2015年8月19日水曜日

129:訂正と追記

116号「謝罪とは」で、私は米国政府が、日系米国市民に対する戦時中の不当な扱いについて取り上げた。
ここで「このことは政府の主体的な判断によるもので、日系米国市民の要求に応じたものではない」という結論を述べたが、しかしこれは正確ではなく、ここで若干の訂正と、新しい発想を表明したい。


この件に関して事実関係を確認したところ、1978年に米政府に対して、戦時中の不当な扱いへの謝罪・補償を求める運動が日系人から起こったということだ。
これに対し米国政府は謝罪し、適切な対応をしたということが事実である。


ところが、私が主張したいことは、この日系米国人に関する出来事はあくまで米国の国内問題であり、その国民の当然の権利が侵害されたことに対して謝罪が要求されたということである。
私が116号で述べた「謝罪する・しない」の図式について言えば、これは国内問題ではない。
よって、このふたつの案件は別の扱いをしなければならないだろう。


およそ国の為政者は、時として不適切な判断をすることがあり、この間違った判断から他国に迷惑をかけるという事例は、歴史において枚挙に暇がない。


成熟した国家は、平和国家として存続する責任を自覚しなければならず、また、為政者がとる行動に関して、責任を取らなければならない。
その責任は主体的であり、他国から指摘され、強制されるような場合には、そこからまた新たな対立を生んでしまうことは、歴史が証明している。


そこで、憎悪・復讐の気持ちから他国に謝罪を要求することが国際社会の安定に役立つかどうか、ということを吟味する必要があるのではないか。
また、謝罪を要求する目的が何であるかを明確にすることも和解につながる大きな要素ではないかと思う。


日本は、米国と中国を除いて、過去の戦争賠償を自主的に行ってきた。
賠償を行うということは、加害者が非を認め、被害者にその償いをするという意味を持つ。


しかし、悩ましいことは、賠償を行ったからといって、加害者の立場は変わらないし、場合によっては被害者が謝罪要求を延々と続けることを覚悟しなければならないのかもしれないということだ。

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