2015年4月29日水曜日

102:日本人と英語

昔は、国際人養成の重要性が問われ、この延長線上で今日ではグローバル人材の養成が急務とされています。
このことについては、何回かに分けて述べたいと考えていますが、とりあえず、「英語力」の有無だけで「国際人」と言われる条件が満たされるとは思えないのです。


他にも条件は考えられるのではないでしょうか。


・初対面から相手とコミュニケーションがとれる
海外におけるコミュニケーション力は、言語に依るものは50%程度しかないのではと個人的には思っています。
初対面の相手と友好的な雰囲気をつくることは、決して言葉だけでできることではありません。


例えば、祖母の家に私が友人の息子を連れて行ったときのことです。
祖母の英語力はゼロです。相手の日本語もおぼつかないものです。
しかし、瞬時にコミュニケーションの前提が出来ていたようです。
祖母は笑顔で、堂々と日本語で「ようこそいらっしゃい。こちらへ上がってください」と言ったのです。
これはコミュニケーションにおける言葉以前の重要なものではないでしょうか。


・相手の人物の品定めができる
これは一言で言うと、組織や社会に対して、どの程度の影響力を持っている人であるか、というのが判断できるということです。


・人脈の構築ができる
赴任先で影響力のある人たちとの友人関係をつくる能力のことです。


以前、私が指導した会社の若手部長が、アメリカ中西部の現地法人の副社長として赴任するということでアドバイスを求めてきました。
私の助言は一言、「州知事と会見が持てるようになること」。
この人物は2年かけてそれを達成しました。


・相手に影響を与えて説得するスキルを持つ
この重要な要素の一つは、いかに論理的にものごとを組み立て、理路整然と短時間で相手にストーリーを説明できる能力のことです。


・自分の専門領域以外の問題でも解決できるスキルを持つ
これは、簡単にできることではありません。
ヒントは、広辞苑の「思考」の定義にあります。
曰く、「問題または課題に出発し、結論に導く観念の過程」
このプロセスが適切であれば、自信のない英語力でも仕事をすることができるでしょう。


・鋭い、効果的な質問ができる
まず、目的別に質問をおおまかに分類するとどうなるかを考えてみましょう。
知識を入手する質問・相手の責任を問う質問・問題解決や意思決定に必要な情報を収集する質問


これらのことを頭の中で整理をして質問することをお薦めします。


・リベラル・アーツと言われる一般教養を持つ
これは、言うまでもなくオフ・ビジネスの話題に参加できるということです。
例えば、音楽・芸術・宗教・政治……そしてそれらについて自分の意見を開示し、説明できるという能力でもあります。
これらすべてに通じている必要はありません。何か一つ得意分野を持つと良いでしょう。






・ネバー・ギブ・アップ
上のように言われることの中身を考えると、目標を明確にして、それを実現させる達成能力ということでしょう。
「能力」という言葉は日本では安易に使われ過ぎています。
英語abilityの定義は、''power to do''と辞書にあります。
海外の人間に「彼はabilityがある」などと言うと「What kind of ability?」と必ず聞き返されるのです。
abilityというのは、人間が持つ知識や技能・技術を生かす意志力と言えるかもしれません。


他にも多々あるでしょうが、思いつくままに書いてしまいました。
今回はこのあたりで終わりにしたいと思います。

2015年4月25日土曜日

101:日本に少数意見は存在するのか

日本における「少数意見」がサヴァイヴする場面は辞書によると次の2つに限られてしまっているようです。
・合議体の評決もしくは表決で多数を占め得なかった意見
・最高裁判所の裁判の評議において、多数を占め得なかった裁判官の意見


人間集団(企業であれ、組織であれ)は、多くの異なった背景や価値観を持った人間の集合体です。
ある案件について構成員が全会一致で賛同するというハッピーエンド的な結果は保障されていません。


多くの場合、討議の結果、大方の流れは決まるものの、反対意見を主張する者がいるという状態は残るのが現実でしょう。
ここで問題になるのは、この「少数意見」の方が、実は案件に対して適切な方向でアプローチしていた可能性もあるということです。


日本人は、この少数意見に対し不必要な感情的な攻撃をする傾向がありはしないでしょうか?
あるいは、少数意見を、マスメディアが取り上げず、報道しないということが、危険あるいは悲惨な結果をもたらすのではないか心配するものの一人です。
少数意見に対し、蔑視したり攻撃をしたりということは、民主的な社会を破壊するものです。


私だけではなく、このような傾向に警鐘を鳴らしたいと考えている人は他にもいるのではないか、と考えています。

2015年4月22日水曜日

100:人間の人生は問題解決の連続である その4

最後になりますが、⑤の内容です。

これまで発生している問題のタイプ別の対処について解説してきました。
確認すると、①分析的なアプローチがなくても話合いで解決してしまう問題 ②まずいことが起きた時の原因を究明し、対策を打つ状況 ③あるテーマに対して最適な方法を選定する状況 ④計画を実施する際にその成功の確率を高めるためのあらかじめの対策 ということでした。

残った領域がひとつあります。
それは、複雑に錯綜する状況下で問題の本質を押さえ、優先順位を付け、どのような結論を出すか、という判断についてです。

これもやはり、質問形を用いて解説したいと思います。

  • 「どの範囲・どの対象に絞って問題解決をしようとするのか」
  • 「この領域に存在する諸関心事項 Concern(懸案事項・気になっていること・手を打たなければならないことなど)を列挙するとどうなるか」
  • 「これらの案件のどこから手をつけるのか(優先順位)」(重要度・緊急度・拡大傾向から判断する)
  • 「優先順位の高い課題をどの思考方法で分析するか」
  • 「優先する課題に、抜け・漏れはないか」

以上、問題解決のひとつのアプローチの仕方について解説してきました。
さらに関心のある方は『問題関心の思考技術』(日本経済新聞社)『質問力』(同)『日本流ロジカル思考の技術』(PHP出版)などをお読みください。

2015年4月18日土曜日

99:人間の人生は問題解決の連続である その3

91・92号の続きです。


④リスクにどのように対処するか
リスクという表現はよく使われていますが、少し立ち止まってリスクの定義をしてみることにも大きな意味があるでしょう。


一般的にはリスクは単に「できれば避けたいもの」くらいに考えられ、災害や危機として考えられることもあるでしょう。
俗に、「リスクととらなければブレイクスルーや発展は達成できないので、リスクを取って前進しなさい」と言われます。
これは姿勢としては理解できますが、どのような思考法でリスクを考えたら良いかについてはあまり教えてくれません。


そこで、リスクという言葉を次のような文脈で定義すると、国際社会におけるリスク Riskの考えに近いのではと思うのです。
リスクとは、起こりうる「まずいこと」とひとことで言えるでしょう。
このように考えれば、リスクをひとつの現象として捉えることができますし、下記に説明する思考プロセスに上手く沿うことになります。


今回はこのリスク対応への思考プロセスを質問系で、箇条書きで解説したいと思います。


新しい法律を施行するという例を取ってみましょう。


「○○法案の施行に関する諸問題と諸対策」がリスク分析のテーマとすると、次のようなシステマティックな質問形で分析を進めると、合理的に、重点的に有効な対策が見えてきます。
  • 「○○法案施行に対する行動計画はどうなっているのか」
  • 「この計画のどこが重大領域 Critical Areaとなるか」
  • 「それら個々の領域に想定される具体的な将来問題は何か」
  • 「それらの問題を起こりうる発生確率 Probabilityと重大度 Siriousnessによって絞り込むとどうなるか」
  • 「絞り込まれた諸現象を起こすかもしれない諸原因を想定するとどうなるか」
  • 「さらにその中でProbabilityの高い原因を特定するとどうなるか」
  • 「それらの原因を除去する予防対策Preventive Actionは何か」
  • 「予防対策を行ったにも関わらず問題が発生した場合の影響を最小限にする方策は何か」
  • 「この計画の進捗状況を、どの時点で確認し、諸対策の再設定をするか」
上司が、部下から上がってくる決済事項に対し、「問題ないね?」「この計画に自信があるだろうね?」といった質問こそリスク分析を甘くする元凶なのです。
懸案事項があっても、「大丈夫だね?」「自信あるね?」と言われた部下な大きな心配事があってもそれを開示しないでしょう。
なぜなら、「そんな自信のない計画を持ってくるな」と言われるのが関の山だからです。


リスクにチャレンジするためには、上に挙げたような詳細な分析がされ、具体的な諸対策があらかじめ講じられて初めて成功に近づくのです。

2015年4月15日水曜日

98:何のために、何を、どうする

前97号にありました「何のために、何を、どうする」を判断することが、実社会では最も困難な場合があります。

前号にありました「新築をする」という話題の中で親が「中古でもいいのではないか」という話が出ると、決めるための条件が大幅に変わってくるでしょう。
また、「今無理に買うこともないだろう、もう少し広い賃貸で良いのでは」となっても、やはり話は複雑になるでしょう。

「新築物件を選定する」
「中古も含めて選ぶ」
「賃貸の借り換え」

というように、「何のために、何を、どうする」という原点が定まっていないと、分析は混乱してしまいます。

これらは簡単な事例ですが、ある会社の社長が「うちの組織を効率的なものに変えろ」という号令を出したとしましょう。
担当者は同業や海外の斬新な組織についての調査に莫大な費用をかけるかもわかりません。

しかしこの社長の言わんとしていることは、「何のために――当社の作業効率を20%強化するために」「何を――組織を改革するための最適案を」「どうする――選定する」
つまり、「当社の作業効率を20%強化するために組織を改革するための最適案を選定する」ということです。

こんなように、「何のために、何を、どうする」ということを考えることが肝要なのです。

2015年4月11日土曜日

97:人間の人生は問題解決の連続である その2

前回の続きです。


③どれを選ぶか迷った場合
どの候補も「帯に短し、襷に長し」で決められないとしましょう。

例えば、ある夫婦間で「子供も出来たことだし、住宅を新築しよう」という状況があったとします。

そんな場合はどうすればいいか。
まずすることは、関係者で気に入ったものを3、4つに絞るということです。
難しい分析をせずに選んでしまうという、というのがこの段階では大事です。

ここからが頭を使う、やや大変な作業です。
この3、4件を1件に絞るための判断基準を合意して決める必要があります。

例えば
「広さは○○平米以上」「予算は3500万円以内」「通勤時間1時間以内」「治安が良い」

他にも様々なものがあるでしょうが、これらの選定条件に合意することにはそれほど時間はかからないでしょう。
そして、これらの条件に実際の物件を照らし合わせ、「仮決定」をすることになります。

なぜ「仮」なのか。
それは、もしこの住宅を購入した場合、どのような「まずいこと」が想定できるだろうか(隣接地に高層マンションが建つ可能性はないか? 資産価値が下がる可能性はないか? など)、について考えることが必要だからです。

ものを選ぶ場合には
・判断条件を決める
・実際の候補と照らし合わせる
・最終決定をする前に、起こりうる「まずいこと」を想定する

という工程が重要です。

……しかし実は、この3工程より先に来るのが、「何のために、何を、どうする」という「決定事項を決める」ということが最も大切になるでしょう。
これについては次回。

2015年4月8日水曜日

96:人間の人生は問題解決の連続である その1

問題解決に関する参考書は過去40年におびただしい数が発行されてきました。
みなそれぞれ、読者にはそれなりに参考になった部分があるのではないかと思います。
ここで、問題をどのように整理すれば先が見えるようになるか、ということに触れてみたいと思います。


これは、誰にでも、どのような場面にでも適応できるものだと自負しております。


どこから始めるかは状況によって違いますが、基本的な問題を5つに分類してみたらどうだろう、というのが私の考えです。


①何らかの問題・もめごとがあり、当事者同士が対立関係であれ、友好関係であれ、話し合いをしているうちに解決してしまう場合

これらの、行き違いや誤解から生ずる問題は、それを正すことで簡単に解決するでしょう。
「ああ、君が言っているのはそういうことだったのか」というものですね。


②これはやや複雑になります。
これは単なる話し合いによる解決ではなく、関連した情報を収集し、その問題の原因を絞り込むための分析が必要である場合

まず問題のテーマを明らかにしなければなりません。
それは「何が(誰が)、どうしたか」という問いに答えることである。


例えば……
・最近太郎くんの数学の成績が落ちてきた
この状況を分析的に考えて対応する人は少ないのではないでしょうか。
一般的には、太郎くんを呼び出し、数学に力を入れるように、との注意で終わってしまうでしょう。

分析的な教師であれば、(a)数学は落ちてきているが、どのような単元についてそうであるか (b)いつごろからこの傾向ははじまっているか (c)似たレベルである次郎と比べて太郎は何が違うか などと考え始めるでしょう。
これらの比較が見えてきたところで、かなり原因究明に近くなるでしょう。

仮に、
(a)(b)からは「太郎君は一月前から確立の理解に苦労している」
(c)からは「次郎には優秀な姉がおり、わからないところを聞くことができていた」
といったことが分かったとしましょう。

ここまでくれば、問題の原因は「太郎は確立の理解が苦手で、かつ、その質問をしにいける相手がいなかった」というところにあることがわかるでしょう。
であれば、太郎に対して教師は「わからないところがあれば、いつでも聞きにきなさい」とアドバイスをすると、問題の解決に近づくだろうということが明らかになります。

このような場合のキーポイントは、問題となってる対象だけをただ見つめて分析するだけでは(そのものについてはよく分かるけれども)ヒントは出てこない、ということです。
その場合、同じような、問題を起こしていない対象と比較してみること。
そして、それらがどのように違うか、ということを分析することが重要です。

③以降は次回紹介したいと思います。


2015年4月4日土曜日

95:沖縄と本土の関係

以前にも触れたように、沖縄の問題の抜本的な解決を図らなければ、辺野古への移設工事が進捗するごとに新しい摩擦が発生することは避けられません。
太平洋戦争末期の米軍の沖縄上陸による県民の犠牲、6年間に渡る接収、そして現在までの60年の沖縄県民の負担をどのように解決したらよいかがこの問題の本質であると思います。


我々本土の人々が、本気で沖縄県民の過去の苦労に報い、同時に沖縄県の発展を支援すること、そして地政学的に言っても代替地が考えにくい米軍の施設の継続した使用などに対して最終的な決着をどう図るか、これが問題であるでしょう。


翻って見れば、日本政府が、正式に沖縄県民に対して米軍の基地使用への心から成る謝意を表したという記録はありません。
最近の国と沖縄県との対立がこれ以上深刻にならないためにも、日本政府は戦後70周年を機に、沖縄県民に対し、これまでの負担について謝意を是非表明してもらいたいと思います。


国が、国民に対し、謝罪することや謝意を表すことは、決しておかしなことではありません。
1991年9月に米国の大統領George H.W. Bush(当時)が日系米国人への戦時中の不当な取り扱いに対し、謝罪し補償を行ったようなこともありますし、またこのような例は世界にいくらでもあるでしょう。
これを考えると、日本も、沖縄に対して謝意を表明する際、同時に、何らかの目に見える補償をすることがなければ、単なるリップサービスに終わってしまいます。


そこで、一国民として政府に提案したいことは下の2つです。
①政府が国民を代表して、正式に沖縄県民に謝意を表す
②国が徴収する消費税は沖縄県に限り適用しない




上記は技術的に困難な問題があるにしても、このくらいの規模で沖縄県民に報いなければ、沖縄と政府との、あるいは沖縄と本土との対立は解消しないのではないか、と思うのです。

2015年4月1日水曜日

94:国会軽視

先日、たまたま2日連続して、午前の参議院予算委員会の模様をテレビで見る、またラジオで聞く機会がありました。
以前にも、国民と国会・政治の距離がありすぎるということを書きましたが、その理由のひとつが、この参議院予算委員会を視聴してわかったように思います。

「国会審議がなぜ面白くないか」ということに関する国民としての感想のひとつは、「噛みあった議論がなされていない」ことにあるのではないでしょうか。
噛みあう議論とは、論点の本質が明確で、結論を出すための工程を意識しつつ、重点的に論旨を進めていくということです。
また、質問に立つ側が自己主張と質問の区別が明確でなく、「総理はどのように考えるか」といった抽象的な質問しかしていないことも問題でしょう。
我が国の委員運営の特徴でもあり、国民性の表れでもある「事前に開示された質問に対し、おそらく関連官庁が事前に回答を作成し、それをただ読み上げる」という方策も説得性がないでしょうし、興味の湧くものではありません。

また、国民が持つ疑問のひとつは、閣僚のスキャンダルに関する追求が予算会議で行われることでしょう。
そして当然、その内容は国の経営に関することとは全く関係のないものです。
「政治とカネ」に関わる問題は我が国に固有のものではないでしょう。
日本国民は、政治のスキャンダルに対して寛容すぎるという思いを持つ人は多いのではないでしょうか。
他の先進国であれば、当該議員はそのことが真実であり、良心に恥ずる行為であれば、即座に辞任することでしょう。
(しかしそんなことをしてしまえば日本には国会議員が4、5人しかいなくなってしまうのかもしれませんが……)

なぜ議員倫理委員会といったものを設置して、そこで集中的に審議をする、という方法を誰も考えないのだろう……とつくづく思います。
冒頭の参議院予算委員会の話に戻りますが、国民が真剣に聞いていると突然「これで国会中継を終わります」というアナウンスが流れ、その後天気予報や、別番組の予告などというどうでも良いものに切り替わりました。
これは、NHKの国会中継に対する基本的な姿勢を表しているのではないかと思います。

これは何とかならないものでしょうか。
理想的には、予算委員会が終了するまで放送を継続する、ということでしょうが、それが非現実的であれば、NHKの持つBS放送など別のチャンネルを使って、時間は夜でもいいので国民に対して放送する義務を果たしたらどうか……と思うのです。