2014年9月29日月曜日

54:「備えあれば憂いなし」の意味

今日活躍しているビジネス人で、「泥縄の教訓」を知っている人はまず少ないでしょう。一方、小泉純一郎元総理が盛んに言っていたフレーズは、「備えあれば憂いなし」でした。


ところで、先達が残してくれた言葉の本当の意味がどのくらい理解されているでしょうか。



泥縄の教訓を知らない人は、「備えあれば憂いなし」を実際に意識して適用することはできないと思います。泥縄の教訓を理解することなしには使うことはできません。



人生に失敗はつきものであり、「失敗は成功の元」とも言われますが、失敗はできればしたくないものです。そこで、失敗しないために「泥縄の教訓」があるのです。



この本来の意味は家に泥棒が入ってから縄をなうのでは遅いという考え方です。常に起こり得る最悪の状況を考えて、それに対しての対策をあらかじめ事前に考えておくことが、失敗を防ぐ最良の方法なのです。



ところが、私たちは「うちには絶対に泥棒は入らない」という前提で生活しているのではないでしょうか。また入ったらその時にどうするかを考えたらいいという場当たり的な発想から大けがをすることもあるでしょう。縄をなうことが備えとなります。



ただし、備えにはもう一つの側面があります。それは備えがうまくいかなかった場合にどうするかも事前に考えておくことです。要は、「火の用心」と「火消し」の両方が必要であるということになります。



火の用心は、火が出ないように用心することであり、これが一つ目の備えです。それに対し、火消しは、万が一火が出た場合の影響を最小限に抑える、すなわち延焼を防ぐ役割を担い、これが二つ目の備えです。



英語でいうと、火の用心が“Preventive”(予防)、火消しが“Contingency”(発生時の対策)となります。これらの古くからの日本人の知恵は、グローバル社会でも十分に生かすことができるのです。


これを簡単に言えば、「何か行動を起こす時には、後先のことを考えてやりなさい」ということです。

ある行動をして、その後どのようなマズイことが考えられるのか、その前にどのようなリスクがあるのかを想定しなさい、ということです。

2014年9月24日水曜日

53:「外交」ってなに?



私たちの多くは(無意識のうちにであれ)この国の安全保障のことを少しは考えていることかと思います。




生命・財産に対する脅威から自分たちを守る安全保障の方法として、(抑止力としての)軍事力と外交活動があります。
私は個人的には、この二つでは世界の安定が守られない時代が来ているのではないか、と考えています。


私の考える「第三の道」、については今回は触れません。現在構想を練っているところです。






今回は2者のうちの片方、「外交」について書きたいと思います。
以前も述べた、西郷隆盛の遺訓(南洲翁遺訓)を取り上げ、また別の角度から考えてみます。




十七条には次のようなことが書いてあります。




「正道を踏み國を以て斃るゝの精神無くば、外國交際は全かる可からず。彼の強大に畏縮し、圓滑を主として、曲げて彼の意に順從する時は、輕侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん。」




彼の言う「正道」を、私は「正義に基づいた行動」と解釈しています。
しかし、ここで難しいのは「それは誰の正義なのか?」ということで、これは私には
答えるのがとても難しい問いです。




あえて言えば、「世界の万人が認める良識で、かつ理性的な根拠に基づいたもの」つまりグローバルなものだ、と私は思います。






さて、これを踏まえてこの西郷の遺訓を現代風に書き直せば、


「グローバルに認められる正義に基づいて国として全力を尽くさなければ、「本来の」外交は成功しない。相手の強大さに怖気づき、角が立つのを恐れて自分の主張を変えてまで相手の言いなりになることは、軽蔑を誘い、結果的に友好関係はなくなり、従属関係に陥ることになる。」


と出来るでしょう。


「外交では票が集まらない」などという発想などではいけません。




強い外交力を持つためには、我々ひとりひとりが世界社会における一員として、「正道」を意識しながら、日本の向かうべき方向を考え、論じることが必要不可欠だと私は考えます。


もちろん、ただ意地を張っていればいい、ケンカを売ればいいということではないのです。
「理性に基づく緊張関係」。これこそが外交の要なのです。





52:インテリジェンスの意味

私たちが「インテリジェンス」という言葉を聞いて、どのようなイメージを持つでしょうか。まず、「情報」や「知識」が豊富な人を思い浮かべるでしょう。


あるいは米国のCIA(Central Intelligence Agency)は、日本語では「中央情報局」となり、ここでもインテリジェンスは「情報」と訳されているようです。


余談ですが、CIAを相手の国家機密を取得するというスパイ活動を行う機関であることを表す場合もあります。


日本人は現在でもインテリジェンスを「情報」としかとらえていないのでないでしょうか。このような考え方は国際社会では通用しません。しいて言えば、インテリジェンスとは、情報を「加工」して、どのような結論を導き出すかという能力という解釈が妥当でしょう。


単なる「知っている」「知らない」という次元ではなく、その本質は「情報をもとに自分なりの判断ができる能力」といえるのです。


つまりインテリジェンスの定義は、「新しい状況に直面したときに迅速に適切に対応できる能力」ということになります。


この出典は英英辞典の「Webster」で、言語は“The ability to respond quickly and successfully to a new situation.”となります。


このことは、経験や直感で判断できないときに、ロジカルに理性的に分析ができる能力、つまり、「考える力」といえます。いわゆる世の中のインテリと呼ばれる人たちも、知識万能ではなく、一つの情報から考え抜いて最適な答えが出せる能力を持った人であってほしいものです。

2014年9月17日水曜日

51:質問を嫌がる日本人

そもそも、広辞苑で「質問」を引くと、「疑問または理由を問いただすこと」という一文しか出てきません。インターネットのデジタル大辞泉によると「わからないところや疑わしい点について問いただすこと。また、その内容」とあります。


一体現代人は何のために質問をするのでしょう。このことをよく考えましょう。情報化社会において、どのような方法で情報を取るのでしょうか。ものを決めるときどのような基準で判断するのでしょうか。リスクを考えるときどのようにして起こるかもしれない危険を知るのでしょうか。


答えは明確です。もう皆さんお分かりのように、質問というツールを使うしかないのです。情報の方から都合よく飛び込んでくるというケースがあれば、それは全くラッキーなことです。


私は日本経済新聞社から2003年に『質問力』という本を出版しました。この本は日経ビジネス文庫となり、今日でも書店に並んでいます。なぜいまだに売れているのでしょうか。それは私たち日本人が質問するということの本質を理解していないため、それを整理するのに役に立つからではないでしょうか。


もう一つ重要なことは、上記の日本の辞書にあるように、質問することは「問いただす」ことにつながると私たちが考えていることです。責任を問いただす、失敗を問いただすなど、相手を責めるために使われることが多いのではないでしょうか。


つまり、情報や根拠、あるいは動機を明らかにするための質問と、相手の非を問いただすための質問は、意識して区別する必要があります。質問される方も、堂々と対応したら良いのです。


ですから、質問とは相手を責めることではありません。会議などで質問ができないと相手にされない時代がきています。特に海外では質問をしないと、この人は本件に関して全く関心がないか、議論に真剣に参画していないか、質問するポイントがよくわかっていないのではないかというように、あまり評価されない人物になってしまいます。


日本にも同じような状況が早晩くるでしょう。質問力を強化することを意識したいものです。しかし、やたらに質問しようということではありません。「鋭い質問」が重要なのです。これについては、またの機会に触れたいと思います。

2014年9月10日水曜日

50:なぜ日本はある分野で弱いのか?

これだけ優秀な人間がひしめいている日本にも、世界で後れを取っている分野があります。その代表的なものを3つ挙げます。


1つ目は、IT分野で世界をリードし、世界標準として認められている基本ソフトやサービスがないこと。例えばSAPやOracle、Cisco、Microsoft、Google、Appleなどは日本発ではありません。


2つ目は、金融商品の分野です。優秀な人材を集めている邦銀や日本の証券会社から、世界で扱われるような金融派生商品は出ていません。日本の会社は海外で開発された金融派生商品を販売しているに過ぎないといっても過言ではないでしょう。


3つ目は、次元と内容が異なりますが、世界で活躍しているグローバル人材がほとんどいないことです。これだけの高いレベルの日本でありながら、グローバルに活躍している人たちは非常に少ないのです。


一方で、シンガポールやインド、またヨーロッパ出身の人材はCEOとして世界企業で活躍しています。その背景は人間が持って生まれた能力だけで説明はできないのではないでしょうか。


日本が現在進めている教育改革は方法論に関するものが多いのが現状です。あるべき人材が備えなければならない要件についてその特質を明らかにし、それらを学ぶためのカリキュラムを構築することに重点を置いてほしいと思います。


ですから、教育改革をまとめる際は、各年代の人材育成の目的を複数項目列挙し、その上で達成するための方法論を論じていくべきではないでしょうか。

2014年9月3日水曜日

49:問題解決の基本

問題解決を英語でいうと、“Problem Solving”となります。


ところで、この“Problem”という言葉の定義を理解しなければ、良い問題解決はできません。


様々な解釈がありますが、ビジネスにおける定義は一般的に「あるべき姿と現実の間に生じている差異」のことをいいます。


例えば、ある会社で現実が「売り上げ目標が未達成」であるのに対し、あるべき姿が「売り上げ目標が達成していること」であれば、その差異が発生している状態を“Problem”と言います。


ですから、この差異は「望ましくない状況」、「不具合」、「不良」、「クレーム」などを指します。当然、これらを解決するためには、「なぜこのような状況が起きたのか」という発想で原因を究明し、適切な対策を取る必要があります。


ここで、重要なことは、起きている問題現象を分析課題として明確にすることです。ここでいう課題とは、次の分析や行動に結びつく発想や記述がなされていなければなりません。


私は一体何をしたらいいんだ、何を考えたらいいんだ、どのような結論を出したらいいのか、などが誰にでもわかる形で表現される必要があるのです。


例えば、物が売れていないという現象を課題としてまとめるならば、「ワインの売上げ目標が未達の原因究明と対策」となります。つまり、簡単に言うと、「何がどうしたのか」という問いに答えることです。


この「何が」が、具体的に押さえられていれば、的確な原因が究明されることになり、具体的な対策が見えてきます。先の例を用いるなら、売れてないワインを具体的にすることです。


ワインのうち高級ワインだけが売れていないのであれば、「高級ワインの売上げ目標が未達の原因究明と対策」が課題となり、原因を具体的に特定することができ、対策も具体的になります。


一般的には物が売れないから「営業にハッパをかけろ」、「宣伝をしろ」という短絡的な対策が取られがちですが、このようなことでは真の問題解決には程遠いと言えるでしょう。