2014年2月28日金曜日

12:知ることと考えることのちがい

2006年6月に上海技術交易講師から意思決定論に関する講演を頼まれました。その時、主催者側の理事長と通訳を入れてかなり頭を使う話をしました。

日本では「知識」と「知恵」の差をあまり明確に分けていないように思いますが、中国ではどうなのですか、と質問をしてみました。そうしたら、びっくりするような答えが返ってきました。

「中国では『知恵』という言葉は使いません。飯久保さんの言う意味の言葉は、『知力』と言います。」

そこで私は「『知力』の定義とはなにか?」と尋ねました。そこでまたびっくりするような答えが返ってきたのです。

「私の解釈は次のようなものです。『知力』とは、ある問題を討議する時に、それについて十分な知識や情報がなくても問題が解決できる能力なのです。」

これは日本で言う「知恵」の理解とはかなり違うなと驚きました。


ちなみに……英語のinteligenceをWebstarの辞書で引くと次のような定義があります。すなわち''The ability to respond quickly and successfuly to a new situation.(新しい状況に対して迅速にかつ適切に対応できる能力)''。また、''The use of reason in solving problems.(理性的に問題を解決すること)''ともあります。

これがグローバルな「知力」の定義、と言っていいのではないでしょうか。



どうもアメリカのビジネススクールでは、判断業務の名人の思考を「標準化」して教えているように私は感じています。直面する状況がなんであれ、それをどのように処理したら良いか判断できるOSが視覚化・標準化・工程化されて、それが企業幹部たちの共通な思考の枠組みになっていると言えます。



あまり知られていないように思いますが、一方で日本人の先達の発想の中にも、科学的に・システマティックに考えるという思考があったのです。それは『広辞苑』を見てみればわかります。

「思考」 問題や課題に出発し、結論に導く観念の過程

言い換えれば、結論に至るプロセスを構築し、それに沿った考え方をすると言えるでしょう。これは、米国のinteligence、中国の「知力」と同質のものではないでしょうか。最近、よく言われる「ロジカル思考」とこれらの根は同じです。自分の専門外のことでも、問題の本質をおさえて効率よく結論を出すための工程を構築すること、これが肝要なのです。


「知る」ということは、単純に、知識を頭にインプットすることでしかありません。これに引き換え、考えることには解・結論といった目的があるのです。当たり前のことを書きましたが、これからの時代はいかに効率よく考えるか、ということが本質なのではないでしょうか

この意味で、よく使われる「有識者」「知識人」といった語にも新しい意味合いを付け加える必要が出てくるように私は思います。

2014年2月27日木曜日

11:北欧フィンランドの教育水準はなぜ高いか

このテーマは日本でもよく話題に出ます。日本の教育制度は残念ながら、その質において下降線をたどり、大きな国民的問題として我々の関心事項でもあります。
フィンランドは人口500万人の国でありながら、世界的な企業ノキアを有しています。(ノキアも技術革新の波に乗り遅れないような経営改革が必要という友人もいますが。)


教育水準の高い背景のひとつが、実は驚くべき技術なのです。フィンランドの初等・中等教育の教師は、全員修士の資格を持つことが義務づけられているのだそうです。この制度を日本に直接導入することはできないでしょうが、各県の首長で問題意識がある人はぜひ小・中・高の先生方に本当に必要なものは何か分析した上で、それを彼らに再教育して頂きたいと思うのです。
聞くところによると、日本の先生方にはあまり意味のない雑用が多すぎるようです。例えば教育委員会に対する報告書や文科省への回答書、要は調査のための調査が多すぎるのです。なんとかしたいものですね。子供がかわいそうです。世の親御さんもしっかりしてください。

2014年2月26日水曜日

10:意思決定ってなあに

今回は拙著にも書いていることですが、意思決定について書きたいと思います。
意思決定。この言葉は日常用語として定着しているように思います。

しかし、改まって意思決定の定義をしてくれと言われると、ハタと「なんだろう」と考えてしまうのではないでしょうか。

ひとことで意思決定を定義するなら、それは''choice(選ぶ)''ということです。選ぶには、ものが複数なければ当然選べません。その延長上で考えるなら、このような定義もできるでしょう。「ある案件に対して設定された判断基準に基づいて、複数の選択肢から最適な案を「選ぶ」という分析行為である」、と。

意思決定には4つの重要な項目があると言います。それを易しい質問に直すと次のようになります。第一に「何をきめるのか?」。第二に「諸目的(主目的・副次目的)・諸条件(投入できるヒト・モノ・その他)は?」。第三は「他に考えられる案は?」。第四は「もし実施した場合にどのような問題が想定され、もし問題が発生した際に現実的な対策があるか?」。


この段取りはいわば、グローバルに通用する常識であって、決して難しい理論ではありません。
みなさんも意思決定について考える際にはこの4点を意識してみては如何でしょうか。
私のブログで、このことについては後に触れる機会がまたあるでしょう。

2014年2月21日金曜日

9:「経営」という日本語

多くの友人に「経営」という言葉はいつごろから日本で使われ始めた言葉か、と質問すると、おおかたの答えは「江戸、明治」となります。私自身も、「経営」は米国のmanagementの概念を日本に紹介する際に定着したものだと考えていました。

ところが、なんと、この言葉は平家物語に次のように登場しているのです。以下引用。
粧鏡翠帳の基戈林釣渚の館槐棘の座燕鸞の栖多日の経営を空しうして片時の灰燼と成り果てぬ」。


だいぶ前の話になりますが、ある言葉を『広辞苑』で調べようと思い、開いた頁にたまたま「経営」の語がありました。この定義(第一版のもの)を引用すると「①縄張をして営み造ること。規模を定め基礎を立てて物事を営むこと。」とあります。現在の意味で言えば、「戦略」という言葉に該当し、資源を何に重点的に投資するか、という判断と解釈できるのではないでしょうか。

また「②工夫を凝らして物事を営むこと。」ともあります。これは日常のオペレーションにおける創意工夫と言えるでしょう。

「③継続的事業を経済的に成し遂げるために工夫した仕組。」、これは今日的に言えば「組織」に該当すると思われます。


このように、経営学にある主要概念は、実はすべて日本の先達の知恵にも既に存在していたのだと言っても過言ではないのです。
現代の日本人は、もっと先達から様々なことを学ばなければならないと認識します。


このことに関して、拙著『日本流・ロジカル思考の技術(PHPビジネス新書)』の宣伝をさせてもらいます。

2014年2月14日金曜日

8:アメリカの知られていない価値観


2月4日から6日にかけて開催されたNational Prayer Breakfast(全米早朝祈祷会)という行事に米国会員の準備委員長から招待を受け、参加してきました。
なにか宗教くさい、もっと言えばキリスト教くさい集会と思って行ったところ、ウガンダの閣僚やケニアの元大統領、コソボの駐日大使などを含む、なんと全世界140か国より3700人におよぶ参加者 が集っていました。
600名が外国からの要人であり(国会の会期中ということもあり、残念ながら日本からの代議士の参加はありませんでした)、残りの3100名は全米各地より州議会の代表をはじめ商工会議所会頭など多くの一般市民が参加していました。
年に1回、2月に開催され、今回は62回目の会でありました。
そもそもの趣旨は、宗教・民族を超えて「和解」と「平和」について米上・下院議員が集って話し合いを持ち、祈りを捧げることからはじまったようです。当初は40名ほどしかいなかったこの会ですが、いまではこのような大きな広がりを持ったものとなっています。
会場はワシントンヒルトンの二つの宴会場で、二日目の朝食にはオバマ大統領夫妻やバイデン副大統領も参加し、大統領は非常に感動的なスピーチを行いました。
内容は、第一に、宗教の自由を侵害してはいけないこと。そしてどの宗教であれ、「祈る」ことの重要性を説きました。
ここでアメリカの普段あまり外に出てこない(軍事・経済などとはまた別の)強さを見たように思います。
ご存知のかたも多いと思いますが、アメリカは一神教のキリスト教、プロテスタントの教義を中心として建国されました。紙幣や硬貨には''IN GOD WE TRUST''と刻まれています。また、裁判所の裁判官の背後の壁にも同じ言葉が書かれています。個人的には「これはいつになったら消えるのだろう」かと思っていました。アメリカは多宗教・多民族の国家となって久しいからです。
しかしこのワシントンの会議に出て、建国のキリスト教精神を消すことなく、多くの他の宗教を包むような国づくりを進めていったのだと思いました。
オバマ大統領がフルに参加した集会は一回でしたが、文科会などを含むと八回の会合が持たれ、シリアの要人がイスラエルの閣僚とにこやかに抱擁するなど、対立する民族が随所で和解する仕草が見られました。
この状況を見て私は心底圧倒され、対立する国家の間であっても、個人のレベルでどの程度和解が出来たかはさておいて、このような情景を見たことは感動ですらありました。


日本でも神仏を大切にし、祖先を敬う深い宗教心があったことを思い出さざるを得ません。人間の知識をはるかに超越した存在があることを認識すれば、日本人も少しは謙虚になり自信を持つのではないかと思うのです。

7:政治と優先順位

今日は直近の話題から、「優先順位とはなにか」ということについてみなさんと考えてみたいと思います。
この話をすると長くなる危険がありますが……今回はひとつだけ、日本人の発想の背景にある、あまり意識されていない特徴について考えてみたいのです。


日本語の特徴から考えてみましょう。
日本語は、いくつかの例外こそあれ、単数・複数の違いがありません。ほぼ単一民族・単一言語の日本において、これまでそれらを分ける必要はなく、それらは文脈から想像されてきました。
外国語(英語・フランス語・ドイツ語など)は単数・複数を分けています。

この、単複を分けていない日本語の考え方が、日本人の判断の効率や制度に悪影響を及ぼしている場合が出ているように思うのです。

日本の外交スタンスで問題視されていることのひとつが、我が国の総理の靖国参拝問題です。
報道を見ると、あの参拝がいかに外交に対して日本の判断の甘いか、という点で批判されているようです。
しかし、他にも問題はあるのではないでしょうか。私の考えでは、総理大臣として抱えている案件に対しての優先順位の判断が偏っていたのです。

この「優先順位」の定義も日本では非常にあいまいです。
本来は「複数ある」案件の中から他に先駆けて行動を起こす、これが優先順位なのです。(この「複数ある」というという意識が、先に挙げた特徴を持つ日本語を使う我々には生じにくいのです。)

優先順位を判断する基準は主に2つ、場合によっては3つあります。

①案件の重要度 起業で言えばそれが1000万の案件か1億の案件か、ということ
②緊急度 その案件に期日・デッドラインがあるのかどうか、ということ

優先順位とはこの2つによって決めるのです。(ちなみに3つ目は「拡大傾向」。放っておくとその問題が拡大するのか、消滅するのか、ということです。これは「期日を過ぎると大きな問題になる」というようなものも考えると、②緊急度との関連のある概念でしょう。)

通常なされている判断においての落とし穴は、「『緊急度』で優先順位をつける」ということにあります。緊急の案件から手を付けて、「重要度」の高い案件が先送りにされるということです。これはこれで多くの問題点があります。
しかし靖国問題に関して言えば、日本人にとって重要な(「重要度」の高い)問題であることは間違いないでしょう。一方、国家の問題として総理大臣が今なさねばならない、という「緊急度」が高かったかどうかには疑問がある。私は靖国参拝問題を、このように考えています。

みなさんは、いかが考えますか?