2015年8月26日水曜日

131:モノを決めるときのものさし

2020年の東京オリンピックにまつわる重要課題の中に、最近問題となっている事項が目立つ。
ひとつは、多額の資金を無駄にした競技場デザインの選定。
もうひとつは、シンボルマークの選定。


前者には政治的な要素が多く絡んでいたと報道されている。
対して後者は、複数のシンボルマーク案からの最適な選定をすることだというもっと単純な捉え方ができそうだ。
つまり、後者には客観的な判断をする際の「ものさし」に問題があった、あるいは「ものさし(選定基準)」について考えることなく、感覚的に判断を行っていたのではないかということだ。




ここでの「ものさし」とは「選定基準」のことであり、これについては決定をまかされている人たちの合意がなければならない。
シンボルマークを例にとれば、「斬新性」「日本的であること・日本における開催の意義性(平和国家)」「美的であること」「インパクトがある」などが挙げられるだろう。
仮にこの4項目であれば、それらの項目にかけるウエイトについても合意しておかねばならない。


この「ものさし」の確定に委員会はいったいどれほどの時間を割いたのだろうか、と疑問に思ってしまう。
さらに、ここでは、あるデザインを選んだ後、どのような問題が発生しうるのかという点についても考えなければならないが、このことについても検討はされなかったのではないか。


これとはやや離れた問題だが、重要で基本的な問題として、国として公の立場にある人たちのブレインにどんな人間がいるのか、ということについても関連して考えたい。


余談になるが、以前銀座のあるクラブで紀伊國屋書店の創業者と会話をしたことがある。
私を含む4、5人は当時、国際業務のコンサルティング会社を設立しようと計画していた。
すると、近くで飲んでいた上の創業者が途中から私たちの会話に入り、一言話を披露してくれた。


ある人が銀座で超一流の顧客を集める超高級クラブを創業しようと、数十人のホステスを他店から高給でスカウトし、集めることに成功した。
しかしこのクラブはわずか一年で閉店してしまった。
理由は、ホステスの容姿に関しては厳しく見たが、そのホステスがどのような顧客を抱えているかについては考慮をしなかったのだ。
結果、店には想定していなかったような顧客、ガラのよくないような連中も出入りするようになってしまい、クラブは「超一流の顧客」の集まる社交場になどはとてもならず、閉店する運びになったということだ。


内容は違うのだが、似たようなことがいま起きつつあるのではないかと私は思う。
著名で、雄弁で、交友関係が広い人間に、どのような人間関係があり、彼の背後にはどんな人間がいるのかということまで考えなければ、とんでもない不祥事が起きてしまう、ということだ。
官邸におけるブレインが一見優れた人間に見えたとしても、果たして彼の背後にどのような人物がいるのか、ということまでは気が配られていないのではないか、ということだ
このような現象が社会に蔓延することを危惧する。

2015年8月22日土曜日

130:日本国と沖縄県

私のだいぶ前のブログ記事で、沖縄問題の解決策を述べたことがある。
それは、日本人が太平洋戦争後、長きに渡って沖縄県民に安全保障上の負担をかけてきたことに対し、国としてけじめを付けるべきだということだった。
具体的には、内閣総理大臣が国として、沖縄県民にこれまでの負担や犠牲に対して正式に謝意をこと。
そして、これからも安全保障上の拠点として負担を継続することへの補填として、消費税の免除をすることが大分の処置ではなかろうか、と書いた。


このことは継続して検討するに値するかもしれないが、今回は最近の関連する話題について述べたい。


昨今の政府と沖縄県知事とのやり取りの結果、「沖縄振興予算」として年間3000億円台の確保が同意された。
2012年の総務省統計局のデータによると、沖縄県の人口は約141万人。


この人口に対してこの金額が払われるということへの妥当性を議論する資格は私にはないだろう。
しかし、8月8日の産経新聞の報道によると「政府は沖縄振興と辺野古移設はリンクしないと繰り返し説明」とあるが、これを鵜呑みにしてはならないように思う。


「沖縄振興」とあるが、その目的がいまひとつ見えてこない。
今日、沖縄県だけに県の振興予算が特別に認められる根拠とは一体何なのだろう?

2015年8月19日水曜日

129:訂正と追記

116号「謝罪とは」で、私は米国政府が、日系米国市民に対する戦時中の不当な扱いについて取り上げた。
ここで「このことは政府の主体的な判断によるもので、日系米国市民の要求に応じたものではない」という結論を述べたが、しかしこれは正確ではなく、ここで若干の訂正と、新しい発想を表明したい。


この件に関して事実関係を確認したところ、1978年に米政府に対して、戦時中の不当な扱いへの謝罪・補償を求める運動が日系人から起こったということだ。
これに対し米国政府は謝罪し、適切な対応をしたということが事実である。


ところが、私が主張したいことは、この日系米国人に関する出来事はあくまで米国の国内問題であり、その国民の当然の権利が侵害されたことに対して謝罪が要求されたということである。
私が116号で述べた「謝罪する・しない」の図式について言えば、これは国内問題ではない。
よって、このふたつの案件は別の扱いをしなければならないだろう。


およそ国の為政者は、時として不適切な判断をすることがあり、この間違った判断から他国に迷惑をかけるという事例は、歴史において枚挙に暇がない。


成熟した国家は、平和国家として存続する責任を自覚しなければならず、また、為政者がとる行動に関して、責任を取らなければならない。
その責任は主体的であり、他国から指摘され、強制されるような場合には、そこからまた新たな対立を生んでしまうことは、歴史が証明している。


そこで、憎悪・復讐の気持ちから他国に謝罪を要求することが国際社会の安定に役立つかどうか、ということを吟味する必要があるのではないか。
また、謝罪を要求する目的が何であるかを明確にすることも和解につながる大きな要素ではないかと思う。


日本は、米国と中国を除いて、過去の戦争賠償を自主的に行ってきた。
賠償を行うということは、加害者が非を認め、被害者にその償いをするという意味を持つ。


しかし、悩ましいことは、賠償を行ったからといって、加害者の立場は変わらないし、場合によっては被害者が謝罪要求を延々と続けることを覚悟しなければならないのかもしれないということだ。

2015年8月15日土曜日

128:日本人にとっての8月とは

平和を願望する日本人にとって、8月は特別な意味を持つ。
それは、8月15日のポツダム宣言受諾前後に起こった歴史的事実を考えれば明らかだろう。


1945年3月10日の東京にはじまり、名古屋・大阪と続く大空襲では、多くの市民の犠牲者が出た。




ワシントンのアーカイブスにある米国核実験記録によれば、第一回の核実験が7月16日、米国ニューメキシコ州で行われた。
第二回が8月6日、場所は広島。ウラニウム型の原子爆弾が、リトル・ボーイの作戦名で投入された。
これは世界初の実戦(Combat)使用だった。


第三回目の実験は8月9日、長崎。プルトニウム型のものがファット・ボーイの名で投入。
備考には、「これが最後の実戦使用」と記されている。


同日8月9日は、ソ連が日ソ中立条約を破棄し、対日参戦を行った日でもあり、ソ連軍147万人が満州・朝鮮半島に軍事侵入した。


補足すれば8月16日には、同じくソ連が日本領南樺太に侵攻・占領、18日の千島列島についても同様だった。


そして8月15日、ポツダム宣言が受諾、昭和天皇の玉音放送がなされ、太平洋戦争が終結した。
以前も書いたが、これは実質的に「終戦」ではなく、「敗戦」であった。


8月28日には、米軍の先遣部隊150人が厚木飛行場に降り立った。
大きな抵抗はなく、円満に進駐が開始されることになった。


8月30日、連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが同じく厚木に到着し、その足ですぐさま横浜に設置された総司令部に移動した。
同日には、1万3000人の海兵部隊が、百数十隻の上陸用舟艇で日本各地に上陸した。


そしてこの進駐の動きはその後の9月2日、午前9時4分、米国ミズーリ艦上における降伏文書調印へとつながってく。


毎年8月15日には、日本武道館で全国戦没者追悼式が、天皇・皇后両陛下および内閣総理大臣、衆院・参院議長、最高裁判所長官らの出席のもと、開催されてきている。
これはおそらく半永久的に行われる国事であることは間違いない。


これら8月に起きた歴史的出来事を、平和国家日本がどのように解釈し、未来の日本が向かうべき方向を模索することが求められている。

2015年8月12日水曜日

127:松井一實広島市長の記者会見

8月6日の広島原爆投下70周年に先立ち、松井一實広島市長が7月23日に外国人記者クラブ(通称)で記者会見を行った。
市長は世界からの核廃絶を訴え、できるだけ多くの外国の指導者が広島を訪れ、原爆の恐ろしさを実感してほしいというメッセージを発信した。


約45分の記者会見終了後、私はふたつの質問をした。
ひとつは、広島市民や広島市が、米国に対して原爆投下に対する謝罪を要求したことがあるかどうか。
もうひとつは、もしそれが否であれば、その背景にある根本的な考えは何か。
というものであった。


第一の質問への答えは、市民の一部にそのような「会話」はあったが、正式な形で米国に謝罪を要求したことはない、というものであった。
第二の質問に対しては、市長は「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」の文言で有名な原爆死没者慰霊碑の画像をスクリーンに映し、「これが答えです」と言った。


大げさに言えば、人類に対する戦争犯罪とも言うべき原爆投下に対して、上のような対応が過去70年間続いてきたということを、世界の良識があり平和を熱望する人たちと共に、未来の平和につなげていくためにはどのように具体的な運動がなされなければならないか、ということが問われているのではないかと考えた。
くどいかもしれないが、このことは、唯一の被爆国である日本に突き付けられている大きな課題であると言っても過言ではない。

2015年8月8日土曜日

126:意思決定のコスト

驚くことに、『広辞苑』の最新版(第6版)に「意思決定」という語は掲載されていない。
また、意思決定の定義をどう考えるかという質問に対して、多くの人はとまどう。
そして、「それは決めることだろう」といった回答が圧倒的に多い。
同じ質問を欧米や東南アジアでしたことがあったが、どのような定義がでてきたか。
それは "Makeing of a choice"というものだった。
つまり、意思決定とはdecision makingのことである。
これは、複数の選択肢(Alternative)から最適な案を選ぶ分析行為なのだ。


ちなみに、我々の先達はものを決める際、3つの異なった表現をしていたようだ。
それは「極む」「決む」「定む」である。
このように区別を行い、ものごとの判断をしていたようだ。


「極む」は究極的に求める方向に関連し、必ずしも論理的・分析的なアプローチは採られない。
「決む」は経験や知識によるもので、これも同様に、必ずしも分析を必要としない。
この意思決定(Decision making)は3つ目の「定む」に該当すると私は思う。


choiceをするという行為には、情報が必要である。
情報をいかに加工し、結論を得るかという発想が重要である。


情報の加工とは、意思決定の場合には、複数選択肢を選ぶための判断基準を設定することと、それらに対し各々の選択肢がどのように評価されるのかということだ。
少し理屈っぽくなってしまったが、この情報の加工という行為が、効率的に・客観的に行われなければ、意思決定が迅速に・適切に進行することにはならない。


意思決定のコストは、結論に至るまでの資源(ヒト・カネ・時間)がどれくらいかかるかということだ。
直近で意思決定コストが高かった最大の案件とは、言うまでもなく、東京オリンピックの総合スタジアム建設に関する意思決定行為であった。
ものを決める作業にかける目に見えないコストに関心を持つという姿勢が、国の成長戦略にも直接関わりが出てくるのではないかと言いたい。

2015年8月5日水曜日

125:東芝問題と日本の思考様式

東芝の不正経理が発覚し、同社の信用が内外で問われている。
これは、組織のgovernanceの問題と同時に、日本人の思考様式にも原因の一端があるように思う。


私は短絡というお叱りを常々受けているが、あえてこの問題について私見を申し上げるならば、背景のひとつにあることとして、上司に対して異論を述べることが許されない日本の組織の風土があることを指摘したい。


これからの時代、上司が間違った判断したと思える場合、それにchallengeできない組織風土は健全なものと言えないことは明白だ。
これは、いままで日本を成功裏に導いた年功序列・終身雇用の制度が崩壊しつつあることとも関係がある。


経営スタイルが顕著に変容している一例は、日本にもオフィスを置く外資系企業であろう。
彼らは成果主義を採っており、現在、組織に身を捧げることよりも、与えられた仕事に対する達成が評価される社会に移行しつつある。


このような状況の中で、組織人は独立した存在として、与えられたjobを達成することこそが重要だ、という意識の変革が当然求められているだろう。


であれば、上司の理不尽な指示に従わず、自身の判断を貫く自由があり、またそれが認められる社会へと移行する時代が来るのではないかと思う。
さらにそこでは、上司の指示に対し、ただ反対を唱えるのではなく、その指示に従って行動した場合の結果(Consequence)が与える影響について発言できるのが大事だろう。


これはそれぞれの社会人が「公」に資する割合によって変わってくるものだが、この潜在的な結果の蓋然性(Probability)について上司に意見する勇気がこれからの日本人にあってしかるべきだと私は思う。


このように、東芝の教訓を、組織人全体の問題として考える必要があるだろう。
それは、繰り返しになるが、「公」と「私」のウエイトをどのようなバランスでとるかということである。