簡単な答えはないだろう。
しかし、近代史のなかで、非西洋国家として真っ先に近代工業国家を建設したこと。
また、戦争という事態を引き起こし敗戦を迎え、その後奇跡的と言われる国の再建を行ったということ。
こういった日本独自の大きな歴史を忘れてしまい、日本人が誇れるものが「おもてなし」や「マンガ」といったものになってしまっては仕方がないのではなかろうか。

2016年8月17日水曜日

205:Something Is Wrong

タイトルの英語を言い換えて、‟It is not right”という場合もあるが、ともあれいずれにせよこれらの表現は、「これはおかしい」という日本語に当てはまる。
この「おかしい」という判断は、分析による結果ではなく、直観的なものだろう。
その判断の背景には、人間自身の経験、教養、倫理観などがあるだろう。

最近の日本人は、この「おかしい」という判断に対して鈍感になっているのではないか、と思うのは私ひとりだけだろうか。
さらに、「おかしい」に対して傍観的な立場を取るとすれば、社会は多くのひとたちが望むあるべき姿とは逆の方向に進んでしまうことを恐れる。

「おかしい」と指摘することは、楽しいことではない。
しかし、少数の人間であれ「おかしい」という感覚を持ち、行動をすることがより良い社会をつくるために必要ではないかと思うのである。
人間の営みにおける進歩は、この「おかしい」という感覚からはじまる、と言いたい。

2016年8月13日土曜日

204:これでいいのか日本の教育

教育改革が叫ばれて久しい。
ゆとり教育で成果を出せず、ここにきて小学校から英語教育に力を入れると言われている。
日本の教育の本質的な問題に言及することなく、流行に追われるようにさまざまな試みをするのではたまったものではない。
被害者はなによりもまず児童であり、またさらには教師、父兄、ひいては日本社会全体がその被害者だともいえるだろう。

ところで、米国に居住する友人のひとり息子が、このたびLaw School受験のための準備をしている。
彼はプリンストン大学を卒業後、日本で就職をしたが、今回あらためて大学院に入るための準備をしているそうで、9月25日に日本で筆記試験を受けるという。
びっくりしたことに、米国の名門Law School(ハーバード大、イェール大、シカゴ大、ボストン大、ニューヨーク大など)の受験は、すべて日本で受けられるのだそうだ。

その彼から受験の際の試験科目を聞いて、私は腰を抜かしてしまった。
なぜなら、科目には、知識にかんする試験科目が皆無だったからである。
試験科目は4つあり、Logical Reasoning、Analytical Reasoning、Reading Comprehension、Writing、というものだった。
くどいようだが、ここには知識を重視する姿勢はまったくみられない。


さて、試験科目のことばのうち、我々日本人が理解しにくい言葉が、Logical, Analytical, Reasoningである。
「論理的」「分析的」はなんとなく理解できるかもしれないが、Reasoningをどのように解釈したらよいか戸惑うだろう。
英和辞典によると「推理、推論」「論法、議論の筋道」とあるが、この定義では不十分と思う。

やや独善的に私なりにReasonを解釈するならば、「ある結論に対して、筋の通る、堂々巡りのない、根拠づけ」となる。
前述の例をみるまでもなく、日本の教育は依然として知識偏重であり、この状況を克服するための努力はなされているにもかかわらず、これといった対策が見いだせないようである。
米国のLaw Shoolの入学試験科目がこれからの教育における不可欠な項目を示唆しているように思う。

2016年8月10日水曜日

203:アスリートと政治家

8月6日、リオ・オリンピックが開会した。
アスリートたちの、目標を明確にし、それを達成するための計画をたて、死ぬ気で練習をする姿が美しく、ひとに感動を与える。

ところで、第三次安倍内閣が8月3日に発足した。
しかし、残念なことではあるが、この改造内閣に対し、大きな期待と感動をもって受け止めた人々はあまりいなかったのではないかと思う。

なぜだろうか。
私などは、よりよい国をつくるという目的意識に対して、本当に死ぬ気で努力をしている閣僚が、果たして何人いるのだろう、とどうしても思ってしまう。

19人の閣僚のなかで、11人は留任である。
残ったこの11人が、どのような仕事をしてきたか、どのような実績を持ち、具体的な貢献をしたかについての報道は、ほとんど聞かれない。
総理大臣と外務大臣以外の報道は、ほとんどない。
あるのは、政治とカネにまつわるスキャンダラスなことがらばかりである。

辛口な意見になるかもしれないが、残念ながら、オリンピックに出場するアスリートのように、死ぬ気で職務を全うしていると思えるひとは見たらない。

例えば、個人的なうらみはないが、組閣記念撮影で安倍総理の向かって左に陣取る経済再生大臣は、いったいどのような仕事をしてきたのだろうか。疑問に思う。
このひとは、入閣4回目。
2001年~2003年規制改革担当大臣、2003年~2004年国土交通大臣、2012年~2014年環境大臣兼原子力防災大臣、そして今回。
経歴はとても華々しく、立派なことであるが、われわれはこのひとが実際に実績として何を行った人なのかはまったく知らない。
メディアの責任なのか、あるいは彼がこれといった実績をお持ちになっていないからなのか、私にはわからない。

人任せでなく、自分の問題として、死ぬ気で自身で考え、結論を出す努力をしていただきたいものだ。
アスリートの姿をみていると、どうしても日本の政治家の不甲斐なさを思い浮かべてしまうのである。
死ぬ気で考えれば、必ず知恵が出る。

2016年8月6日土曜日

202:日本にとっての8月とは

米国人のある友人が、原子爆弾開発に関する実験の記録をみせてくれたことがある。
日時、場所、目的、備考に簡単な記録が入った分厚いリストであったが、これをみて私は愕然とした。
日本時間8月6日の原爆投下は、原子爆弾の実験計画では2番目であり、初回の実験は、1945年の7月、ニューメキシコで行われていた。
また、広島の欄の備考には、‟Combat”(戦闘)とあった。
第三回目が8月9日の長崎であり、これも同様に‟Combat”という記述があった。

戦争状態にあったとはいえ、あくまでひとつの「実験」というかたちで広島、長崎に原爆が投下されたことは、歴史上の事実として認識しておく必要があるだろう。
もちろん、だからといってここで歴史認識に類する議論をしたいわけではないし、そのようにとらえることは建設的でない。

ともあれ、このような状況で1945年の8月に日本は突入したのである。
6日の広島、9日の長崎、ソ連による満州侵攻。
そして15日が敗戦、昭和天皇による玉音放送。
30日の、連合軍総司令官マッカーサーの厚木到着。
余談となるが、彼はその足で厚木から横浜まで親衛隊数十名を引き連れ、横浜のニューグランドホテルに初期の総司令部を置いたと聞いている。

このような1945年の8月という月における歴史的経緯を踏まえて今日の日本がある。
ふたたび8月を迎えて思うのは、第二次世界大戦で犠牲になった方々の冥福を祈らずにはいられない、ということだ。

個人的なことで恐縮だが、私のおばも、ふたりの小さい女の子を連れて満州から4か月かけて朝鮮半島を通り、日本に戻った。
帰国の途中で、彼女は数多くの大変な思いをしたようだが、そのことについて多くは語らなかった。
そのおばも今年104歳で天寿を全うした。

戦争の悲惨さを語るときに、これまでの事実を踏まえた上で、将来どのような社会を作っていくのか、という発想なしにただ悲惨さだけを語るだけではいけないだろう。
みなさんはどのように思われるだろうか。

2016年8月3日水曜日

201:目的と手段

以前にも書いたことだが、洋の東西を問わず、人はあるchoiceをするとき、手段に短絡する傾向がある。

これはどういうことかというと、例えば組織内のIT関連機能を効率化する必要があるとしよう。
この場合、担当者は傾向としてこの分野に実績を持つ企業についての情報収集をはじめるに違いない。
そして、たとえばある企業Aとの打ち合わせや商談がはじまることになる。

このことは、一見常識的な仕事の進め方と思われるかもしれないが、これは手段に対する短絡であるとも言える。
この場合の目的とは、例えばIT関連業務の効率を20%向上させる、情報漏えいのリスク回避の強化が図られる等々、多くの項目が目標として設定されることになる。
ちなみにここでいう目標とは、ある行動を起こした場合に得られる結果・成果のことである。
つまり言いたいのは、上の例では「なぜ企業Aに決めるのか」ということ自体にきちんと理由づけがされないまま、手段に対する短絡が起こっているのではないか、ということだ。

結論を出すときに、目標項目に対するコンセンサスをきちんと確立させたうえで手段の検討をすることが、考え方の堂々巡りや感情的な対立を防ぐことになるだろう。

2016年7月27日水曜日

200:優先順位ってなに?

日本社会では特にそうかもしれないが、言葉や概念の定義が共有されておらずに使われる場面が多いように思う。
国際社会において、そんな日本人と外国人がまったく異なった定義を前提として議論を進めると、噛み合わないということが起こる。
するともちろん、課題に対して結論が出ることなく、不毛な結果となり、お互いにフラストレーションを残す。

同様に日本国内においても、明確な定義を共有することなく、わかったようなわからないような結論で議論が収束する場合が目立つようになっていると思う。
その例のひとつが、優先順位(プライオリティー)という言葉についてである。

たとえば国会討議といったような、組織のなかの会議において、優先順位にかんする議論が起こるという場面がある。
ところでここで考えてみたいのは、ある案件でプライオリティーが高いという発言をした人に、それはなぜですか?と訊いたとき、どのような答えが出てくるだろうか、ということである。
多くの場合、当該案件に対する単なる説明に終始するのではないだろうか。
当たり前のことであるが、優先順位にかんして考えるときには、なぜある案件が他よりも優先するのか、という設問に明確に答えられなくてはならない。

そこで、説得力のある優先順位の根拠は通常、3分類できるのでこれを紹介したい。
第一には、その案件の重要度である。
これは、英語でImportanceという言葉よりも、Seriousnessという語がふさわしい。
例えば、ある案件が組織全体にかかわるものなのか、その一部なのか。
あるいは金額で100億円の案件なのか、1億円の案件なのか。
こういったことを条件に、Seriousnessが判断される。

第二、第三には、緊急度と拡大傾向。
ここでいう緊急度とは、期日が決められているなどの明確なデッドラインがあるのかどうか。
またその期日までどのくらいの時間が残されているのかどうか。
拡大傾向とは、当該案件をそのまま放置した際に、やがてより望ましくない状況になるのか、あるいは消滅してしまうようなものであるのか。
消滅・縮小するような案件であれば、急いで手をつけなくても良い可能性がある、ということに当然なる。

つまり「当該案件の優先度が高い」という判断の背景に、その重要度(Seriousness)の判断があり、また期日(緊急度)および放置するとどのようになるか(拡大傾向)という3つの異なる基準が存在してはじめて、判断は論理的で説得力あるものになるのである。

蛇足になるかもしれないが、よく見られる混乱は、「優先順位付け」と「意思決定」の関係である。
優先順位とは、複数ある案件のなかで、他に先駆けて行使するものを判断するもの、意思決定は、あるテーマに対して、複数ある選択肢から最適なものを選ぶというまったく目的が違った思考行為であることを認識したい。
またこの考え方は、グローバルに通用する定義であるといっても過言ではないのである。

2016年7月23日土曜日

199:国家の安全保障ってなに?

各国とも、政治にたずさわる人たちは、二言目には「安全保障」「ナショナル・セキュリティ」といった発言をされる場合が多い。
しかし考えてみれば、一国の安全保障を拡大していくと、当然ながら別の国の安全保障との間に摩擦が生じることは、歴史が物語っている。

これに関連させてみたいことがらとして、私の高校時代の恩師が晩年、次のようなことを語ってくれた。
いわく、「ある時点において自身の自由の限界を認識することが、自由そのものを拡大させることにつながる」。

これは自由に対する非常に本質的な洞察ではないだろうか。
そしてこの発想が、諸国間の安全保障の議論に適応できるのではないかと私は考える。
つまり、世界の中での自国の安全保障の限界をはっきりと認識することこそが、真の意味で安全保障の拡大へとつながるのではないか、ということである。

このように安全保障とは、グローバルな次元から発想しなければ、殺戮や戦争がManageされる人類が望むような状況に到達できないといえないだろうか。
憲法9条を持つ日本においては、安全保障についても、地域は無論、グローバルな安全保障をどうするかという、次元の上位展開をすることが世界社会に対する発信になるかもしれない。

なお言ってしまえば、その答えは、ただ有識者会議を開いているだけでは出てこない。
切実な問題意識を持った人間が、死ぬ思いで考え抜けば、答えが出てくることだろうと私は思いたい。

たとえば生物学の分野で驚異的な成果をあげた京大の山中教授の原点もおそらく、問題を共有する数人の仲間と死ぬ気で、寝食も忘れて研究されたということにあるのではないだろうか。

2016年7月20日水曜日

198:Jump to Conclusion

結論に短絡する傾向を上のようにJump to Conclusionという。

たとえば、
モノが売れない→営業の強化をしろ
利益が確保できない→ムダをなくせ
こどもの成績が落ちてきた→家庭教師をつけろ
イベントの人が集まらない→担当者を変えろ
投票率が下がってきた→有権者年齢を下げろ

これらは短絡思考の典型である。
本来であれば、ある望ましくない状況が起きたとき、「なぜ」そのような状況となったのかという諸原因を調べてみることが必要であることは言うまでもない。
しかし、意識をしないと、我々はどうしても対策に短絡する。
さらに悪いことには、その対策が有効でないと、場当たり的に適切でない手段に訴え続けることになる。

例えば「モノが売れない」という場合であれば、短絡的に営業の強化を図ったものの状況は好転しない、ということは十分あり得る。
そしてさらにこの原因に対する分析をしないままに営業企画担当を変えてみるというような、気づかぬまま泥沼に入っていく場面も実際数多く起こっていることだろう

今回の参議院選挙の場合も、国民の選挙離れと投票率の低下という現象に対して、それらの諸原因をきちんと見極めることなく選挙年齢を18歳に引き下げるという短絡思考があったのではないかと疑問に思う。
投票率は結局好転しなかったが、今度は16歳まで下げて解決を図るのだろうか?

2016年7月16日土曜日

197:「二度と繰り返さない」というフレーズの意味

企業が不祥事を起こし、責任者が90°のおじぎをして、事件の終息を図る際に、多くの場合、「二度と繰り返さないことをお誓い申し上げます」というようなことを言うものである。
ここに日本人の「再発防止」に対する思考の限界を見てしまう。
多くの場合、誤りを犯したので、不祥事を二度と繰り返さないように頑張る、という単純な精神論の方向に行ってしまうのである

何が問題なのかといえば、取材記者の質問も実に甘いものなのである。
本来なら、下記のような質問の連鎖があっていいだろう。
「問題の真の原因を究明し、裏付けをとるために、どのようなことをされますか。」
「類似の問題が再発するかもしれない状況をどのように想定するのですか。」
「それらの状況の原因を取り除く対策を、どのように考えるのか。」
といった、分析的な質問がされることにより、「二度と繰り返さない」という決意がはじめて実現されるのではないか。

これら「再発し得る」状況への詰めが甘い日本的思考法の改善が望まれることである。
「二度と繰り返さない」などと言う表現は、あまり軽々しく使っていいものではないように思うのだが、いかがだろうか。

2016年7月13日水曜日

196:思考資源の活用 その3

今回は、思考資源を活用する問題をまた提出してみたいと思う。
解いてみて、何かの参考になれば幸いである。

ある電力会社XのCEOが、Y発電所の運営に関する行動計画が、甘いものではないかという問題意識を持っている。
それは、問題が大きくなってから「実は、社長……」ということになるのを憂慮し、状況を改善したいと思っている、ということである。
CEOの憂慮をすこしでも軽減するために、以下に掲げた対策の順番の、どれが適切か、考えてみてもらいたい。

①将来起こりうる問題を想定する
②問題が発生した時の対策を立案しておく
③問題が起こる可能性のある領域を特定する
④予防対策をたてる
⑤リスクの分析を行う範囲を決める
⑥考えられる原因を想定する

(A)①→②→③→④→⑤→⑥
(B)⑤→③→①→⑥→④→②
(C)⑤→⑥→①→②→④→③
(D)⑥→①→⑤→④→③→②

適切な分析の手順は、(B)である。
まず、将来対策を打つ必要のあるテーマの範囲を決める。
その範囲の中で、重大領域(ヤバいところ)を複数判断する。
次に、上で挙げた各領域における、起こりうる諸問題現象を想定する。
そして、諸問題現象の諸原因を想定する。
その諸原因を除去する諸対策(予防対策)を立案する。
最後に、諸問題が実際に発生してしまった時の影響を最小化する諸対策を立案する。

以上の、Organized Common Senseを思考の枠組みとして意識することにより、対策の抜け・漏れを最小化することが可能になるだろう。

2016年7月9日土曜日

195:思考資源の活用 その2

あなたが部下から、問題が発生したときにどのように取り組んだらよいか、という質問を受けたときに、どのような回答をするだろうか。
この質問に答えることは、かなり難しいと思われる。

しかし、仕事とは、言ってみれば問題解決の連続である。
これら問題の多くは、実際の業務では経験や知識、直観で解決がされているだろう。
しかし、そうはいかない複雑な問題の解決に当たっては、頭の整理が必要になる。
以下に、このような場合の考え方について述べてみたいと思う。

大事なのは、直面している問題の種類をまず確認することである。
以下に、問題状況の種類を大別してみたい。
①状況が錯綜していて、解決するべき問題・課題が見えていない
②問題が発生し、その原因について責任のなすりつけ合いが起きている
③利害対立や自身の思惑などによってなかなかものが決まらない
④決定されたことに対し、その実践段階で混乱している

多くの問題状況は、上記のいずれかに位置づけられるといっても過言ではないだろう。
皆さまがたが過去に直面した状況をこれに当てはめてみると、上のどれかにほぼ落ち着くことだろうと思う。
各々の状況に対する詳細な対応の方法は後に譲るとして、ここでは、問題状況の分類について考えたとき、これらが参考になることを期待する。

2016年7月6日水曜日

194:Robert's Rules of Order

ロバート議事規則(Robert's Rules of Order)とは、wikipediaによれば、

アメリカ合衆国陸軍の准将であったHenry Martyn Robert (1837--1923) がアメリカ議会の議事規則を元に、もっと普通一般の会議でも用いることができるよう簡略化して考案した議事進行規則
 のことである。


私は2010年ごろ、ある中国の友人から、中国のエリートが習得する必須のスキルにこの「ロバート議事規則」がある、という話をきいて驚いた。
調べてみると、中国には、かの孫文が1920年代にこれを紹介したようだ。
ところが当時はまったく評価されず、近年、1989年に序章(要約)が紹介され、95年にはじめて正式に出版された。
現在では、指導者の基礎的なスキルであると言っても過言ではないような状況になっているようだ。

私の経験でも、少なくとも米国社会では、会議をする場合の手順としてこのルールが普遍的なものとなり、定着している。
留学時代の大学での正式な会議や理事会においても、このルールは用いられている。

このようにある程度グローバルに定着し、中国においても注目されている議事規則が、日本においてはほとんど扱われていないように思われるのだが、どうだろう。

ちなみに、もちろんこの議事規則で最も重要な立場とされる人が議長であり、会議が規則から逸脱していくようなことがあれば、ストップをかけ、修正するのがこの人物の大きな役割である。
国会の各種委員会における議長が、ただ「○○君!」と呼ぶだけの存在であるような、日本の現実とのギャップに唖然としてしまう。
日本でも現在、グローバルに通用する人間にとって、議事進行の基礎ルールの理解が必須ではないかと思う。

2016年7月2日土曜日

193:ピースパワー論 その2

以前、186号で私なりの平和の定義を行った。
またその後の191号では、「ピースパワー論」という持論を述べた。

今回は、この「ピースパワー」という、私がここ数年考えているものについて、批判や異論があることを覚悟で、未完成ながらすこし開示してみることにしたい。

ピースパワーとは、
『真剣に平和を希求する諸国の積極的な協力を得て、人類が持つ最新技術を駆使し、地球規模の安全保障に対するイノベーションを前進させる推進力』
のことである。

ここで言うイノベーションの意味は、『現状を否定するのではなく、より望ましい状態をつくりだすために、発想の次元を変える』ということである。

191号で、我が国の世界社会に対する責務が、武力の行使をせずに殺戮をコントロールする手段を開発することであると述べた。
この延長線上の発想で、地球規模の安全保障をどのように構築したら良いかという方法論が展開され、それが憲法9条を持つ日本からの発信になることには大きな意義があるのではないかと思う。
抽象的な話になってしまったかもしれないが、もうすこし具体的なことについては、また後に書きたいと思う。

2016年6月29日水曜日

192:地政学的「平和」の定義とは?

国際政治の専門家に叱られるかもしれないが、日本の安全保障について考えている一国民として、いささか垢にまみれた「平和」ということばの定義を、私なりに披露してみることにしたい。




地政学的にみた「平和」とは、あらゆる紛争や対立が、ひとびとの生命・財産に対して脅威を与えないようにマネージメントされている状態である。


人間や、人間社会に憎悪やもめごと、対立が避けられないという現実を踏まえて、平和をどう定義するかについて、これといった普遍的な定義はないのかもしれないが、上が私なりの定義である。
みなさんの批判を仰ぎたい。


ベトナム戦争時代、当時平塚に住んでいた私は、御殿場の駐屯地にいる米兵と会話をする機会があった。
彼は、ベトナム戦争の悲惨な体験から、彼なりに平和について考え、まさに上の定義に近い話を私にしたのだった。
これは私なりの平和概念の原点といってもいいようなエピソードである。
余談めいてしまうが、ここに記しておくことにする。

2016年6月22日水曜日

191:ピースパワー論

憲法9条をどうするかという議論が盛んになってきている。
9条は、以下のようになっている。


日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
私は、この9条の理念は素晴らしいものであると思う。
9条改定派の人々がいうように、これは確かに戦後アメリカによってつくられたものであるのかもしれない。
しかし、だからといってこの素晴らしい理念を捨てて構わない、ということにはならないのではないだろうか。


さて、しかしここで書きたいのは、上の考えとは関連しつつも、ややちがったトピックについてである。
それはつまり、「国際紛争を解決する手段としての武力の放棄」を憲法でうたうのであれば、平和国家たる日本は、武力に代わる紛争解決の手段を開発することが、世界社会に対する使命なのではないか、ということだ。
私はこの紛争状態をマネージする方法論開発の構想を、近年「ピースパワー論」というかたちで考えている。
これはあくまでまだ試案であるし、また内容としてもあまりに非現実的なものでもあるのかもしれない。
しかしこういった考えが、平和とは何か、これを実現するためにはどのようなことが必要か、といった議論の刺激になれば非常にうれしい。
少しずつではあるが、この「ピースパワー論」について、これからみなさんにお伝えしていければと思う。

2016年6月18日土曜日

190:国民の政治離れは本当か

来月7月は、図らずも大きな選挙がふたつある。
東京都民にとっては、お疲れさまなことだ。
なぜお疲れさまかといえば、現在、適切な議員や都知事を選ぶためにどのようにしたら良いのかが、よくわからなくなってしまっているように思えるからだ。
だからこそ、疲れてしまうのだ。




選挙権が18歳に引き下げられ、高校生がどのように選挙をしたらよいかという模擬投票のニュースがよく見られる。
私が生活しているなかでは、さまざまな会合や雑談において、「日本の政治はこれでいいのか」という話題が出る。
しかし若者の世代においては、選挙権の拡大とはうらはらに、一部を除いて、政治に対する関心が一世代前より少なくなっているのかもしれない。
この原因を考えなくてはならない。


政治離れと言われる現象の背景のひとつには、政治における矛盾があるのではないだろうか。
つまり、国民の代表として国家の経営を委託するために代務者を選ぶのであれば、代務者はこの委託を受け、命がけでこの国をより良い社会にするために問題解決をし、意思決定をし、国の進むべき方向の設定を行わなければならない。
にもかかわらず、現在の日本の政治家は「国民の理解を得て」という発言を連発する。
これは矛盾ではないか。
なぜならば、すでに選挙を通じて「国民の理解」は得られているからだ。
「国民の理解を得る」ということが、具体的にどういうことなのか、そのあたりがいまいち判然とせず、私などはどこか矛盾を感じてしまう。
「国民の理解」という語が、議会のパフォーマンスにおける言葉遊びになってしまってはいないだろうか。






多くの国民のフラストレーションは、政治家が信念と自信をもって判断を下し、それを着実に実行するという基本的なコンセプトが、いまやきちんと実現されていないことにあるのではないだろうか。
二言目には「国民の理解を得て」「民意を吸い上げて」と言うのは、そろそろやめにしてもらいたいものだ。


これは例えば、企業の経営者がいちいち「株主の理解を得て」経営を行っているわけではないのと同じことである。

2016年6月15日水曜日

189:人間の根

ファミリーレストランなどでは、装飾として花瓶に花が活けられているのをよく見る。
もちろん、このほとんどは造花である。




さて、造花に対していくら水をやり肥料をやっても、造花は造花であるので、育つわけではない。
この造花と本物の植物の違いとは何か、と考えてみると、それは「根」があるかないか、ということだ。
この造花と本物の植物の違いを人間にあてはめて考えてみたい。


人間も、根がない造花的な人間にいくら教育や指導という水、肥料を与えても、育つはずがないだろう。
そこで、学校教育においても、企業内教育においても、人間の「根(Roots)」は何か、という視点から、ひとの成長を考え直してみてはどうか。


このコンテクストでの「根(Roots)」の定義は、例えばウェブスターによると、ものごとの不可欠な要素、行動やクオリティーの源といったようなものが当てはまるだろう。


しかしこれでは抽象的であるので、人間の根というものについての定義をここで私なりにしてみたいが、しかしいささか逆説めいてしまうのだが、これは各自が死ぬ気で考えるものであり、それぞれに違ってもよい、というものなのである。
私個人としては、探求心、あきらめないということ、目的意識を持つ、自分の歴史を意識すること、などを挙げたいが、必ずしもこれらでなくても構わない。
ともかく、個人として、何か自分の意識の支えとなるようなものを「根」として持っていることが、非常に重要なのではないか、ということである。








やや話はズレてしまうかもしれないが、ある友人の元代議士と近頃会い、彼との会話のなかで、舛添都知事の話題が出た。
そこで、政治家のモラルや倫理観において、どこに線引きをするか、という質問を私はされた。
例えば、公用車で別荘に行く、ということが、果たして政治倫理に触れるかどうか、といったことである。
私は、個人としての人間の行動規範があるかどうかにかかっている、と答えた。
例えば、秘書官の「この程度のことは公費でまかないましょう」という発言に振り回されるようでは、公人の資格はない。
自身の行動基準、倫理観で判断するべきだ、と私は思う。
これは各々で違ってよい、ということでもある。


例えば公用車で別荘に行く、そのときに途中で家族を乗せていくかどうか、という問題が出てくるだろう。
私自身が公人であったとすれば、これは倫理規定に触れることではない。
ただ、週末にも運転手を引き留めておいて使うということは、私は公人としてはやらないだろう。


これは先ほどの「根」にかかわる問題であるだろうし、また良識(Common Sense)の問題でもあるだろう。

2016年6月11日土曜日

188:「再発防止」の意味

企業で不祥事が起きたときに、ほとんどの場合、当該企業のCEOおよび担当役員が記者会見を行い、判で押したように90°の角度で頭を下げる。
その際、取材記者から、「再発防止の具体的な方策は何か」という質問は、ほとんど聞かれない。
本来ならば、不祥事の真の原因を追究して、その原因をどのように取り除くのかということが確認されなければ、本当の再発防止にはならないのではないか。


余談になるが、なぜ判で押したように責任者が90°頭を下げるのか気になったことがある。
調べてみれば、広告代理店やPR会社が、「不祥事発生時の記者会見のリハーサル」を企画し、企業に売り込んでいる、ということだった。
リハーサルの模様をビデオに録り、評価やアドバイスを行うというものだそうだ。
これは大変いい商売であるらしい。
なんとも情けない話であるようにも思われるのだが。




話を戻すと、「再発防止」ということについて、単に「心を入れ替えます」という精神論だけでは意味がないのである。
もちろん誠意をみせ、きちんと謝罪するということは日本社会では必要なことではあるのだが、一方で問題現象の原因(複合原因の場合もある)をきちんと想定し、検証して、それを除去するための諸対策を確認することなしに再発防止は担保できないのである。


「不祥事」というのは、必ず過去におきたことであるのだから、事実としての情報が、確実に存在しているはずなのだ。
「不祥事」が起きたときに、それをもたらすどのような諸変化(諸原因)が存在したのか、ということを、企業はきちんと考えなければならないし、またマスメディアもそのことをきちんと問わねばならない、と私は考える。

2016年6月8日水曜日

187:納税義務

どの国でも、収入や財産に対して一定の税金を課する、ということになっている。
つい最近私も、親から相続した不動産に対して、「固定資産税 都市計画税 納税通知書 在中」と書かれた封筒が送られてきた。


これまでは納税ということについて、それほど強く意識することなく都民の義務としてこれに従ってきた。
しかし、今回の報道での都知事の発言をみていて、はじめて都に対して税を納めるということに心理的な抵抗をおぼえた。


あれだけのひどい行動、発言を行った都知事が公人として責任を感じ、辞任をするのであれば、当然納税する。
退任しなければ、正直に言ってしまえば納税はしたくはない。


もちろん納税をしたくはない、などと言っても仕方のないことではあるが、一方で例えば、知事が辞任するまで税金を供託するという方法があるかもしれない。


知事が辞めるまで供託するということが、都民のせめてもの抵抗として考えられないか。
もちろんこれは非現実的で、技術的に不可能な、突拍子もない発想かもしれないけれども、これを国家レベルで行うと、どうなるのだろうか。
革命にでもなるのだろうか。


良識のない政治家の存在を知りながら税金をただ納める、というのも、なかなか遣り切れない話ではないか。

2016年6月4日土曜日

186:平和とは何か

数日前、米国留学帰りと昔の教え子5、6人との会話のなかで、「平和」の定義についての話題になった。
PCで検索するなどして「平和」の定義を参照することもあったが、これは、というものは見つからなかった。
学問的に、一般通念的に妥当であるかはわからないが、ここで、私なりに長年考えてきた平和の定義について披露をしてみたい。



「平和」とは、あらゆる種類の紛争や対立が、ひとびとの生命や財産に対する脅威なくマネージされている状態だと私は考える。
人間や人間社会から憎悪や悪意がなくなることはないだろう。
これは人間の性であり、これを前提にした上で、どのように殺戮を回避するのか、ということを考えなくてはならない。

例えば、これは以前にも書いたことがあるかもしれないが、ある人はBuisinessを、「平和時における戦争の状態(peace-time form of war)」と見事に定義していた。
ビジネスの世界ですら、当然人間同士の競争はあるのである。


オバマ大統領が広島を訪問し、平和に対する論議がなされるときに、わたしが上に挙げた定義がすこしでも役にたてばうれしい。


余談めいてしまうが、私は以前の号で、原爆使用についての謝罪をアメリカに求めてはいけない、と書いたが、実際には日本側からそのような発言はどこにもみられなかった。
このことは、日本人の、黒白とけじめをつけずにグレーなエリアの存在を認めることにより、問題の解決を図るという智恵が発揮された良い例なのではないかと思う。

2016年5月28日土曜日

185:恥ずかしいということ

読売ジャイアンツの野球賭博に関する取材への反応の多くは、「これは恥ずかしいことだ」とするものが多かったように思う。
世界社会に対して日本の恥ずかしいところに国民が目を向け、問題視する必要があるとおもう。


例えば、国際社会で恥ずかしいことのひとつとして、TPP交渉の日本側担当大臣の言行を挙げざるを得ない。
私の米国人の友人には、実にばかばかしいことだ、という発言も飛び出した。
あのような品性を持つひとを、日本を代表する交渉相手としていたことになんともいえない複雑な心境を持つ。


国の経営を預かる国会議員の諸先生は、国民の模範とするべき立場にあるという認識をぜひ持って頂きたい。
国民の政治離れや不信感の原因のひとつに、政治にかかわる先生方へのリスペクトが薄まっていることもあるのではないだろうか。

2016年5月25日水曜日

184:思考資源の開発 その1

178号でも触れたが、日本の優秀な頭脳集団を効率的に機能させるためには、現状を打破する何らかの試みが必要と思われる。
私は2010年に、有志とともに「思考資源開発機構」なるものの設立を試みたことがある。
現在においてもその必要性を感じる。


組織が行う意思決定の生産性を高めることが企業競争力の強化に欠かせない側面であることに異論はないだろう。
生産性を高めることは、組織が行う意思決定業務に共通の思考様式を導入することである。


音楽を例にとれば、洋楽には5線譜という約束事がある。
そのため演奏者は楽譜があることにより、合奏が可能となる。
これは共通の約束事を、各員が理解しているためである。
これに引き換え、日本の組織においては、「楽譜」に相当する共通のルールが存在しない。
そのため、「合奏」する場面で混乱が起きるのである。


さて、みなさんにもこの領域に対して関心をもってもらうために、例によってクイズを差し上げることにしたい。




ある組織において、統括部長は管理職会議の方法を改善しなければならないと感じている。というのは、現状は会議にまとまりがなく、とりわけ口数の多いメンバーが支配しがちで、実質的に何も成果が得られないまま多くの時間を費やしている状態である。
このような状況において、取り組むべき課題を明らかにしていく上で最も論理的な手順を表しているものを選びなさい。
①優先度を設定する。
②問題・関心事・課題を挙げる。
③どのように結論を出すかを決める。
④状況分析の範囲を限定する。
⑤全体像を見直す。
⑥複雑な問題を分析できるレベルまで細分化する。


(A)①→③→⑤→④→②→⑥
(B)④→②→⑥→①→③→⑤
(C)④→③→⑥→②→①→⑤
(D)⑤→⑥→②→③→①→④








ここで、議論が噛み合わないということは、ある参加者は(A)の手順で発想し、その上司が(C)に固執するような場合のことだ。
これではものごとを議論する前提自体で混乱が起こってしまうことになるだろう。
そこで解答を示すなら、(A)~(D)でムダの少ない効率的な議論の手順は(B)である。


状況分析の範囲を決める→その範疇に存在する問題を列挙する→複雑な問題を、処理しやすい部分に分解する→複数化された問題に優先順位をつける→どのように結論を出すのか決める→全体像を見直す


以上でお分かりのように、結論が求められる会議等においては、集中討議ができるように、結論に至る段取りの理解を共有することが重要である。

2016年5月21日土曜日

183:現役米大統領の広島訪問 その2


オバマ大統領の広島訪問は、日本がアメリカに「一本とられた」という感じすらするのである。
米国の一部市民の強い民意に逆らってまで行われるこの訪問は、歴史に残るものであると私は断言する。
そこで、米国と対等になるためには世界社会に向け、平和国家としての決意を表明する必要があると我が国のトップは認識しなければならない。
それは唯一の被爆国としての、世界に向けたメッセージであり、かつ、国際社会における日本国の向かうべき方向を示すものでもあってほしい。
これは日本外交が、日本のあり方を世界に示す上での大きなチャンスでもあるのだ。
現実的な平和の維持に日本がどのような貢献ができるかについて、国民的な議論を起こす良いきっかけになるのではないか。




平和、ということについて言えば、自民党の平成24年の憲法改定論では、9条の前半は以下のようになっている。
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
ここでは全く現行の憲法からの変更は行われていない。
自民党の憲法改定案ですら、このように憲法の平和の思想を変えないままにしていることは、日本国民が平和を真に求めるひとびとであることの証左ではないだろうか。
(ただし、第2項の改定案については、精査を行う必要があるように私には思える。)


日本が憲法のなかで国際紛争を解決する手段としての武力を放棄したのだとすれば、武力衝突を回避するための、オルタナティヴな手段を開発する世界社会への義務があるのではないだろうか。


今日までの平和維持は、抑止力としての軍事力、外交努力、途上国自立のためのODA援助、あるいは「ソフト・パワー」と呼ばれるものなどによってなされているのだろうが、しかしこれらに加えて、これらとは次元の違う平和のための概念を、日本が打ち出せないものかと常日頃考えてしまう。


ここで広島の話題に戻れば、177号でも触れたが、広島市民の原爆への対応は、新しい平和について考える良い事例であろう。
広島市民は、加害者である米国に対し、謝罪や賠償を要求する運動ではなく、原爆の恐ろしさを世界に認識させるための「ノーモア広島、ノーモア長崎」を打ち出した。
このことは、紛争解決に対し、当事者たちが勝者・敗者あるいは加害者・被害者という発想ではなく、これを超えたレベルでものごとを発想する、ということの重要性を我々に示唆してはいないだろうか。


あるいは非西洋の視点から平和について考えることも必要である。
未開というと差し障りがあるかもしれないが、たとえばアフリカ大陸や南アメリカの奥地に存在する部族間の紛争解決に我々が学ぶこともあるのかもしれない。
なぜなら、彼らは紛争や対立の手段として相手を完全に殲滅することはしないだろうからである。
なんにせよ、これまでの方法論とは全く異なる、平和維持のためのメソドロジーを、我々は考えなくてはならないように思われるのだ。

2016年5月18日水曜日

182:現役米大統領の広島訪問 その1

タイトルの話題について。
4月30日の177号で簡単に触れたことではあるが、もう一度よく考えてみると、これは前代未聞と言っても過言ではない歴史的な出来事となるだろう。


伊勢志摩でのG7サミット終了後、オバマ大統領が安倍総理とともに慰霊碑を訪れ、太平洋戦争で亡くなられた両国の犠牲者に哀悼の念を表する予定である。
大いに結構な、素晴らしいことだと私は思う。


G7で出される共同声明以上に、オバマ大統領の広島訪問が重要なものだと世界は受け止めるだろう。
なぜなら、G7は毎年行われるものであるが、オバマ氏の広島訪問はこれが最初で最後であるからだ。
私が間違っているかもしれないが、海外のメディアもこの訪問をG7の成果以上に重要視し、報道するのではないか、と考えている。



レームダック化した大統領とはいえ、任期中に自国の戦争犯罪ともいうべき行為にケジメをつけるというオバマ氏の発想について、我々日本人はもっと深い思考をしてもよいのではないかと思う。
この判断は、おそらくオバマ大統領自身の信念の、熟考の末の表れだとみて良いだろう。
その背景には、就任直後2009年、プラハでの核兵器の廃絶を訴える演説の理念を、行動に移さなければならない、という意志があるのではないか。


日本において、安倍総理の祖父である岸信介は、若者をはじめとする大変な国民の反対を押し切ってまで、自身の政治信念に基づき、安保条約に調印した。
安倍総理が今回の安保法制の成立に自身の政治信念をかけていたのかはわからない。
政治を行う議員に確固たる政治信念・理念を求めることは、現在の日本では非現実的な夢物語なのだろうか。
現首相にも、直面の選挙で議員数を増やすか増やさないかという関心を超えて、祖父の信条をかけた国の将来を左右するような業績を残してもらいたいと思う。

2016年5月14日土曜日

181:問題解決と意思決定、問題と課題

問題解決という言葉ほど垢にまみれて長期間使われてきた熟語はないだろう。
先月91歳で亡くなった、私の恩師であり友人のC.H.Kepner博士は、問題を次のように定義した。
「問題とは、あるべき姿に対する逸脱が発生し、そこにギャップが生じている状態」
この定義が比較的広く現在でもつかわれている。


これを踏まえて、問題解決と意思決定という、簡単に使われ、混同されもするふたつの言葉の関連について考えたい。
要は、どちらを上位概念として位置付けるかである。


意思決定がなされているという「あるべき姿」に対して、なされていないという逸脱が発生しているのであれば、この状況を「問題」として差支えない(問題解決が上位概念)。
あるべき姿からの逸脱という状況を改善するために最適な選択肢を決定するということもまた考えられるだろう(意思決定が上位概念)。


どちらを上位概念にもっていくかは当事者が判断することであり、一概には言えないけれども、このような整理をすることにより、分析の効率が改善されると思う。
言葉の定義や、その関連について、きちんと確認をしながら物事を考えたいものである。






また、問題解決ということについてもう少し考えたい。
問題解決をするとき、多くの場合、問題を処理しやすい諸要因に分けて、それらを課題として扱うという智慧が必要である。


「問題」という語の他に、「課題」という語が登場してしまい、ややこしくなってきてしまったかもしれないが、「課題」をここで簡単に定義すれば、「次にとる行動」のことである。
次にとる行動とは例えば、原因を究明する、選択肢を選ぶ、リスクへの対応を講じる、調査を行う、実態を把握する、優先順位を付けるなどである。
よって、次にとる行動が示唆され、理解されているときにしか「課題」という表現はふさわしくない。


従って、平たく言ってしまえば、問題解決というものは、問題が分割され、結果生じた諸課題が処理されることで達成される、と考えるのがよいだろう。




ちなみに、問題解決の手法を経験的に分類すると、下記のようになる。
・経験や知識から状況を把握して、解決策を引き出す
・直観によって解決策を導く(過去に同一の現象があれば、それが参考になる場合もある。しかし、同じような現象でも原因が違う場合もあるので注意)
・ある種の天才的なひらめきによって解決策を得る
・論理的な分析によって問題を解決する


もちろん4つ目の論理的な分析が、私がここで強調したいものだ。
とはいえ、私の経験では、直面する問題の8割程度は第一と第二のアプローチで処理できてしまう。
しかしこれでは上手くいかないことも存在するのである。

よく考え、根拠を明確にして、論理的に結論を出す、ということが、このときなくてはならないものなのである。

2016年5月11日水曜日

180:分析という行為の本質

「分析」という言葉に関して、『広辞苑』では以下のように定義がされている。
「ある物事を分解して、それを成立させている成分・要素・側面を明らかにすること」
この定義は、日本的であり、ものづくりを得意とする思考の特徴である。


我々は、「分析」と言ったときに、つい、それを目に見えるモノについてのものだ、と考えがちではないだろうか。
しかし、実際には、「分析(Analysis)」という語には、目に見えないものについて精緻に考える、ということも意味している。


ここで言いたいのは、思考過程・思考様式のような、目に見えないものについても、我々はきちんと「分析」を行い、これを確認する必要があるのではないか、ということだ。
これが行われず、目に見えるものについての「分析」ばかりが先行すると、判断業務にムリやムダが生じ、必要のないものごとに様々なリソースが割かれることになってしまうだろう。


以前の記事でも話題に挙げた、目的と手段ということについても、判断業務の「分析」として考えると、よりスピーディに精度の高い結論を得ることにつながるのではないか。


「分析」の定義にあるように、ものごとを分解して対応することが難しい背景には、日本語の特徴があると思う。
つまり、単数形と複数形を意識して区別しない言語であるということだ。


組織で上司が部下に対し、「君の部署の問題は何か」という質問をしたとしよう。
回答する担当者は、多くの場合、「これが問題です」というひとつの問題を提示するに違いない。
これでは全体像を開示することにならない。
あるいは「対策は何だ」という質問も、「諸対策は何か」とする方が望ましいだろう。


回答に複数形の“s”を付ける発想を意識したいものだ。

2016年5月7日土曜日

179:目的と手段の混同

日本人に限らず、ものを決める場合、どうしても目的と手段を混同し、これらを区別をして分析をする意識が薄いことがある。
それは、手段に短絡することである。


例えば、会社で何かを購入する立場の人間は、どうしてもカタログを集める、そして各社の担当者から商品についての情報を取るということになるだろう。
これはまさに目的を考えずに手段に短絡するような一例である。


ある会社の企画部が企業買収よる事業拡張を検討する場合、どうしても対象となる候補会社を考え、それぞれに対しての情報を集める、という方法を取るに違いない。
これも手段への短絡である。


手段に短絡するひとつの原因には、ものごとの情報を集めるということには、知的好奇心を満足するという誘惑がある、平たく言ってしまえば、それは楽しいことだからだ、ということがある。
ところが、経営資源(ヒト・モノ・カネ・情報など)の有効活用を考えた場合、また手段に短絡した分析の堂々巡りを防ぐためには、「何のために、何を、どうする」という分析テーマの設定をすることが重要である。
この例で言えば、「事業規模拡大のために、買収する企業を、選定する」ということになる。
タイトルにもあるこの場合の目的というのは、上記のここでいう「何のために」に該当する。


例えば
①5年後の年間売上が20%増加すること
②当社の技術的弱点の強化につながること
③買収金額はできるだけ少なくすむこと
④グローバル戦略対応に貢献できること


など、十数項目の目的が設定されるだろう。
これらの「目的」に対して、「手段」である対象の複数の買収候補がどのように評価されるか、という発想をしていくのである。
実際の大型案件に対する判断業務は複雑なものであるが、目的と手段を分けて考え、手段を検討する前に、諸目的について合意を得ておくことが望ましい。


このような考え方は、我々の日常の判断事項にも応用することができる。
仮に下記のような問題を想定したとすると、みなさんだったら、どのようなアプローチをされるだろうか。




中村さん一家は、両親と同居することを決めたため、新居の購入を検討している。
中村夫人は購入金額に基づき、いくつかの不動産会社を回っている。
中村氏も友人に相談し、いくつかの物件が候補として挙がっている。
さらに、子供の通学、病院への利便性、職場までの通勤なども考慮に入れなければならないと思っている。
このようななかで、あなただったらどのように考えるだろうか。


A.最初に購入物件のおおよその地域を選ぶ。
B.まず購入する住居を判断するための項目について合意をする。
C.信頼性の高い大手の不動産会社に専門的なアドバイスを求める。
D.新居を決める前に銀行の融資計画を相談する。






ここまでの説明から、言うまでもなく、効率的なアプローチはBであろう、ということになる。