2018年3月20日火曜日

303:日本の教育におけるコンセプチュアル・スキルの重要性

日本の企業による、自社の存続をかけた企業買収が進行していると聞く。
このこと自体は結構なことと思う。

しかし、心配なことのひとつは、誰がその企業を経営し、監督するのか、あるいはそういった人材が現在育っているのかということだ。
もうひとつの心配は、経営環境の変化に対する柔軟性と「面子」のバランスをどうするのかということだ。
言い換えれば、「失敗したら撤退する」ということが、しばしば企業の「面子」によって妨げられるということだ。
「撤退する」ということは、あくまでひとつの選択肢であって、なにか人間的な敗北といったことではないのだが、人はしばしばこのふたつのことを混同して考えてしまいがちなのである。

さて、ひとつ目の「心配」に戻れば、長期的に見て、国際的に通用する人材の教育・育成が重要である。
その際、論理的な思考能力ということが当然ながら必須の要素となろうが、しかしながら、日本の現在の教育ではこの能力を開発するカリキュラムは整っていない、というのが現状ではないだろうか。
ゆとり教育の導入やその撤退という経緯はあるにせよ、日本の教育はまだまだ本質的に「知識偏重」のものである、と私は思う。
「知識」の重要性を否定するわけでは毛頭ないが、その獲得した知識も、実践のなかで「活用」されなくては意味がない。

少なくとも大学教育までには、様々な分野に応用可能な「コンセプチュアル・スキル」というものを(入門的にであれ)解説し、演習する機会が日本の教育に導入されてしかるべきではないだろうか。
直面する問題に対して、結論を導くための思考するプロセスを論理的に構築できる能力。
また、そのような能力を(暗算的なもの、特定の経験に基づくものではなく)様々な分野に応用可能なある「型」として持っているということ。
これこそ、国際的に通用する人材に求められ、また同時に、現在の日本の教育に欠けてしまっているものではないだろうか。

2018年3月10日土曜日

302:NHKと国会中継

現在、国民が聞いてもあまり熱心に聞けるような内容の国会ではないものの、この国民の政治への無関心に輪をかけるような現象が気になる。
それは、NHKのラジオ・テレビ両方の国会中継である。

たとえば、NHKの相撲の中継は結びの取り組みが定時の6時を過ぎても続けられ、それに続くニュースは取り組み終了後に延ばされている。

これに引き換え、まことに残念で悲しいことであるが、国会中継は重要なものであれ、11時56分頃を過ぎると「これで国会中継を終わります」と放送が中断されてしまう。
これは真剣に論議を聞いている国民には、後味の悪い結果をもたらす。
NHK自体が国会中継を大相撲中継よりも軽視しているのではないかとさえ思う。

このことを最近、安倍内閣の閣僚にある会での立ち話でした際、おどろくようなお言葉があった。
「そもそも国会論議は12時前に終わることになっているんだよ」。

「終わることになっている」とはどういうことなのだろうか。
国民はこのことをどう解釈すればよいのだろうか。

2018年3月3日土曜日

301:国会のイノベーション

国民の政治離れを論じることにエネルギーを費やすことが虚しいと考える人は、かなりいると思う。
私もその一人ではあるのだが、しかし傍観することもできないので、この古くて新しい問題についてふたたび書いてみたいと思う。
新聞によると、2月16日、国税庁前で、森友学園問題について予算委員会で証言をした、佐川現国税庁長官の罷免を求めるデモが行われたということだ。

国税を払うことを国民の義務と考えている善良な国民が、佐川国税庁長官の言動に対して批判をするのはもっともなことだ。

中には佐川氏の問題から、国税庁に対して税金を払うことに抵抗を感じている国民もいるかもしれない。
しかしながら、税金を払うことを拒否すれば、当然差し押さえという行政処分があり、私の記憶では12%の利息が延滞分にかかることになる。
このことを考えると、納税者は「お上」に対してまったく歯が立たない立場にあると言っていい。

国会というものはいわば日本株式会社を経営する経営陣の集団である。
しかし株主(国民)が経営陣に対して信頼を持たなくなっても、国民は選挙という方法以外に議員という経営者を変えることはできない。
だから、国民から選出される議員の資質や資格については別のところで述べるにしても、政治家や担当省庁のイノベーションをどのようにして行うことができるかが大きな課題である。
そこで、大変乱暴な提案ではあるが、常日頃考えていたアイデアを披露してみたい。

これは、国会議員がその職務を真剣に、忠実に行うために襟を正してもらうための苦肉の策である。

前述の佐川現国税庁長官の退任、あるいは税金の無駄遣いの改善、さらに言えば、全国会議員の身体検査(国民から不審に思われるような要素がないかのチェック)の実施。
このような国会そのものの「イノベーション」に手を付けないのであれば、国民は国税を法務省に「供託」をしてはどうか、ということである。
このことは、憲法上、法律上、手続き上その他色々なハードルがあり、非現実的であるかもしれないが、大きな改革がなされない限り、この国は国民のものとはならず、国家が滅びることになるのではないか。

何万人という国民が供託をすれば、国も動かざるを得ない状況になる。
供託した資金で国債を買って国家財政を安定させるといったことも考えられるかもしれない。
非現実的で夢物語と書いたが、政治や国会の状態をこれ以上放置することはできないと思う。