2017年6月21日水曜日

262:死語の復活

ここで宗教論を持ち出すつもりはなく、タイトルは単なる語呂合わせである。
書いてみたいのは、現在は「死語」となってしまっているが、復活すべきことばや概念があるのではないだろうか、ということだ。


今日見られる、政治や社会に対する多くの国民的不満の本質に、あまり話題にもならないいくつかの重要概念が実はあるのではないだろうか。
例えば思いつつままに挙げれば、「道徳性」「正直さ」「感謝の気持ち」「誠実性」「正義感」「使命」……まとめれば、倫理的健全性(moral soundness)に関するものである。
「思いやり」「おもてなし」といった現在よく用いられている言葉だけではなく、上に挙げたものが加われば鬼に金棒だろう。
これらを「死語」というのはあるいは大げさかもしれないが、しかし近年聞かれなくなり、重要視もされなくなっていることもまた確かである。

これらの「死語」を復活させることで、日本社会も少しは良いものになるのではないだろうか。
Civilityを持った日本の本来の国民をつくることが重要である。
私の言葉で言えば、世の中の動きに関心を持っているマジョリティ(concerned majority)が力を持ち、世の中を変えていくこと。
このような願いを個人的には持っているが、いかがだろうか。

2017年6月14日水曜日

261:基準の意識されない加計問題

我々平均的な日本人が近頃不満に思っている、官邸による加計問題の本質が、いったい何かを考えてしまう。
文書追加調査の目的は、本来であれば、真実や事実関係を追及するために必要であるのでなければならないが、報道によると、「世論の批判から逃げられない」ことが根拠であるのだという。
これはいささか「おかしい」ものではないだろうか。

このいかにも日本的なreasoning(理由付け)を全面的に否定するつもりはないが、文書追加調査の目的について、整理された根拠を考えてみる必要があるのではないか。
先ほども述べたように、追加調査の目的は言うまでもなく、真実や事実関係を明確にすることであり、国民がそれをどう判断するのかということは、また別の問題である。
「世論の批判」などというあいまいな基準で官邸が動くのでは、合理的な意思決定を行うことは難しい。

判断をする根拠が何であるか、言い換えれば、判断基準は何かを意識することにより、納得性の高い結論が出るのではなかろうか。
そしてこれは政治という大きなレベルの問題であり、また同時にビジネスや日常の判断業務における問題でもあることを、意識しなければならないだろう。

2017年6月10日土曜日

260:コミー氏の米議会証言

現在話題の中心になっていることのひとつが、元FBI長官ジェイムズ・コミー氏にかかわる一連の報道であるだろう。

トランプ氏の政権維持を大きく左右するであろう米議会証言が先日あったため、私もつい中継を深夜見続けてしまい、就寝が朝の4時になってしまった。
しかし超党派の議員により、事実関係の開示、究明に長い時間が費やされ、充実した会であったように思うし、またいくつか興味深い点もあった。

コミー氏の証言や議員たちの対応において、5つほどの特徴があったように思うので、内容ではなく、その方法に注目して私なりにここに書いてみたい。

①コミー氏に事前に質問の内容が開示されていないということ。
②コミー氏が真実を述べることに躊躇をせず、同時に知らないことについては「それは私にはわからない」とはっきりと明言したこと。
言い換えれば、彼にはhonestyとintegrityあったということ。
③質問者の質問が断片的でなく、論理的シナリオのある質問であったこと。
④質問そのものが明確であり、対する応答も直接的に質問に答えるものであり、またそうでない場合は、すぐさま「それは質問に答えていない」という指摘が飛んでいたということ。
事実を隠すということに対して徹底的な追及が行われ、またここで開示できない内容に対しても非公開な場で回答をする、という対応がなされ、明確な区別が見事につけられていたこと。

もちろん日本と米国では文化の違いがあり、米国式がそのまま正しいと主張するつもりはない。
しかし一方で、人間として最も恥ずべき、事実を隠蔽するということに対して、日本人は寛容になりすぎているのではないだろうか、と証言の模様を観ていて思わざるを得ない部分もまたあった。

2017年6月7日水曜日

259:win-winの関係

現在、広く普及している語のひとつが「win-winの関係」と言われるものだろう。
私には出典はわからないが、政治家をはじめとして、多くの人が使っているのを耳にするようになった。
今回はこのwin-winということについて書いてみたい。

さて、私の友人で、家族とともにパプア・ニューギニアで20年近く暮らしていた人物がいる。
この友人の話では、パプア・ニューギニアでも部族間の対立があり、それが殺戮に発展する場合もあったという。
では、当地の部族の人々は、いったいこの殺戮にどのように対処するのだろうか。
彼によれば、しばらく戦闘が続いた後、やがて対立する部族の長老同士がひそかに会談し、戦争をやめることに決めてしまうのだという。
そして、長老はそれぞれの集落に帰ると、部族の人々に、「私たちが勝っているのだから、もう争いはやめにしてやろう」と言うのだそうだ。
結果、どちらの部族も「自分たちは勝ったのだ」という満足を得つつ、無事争いはおさまってしまうのだそうだ。

これこそまさしく、文字通りに"win-win"な解決法ではないだろうか。
だからこの"win-win"という言葉は、特別いま祭り上げるべきものでもなく、ある意味では、太古からの知恵として存在しているのである。
少なくとも私は、この挿話を驚きと笑いで受け止めた。
現代の私たちも、つい囚われがちな西洋的な発想にこだわることなく、このような人類の叡智から学ぶものがまだまだあるのではないだろうか。