2017年12月20日水曜日

291:フラストレーションをプラスのエネルギーに変える その1

最近、社会現象に対して不平・不満を持つ人々が多い。
内閣府による国民生活選好度調査では、国民の幸福度は10点満点中6.41というあまり高くない数字を示している。
憶測だが、「人生の生きがい」といった項目があれば、より低い数値が得られるのではないか。
あるいは講演会、勉強会、趣味の会、同窓会など、最近どの会合に出ても、政治や社会制度、外交、税金、教育など、あらゆる分野における不平・不満ばかりを聞く。

このフラストレーションという国民的なエネルギーを、どのようにして建設的な力にするのかということが、今日的な課題であるように思う。
このエネルギーをもって何かができないか、と最近つくづく考える。
持てる社会(Affluent Society)の、食うに困らない人々に、何をすべきかという目標意識がないことが問題である。

目標意識がないとき、
利口な人はどうするのかというと、ひとつは、金銭に走る。
つまり、最近のFintech(Finantial Technology)等によって財を増やし、強欲(Greed)を追及する。
このような過程は無限のものであり、決して満足感が達成されることはない。

二つ目に、趣味、遊戯、道楽に走る。
飲み会やグルメに始まり、海外旅行、ゴルフ、スポーツ観戦等々である。

三つ目が、健康である。
ジムに行く、サプリを飲む、女性の場合は美容も考えられる。
年配者の場合は健康診断に行き、医者に通い、健康に良い食品を食べるといったこともするだろう。

このような三つの項目(金、趣味、健康)は、もちろん快適な生活のためには必要な条件だろう。
しかし、それらが満たされていたとしても、多くの人間はフラストレーションを抱えているのである。

このように考えたとき、J.F.ケネディ元大統領の演説を思い出す。
そこでは、国が国民に何をするのかを求めるのではなく、国民が国に何をできるのかを考えるべきであり、また、他国が米国に何を求めるかでなく、米国が他国と共同して何をできるかを考えなくてはいけない、と述べられていた。
現在に置き換えれば、例えば国連が加盟国に何をするかでなく、加盟国が国連に何をできるのかといったことにもなるだろう(ただ、これは非現実的なことかもしれない)。
ここで言いたいことは、ものの捉え方を逆転させる必要があるということだ。

日本の場合に置き換えれば、他国と協力してどのような崇高な目標を持ち、その達成に何ができるかを考えなくてはいけない。
ではそれを、誰が考えるのか。
結論を言えば、個人ひとりひとりが考えなくてはならないのだ。
政治が考える、行政が考える、指導者が考える、賢人が考える……ではなく、社会の構成員ひとりひとりが頭から血を流して考えれば、何か出てくるのではないか。

これが、日本に蔓延しているフラストレーションを解消する方向のひとつではないか、と考え続けている。
個人がただ満足するだけのもの(金、趣味、健康)ではなく、より大きなレベルで何か目標を考えることが、真に満足感を生むのではないか。
その方向は
①大多数の人が納得するもの
②平和国家日本が前進するもの
③いままでにない崇高なもの
④世界社会が批判や反対ができないもの
である必要があるだろう。

上にも述べたが、これには平和をどう考えるかという問題が関わってくることだろう。
日本は唯一の原爆被爆国であるにもかかわらず、核拡散防止条約に批准していない。
その事実に無関心や無反応でいられる状況は長くは続かないはずである。

そこで、一人の日本人として長年考えてきたことを披露してみたい。
その詳細については、次号で書きたいと思う。

2017年12月6日水曜日

290:「理解を求める」は国際的に通用するか

問題や対立の発生に際して、その解決や同意に至る考え方の過程に混乱があるという状態が続いているように思う。
具体的には、「理解を求める」という言葉が、以前から気になっている。

この問題は、風呂敷を広げれば、米国の占領時代にも遡ることができるだろう。
日本が占領下時代に占領軍にある問題を突き付けられ、即座に同意ができない場合、占領下の当事者は「同意できない」とはいえず、まず「検討させていただきます」と言ったと想像する。
話を受けて、様子を見ようということである。
もしこれで何事もなく収束すれば、一見落着ということである。

しかし、それが上手くいかなかった場合、当該要求がいかに非現実的であるかということを相手に「説明する」というプロセスをとる。
これにも失敗した場合、当方の状況を相手に「理解してもらう」。

このような流れが当時の占領軍に対する日本側の交渉の流れであったように思う。
そして戦後72年経った今日でも、「相手の理解を求める」という表現は使われ続けている。
外交交渉の担当に対して失礼かもしれないが、「理解を求める」という表現には下の者が上の者に「頼み事」をするようなニュアンスがあるように思う。
日本の社会では当たり前にされる発想が、国際社会で日本を不利な状況に追い込む場合があるといったら考えすぎだろうか。

日本では、「理解を求める」と言うとき、責任者が「理解を求め」れば、相手はある程度譲歩をするだろうという発想が前提になっている。
しかし、果たしてこのような前提が国際社会で受け入れられるかどうか、疑わしいように思う。
ましてや、途上国との交渉において、相手に「理解を求める」と言うことは相手に誤解を与えるのみではないか。
ここで相手が「理解しません」といった場合、どうするのだろうか?

さすがにそこまで想定するのは現実的でないかもしれないが、少なくともこの「理解を求める」という表現については、国際社会では誤解や不利益を招きうるものであることは認識したい。

もちろん、この表現をマスメディアが使うことにも問題がある。
閣僚が他国に行き、「理解を求めた」といった言葉で報道を行うことは、上に述べたような趣旨から、ある意味で非常に危険なことなのだ。

2017年11月29日水曜日

289:教育改革のひとつの原点

立派な先生方が、グローバル化に対応する目的もあってのことだろうが、教育改革について様々な提言をされている。
これらのすべてを読んで理解する能力は私にはないが、素人なりに考えて、ここにはひとつの大きな欠落があるように思う。
それは、教育において最も基本的な領域である「考える」ことについて、どのように教科に入れ込んでいくのかである。

例によって、「考える」を広辞苑で引くと、5項目ほどあり、代表的と思われるものを引くと、「事情を調べただす。思考をめぐらす。あれこれと思量しことを明らかにする。学ぶ。学習する。」とある。

日本語の「考える」を英語の"think"と比較してみると面白い。

Webster英英辞典では、まず"think"だけで、他動詞に8項目、自動詞でも5項目が見られる。
そのうちの自動詞からひとつを抜き出すと、以下のようなものがある。

Think


to bring intellectual faculties into play; to use the mind for arriving at conclusions, making decisions, drawing inferences, etc.; to perform any mental operaction; to reason.
知的機能を活動させること。結論に至るために、決定するために、また推論するため等に、精神を用いること。あらゆる精神活動を行うこと。理由付けをすること。

そもそもの「考える」という語についても、様々な見方があるようである。
日本の教育改革論のなかで、「考える力」についての論議が十分なされたとは思うが、しかし今一度、「そもそも考えるとは何か?」という原点に戻ってみる必要がある。
グローバル化を考えるなかで、"think"する能力の重要性を、いまさら言う必要はないであろう。

2017年11月18日土曜日

288:真剣に国を想う心

中国の日本大使館で公使を務め、青年海外協力隊の生みの親でもある伴正一先生という人物の勉強会が、いまでも続いている。
この伴先生の「平和の仕事」という平成11年にまとめられた講演録の一部を引用させていただく。


 アメリカに「アメリカさん、ちょっと待ちなされ」と言ってアメリカが耳を傾けるような助言者、たまには指南役に日本はなろうや、というのが私のナンバー・ツー論なのです。(略)
 それにはやっぱりですね、平和の仕事の方でもしっかりやらんといきません。厳しい局面になると逃げ回って、「血を流す役はよその国でやってくれ」みたいな、身勝手なことを言いよったら、そんな日本の言うことにアメリカが耳を傾ける筈がありません。
 もう一つは見識が無けりゃいきません。
 アメリカが一目置くような見識を日本が持ち備えるようになるということは、国家百年の計と言える大目標です。素晴らしい若者の夢にもなり得ましょう。いい大学とかいい会社、そんな次元でしか目標を立てられないようなことでどうなりますか。日本は維新この方、有色人種の先頭を切ってきた国ではありませんか。



17年前の伴先生の言葉が、いまだ今日的な意味を持つことに驚かされる。
世界社会に対する日本の役割を、たとえば今日の若者たちにも考えてほしいものだと思う。

2017年11月11日土曜日

287:意思決定の盲点

潔癖さをつい目指しがちである日本人が、意思決定に際して陥りがちな盲点がある。
日本人は、時間をかけて論点を洗い出し、合意形成としての意思決定を行うことが多いであろうし、このこと自体は悪いことではない(結論に至る思考工程が論理的で効率的であるかは別として)。

しかしこのとき、関係者一同は、最終的な結論に十分満足し、実施段階において成功裏に所定の成果が出ることを疑わない。

つまり盲点は、この結論案を実行した場合に、何か不備なことが起こるかもしれないという可能性に対する思考が停止していることである。
全力を投球し、最適な結論を出すことができたという自負があるために、"What could go wrong?"という問いが抜けてしまう。
あるいは、そのように問うこと自体を自己矛盾であり、悪いことだと考える潔癖さがあるために、思考停止を招いてしまう。

日本の先達は、ものごとを決める際、「後先のことをよく考えて決めろ」などと言ったようだ。
これは、ある判断をするときに、その判断が将来引き起こすかもしれない問題点を考慮して最終判断をしろ、という教訓であるように思う。
これは英語で言う"Consequence"の概念でもある。

Consequence
that which follows from any act, causes, principle, or series of actions. a logical result; an event or effect produced by some preceding act or cause; result. logical result or conclusion; inferences; dedution.

あらゆる行動や原因、原則に、あるいは一連の行動に続くもの。論理的な帰結。先行する行動や原因から生じる出来事や効果。論理的な結果、あるいは結論。推論、推論による結果。

日本の国際競争力を考えるときに、この"Consequence"という概念を認識することが非常に必要であると思う。

2017年11月4日土曜日

286:イヴァンカ・トランプ米大統領補佐官

安倍晋三総理が、「おもてなしの精神」で米国からの重要人物、イヴァンカ・トランプ米大統領補佐官を歓待することは大いに結構なことと思う。
しかしここでひとこと、明治の元勲、西郷隆盛の遺訓をシェアしておきたい。

正道を踏み国を以て斃るるの精神なくは外国交際は全かるべからず。彼の強大に畏縮し円滑を主として曲げて彼の意に順従する時は軽侮を招き好親却て破れ終に彼の制を受るに至らん。(『南洲翁遺訓』より)

このような国になってもらっては困る。
また、このようなことが前例になると、他の国の元首の訪日の場合どのように対応するのだろうと心配になってしまう。

2017年11月1日水曜日

285:「なぜ」という問い

最近、オーストラリア出身の友人で、日本の私立大学の学長を務めたこともある人物と、日本人の考え方の特性について色々と話をする機会があった。
そこで、日本人の美点でもあり欠点でもあることのひとつが、"Why"を問わない文化であることだ、という指摘があった。
これはまさにその通りである。

私なりに"Why"を問う目的を整理すると、それは4つに分類される。

過去の現象の原因を問う「なぜ」。
複数問題の優先順位を問う「なぜ」。
意思決定の根拠を問う「なぜ」
リスクの原因を問う「なぜ」

このような話をその友人に返したところ、日本の社会でこれから最も重要になる「なぜ」は、三番目の「なぜそれを選ぶのか」というものであるという。
確固たる根拠が明確でなければ、行動を起こしても失敗をしてしまうのだ、ということをこの問いは示唆している。

日中関係の親善を促進する日本のNPO団体が、日中のジャーナリストを集めてシンポジウムを開いたことがあった。
その報告書の中に、中国人ジャーナリストのコメントとして次のようなものがあった。
「日本のジャーナリズムは、ある事件や現象が起きた際の、詳細な説明に関する記事は実に見事である。しかしながら、そこには「なぜ」という発想が抜けているのではないか」
このような記事を友人との会話の中で思い出しもしたのであった。

2017年10月25日水曜日

284:日本人の寛大さとスキャンダル

現在の日本の政治を真面目に考えようとすると、頭がおかしくなってしまうのではないかとも思うが、今回は国会議員のことについて少し書いてみたいと思う。

日本人は国民性として、寛大なところがある。
これは美徳であって、個人的には世界社会に発信できる立派なものであるとまずは思う。

しかし、現在見られるような、国政を与る国会議員の言動に対しての過度の寛大さはいかがなものかと思う。

最近の公明党所属の議員で樋口尚也氏、前衆議院議員、前文部省政務官、当選2回が党を離党し、議員を辞職したというニュースがあった。
また、同じ公明党の長沢広明氏、元復興大臣も、スキャンダルで離党、議員辞職をしたという。
私は特段公明党の支持者でもないのだが、しかしこれについては最近ない快挙であると思う。

このような前例があるのだから、与党の自民党も、見習うべきではないだろうか。

2017年10月21日土曜日

283:投票の義務と権利

総選挙が告示された。
このことについて、やはりどうしても何か考えてしまう。

誰を選ぶか、どの党を選ぶか以前のところに考えるべき重大な問題がそもそもあるように思う。
それは、投票するという行為は、有権者としての義務なのか、それとも権利なのかということだ。

このことを友人に聞いたところ、「四の五の言わずに投票すればいいんだ」と返ってきた。
それはもちろんその通りなのかもしれないが、民主主義が機能するためには、投票という行為が義務なのか権利なのかという本質を認識する必要もあるように思う。

もし義務であるならば、それを放棄すれば問題となる。
例えば納税は義務であり、これを放棄すれば処分を受けることになる。

これに関して、様々な意見や考え方があるだろうし、そのような議論はなされるべきである。
とはいえ、少なくとも私は、選挙は権利であると考える。

つまり、有権者から見て、国政を任せるに値する候補者がいなければ、投票をしないという方法もあるのである。
投票の放棄も、これもまたひとつの与えられた権利であると思うのだ。

私は今回は、権利としての投票を放棄するか、白票を入れることにしようかと考えている。
なぜなら、どうしても現在、国政を任せるに足る人物はいるようには思われないし、いたとしてもそのように判断できる情報が十分に開示されていないように思う。
(候補者の経歴に関しての情報はあふれているが、その政治信条に関する情報は見られない。)

現行憲法が設置されて以来、一度も改正されていないのと同様に、現行の選挙法も社会の実態にあった改定がされていないところに問題がありそうだ。

米国をはじめ、ヨーロッパ各地でも、必ずしも民意を反映したとは信じがたい結果が投票によって出されている。
民主主義そのものの実態にあった何らかの修正がここにきて求められているのかもしれない。

2017年10月17日火曜日

282:国会議員の資格

本年9月28日号の週刊文集に、「野田聖子 夫は元暴力団員」なるタイトルの記事が掲載されていた。
与党の重鎮にこのような記事が出たことに、まずは驚いた。
世界社会に対してまことに情けない思いをしたが、これが政治の実態なのだろうか。
小見出しを並べて書くと、「デート商法で業務停止命令」「出会い系迷惑メール送信で摘発」「知人に「会津小鉄やってん」」「私は精一杯夫を守ります」とある。
一国の総理候補とも言われる人物がこのような中傷記事(?)を書かれたのだから、当然名誉棄損で文芸春秋社を告訴するかと思ったが、そのようなニュースはない。
また、自民党からもコメントもなければ釈明もない。

私は元々保守系の考えを持っているが、与党自民党の体質がこのようであることに問題意識を持ち、有権者として、他に代替する政党がいないという現実を考えると頭が痛い。

例えば国会議員の資格として、次のような項目が必要なのではないか。
①国家にとっての重要案件を最優先に取り組める判断力と行動力
②国民の誇りを回復し、尊厳のある国家を創ろうとする意識
③信念・理念・自己犠牲の心を持つ
④人間としての尊厳を持ち、恥ずかしくない行動を心掛けるこのような条件に当てはまる立派な人物を国会に送りたいものである。

2017年10月7日土曜日

281:Peace Power

近年、従来のハードパワーに対し、ソフトパワーという概念がハーヴァード大のジョセフ・ナイ教授によって提出され、大きな反響を呼んだ。
関連して、他にもスマートパワーなる言葉が出たようにも記憶している。
これら「○○パワー」ということに関して、私は「ピースパワー(Peace Power)」ということについて述べたい。

これは、7月22日の記事で述べた「軍事費の平和的利用」の延長線上にあることでもある。
昨今の北朝鮮情勢に影響を受け、日本でも軍事費の拡大をよしとする議論になりつつある。
これは、ミリタリーパワー(Military Power)への税金の投入であるのだが、北朝鮮がああいった状態である以上、致し方ないと思われるひとも少なくないようだ。
しかしもしこれを是とするならば、ミリタリーパワーとのバランスをとるために、軍事の拡大だけではなく、平和国家である日本は、ピースパワーという概念を持ち出してもよいのではないだろうか。

私の現在考えるピースパワーとは、対立や紛争が殺戮となる一歩手前で踏みとどまる諸方策(予防対策)や、不幸にして殺戮状態に突入した際の早期収束策(発生時対策)を、人類の叡智と最新の先端技術を駆使して創出することを目指すというものである。

繰り返しになるが、憲法9条を持った日本は、このようなピースパワーを発信していくことが非常に重要であるように思われる。
その具体的な展開方法については、またの機会に述べることにしたい。

2017年10月4日水曜日

280:仁義礼智信

ある中国人の友人がきっかけで、孔子の教えの中心となる「仁義礼智信」の「五常」という有名な文言の存在を知った。
興味が湧いた私はこの五常の意味について調べたり、またそのなかで日本に「社団法人世界孔子教会」なるものがあることなどを知った。


さて、この友人に以前、この仁義礼智信の精神が中国できちんと伝承されているとはあまり思えない、とふっかけてみた。
すると、文化大革命の時代、毛沢東が「孔子の教えは封建的だ」と言いこれを廃したという事実があり、これが原因なのではないか、との説明を受けた。

ちなみにこの文言は、Wikipediaによれば、
・仁=人を思いやること。
・義=利欲にとらわれず、なすべきことをすること。
・礼=「仁」を具体的な行動として表したもの。
・智=道理をよく知りえている人。
・信=友情にあつく、言明をたがえないこと。

ということであるそうだ。

中国の長い文化・歴史のなかには、このような素晴らしい教えのDNAが存在しているはずである。
これらは、立派に世界社会で通用する哲学と言っても過言ではない。
国際秩序の再編成が進行している今日、このような立派な哲学を持つ中国が、その役割を果たすことを大いに期待したいと願うことは筋違いであろうか。
加えて言えば、東洋が西洋に発信する知恵はもちろん、これ以外にも多くあることだろうと思う。

2017年9月27日水曜日

279:平等、対等について

政治家の発言に、日本とアメリカはイコール・パートナーだ、対等な相棒だ、といったことがよく聞かれる。
一方、日本は米国の属国であり、ただ言いなりになっている国家である、という声もまた聞こえる。

これから国際的な問題解決を効率的に推進する条件のひとつとなるのが、上の例でも問題になっていた「平等」「対等」であるだろう。
この言葉を定義するのは非常に難しいだろうが、しかしさまざまな社会や国家が価値観を共有し、共に問題に取り組んでいくということが重要である。
そして、価値観を共有し、共同してものごとに取り組むとき、その集団の構成員は平等な存在である、と考えてよいのではないだろうか。
中国にGDPで抜かれてしまった、など、国力といったことに捉われる必要はない。

またこういった実際的な目標が重要である一方で、「平等」「対等」という語がどういった定義であるのかという共通認識を持つということも極めて重要であるだろう。

2017年9月20日水曜日

278:大きな目標を持つこと

以前の記事で引いたJFKのスピーチを別の視点で考えると、どのような発想が見えてくるだろうか。
国連の安全保障理事会の北朝鮮に対する制裁を見ても、国際社会が連携して相手国、すなわち北朝鮮を封じ込めようという意図が当然のことながら強く見られる。
しかし、夢のような話ではあるが、北朝鮮を同じ土俵に乗せて協力し、東アジアの安定のために共同で何かできることはないか、という発想を私は持ってしまう。

実際の外交問題は素人にはわからない複雑な要素があることは認識した上で、より大きな目的のために、敵対している社会や国といった当事者が共同の目標を持つという次元の論議があってもいいのではないかと思う。

経済協力といった次元の話ではなく、地域社会や、広く言えば世界社会で、ひとびとの生命と財産に脅威を与えるような状況をつくらないようにどのようなことができるかを考えていく必要がある。
相手国に何を要求するのかではなく(例えばこの文脈では核開発をしないようにという北朝鮮への要求)、相互に共同で何ができるのかということを考えたい。

夢のようなことを語っていると思われるかもしれないが、しかしこのような大きな目標を持つことは、非常に重要なことでもあると思う。

2017年9月16日土曜日

277:北朝鮮に関する一般市民の心配事

一般市民のひとりである私が、安全保障や外交の問題について専門的なコメントをする資格はない。
しかしながら、一般市民は、アクシデントだとしても、もし北のミサイルが日本に落ちた場合の影響を考えてしまうだろう。
実際先日、子育てをしている主婦の知人が、北のミサイルの問題について、本当に日本にミサイルが落ちたらどうするのか、と口にしていたが、これは子供を抱える人として当然の心配である。
このことに対して、国民を代表する国会が具体的で適切な方策を真剣に考えているようには、少なくとも私にはあまり見えない。

実際、政治の現場では、北朝鮮の行動はある程度予測できるにもかかわらず、具体的な対応がなされず、抽象的なコメントや他力本願、つまり安全保障理事会や安保法制への言及以上のものはない。
このような状況では、一般市民の生命や財産に対する脅威に政治が真剣に取り組んでいるかどうかが疑われる。
なんとかしていただきたいものである。

2017年9月13日水曜日

276:花粉の話

友人の米国人の受け売りだが、米国中西部の農場主についての話である。
この農場主は品種改良に熱心で、独自にとうもろこしの新種をつくることに成功し、近隣の農場よりも非常に大きな収穫を得ていた。
しかし、詳しく検証すると年によって収穫量にバラつきがあった。
この原因を考えると、気候条件によって、隣の農場から劣性の花粉が飛んできており、これが収穫量に影響しているのではないかということに彼は思い当たった。
風に乗って飛んできてしまうものである以上、この花粉を防ぐ方策はない。
そこで彼はあえて新種を近隣の農場に分けてゆき、結果、地域全体は栄えたということだった。

ここまで、特記すべきことはない。
しかし、私の友人がここから続けたことが興味深かった。
曰く、コミュニケーションのなかで人間の発信する情報は、上の話の花粉と同じように、実はどこでどのように実を結んでいるのか追跡できないものなのだ。
だからこそ我々ができるだけ「良い花粉」を発信することが、個人だけでなく世の中を良くしていくことにつながるのではないか、ということだった。

今日のIT時代、テレビやインターネットでも、「良くない花粉」がばらまかれてはいないだろうか。
もちろんメディアに限ったことではなく、本質的な事柄について考えさせるような「良いconversation」がなされることを期待したいものである。

2017年9月6日水曜日

275:国会議員は君子たれ

今回は短めのものでご容赦を。
表題の「君子」の定義をするならば、「学識・人格共に優れた立派な人。人格者」となるだろう。
現在、議員を務める人に「君子」は、果たしてどれくらいいるだろうか。

「君子」を国会議員として選出できるような選挙の仕組みを、どのように考え、つくるのかということが今日の日本の課題ではないだろうか。
世襲制の延長線上に何があるのだろうか、などと思ってもしまうのである。

2017年8月30日水曜日

274:依頼心の強い国民?

現政府の政策は、教育改革、一億総活躍、高等教育無償化、社会保障の充実など、国が提供するサーヴィスに偏重しているように思われる。
この結果として、依頼心の強い、自主的判断で行動できない、自己責任を負わない国民を育てることになってしまうのではないだろうか、と私は危惧している。

言い換えれば、国が国民に提供する政策が目につき、国民が国家にどのような貢献をするべきかを示唆するものは見えていないということだ。
以前の記事に関連させて言えば、政策が"Me First"的で、地域や社会を考えるという発想が希薄であるように感じられるのだ。


この延長線上で国防や安全保障を考えた場合、国家が国民を守るのか、国民が国家を守るのか、といった永遠の問題についても議論が必要になってくるかもしれない。

今日の選挙制度がこういった事態の背景にあるようにも思う。
選挙民の多くも、残念ながら代議士先生方が我々に何をしてくれるのかという発想が強い。
ひと昔前の国政で仕事をした代議士は、田中角栄にしろ、中曽根康弘にしろ、大平正芳にしろ、代議士として当選することを優先せず、国家のあるべき姿を考え、国政に当たってきたのではないかと思う。


ともあれ、政府の支援を期待するばかりでなく、国民が主体的に考え、行動する社会をつくりたいものである。

2017年8月26日土曜日

273:「○○ファースト」の先に何があるのか

他の国のことで恐縮であるが、先日、J.F.ケネディ元大統領の57年前の就任演説をじっくり読んでみた。
この演説は高い評価を受け、日本でも当時話題になったものだったが、あらためて読み返すと、そこにはアメリカ国民の大国としての自負と、大国であるがゆえの責任が表れており、感銘を受けた。

2017年の現在、トランプ大統領は"America First"と言い、小池都知事は「都民ファースト」と言っている。
あくまで私見ではあるが、その行きつくところは"Me First"なのではないだろうか。

もちろん"me"つまり自分が大切であるのは自明のことだ。
しかし社会があってこそ自分自身が存在するという認識に立てば、社会(you)もまたきわめて重要なものであるということに気づくはずだ。
要は、"me"(自身)、"you"、あるいは"us"という要素のバランスをどのように考えていくのかということではないだろうか。

"America First"に相対する発想は、例えば前述のケネディ元大統領のスピーチで実は既に述べられている。
... my fellow Americans: ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country.
国があなたのために出来ることを求めるのではなく、あなたが国のためにできることを求めなさい。

また世界社会に向けては、次のようにも述べている。
My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.

アメリカがあなたがたのためにすることではなく、人類の自由のために私たちが共にできることを求めなさい。


このケネディ氏のメッセージは、米国民に対するものであると同時に、自由を信奉する日本人に対するものでもあるだろう。
先ほども述べたように、"America First"や「都民ファースト」は"Me First"に向かっていく。
この"Me First"は、各々が責任ある個人として確立し、社会を構成していくような「個人主義」とも、似て非なるものだ。


「○○ファースト」という発想の限界と、その先に一体何があるのかということを私たちは考えてみなくてはならない。

2017年8月23日水曜日

272:外国特派員との会話

米国人特派員の友人との会話から、いくつか思うところがあったので、今回はそのことについて書きたい。

諸外国のメディアにおいて、日本に関する記事はますます減少していく傾向にある。
海外のメディアが日本を取り上げることが最も多かったのは、日米貿易摩擦のころ、つまり「ジャパン・バッシング」のころだった。
これをピークに、日本に関する報道は減少の一途をたどっている。

ジャパン・バッシングの次には、ジャパン・パッシングが来た。
特に外国メディアのアジア拠点が、上海、香港、シンガポールなどに移転していった。

次には、ジャパン・ナッシング。
日本など取るに足らない、という時期である。
これには、IT産業などが日本で育たなかったといったことも関連するだろう。

そしてジャパン・ミッシング。
ちょっとした挿話をすれば、ユナイテッド航空での各国のローカル時間の掲示から、日本が削除された。
詳しい友人に確認したところ、実際、ハブ空港の役割は既に東京から香港に移動したということだった。

このまま放置すれば、やがてはジャパン・ヴァニシングへとなっていくことだろう。

日本人の友人のなかには、「日本は世界社会で貢献する意思もなければ、力もない。ポルトガル化でいいじゃないか。ポルトガルなら食べ物は美味しい、自然は豊か、生活環境は良好。一世を風靡した記憶にすがらない方が良い」といったことを言う人もいる。
しかし、戦中・戦後を知る世代としては、これには一抹のさびしさを感じる。

現在の日本には国際的に報道されるべき材料が少ない。
冒頭で触れた米国人記者の友人は、内閣の閣僚のスキャンダル・退任、またそれに伴う国会の空転は、海外に報道する材料にはならない、とぼやいていた。

日本から発信するに値する、あるいは報道されるに値するニュースとは一体何なのか、国民ひとりひとりもそれを考える時期に来ている。

2017年8月16日水曜日

271:目的と手段の混同

今回はちょっとした問題を出してみたいと思う。
いささか易しいかもしれないが、挑戦してみていただきたい。

<問題>
某国政府は、年々国政選挙の投票率が低下していることを懸念している。
この状況は、地方選挙でも同様である。
選挙の投票率を上げる方法を検討するために、委員会が設立された。
「候補者に有名な女優を起用しては?」との案が出されたが却下された。
他に出た案は、選挙日の曜日の変更、選挙時間の延長、投票に対する報奨制度、3年間投票しない人に対する罰則制度などである。
選挙の投票率を上げることにつながる最も効果的な方法を以下から選びなさい。

(A) 投票率の高い他の国の選挙制度を研究して別の案を考える。
(B) それぞれの提案、特に報奨制度と罰則制度についての是非を検討する。
(C) 民主主義社会における投票の責任と権利について、国民を教育するための全国キャンペーンを行う。
(D) 解決策を検討する前に、投票率が高い地域と低い地域を選び、なぜ差があるか考える。





<解答・解説>
A、Cは、実態の把握と投票率が低い原因を確定する前に方法論に短絡していることが最善とは言えない点である。
目的と手段を混同せず、どのような諸目的をまず明確にしたうえで、それらを達成する手段を構築するべきである。

Bについては、まず上のような目的と手段の混同ということが言える。
さらに言えば、既に提示されている案の評価(「是非」)にすぎず、新しい発想につながらないという欠点がある。

問題とされている状況に対し適切な対応をするためには、当然のこととしてなぜ問題が発生しているかの諸原因を明らかにする必要がある。
これがなければ抜本的な対策とはならず、結果として暫定対策の繰り返しに陥ることになるのである。
これは、貴重な(経営・政治等の)資源の浪費につながることは言うまでもない。
よって、解答は、Dとなる。

2017年8月9日水曜日

270:日本文化にある問答

Question & Answerという表現がよく使われる。
これを日本語に訳すと、やや古い表現かもしれないが、「問答」ということになるだろう。
この問答という概念について、少し書きたい。

たとえば「問答歌」という和歌のジャンルも存在しているように、この概念は日本文化において決して新しいものではない。
ところが最近の知識中心教育の結果、問答不在の社会が形成されてしまった。
現在の多くの日本人は、できるだけ論議をすることを避け、人の意見に同調するなど、意味ある「問答」がなかなかできない。

この状況において出てくる具体的な課題は、まず質問をする力を付けるということであろう。
質問の目的が、情報を収集することや、ものごとの根拠を確認することなどとしても存在し、必ずしも責任を追及したり、相手を窮地に追い込むために質問をするわけではないのだ、ということをまず認識しなければならない。
たとえば国会の予算審議のテレビ中継を見ているときなど、強くそのように感じる。
質問はコミュニケーションにおいてきわめて重要であり、またそれは人格攻撃といったこととはまずは別のこととして考える必要がある。

翻ってAnswerということは、ひとことで言えば相手の質問に情報や根拠を提供することである。
また同時に、自身のOpinion(意見、見解)を形成し、開示することでもある。

質問することも答えることも、それぞれに大事なことなのである。
そして繰り返すが、それは本来「問答」という言葉で日本文化のなかにきちんと存在していたものだ。
「問答」という日本文化にある知恵を、いちど原点に戻って見直す必要があるのではないか。
特に、教育改革を論じる場面では、そのことを強く認識してほしい。

2017年8月2日水曜日

269:一見まじめ・本質ふまじめの人たち

これは経営やマネジメントに属する領域かもわからないが、世界のリーダーたちの最近の行動と、彼らの周囲にいる人材を見ていると、「人を見る目」について考えてしまう。
学問的な根拠などがあるわけではないが、人の分類について、個人的には四つの分類があるように思う。
それは、①「一見まじめ・本質まじめ」②「一見まじめ・本質ふまじめ」③「一見ふまじめ・本質まじめ」④「一見ふまじめ・本質ふまじめ」の四つである。
このなかでも特に問題となるのが、②「一見まじめ・本質ふまじめ」の人々である。


②「一見まじめ・本質ふまじめ」の人間が影響を及ぼす組織・会社・国といったものは、不幸である。
森友・加計学園などのスキャンダルの舞台裏にいる人たちの多くは、このような②「一見まじめ・本質ふまじめ」の人々なのではないかと思う。
つまり、表の顔はいかにも善人に見せかけながら、裏でろくでもないことをしている人々のことである。
このような人々が政治を動かすような社会は、ますます劣化していくことだろう。



ちなみに、①「一見まじめ・本質まじめ」の人々は、意外に社会で上手にやっていきづらいところがあるかもしれない。
まじめの定義はもちろん難しいのだが、こういった人々は学者や聖職者に該当するだろう。
しかし、このような①「まじめ・まじめ」の人々が②「一見まじめ・本質ふまじめ」の人々に利用されるような場合、これもまたきわめて不幸な事態であるし、社会全体の生産性も落ちていくこととなる。

④「一見ふまじめ・本質ふまじめ」の人々に関してはどうしようもないのだが、しかし社会にはこういった人物もいる以上、上手くやっていく必要があるだろう。


反対に、理想的なことを言えば、③「一見ふまじめだが、本質はまじめ」な、柔軟で、信念を持った構成員が多い組織こそが、安定した、発展性のある社会に結び付いていくように思う。

2017年7月26日水曜日

268:政治に対する思考停止

7月21日(金)のインターネット上の時事通信の記事で、以下のような内容が掲載されていた。
「安倍首相、「待機組」処遇に苦慮――支持率急落で入閣辞退も」
具体的には、自民党衆院5回以上、参院3回以上の期を経た60名以上の議員が、「入閣待機組」として考えられている、というものだった。
これを目にして、いろいろと考えることがある。

いま、本質を読み取る力が国民に求められているのではないか。
上の例で言えば、各省の責任者である大臣の人選基準をどう考えるか、ということが本質であるはずだ。
ところがメディアは「議員経験」が大臣就任の主なる条件としか見ていない。
大臣としての資質や経験、信頼性、人間性などをメディアにはもっと考えてもらいたいと思う。

政治に対する思考停止と思われるような類似の記事がさまざまな場所で見られる。
我々も、ただ思考停止的に流し読みしてしまうのではなく、新しい見方でこれらを論評したい。
安倍内閣の改造まであと何日かと迫るなかで、主権者である国民がマスメディアの報道に対してあきらめてしまうことなく、国政に対する関心を持ち続けてほしいと願いたい。

2017年7月22日土曜日

267:軍事予算の平和利用

これまでのトランプ大統領の不規則な発言のなかで、世界の安全保障に大きな影響を及ぼすものが、軍事予算の増額についてのものである。
ヨーロッパ各国に対しても、対GNPで2%を達成するように圧力をかけているという。

憲法9条を持つ平和国家日本は過去70年来、国防予算はGNPの1%を超えないという不文律があった。
先の第二次世界大戦で世界に迷惑をかけ、また唯一の被爆を経験した国である日本は、敗戦後に奇跡的な復興を成し遂げた結果、戦争反対、つまり具体的には軍事予算を増やさない国となった。
世界の趨勢が軍事拡大にあるとはいえ、考えなしにそのような傾向に便乗することには慎重でいたい。
何か反対の声を上げる必要があるのではないだろうか。

そのように、安直な軍事拡大に抵抗することが、日本から発信する世界社会へのメッセージのひとつではないだろうか。
たとえば、軍事予算の一部を非軍事目的に転用する、というくらいの発想の転換を望みたい。

ちなみに、この軍事費の非軍事目的への活用の前例は、実は冒頭で触れた国である、アメリカにあった。
戦中・戦後を経験していない多くの日本人にとっては新しい知識かもしれないが、戦後の復興期に米国から日本に支出されたガリオア資金(Government Appropriation for Relief in Occupied Area Fund)・エロア資金(Economic Rehabilitation in Occupied Area Fund)というものがあった。
この膨大な基金を支出したアメリカの意図は、人道的なものであった一方で、政治的なものでもあった、とされるが、これらが日本の戦後の復興に多大な貢献をしたことは否定できない。
そしてこの両資金が、実は米国政府の国防省から支出されていたという事実は、非常に示唆に富んでいるのではないか。

このような発想が、今日の軍拡に歯止めをかけるものになり得ると思われるのだが、いかがだろうか。

2017年7月19日水曜日

266:知的リーダーシップ

朝日新聞の「キーワード」によると、リーダーシップとは、「大きな「絵」を描いて方向を示し、人々を巻き込んで実現する力」とある。

この問題について、私の関心から、ますます必要とされるリーダーシップの必須条件として、プロブレム・ソルビング(問題解決)能力を挙げたい。
これは、コンセプチュアル・スキルとも言われるもので、相手が誰でも、どこででも、どんな状況下でも、対応できる判断力のことである。

このPS(プロブレム・ソルビング)能力の中身を、下記のような設問によって説明したい。
① 何が問題で、どこからどのように手を付けるのか。
② 何のために、何を選ぶのか。
③ 実行計画(実施計画、アクションプラン)のどこが心配なのか。
④ 失敗の原因をどのように究明するのか。

①は具体的な課題を明確にし、優先順位を付ける能力、②は判断の理由や根拠づけが明確にできる能力、③は計画からのズレやリスクが想定でき、対策を講じられる能力、④は最小限の情報で、原因を想定し、検証できる能力である。

上記の能力を身につけることはもちろん容易でない。
しかし、強力なリーダーは、行動しながら考えるとよく言われる。
考えるということは、結論を出すということに他ならない。
くどいようであるが、初期出版の広辞苑によると、思考とは「問題や課題に出発し、結論を導く観念の過程」とある。
結論は、経験、知識による場合と、合理的な思考の結果による場合とがある。
短絡思考にならずに、プロセス思考を意識したい。

リーダーシップというと、漠然としたものとして捉えられがちであるが、以上のような合理的なPS能力がなければ、リーダーシップは成立しない。
プロセスを意識した、PS能力があればこそ、様々な場面で人々を巻き込んでいくことのできるリーダーシップが発揮される。

2017年7月12日水曜日

265:サイレント永田町(続)

国家として取り組まなければならない優先順位の高い課題は、実に多岐に渡る。
優先順位を判断する基準として、課題の重要度(ビジネスに例えて簡単に言えば、それが1億の案件なのか100億の案件なのかということ)、緊急度(期限が存在するのか、それはいつまでなのかということ)、拡大傾向(それを放っておくとどうなるのかということ)の3つの観点から考えなければならない。
そのように考えた上で、私は最も優先順位の高い事項は「教育」であると思う。

その背景は、タイムズ・ハイアー・エジュケーション2016-2017版によると、世界の大学ランキングで東大が39位、京大が91位という驚くべき結果があったということにある。
アジアの他の国を見てみると、シンガポール国立大24位、北京大29位、精華大35位、香港大43位、香港科技大49位と高いスコアを付けている。
「サイレント永田町」は、この実態に目を向けなけらばならないのではないか。

また、マスメディアが同様に「サイレント」であるようにも思う。
以上のようなランキングは、ニュースになり得るはずなのだが、大きく報道された記憶はない。

教育の改革なくして日本の未来はない。

視点をより広げれば、世界社会で活躍できる日本人は、現在の教育ではまず生まれないであろう。
例えば具体的には、小学校低学年に英語を教えることのマイナス面を考えたい。
小学校教員の中に、相手の目を見て英語で話せる人物が何人いるだろうか?

2017年7月5日水曜日

264:サイレント永田町

日本は現在、様々な問題を抱えている。

北朝鮮のミサイルが日本海側にある原子力発電所をターゲットにする可能性が、ゼロと言えるだろうか。
尖閣諸島で日中の武力衝突が発生した場合、トランプ米大統領は海兵隊を派遣し、犠牲者を出してまで日本を守ってくれるだろうか。
中国の大企業が日本に工場進出した場合、地域社会はどう対応するのか。
身近なところでは、小学校の英語教師の再教育をどうするのか。
議員スキャンダル、財政破綻、経済の停滞、教育改革etc…。

このような諸問題について、永田町が「では日本はどうするか」というメッセージを発しているとは、とても思えない。
マスコミについても同様だろう。
BSのあるチャンネルで「プライム・ニュース」という番組があり、これは幅広い問題を扱った質の高い番組だと好印象を持っていたが、この番組でも最近は「評論」の方向へ傾いている感もある。

繰り返しになるが、「では日本はどうするか」という問いなくして、問題の解決や状況の改善を望むことはできない。
現在の政治は、お笑い的に言えば、国運を左右するような課題に対して、「サイレント永田町」とでも言えばよいだろうか。

2017年7月1日土曜日

263:選挙って何?

東京都議選を控えて、有権者としてひとこと言わねばならないだろう。

現在、多くの日本人が政治や選挙に対してあまり関心を持たない。
しかし一方で、今日の閉塞状況を何とかしたいという人も多いだろう。

日本人が持つ問題意識を政治が取り上げ、具体的な政策をつくり、国会に諮り、現状打破のために世の中を一歩進ませるというのが本来の姿だろう。
もちろん現状は、このようなあるべき姿からほど遠い。

選挙というのは、複数の候補者の中から、個々の日本人が自分の代弁者として議員を選び、社会という組織の運営を任せる、ということであろう。
その基本的な機能がはたらいていない原因を、真摯に考える必要がある。

選挙は、複数の候補から選ぶことであると書いたが、選ぶに際して、当然ながら、候補者(選択肢)に関する情報がなければ適切に行うことはできない。

7月2日の投票日に先立ち、都民に対する選挙公報が私の家のポストに投函されたのが、選挙6日前の6月26日のことであった。
様々な個々のマニフェストめいたものは大々的に印刷されていたが、しかし、各候補がどのような実績を持ち、何を目標として都政を行うのか、ということがそこでは明確に書かれていなかった。
さらに言えば、政治家としての信条をそこから読み取ることはまったくできなかった。
書かれていたスローガンは、例えば「結果を出す」「すぐ動く。新しい東京、目黒から」。
すこし情けない気持ちになりはしないだろうか。

これに追い打ちをかけるように、先日ある候補事務所から電話がかかってきた。
「○○候補に一票を入れてください」と言うので、「その根拠は何か」と問うと、「他党に先駆けて議員報酬を20%削減しました」と応えた。
「あなたの党だけでそれを実現したのか」とさらに訊くと、「そうです」と言う(民主主義の議会でそんなことがあり得るだろうか?)。
「ではところで、それによって議員報酬はいくらからいくらになったのか」と問うと、「不勉強で、知りません」とのことだった。

以下簡略に記すが、他にも

「世帯年収760万円未満までの私立高校無償化を行いました」
「該当する世帯数はどのくらいあるのか」
「分かりません」

「それによって都が負担する総額はいくらになったのか」
「分かりません」

だらだらと書いたが、選挙運動の実態はこんなものである。

これは国政の話だが、ひと昔前にあった立ち合い演説会はなくなり、テレビでの政見発表もまったく影が薄くなってしまった。
「民意を反映する」と二言目には言う議員の方々には、民主主義の制度に関する日本人の無関心について、真剣に考えてほしい。
くれぐれも、有識者を集め、委員会をつくることにばかり終始するようなことは辞めていただきたいのだ。

2017年6月21日水曜日

262:死語の復活

ここで宗教論を持ち出すつもりはなく、タイトルは単なる語呂合わせである。
書いてみたいのは、現在は「死語」となってしまっているが、復活すべきことばや概念があるのではないだろうか、ということだ。


今日見られる、政治や社会に対する多くの国民的不満の本質に、あまり話題にもならないいくつかの重要概念が実はあるのではないだろうか。
例えば思いつつままに挙げれば、「道徳性」「正直さ」「感謝の気持ち」「誠実性」「正義感」「使命」……まとめれば、倫理的健全性(moral soundness)に関するものである。
「思いやり」「おもてなし」といった現在よく用いられている言葉だけではなく、上に挙げたものが加われば鬼に金棒だろう。
これらを「死語」というのはあるいは大げさかもしれないが、しかし近年聞かれなくなり、重要視もされなくなっていることもまた確かである。

これらの「死語」を復活させることで、日本社会も少しは良いものになるのではないだろうか。
Civilityを持った日本の本来の国民をつくることが重要である。
私の言葉で言えば、世の中の動きに関心を持っているマジョリティ(concerned majority)が力を持ち、世の中を変えていくこと。
このような願いを個人的には持っているが、いかがだろうか。

2017年6月14日水曜日

261:基準の意識されない加計問題

我々平均的な日本人が近頃不満に思っている、官邸による加計問題の本質が、いったい何かを考えてしまう。
文書追加調査の目的は、本来であれば、真実や事実関係を追及するために必要であるのでなければならないが、報道によると、「世論の批判から逃げられない」ことが根拠であるのだという。
これはいささか「おかしい」ものではないだろうか。

このいかにも日本的なreasoning(理由付け)を全面的に否定するつもりはないが、文書追加調査の目的について、整理された根拠を考えてみる必要があるのではないか。
先ほども述べたように、追加調査の目的は言うまでもなく、真実や事実関係を明確にすることであり、国民がそれをどう判断するのかということは、また別の問題である。
「世論の批判」などというあいまいな基準で官邸が動くのでは、合理的な意思決定を行うことは難しい。

判断をする根拠が何であるか、言い換えれば、判断基準は何かを意識することにより、納得性の高い結論が出るのではなかろうか。
そしてこれは政治という大きなレベルの問題であり、また同時にビジネスや日常の判断業務における問題でもあることを、意識しなければならないだろう。

2017年6月10日土曜日

260:コミー氏の米議会証言

現在話題の中心になっていることのひとつが、元FBI長官ジェイムズ・コミー氏にかかわる一連の報道であるだろう。

トランプ氏の政権維持を大きく左右するであろう米議会証言が先日あったため、私もつい中継を深夜見続けてしまい、就寝が朝の4時になってしまった。
しかし超党派の議員により、事実関係の開示、究明に長い時間が費やされ、充実した会であったように思うし、またいくつか興味深い点もあった。

コミー氏の証言や議員たちの対応において、5つほどの特徴があったように思うので、内容ではなく、その方法に注目して私なりにここに書いてみたい。

①コミー氏に事前に質問の内容が開示されていないということ。
②コミー氏が真実を述べることに躊躇をせず、同時に知らないことについては「それは私にはわからない」とはっきりと明言したこと。
言い換えれば、彼にはhonestyとintegrityあったということ。
③質問者の質問が断片的でなく、論理的シナリオのある質問であったこと。
④質問そのものが明確であり、対する応答も直接的に質問に答えるものであり、またそうでない場合は、すぐさま「それは質問に答えていない」という指摘が飛んでいたということ。
事実を隠すということに対して徹底的な追及が行われ、またここで開示できない内容に対しても非公開な場で回答をする、という対応がなされ、明確な区別が見事につけられていたこと。

もちろん日本と米国では文化の違いがあり、米国式がそのまま正しいと主張するつもりはない。
しかし一方で、人間として最も恥ずべき、事実を隠蔽するということに対して、日本人は寛容になりすぎているのではないだろうか、と証言の模様を観ていて思わざるを得ない部分もまたあった。

2017年6月7日水曜日

259:win-winの関係

現在、広く普及している語のひとつが「win-winの関係」と言われるものだろう。
私には出典はわからないが、政治家をはじめとして、多くの人が使っているのを耳にするようになった。
今回はこのwin-winということについて書いてみたい。

さて、私の友人で、家族とともにパプア・ニューギニアで20年近く暮らしていた人物がいる。
この友人の話では、パプア・ニューギニアでも部族間の対立があり、それが殺戮に発展する場合もあったという。
では、当地の部族の人々は、いったいこの殺戮にどのように対処するのだろうか。
彼によれば、しばらく戦闘が続いた後、やがて対立する部族の長老同士がひそかに会談し、戦争をやめることに決めてしまうのだという。
そして、長老はそれぞれの集落に帰ると、部族の人々に、「私たちが勝っているのだから、もう争いはやめにしてやろう」と言うのだそうだ。
結果、どちらの部族も「自分たちは勝ったのだ」という満足を得つつ、無事争いはおさまってしまうのだそうだ。

これこそまさしく、文字通りに"win-win"な解決法ではないだろうか。
だからこの"win-win"という言葉は、特別いま祭り上げるべきものでもなく、ある意味では、太古からの知恵として存在しているのである。
少なくとも私は、この挿話を驚きと笑いで受け止めた。
現代の私たちも、つい囚われがちな西洋的な発想にこだわることなく、このような人類の叡智から学ぶものがまだまだあるのではないだろうか。

2017年5月31日水曜日

258:教育という永遠のテーマ learn the use of tools

前号に述べたように、目的と手段の混同からは、創造的な結論は見えてこない。
さて現在、教育改革という大きなテーマに日本社会が直面している、といっていいだろう。

「教育」と一概に言っても、それを分解すると、幼児教育からはじまり、高等教育まで様々な段階が存在する。
そのなかでも高等教育について、現在の混迷した状況のなかで、その目的をひとことで表現できたなら、素晴しいことと思う。
アメリカの例で恐縮だが、そのヒントがカリフォルニア大学LA校にあったと私は思う。
私が同校のRoyce Hallを訪れた際、そこには以下のような文章が掲げてあり、いたく感動したことを覚えている。

"Educaton is to learn the use of tools which mankind has found indispensible."
「教育とは、人類が不可欠と判断してきた諸ツールの使い方を学ぶことである。」

ここでの"tools"とは、当然ながら日本語の「道具」のようなtangible(手に触れられる)ものに限定されていない。
それは哲学や言語や、物理の公式など、intangible(手に触れられない)ツールも、もちろん含まれているはずである。

ここで面白いのは、ツールそのものを学ぶのではなく("learn tools")、ツールの使い方を学ぶ("learn the use of tools")と明記されていることだ。
単に知識を学ぶのではだめなのだという考え方がここに見てとれるだろう。
"learn the use of tools"、これは、今日の知識偏重教育を打開するためのひとつの発想の転換になり得るのではないか、などとRoyce Hallの文章を思い出しつつ考える。

2017年5月24日水曜日

257:目的、手段、テーマ

われわれ人間の思考傾向として、あるテーマに対して、どうしても手段に短絡する傾向がある。

例えば、友人が英国に留学するということで、自分も同様に英国留学を思い立った、という事例を考えてみよう。

しかし、すぐに付け加えるならば、留学をするという行動は、あくまで何らかのテーマに対する手段であって、テーマ自体にはなりえない。
上のような事態を、「手段に短絡する」という問題として考えることができる。
では、意思決定は、どのようになされるべきなのだろうか?


上の例での「テーマ」が、「国際教養を身につけたい」というものだったとしよう。
しかしこのテーマに対して、実際には多くのチョイスが本来は考えられるはずである。
行先はアメリカ、中国、フランス……と他にも様々なものが考えられるだろうし、さらに言えば、必ずしも「留学」ということは必要でない可能性もあるだろう。

とすると、これら複数のchoiceから、最適な案を選ぶための判断基準となるものが必要になる。
これが、"objectives"(「諸目的」)と呼ばれる概念なのである。

ここで言うobjectivesには、ふたつの側面がある。
ひとつは、ある選択肢を選んで行動を実施した結果としての、期待成果。
もうひとつは、テーマに対する人、モノ、金、時間、技術etc……といった制約条件。

まずは「テーマ」を考え、そこからさまざまなchoiceを考えた上で、objectivesによって判断を下すということ。
(objectivesは、別の言葉では"criteria"(「基準」)という言葉と同義である。)
このような考え方は、提示された、あるいは思いついた手段にこだわらずに、発想の幅を広げることに役に立つ。

意思決定において、上のような手順で考え、「手段に短絡する」ことなく判断を下すことが、より良い手段をchoiceすることにつながるのである。


ただ、組織において、経験や権限を持った意思決定者が、ある手段を即座に決めてしまう、ということもあり得る。
これは、ここまでの見方では必ずしも分析的なものではないのだが、とはいえ私はこれをただ「短絡だ」と批判するだけでは不毛ではないか、とも思う。
より建設的な議論は、その手段を実施した際に、どのような結果が想定され、あるいはその結果に対してどのような対策があるのか、ということを考えることであるだろう。
「短絡だ」という判断に「短絡」しないこともまた、重要なのではないだろうか。

2017年5月17日水曜日

256:意思決定と優先順位はどう違うか

意思決定と優先順位。
このふたつの言葉は、比較的一般的に使われているものであるだろう。
しかしそれだけに、どうも両者の意味が混乱しているように思われる。
先日も、NHKの「国民の関心事」アンケートにおいて、やはりこの領域で用語の妙な混乱が見受けられ、残念に思ったものであった。

言うまでもなく、意思決定は単に「決めること」ではなく、ある目的に対して複数の案から最適なものを選ぶ"choice"という行為である。
よって、意思決定は「何を」という対象、「何のために」という諸目的、「どんなふうに」という方法、ある案を決めた場合「どのようなリスクが考えられるか」という想定…これらを設定していくプロセスを経て最終的な"choice"がなされるということだ。
原理的には、これが意思決定の工程である。

対して優先順位は、意思決定とはまったく異なっている。
優先順位とは、複数の検討目的が存在するなかで、「他に先駆けてどこから手をつけるか」の判断である。
しばしば混乱があるように思われるのだが、従って、1,2,3,4...という順番を決めることではない。
「他に先駆けて手を付ける」ものが複数あっても、それはそれでかまわないのである。

意思決定も優先順位も、共に何かを「決めること」であることには違いない。
しかし意思決定は、最適な案を決めることであり、優先順位は、直面する諸課題のなかでどこから手を付けるかを決めることだ。
簡単にまとめてしまえば、優先順位の策定の後、意思決定を行うことが、混乱のない思考プロセスなのだ。
両者は思考プロセスにおいて前後の関係にあり、よってこれらを混同することには、かなり根本的な誤りがあると言わねばならないだろう。

ここで閉じるべきかもしれず、すこし唐突かもしれないが、最後に、この両者の概念の基本的な違いを認識することによって、英語力の上達にも影響する、と指摘しておきたい。
上記のような思考のプロセスは、きわめて普遍的なものである。
つまり、外国でのビジネス等においては、多くの人々は上のような発想に基づき、思考をしているということである。
よって、日本文化圏以外の人たちと英語で会話をする際に、各々の固有の文化を超越した共通の概念規定(上の思考の型)が共有できれば、ただ英語を学ぶということよりも、さらに英会話の上達に寄与するのである。

2017年5月10日水曜日

255:対策の目的別分類

我々日本人が、世界社会で活動するために不可欠な事柄が、英語力の強化であることは言うまでもない。
国民的問題として、この英語力が一向に向上しない原因・背景をもう一度分析してみたい。
近代以降の日本において、軍事力を背景とする外交力、高度な精度を持つ工業力、といった問題は努力のもと達成されてきたが、しかし現在、世界社会のなかで活躍し、貢献するために欠けているもののひとつが、英語力=コミュニケーション力であることは、もはや自明だろう
この認識はある程度国民に共有されているようにも思われるが、それでも一向に実態が改善されない背景に何があるのだろうか。

加工されていないナマの情報を伝達したり共有することは、比較的たやすい。
これらナマの情報を加工して様々な人と議論をし、同意できる、あるいはできないものとして判断を下す段になると、コミュニケーション力が難しい問題として立ち現れてくることになる。

なぜかと言えば、コミュニケーションにおいてしばしば、基本的な概念や言葉の解釈・定義が共有されていない、という事態が起こってしまっているからだ。
例えば、幹線道路で交通事故が発生したとする。
最寄りの警察において、関係者が思いつくままに対策の概念規定を明らかにしないまま議論がはじまったとすれば、これでは解決は困難になるだろう。

さて、このように概念についての定義はコミュニケーションにおいてきわめて重要であり、これは当然英語でのコミュニケーション(英語力)にも関係することである。
これに関連して、実際に日本語で/英語で対策に乗り出そうとするとき、どのような考え方の枠組みがあればコミュニケーションが円滑に、問題なく進行するのだろうか。

そこでは、対策を目的別にきちんと分類する、ということが重要になる。
以下に紹介したい。

①暫定対策
これは、Interim Measure/Actionと呼ばれる。
交通事故の場合で言えば、二次被害を防ぐための、緊急の道路閉鎖などがこれに当たるだろう。
これは発生した事態の拡大を防ぐことを目的とする対策である。

②是正対策Corrective Measure/Action
いわゆる「抜本対策」ともいわれる。
ここでは単なる暫定的な対策を行うのではなく、問題の原因を突き止め、これを除去することが目的である。

③適用対策Adaptive Measure/Action
原因は明確になったが、しかしそれを除去することが現実的でない場合が出てくるということがある。
例えば交通事故で言えば、「道が急カーブであったため」という原因であったとしても、これを除去する(道そのものをつくりかえる、等?)のは難しいと言わざるを得ない。
そこで、「速度制限標識を増設する」「道路に凹凸をつくり、注意を促す」など、状況に見合ったかたちで対策を行うということを目的にするのが、この適用対策である。

④予防対策Preventive Measure/Action
計画の推進や日常活動に起こり得るマイナス事項(リスク)を想定し、その中でも重要なものに対して、その原因まで想定したうえで予防することを目的とする対策である。
「転ばぬ先の杖」という言葉があるが、予防対策はこれに近い。

⑤発生時対策Contingency Measure/Action
予防対策で万全だと思っていても、リスクが実際に発生してしまう、ということも残念ながら存在する。
そこで、予防対策が十分に機能しなかった場合の影響を最小化することを目的に設定するのが、この発生時対策である。
「転ばぬ先の杖」を上手く使えず転んでしまったら? ということを想定し、あらかじめケガの最小化のための対策を打っておくのがこの項目であると言える。

世界社会の活動はもとより、日常生活においても、起こりうることに対する対策が必要な場面に直面したとき、どの対策を確立するのかという発想をもつことにより、関係者の議論が噛み合うことになる。
それぞれが考え、動いているように見えて、その実想定している目的がバラバラなのではどうにもならない。
目的を確認し、いまどの対策について議論しているのか、ということを共有することが必要だ。
これは洋の東西を問わず、真である。

2017年5月6日土曜日

254:憲法改正について

1947年に施行されて以来、現行の日本国憲法は1項目も修正されていない、という事実を国民がどう考えるかということが、今日の改正問題にかかわる見方のひとつだろう。
主要先進国で、過去70年間に憲法の改定を行わなかった唯一の国が日本であり、ヨーロッパもアメリカも時代の変化に合わせ、状況に応じて改憲を行ってきた。
このなかで日本の憲法の改正を、どう考えればよいのだろうか。

主な議論のひとつは、現行の日本国憲法が、日本の主権回復以前に、つまり占領下で施行されたものであるということだろう。
1951年のサンフランシスコ平和条約締結にともなう主権回復後、日本人の手で憲法を制定ないし修正する努力はなされたが、結果としてはいまだに憲法は手つかずの状態にある。

ここで問題であるのは、憲法(改正)の内容以前に、そもそも改正という形式の問題をどのように考えるか、ということがあまり議論されていないように思われるということだ。
変える/変えないという議論ばかりで、「どこを、どのように変える」という議論が、それこそ優先順位を決め、意思決定を行う…というシステマティックなかたちで行われてはこなかった。
繰り返しになるが、内容以前の問題がまずはあるように思われるのである。

ふたつ目の話題として、国民の最大の関心事項が9条にあることは明らかだろう。
戦争のない平和国家を建設するということを固く決心したことが戦後復興につながり、それによって今日の繁栄があり、またこの平和の精神は維持し、実現されるべきものだ、と私は考えている。
もちろんこの精神を、現実のものとするためには、数百年もかかるかもしれない。
しかし、日本国憲法改定のこの時期に、国際平和に対するまったく新しい次元の平和構築に関する議論が発信できれば、日本人は世界社会に対して大きな貢献ができるのではないか。
憲法改正に関する議論の高まる昨今は、ある意味では平和についてより深く考える良いチャンスなのである。
夢物語かもわからないが、私はあえてこのように述べたい。

具体的には、国際紛争の解決に武力を用いない、という9条の重要な発想について実はそれほど論議されていないように思われることに不満を持っている。
日本が平和国家として国際紛争の解決に武力を用いないと憲法に明記しているのであれば、国際紛争解決のために、「武力による威嚇又は武力の行使」以外の方法論を世界に先駆けて考え、発信していく義務があるのではないかと思うのである。

例えばこれは一例だが、現行の国防費の一部を、非軍事目的の領域に充てるのはどうか、といったような発想を大いに膨らませてみたいということだ。
ちなみにこのアイデアは私の創作でも何でもなく、戦後日本に対するアメリカの財政支援であったガリオア・エロア資金は、実はアメリカの防衛予算から出ていたのであるという事実がある。
もちろんこれには冷戦という背景もあっただろうが、現在の視点から見れば、これは本来であれば人を殺すための予算が平和構築に用いられたという面では、極めて画期的なことだったのではないだろうか。
やや話題が逸れてしまったが、このように、少し歴史を振り返ってみるだけでも、武力に頼らない平和構築の手がかりは様々にあるように思われるのである。

現憲法の草案時に、草案者の考えのなかに、「平和国家」と「国際協調」という概念があった、と私は理解している。
憲法改正についての議論が高まる現在、単に変える、変えないといった簡単なものだけではなく、このような精神に立ち返った議論があってもいいのではないだろうか。

現首相が、憲法に自衛隊を明記すると述べているということである。
このことが日本の軍事拡張でない、というメッセージを世界に発するためにも、国民の真意を表したいものだ。

2017年5月3日水曜日

253:あなたは論理的に考えていますか? その3

下記の例題も意思決定の範疇である。
つまり、最適な方法論を選ぶというchoiceの範疇である。

<問題> 製薬会社C社は、同業他社のX社とY社が統合するというかなり信頼性の高い情報を入手した。
C社は当該2社より売り上げに勝るが、C社としても、この統合は他人事ではない。
C社企画担当役員であるあなたは、部下にどの指示を下すべきか。

A. 社内外のあらゆる手段を駆使して本件に関する情報を収集するよう指示する。
B. かねてより考慮していたZ社に統合の打診の準備をする。
C. 当社が業界上位の立場を維持できるためのあらゆる方策の検討を指示する。
D. 主要株主2社およびC社のトップマネージメントの意向を支給確認するよう指示する。




<解説
この設問は、「意思決定に際しての経営課題を設定する力」を問う問題である。
Aは情報収集の目的が明確でなく、X社とY社の統合の可能性についての結論に終始し、当社の行動を示唆することにつながらない。従ってAは正解ではない。
Bは、Z社以外の他の可能な選択肢を排除することになり、短絡的な決定になりかねない。従ってBは正解ではない。
Cは白紙の状態から客観的に現在の業界上位の立場を維持するための必要条件の分析の指示であり、Z社との統合も含めてそれ以外の複数の選択肢へと展開が可能である。従ってCは成果である。
Dについては、最適な意思決定は、決して論理的な結論からのみなされるべきではなく、真に経験がある実力者の決断力を無視するべきではない。
しかしながらこれだけでは選択肢を判断するためのひとつの条件にすぎず、客観的な判断に対してのバイアスとなる。従ってDは正解ではない。

2017年4月19日水曜日

252:頭の混乱する話

以前のブログに、Nakashimaさんという方から面白いコメントを頂いた。
そのコメントでは、日本人の発想法・思考法において、特に抽象化をする際に日本人は短絡を起こしやすいという指摘であった。
今回はこの抽象化ということについて書きたい。

学問的な定義に当たるかはわからないが、私なりに「抽象化」するということ――これは英語ではconceptualizeすることに当たると思われるのだが――を定義すると、次のようになる。
「つかみどころのない諸現象や複雑な因果関係が存在する問題の解決に混乱した際、その諸現象を、より高い次元から眺め、それらの諸本質を整理すること」
このようなものであると思う。
その代表例が、法律であり、ネットワークのシステム化などである。
ちなみにこのことは、conceptの構築とは全く別であることに注意したい。
つまり、日本語の表現では「商品のコンセプトを構想する」などという場合があるが、conceptualizeはこういったこととはまったく別の次元の発想なのだ。

日本が国際社会における役割を果たすために、英語以外にまだ学習する領域が多くある。
そのひとつが、この、ものごとを抽象化する能力であると思う。
抽象化された内容で考えている人と、発生しているさまざまな現象のみを注視する人とが会話をすると混乱し、感情問題になり、ソリューションが出てくることはない。
しばしば議論が噛み合わなくなってしまう背景のひとつには、このようなことがある。
たとえて言えば、ある案件について素人と弁護士が同じ土俵で会話することは非常に難しい。
弁護士は案件にかかわる雑多な現象を、法律という枠組みのなかでまさしく抽象化しているためだ。

日本社会を発展させるために不可欠な条件のひとつとして、ますます複雑化し、高度化する内外の社会情勢のなかで、現実を踏まえて、それを抽象化する能力をどう養っていくかということが挙げられる。
これは別の表現をするならば、問題の本質・論点を明確に押さえることでもあるだろう。
この場合、ある状況に対して本質や論点は複数ある(つまり諸本質、諸論点である)という認識が必要になってくる。
また、この能力は、結論を出すための工程を明確に示すことのできる能力でもある。
繰り返しになるが、このような抽象化の能力なくして、日本人が国際社会でカンバセーションを展開することは難しいのではないか。

2017年4月12日水曜日

251:紛争と世界秩序

世界地図を見ると、内戦や動乱が起きている地域の国境線に直線が多く見られることに気づかれている方は既に多いかと思われる。
なぜ直線の国境線となったのか。
いうまでもなく、それはヨーロッパ列強による植民地政策という、歴史的な出来事の経過に由来するものである。


ちなみにアメリカ合衆国のカナダとの国境や、50州の州境も多くは直線である。
しかしこれはまったく別の背景があるのでここでは触れない。

これまでの世界秩序は、良かれ悪しかれ、ヨーロッパの植民地政策の上に成り立っていたということは否定できないだろう。
極論すると、植民地主義に派生した諸政策がついに非現実的なものとなった結果が、今日の世界秩序の混乱であり、現在問題となっているテロもこの植民地政策のツケが回ってきていると言えるのではないだろうか。

この現状を解決するために、おおよそふたつの考え方があると私は考える。

第一は、当該地域の実態を熟知していると考えられる旧宗主国が問題解決に積極的に介入するというものである。

第二は、国際社会の有志の努力による解決を図ることである。
国際連合の安保理事国などの現行のしがらみに煩わされることなく、人々の生命や財産を危険な状態に陥れないような状況をどのように構築するのかという議論や研究が進んで行われてもよいのではないか
このような夢物語的な発想をする人間が、ひとりくらいいてもいいと思うのである。
みなさんはどのようにお考えになるだろうか。

2017年4月8日土曜日

250:解説と評論

日中のジャーナリスト会議を中心とした活動をするNPOが今年15周年を迎える。
数年前のシンポジウムにおいて、日本と中国のジャーナリストの相違について報告があり、なかなか興味深かった。

曰く、日本では中国と比較して、起きた現象を克明に、精緻に伝える傾向がある。
しかし一方で、その現象が発生した背景や原因についての言及、あるいは考えられる対応についてはあまり報道されない、という指摘があった。

このような指摘は、ある面で正しいと私は思う。
同じようなことが、トランプ大統領の前例を見ない判断や行動に対する日本メディアの報道に表れているのではないか。

それらの報道の内容は、極端に言えば、誰が、いつ、どこで、どのくらい、何をしたか、という事実確認、状況説明、それに対する論評に終始しているように思う。
これは特定のメディアに限った問題ではなく、新聞もテレビも同様である。

知的好奇心を満たすだけであれば、これだけの情報で十分だろう。
しかし、今国民が求めているのは、「では我が日本はどうするの?」という論議ではないだろうか。
単に情報のみを伝えるメディアや、情報収集と事実確認を行っています、という内閣や官庁の説明だけでは虚しいと思っているのではないだろうか。
少なくとも私はそうである。

国政を与る政治家が「評論家」にとどまってしまうことには憂慮したい。
「だから、日本はどうするのか?」という積極的な議論をしていただきたいのである。
そうなれば、国民と政治の距離が、少しは縮まることになるのではないだろうか。

2017年4月5日水曜日

249:頭の痛くなる話

日本人に限らず、人間の考え方は、ある問題や現象が起きると、結論や解決策に短絡する傾向がある。

・営業マンの成績が悪くなった。
→営業教育をしろ。
・ある組織の成績が悪くなった。
→組織改革をしろ。
・改善をしなければならない。
→同業他社を見習え。
・一部地域で不良品が報告された。
→全品回収。

他にもさまざまな例があるだろうが、どうしてもある現象に対して、結論に短絡する傾向があることを自覚したい。
これは個人にとっても組織にとっても社会にとってもコストの増大につながる。
なぜならば、短絡した結論や解決策が適切なものでなければ、さらに別の対策を打つことに、あるいは最悪の場合は別の対策を打ち続けることになってしまうからである。

東京で問題になっている豊洲市場の問題も、短絡的思考が招いた国家的ロスと思う。
これは、いくら継続して論議をしても、結論が出るものではないことを知るべきだ。
この問題に対しての私なりの回答は、簡潔なものである。
築地と豊洲のふたつの候補地のうち、耐震の状態など、現実的に考えれば豊洲を使うほかないだろう。
であれば、責任者が「豊洲にする」と政治的判断をし、その上で、豊洲に移転した場合の重大領域を複数明確にし、それらの領域に起こり得る諸問題点(計画からのズレ、突発的な現象、費用の増大など)を想定し、諸対策および費用の策定をするというプロセスを構築することが最も合理的なアプローチでないだろうか。
要は、関係者が経験に基づき、個別の問題点を主張するのではなく、あるプロセスを決めて、重点的に作業をすることが税金の無駄遣いを防ぐことにつながる。
意思決定のコストを、これ以上拡大してはならない。

2017年4月1日土曜日

248:あなたは論理的に考えていますか? その2

状況
医療関連の情報システムを開発しているA社は、大口顧客から「発注した大型プロジェクトの工期を6ヶ月短縮してほしい」旨の要請を受けた。
A社では、この要請に応えるべく、設計、営業、システム等の関連部署が会議を重ね、新しい日程が設定された。現在、関係者が集まって、この日程について詳しく検討する会議が開催されている。
責任者としてなすべき最も適切な指示を下記の中から選びなさい。

考えられる諸指示 A. 想定できるリスクをすべて洗い出し、あらゆる対策を講ずるよう各部に指示する。
B. 期限に間に合うようなスケジュールを作成できるように各部に指示する。
C. このプロジェクトに重大な影響を与えるところを確認するよう各部に指示する。
D. ブレインストーミングを定期的に行い、起こり得る問題点を明確にし、対策を講じる。

解説
リスク対応とは何かといえば、PとSのパラメータを睨みながら、リスクの顕在化(起こり得る問題現象)に際し、その影響を最小限に食い止める対策を講じることである。Pとは、Probability=発生確率、SとはSeriousness=重要度である。

A.は、リスクの重要度Sが考慮できていない。全リスクを洗い出してそれらに対策を講じることは経営資源のムダ遣いである。どのリスクが本件において重要なのかを意識すべきである。従ってAは正解ではない。
B.は単にプロジェクトの期限に間に合わせるためのスケジュールの作成を指示しているだけで、「工期を短縮することによるリスクの分析」という重要なポイントを外している。よってBも正解ではない。
C.は、工期を短縮することにより発生し得るリスクに対して経営資源を重点的に投入すべき領域を確認するよう指示を出している。よって、正解である。
D.は、ブレインストーミングの目的が不明確なため、その結果、討議が散漫になる可能性が高く、またSが考慮されておらず適切な指示とはいえない。

2017年3月29日水曜日

247:国会の予算委員会って何?

私も野次馬根性を持つ以上、呆れながらも、森友学園騒動に関する報道をどうしても見てしまう。
なぜかと言えば、どちらが言っていることが事実であるかという結末が見たいということだろう。

とはいえ、この追及を衆参の予算委員会で展開しているということについて、さまざまな国民の不満があるのではないかと思う。

ひとつは、真相を究明する方策は予算委員会以外にもあるということだ。
関係者の利害から遠くに位置する人選による4、5名などの小規模の調査委員会を立ち上げる必要がある。
つまり、当事者(学園、財務省、自民党、野党など)が関わらない人選がされた調査委員会を設置し、より客観的な調査が行われてもよいのではないか。

また、国の資源(ヒト・モノ・金・時間)が浪費されているのを見て、国民は失望しているのではないか。
予算委員会を1日開催するということだけで莫大な額の税金が費やされることになる。
現在の騒動を報道で見た国民が、この件に税金を浪費することをよしとするだろうか。

あるいは、激変する世界情勢の中で、国の最高意思決定機関がこのような優先順位の低い案件に勢力を費やしていて良いのだろうか。
このような案件に時間を浪費していては、G7を控えた現在、日本の首相が、国際社会から、自分の不始末を解決できない人物と見られてしまうことにつながりかねない。

最後に、真相究明とはいえ、この委員会の実態は、やはり与党対野党の対決にしか映らない。
この低次元のやり合いが実際に与野党間の対立であるならば、それは「党利党略」を予算委員会で展開しているに過ぎないということだ。
ちなみに党利党略とは、自分が属する政党・党派の利益と、そのためにめぐらす策略のこと、自分の目的を達成するために相手を陥れるはかりごとである(出典:デジタル大辞典)。

他にも国民が本件について不満に思うことは様々にあることだろう。
国政に預かる代議士や国会議員が傍観することなく、「主権者ファースト」でぜひ考えてもらいたいものである。

2017年3月26日日曜日

246:あいまいな分類と具体的な分類

広辞苑によると、「考える」の意味は「思考をめぐらす。あれこれと思量し、事を明らかにする。思案する」である。
また明鏡国語辞典では、「ある物事や事柄についてあれこれと頭を働かせる。思考する。特に、筋道を立てて問題や疑問を解決しようとする」となっている。
これらは、我々日本人が共通な認識として持つ「考える」ことの定義である。

日本人が国際社会で活躍をするためには、単なる語学力以外に、もっと基本的な概念のすり合わせをすることが必要になるのではないかと思う。
単純に"think"をWebsterで引いてみると、びっくりするような定義が目に飛び込んでくる。

他動詞
1. 頭の中で何かを形成すること
2. 自身の意見を持つこと、判断すること
3. 何かを信じること、推量すること、期待する
4. reasoningによって、何かを決定すること、あるいは解決すること
5. 何かを意図すること、企てること
6. 知的な集中によって、何かを(特定の状況に)追い込むこと
7. 何かを思い出すこと
8. 持続して何かを頭に浮かべること

自動詞
1. 知的機能を活用すること、頭脳を用いて結論、意思決定、推測に至ること
2. 判断すること、結論すること、決断すること、定まった意見として考えること
3. 意図すること
4. 物思いにふけること、瞑想すること、反省すること、思い出すこと
5. 推定すること

私自身、このテーマを考えていて、我々日本人の発想と西洋との違いに愕然とさせられた。
とはいうものの、Websterの辞書の定義は、ほとんどすべて日本人の「考える」ということの発想の中に存在するように思う。
ただ違いは、そのことを、具体的に、分類して意識しているかどうかの違いだけである。

2017年3月22日水曜日

245:あなたは論理的に考えていますか? その1

状況
メアンドレ社はハードディスク小型モーターを製造している。
基本部分は日本で生産し、組み立てはベトナムで行う。
大口顧客からの高度な設計要求に個別対応し、オーダー品を生産することで業績を伸ばしてきたが、一方で、ノウハウを持った優秀な技術者が退社するという問題が生じている。

実は、半年前からオーダー品のベースとなる小型モーターCSXの売り上げが目標未達になっている。価格競争、スペックともにCSXとほぼ等しいSSXは売り上げを伸ばしている。ちなみに、SSXはCSXと用途が違うため、共食いにならない。市場の変化といえば、三か月前に韓国メーカーが同じビジネスモデルで商売をはじめたことだ。
下記の項目の中から、CSXの売り上げ未達に最も関連が深いものを選びなさい。

想定原因A. 韓国メーカーの影響
B. メアンドレ社の営業力の低下
C. CSX販売部隊の有力大口顧客の個別設計要求への対応不足
D. メアンドレ者の総合的な技術レベルの低下

解説
論理的思考に基づく意思決定を行うために何か必要かといえば、それは「真の原因の究明」である。
なぜなら、ある現象が発生したときに、その真の原因を究明できなければ、有効な対策を打つことができないからである。
病気の正体がわからないまま闇雲に薬を飲んでも、効果がないのと同じことである。

A. 売り上げ未達は半年前からであり、韓国メーカーの登場以前から起こっている現象である。したがって、現在は多少の影響を受けているとしても、真の原因とはいえないので、Aは誤りである。
B. SSXの売り上げは好調であり、メアンドレ社の営業部隊すべての問題ではないので、Bは誤りである。
C. この仮説は事実関係を矛盾なく説明できる。よって正解である。
D. 技術的、価格的に同じ競争力を持つSSXが好評なので、メアンドレ社の技術力が劣っているとは言えない。よってDは誤り。

2017年3月15日水曜日

244:選択肢とは何か?

昨今の会話のなかでは、「選択肢」という言葉がしばしば使われる。
これは、国会答弁やビジネスなど様々な文脈においても便利に使われる言葉である。
この言葉は、ちょっと調べてみると、私の手元にある『広辞苑』の昭和41年第1判第20刷では、載っていない。
つまりこの「選択肢」という言葉は、現在広く使われてはいるものの、かなり新しい言葉なのである。

この「選択肢」という言葉が最近まで一般用語として使われていなかったことに驚かれる方もいるかもしれないが、日本人のあいまいな思考方式を考えれば、これは当たり前のことなのかもしれない。
私は、この「選択肢」という言葉が使われるようになったのは、1980年代から日本で活躍している米国系コンサルティング会社が、"alternatives"という単語を日本語で「選択肢」として使い始めたのではないかと思う。

さらに言えば、その背景は、例外的なことを除いて、日本語は単数形と複数形を区別しない言語であるということだ。
英語では、集合名詞などを除き、複数形を表すときに"s"を付ける。
翻って日本語では、単純に言えば、ひとつのテーブルと複数の椅子があっても、「テーブルと椅子がある」ということになってしまう。

さて、"alternative"と「選択肢」は、ともに、ある課題に対して考え得る複数の方策、手段をいうのである。
これに関しては、複数の方策・方法があるのであれば、最適な案を選ぶための判断基準のようなものが必要となるが、その話はまたにしよう。
今回は、日本語は従来、単数・複数を区別していないがため、混乱を及ぼす危険があるということを述べておきたい。
例えば、ある組織で問題が起きたときに、その責任者が「対策は何か?」と質問したとしよう。
その質問者が自身の質問を単数形か複数形か、どちらかで質問しているかの意識すらないのである。
単数形であれば、それを実施しようということになる。
複数形であれば、ある判断基準を作り、最適な案を選ぶことになる。また、もしその案を実施した場合のマイナス影響を考えて、決断をすることになる。

ことの善し悪しは別にして、我々は必要に応じて複数形の発想をすることが望ましい。


状況を複数形でとらえるということは、日本語の「理解する」という言葉につながる。
「分かる」の「分」は「分ける」という語にも使われているように、「理解」の「解」も「分解する」といった意味につながる。

日本人は無意識のうちに複雑な状況を分解して適切な解決をしてきた。
ところが、その思考過程が私から言わせると、「暗算思考」であるため、この思考はまわりに理解されづらい。
ここで言いたいことは、問題に直面したときに、適切な解決策をつくるためには、ものごとを「分けて」みるということが必要だ。

たとえば、太郎・次郎・三郎という兄弟がおり、「この子供たちの成績がよくない」という状況があったとする。
短絡的な発想をする親ならば、「3人とも勉強しなさい!」ということになるのだろう。
このように把握が抽象的であれば、対策も抽象的になってしまう。
子供たちの成績を詳しく「分けて」調査すれば、「太郎は国語が、次郎は数学の成績が下がっており、三郎に関しては問題ない」など、性格な状況を把握し、諸対策を講じることが可能となる。
状況を複数形の視点から考えること、ものごとを「分けて」考えること、これらが重要なことなのではないか。

2017年3月8日水曜日

243:国際競争力強化への一考察

グローバル人材の育成については多くが語られてきた。
国を挙げてのこの問題についての対処はかなりの進捗があったと思う。

ところで、企業存続のために外国企業の買収が盛んにおこなわれている。
とはいえ、最近の東芝の例を見ても、海外企業の買収にも様々な難しさがあるということが浮き彫りになっている。

製造業の組織をおおざっぱに分類すると、技術開発、生産技術、製造技術といったものづくりの側面と、人事、総務、購買、マーケティング、広報などの諸活動というもう一方の側面に分けることができる。
このふたつの側面を実に見事に分担し、世界企業として冠たる実績を残している日本企業が本田技研工業である。
ご存じの方も多いかもしれないが、本田宗一郎氏はものづくりに専念し、藤沢武夫副社長がマーケティング、総務、人事などの組織の運営に関する領域を担ったのである。
これは成功をおさめ、今日も世界中でこのふたつの柱での運営が続いているのではないかと思う。

さて、上に挙げた非製造領域で特に注意が必要な領域が人事である。
本社の人事部門が採用から処遇、昇進に至る権限を持っている企業は、日本以外にはないだろう。
そして多くの場合、事業部長が人事権を持つことが多いようだ。
これは、部下に対し年度内に達成すべき諸目標を合議のもとに部下と確立し、年度末にそれを評価するというシステムである。

海外に進出している日本企業の海外担当の役員は、各地域の日本人の責任者の行動はよく把握している。
しかし、国際オペレーションにおいて何か国の人たちが配下にいるかという質問に即座に答えられる人はまず少ないだろう。
そして、海外拠点における給与体系や各種の処遇なども統一されていないのではないかと思う。
こういったことは、日本企業の海外進出において障害のひとつとなるのではないか。

国際的な組織として安定成長を目指す場合、世界社会全体をカバーする統一された人事関連の制度が必要となるだろう。
なぜなら、現代のグローバルな日本企業ではすでに、企業内における国際的な人事異動が頻繁に起こっているからだ。

2017年3月1日水曜日

242:クリティカル・シンキングを考える その2

先日クリティカル・シンキングについての記事を書いたが、その後インターネットのWebloという辞書サイトでより簡明な定義を発見したので、これを続けて紹介する。

Critical thinking:
The application of logical principles, rigorous standards of evidence, and careful reasoning to the analysis and discussion of claims, beliefs, and issues.


結論を出さねばならない事案を分析・論議する際に、論理的な原則、厳密な証拠の基準、そして注意深い根拠づけを応用すること

関連して、私なりの「クリティカル・シンキング」の、日本的解釈を考えてみたい。
例えば、「筋の通った、堂々巡りの少ない、理にかなったものの考え方」とでもしたらどうだろうか。

このあたりの領域が、日本の教育ではすっぽりと欠けてしまっているという現状があるように思われる。

2017年2月22日水曜日

241:クリティカル・シンキングを考える

教育改革が必要であるという声をよく聞く。
しかし、その内容については本質的な議論がなされてきていないように思う。
文部政策においても、問題点に対して解決策に短絡することが多いのではないだろうか。
例えば「日本の国際化の促進がなかなか進まない→国際コミュニケーション力不足→英語教育に力を入れる」などの短絡的な政策はその典型である。

もっと本質的なことに関して、日本の教育制度の改革の必要性を感じている人は多く、私もそのひとりである。
一時期「論理的思考」や「クリティカル・シンキング」といった思考領域の強化が叫ばれ、多くの書籍も出版された。
しかし、これも一過性だったようで、最近はあまり聞かなくなってはいる。

しかし、そもそも「クリティカル・シンキング」とは一体何なのだろうか。
私なりに「思考」に関する調べ事をした結果、「クリティカル・シンキング」に関するいくつかの表現および解説が出てきたので、今回はこれを下記に紹介したい。

・「クリティカル・シンキングは、能動的に(actively)、かつスキルをもって(skillfully)、抽象化すること(conceptualizing)、応用すること(applying)、分析すること(analyzing)、総合すること(synthesizing)、そして/あるいはまた、観察(observation)、経験(experience)、熟考(reflection)、推論(reasoning)、コミュニケーション(communication)によって集められた、あるいはそれによって生じた情報の価値を、信念(belief)や行動(action)の指針として見極めることを行う、知的に(intellectually)訓練された(disciplined)プロセスのことである。」(マイケル・スクリヴェン、1996)
・「最も正式(most formal)定義は、クリティカル・シンキングを以下のように定義している。それはすなわち、分析(analysis)、総合(sythesis)、問題認識(problem recognition)、問題解決(problem solving)、推論(inference)、評価(evaluation)といった、意図に基づく、合理的で(rational)より高次の(higher order)思考スキル(thinking skills)の応用である。」(T. A. アンジェロ、1995)
・「クリティカル・シンキングは、思考そのものを評価する(assess)思考のことである。」(Center for Critical Thinking, 1996)
・「クリティカル・シンキングは、次のように思考する能力である。①その強み(strength)と弱み(weakness)を認識する(recognize)こと。またその結果として、②その思考を、より改善された形態(improved form)で再構築する(recast)こと。」(Center for Critical Thinking, 1996)

引用が多くなってしまったので、「クリティカル・シンキング」の重要な一側面である「論理思考(logical thinking)」についての私なりの定義を最後に書きたい。

論理思考能力(logical thinking ability)とは:直面する課題(issue)を明確にし(clearify)、結論(solution)に至る科学的(scientific)で体系的(systematic)な思考プロセス(thinking process)を構築できる普遍的な能力(universal ability to structure)

このような能力が整理されていると、相手が誰でも、どこででも、どんな状況下でも対応することができるのである。
ただ単に「英語力をつける」というだけではなく、このような「思考の型」を日本人がきちんと身につける必要があるのではないだろうか。

2017年2月17日金曜日

240:日本国憲法の無改正

ある会合で、駒澤大学名誉教授西修氏の憲法改正についての話を聞く機会があった。
西教授の話の中で興味深かったことのひとつは、さまざまな国の憲法制定年と、その後の憲法改正の回数をまとめた資料であった。
これに基づき、いくつか簡単に例を挙げたい。

・アメリカ:1787年制定。1992年までに18回改正、27か条の追補。
・オーストラリア:1901年制定。1977年5月までに8回改正。
・ドイツ:1949年制定。2015年1月までに60回改正(のべ201か条)。
・中華民国:1947年制定。2005年6月までに7回改正(うち1回は無効判決)。
・ノルウェー:1814年制定。改正は頻繁(400回以上とも。近年2014年に「大改正」)。

これらに対して、日本国憲法は、1946年制定以来、無改正で現在まで続いている。
日本での憲法改正の議論に慣れていると、海外での改正の多さに驚くのである。

西氏によると、戦後当時GHQ民生局でオリジナル・ドラフトを起草した8人と1984~85年の間に面談をしたところ、「まだあの憲法を使っているのか? 1か条も変えていないなんて!」とあきれられたという。

憲法改正反対論者の主義主張はさておき、世界情勢が激変する中で、憲法が無改正であり続けているという事態を直視する必要があるだろう。
憲法制定にどのような経緯があったにせよ、日本人が主体的に、自身で改正する必然を認めざるを得ない。
現在の憲法が普遍的なものとは言えず、これをそのままのかたちで無理に継続しようとすることは非現実的である。

2017年2月15日水曜日

239:三菱自動車と経済産業省

昨年、三菱自動車の軽自動車燃費データ改ざんが発覚し、メディアは大きくこれを取り上げた。
経営陣は責任を追及され、信頼を失った三菱自動車は日産の業務提携を受けざるを得ないという状況に陥ったことはみなさんの記憶に新しいだろう。
このとき、メディアは鬼の首をとったようにこの不祥事を取り上げ、激しく三菱自動車を攻撃した。

ところで、昨年12月26日の日本経済新聞では、経済産業省が繊維産業部門にかんする統計データの改ざんを行っていたということが、ひっそりと報道された。
読者のみなさんの中には「そんなものか」と読み過ごされた方もあるかもれない。
その他のメディアの動きに関しても、私の知るところ、日経以外でこの改ざん問題が取り上げられているところは見なかった。
しかし私は、このことを重大なマスメディアの問題として取り上げる必要があると考える。
その対象や内容が何であれ、国家が発表する統計が改ざんであったことは、国民にとってきわめて重大な関心事であるはずだ。

昨年4月30日の神奈川新聞の論説で、「報道の独立性に危機」という見出しで記事が掲載された。
これはデービッド・ケイ米カリフォルニア大教授が、国連特別報告者として日本の「表現の自由」について調査を行うために来日した際の会見を取材した記事であった。
ケイ氏は、「(新聞や出版などの)活字メディアも政府を批判する記事の掲載が難しくなってい」る、との見解を示したということだった。

現在の日本に充満する恐ろしい傾向として、「何が言われたか」ではなく「誰が言ったか」かを重要視する傾向がありはしないだろうか。
上の会見や記事において、ケイ氏は非常に重要なことを述べているのである。
にもかかわらず、この意見は大メディアには取り上げられなかった。
それはおそらくケイ氏が「有名な」人物ではなかったからである。
きわめて危険な傾向ではないだろうか。

時の権力者の言うことばかりが報道され、正当なサイレント・オピニオンが無視される現象に、我々は注視しなければならない。

2017年2月4日土曜日

238:新しい日米安全保障条約の意味

日米安全保障条約は、1951年9月8日に調印され、翌年4月28日から効力を持つことになった条約である。
この調印日は、サンフランシスコ平和条約が締結され、日本が国際社会に復帰した日でもある。
安保条約に関しては、歴史的に「防衛費タダ乗り」論といった批判を内外から受けてきた。
確かに、米国の「核の傘」のもとで我が国の安全が保障されてきたことはまぎれもない事実であろう。

このように日本の戦後処理に際して寛大であった米国は、それ故に、中国からいまだに非難されている。
背景のひとつとして、日本が戦争賠償金を中国に支払っていないという事実もあるだろう。
蒋介石が賠償支払いの必要性を論じなかったこともあって日本が中国に賠償を支払わなかったことは、現在日本ではあまり話題にならないが、重要な事実としてあったことである。
また同様に米国も日本に戦争賠償を要求しなかった。

さて、昨今の中国の台頭という現実に対して、日米安保体制の本質や目的もかなり変わってきているという実態を認識する必要があるのではないだろうか。
安保体制は日本の安全を守るためにのみ存在した条約であったが、今日では、アジア地区全体の安定と安全保障を担う条約にその意義が変化しつつあることの認識を持ちたい。
日米安保体制の本質の拡大がアジア全体の安定に及ぶのだ、という認識を日米両国はもとより、アジア諸国が共有する必要があるのではないだろうか。

2017年2月2日木曜日

237:世界秩序はどうなるのか

本題に入る前に、なぜ私のような年配者が好き好んでこのような発信をするかについて述べたい。
世の中の大きな変革期を前にしたとき、いちばん危険なことは、「仕方がない」「どうしようもない」といったように現実から目を背け、あきらめ、想像性や夢の芽を潰してしまうことだ。
悲劇はそこから始まるのである。
日本人のひとりとして、傍観することが危険であるという認識から、このブログを続けることにしたい。

ところで、米国民は民主主義という制度に則ったかたちで、ドナルド・トランプという人物を大統領にしてしまった。
これに対し言いたいことはたくさんあるが、日本人として発信したいことのひとつは、トランプ大統領が持つ国際感覚についてである。
それは、彼の日本への無知に対し、いちいち説明をして理解を求めるといった対応をとるのは建設的でないことを認識したいということだ。
日本はそれよりも、トランプ大統領の本質的な東洋に対する見方を踏まえた上で、氏に対峙する必要があるだろう。

最近の報道によると、トランプ大統領は日本を中国と同列で指弾している。
曰く、「日本と中国は、過去通貨切り下げを行い、市場を弄んだ」と言ったということである。

日本は民主主義を尊ぶ国であり、米国との共通の理念を持つ、中国とは社会体制も異なった国である。
しかし、このことをトランプ氏に理解させることは不可能だ。
したがって日本は、これを前提に米国と付き合わなければならないのである。


総理は昨年11月の会談でトランプ氏を「信頼できる指導者だ」と評した。
しかし、「信頼関係」というものはあくまで結果としてあるものである。
「信頼関係」ははじめからあるものではないということだ。
対立や利害の不一致を理性的に、知恵を以て解決した結果として、それは生じるものであることを理解したい。
対立する主張を有利に導くためには、駆け引きも必要になってくるのである。

例えば、2月1日の北海道新聞によれば、1月28日、安倍首相とトランプ氏は「日米同盟のゆるぎない姿を世界に発信していくことで一致した」ということだが、しかしトランプ氏はこの「一致」の後、舌の根も乾かないうちに、最初に挙げたような日本と中国を同一視し、攻撃する発言をしたのである。

我が総理が言う「信頼関係」では、このような状況への対応は不可能だ。
つまり現実には、緊張の連続のなかで、ソリューションを見つけるべく理性的な対応が必要なのだ。

また、安倍総理のスケジュールに関して、本年2月10日にワシントンに行き首脳会談、11日にフロリダに行きトランプ氏所有のゴルフ場でプレイを楽しむというような調整が外務省では取られているとの報道もされている。
大統領就任後、ひと月も経たないにもかかわらず、多忙な大統領がフロリダで日本の首相との「信頼関係」のためにゴルフをするということが現実的にあり得る話なのだろうか。
調整の結果について、幸運を祈ると私は述べるのみである。

ことほど左様に、新大統領のご機嫌伺い、すなわちトランプ氏が日本の立場を理解していたら……というスタンスは、追従以外の何物でもないことを認識したい。

さて、トランプ氏の中東・アフリカ7か国からの入国禁止の政策に対し、フランス・ドイツ・イギリス・カナダの首脳からの批判が出たようだ。
日本は沈黙を保っていて良いのだろうか。