2017年5月31日水曜日

258:教育という永遠のテーマ learn the use of tools

前号に述べたように、目的と手段の混同からは、創造的な結論は見えてこない。
さて現在、教育改革という大きなテーマに日本社会が直面している、といっていいだろう。

「教育」と一概に言っても、それを分解すると、幼児教育からはじまり、高等教育まで様々な段階が存在する。
そのなかでも高等教育について、現在の混迷した状況のなかで、その目的をひとことで表現できたなら、素晴しいことと思う。
アメリカの例で恐縮だが、そのヒントがカリフォルニア大学LA校にあったと私は思う。
私が同校のRoyce Hallを訪れた際、そこには以下のような文章が掲げてあり、いたく感動したことを覚えている。

"Educaton is to learn the use of tools which mankind has found indispensible."
「教育とは、人類が不可欠と判断してきた諸ツールの使い方を学ぶことである。」

ここでの"tools"とは、当然ながら日本語の「道具」のようなtangible(手に触れられる)ものに限定されていない。
それは哲学や言語や、物理の公式など、intangible(手に触れられない)ツールも、もちろん含まれているはずである。

ここで面白いのは、ツールそのものを学ぶのではなく("learn tools")、ツールの使い方を学ぶ("learn the use of tools")と明記されていることだ。
単に知識を学ぶのではだめなのだという考え方がここに見てとれるだろう。
"learn the use of tools"、これは、今日の知識偏重教育を打開するためのひとつの発想の転換になり得るのではないか、などとRoyce Hallの文章を思い出しつつ考える。

2017年5月24日水曜日

257:目的、手段、テーマ

われわれ人間の思考傾向として、あるテーマに対して、どうしても手段に短絡する傾向がある。

例えば、友人が英国に留学するということで、自分も同様に英国留学を思い立った、という事例を考えてみよう。

しかし、すぐに付け加えるならば、留学をするという行動は、あくまで何らかのテーマに対する手段であって、テーマ自体にはなりえない。
上のような事態を、「手段に短絡する」という問題として考えることができる。
では、意思決定は、どのようになされるべきなのだろうか?


上の例での「テーマ」が、「国際教養を身につけたい」というものだったとしよう。
しかしこのテーマに対して、実際には多くのチョイスが本来は考えられるはずである。
行先はアメリカ、中国、フランス……と他にも様々なものが考えられるだろうし、さらに言えば、必ずしも「留学」ということは必要でない可能性もあるだろう。

とすると、これら複数のchoiceから、最適な案を選ぶための判断基準となるものが必要になる。
これが、"objectives"(「諸目的」)と呼ばれる概念なのである。

ここで言うobjectivesには、ふたつの側面がある。
ひとつは、ある選択肢を選んで行動を実施した結果としての、期待成果。
もうひとつは、テーマに対する人、モノ、金、時間、技術etc……といった制約条件。

まずは「テーマ」を考え、そこからさまざまなchoiceを考えた上で、objectivesによって判断を下すということ。
(objectivesは、別の言葉では"criteria"(「基準」)という言葉と同義である。)
このような考え方は、提示された、あるいは思いついた手段にこだわらずに、発想の幅を広げることに役に立つ。

意思決定において、上のような手順で考え、「手段に短絡する」ことなく判断を下すことが、より良い手段をchoiceすることにつながるのである。


ただ、組織において、経験や権限を持った意思決定者が、ある手段を即座に決めてしまう、ということもあり得る。
これは、ここまでの見方では必ずしも分析的なものではないのだが、とはいえ私はこれをただ「短絡だ」と批判するだけでは不毛ではないか、とも思う。
より建設的な議論は、その手段を実施した際に、どのような結果が想定され、あるいはその結果に対してどのような対策があるのか、ということを考えることであるだろう。
「短絡だ」という判断に「短絡」しないこともまた、重要なのではないだろうか。

2017年5月17日水曜日

256:意思決定と優先順位はどう違うか

意思決定と優先順位。
このふたつの言葉は、比較的一般的に使われているものであるだろう。
しかしそれだけに、どうも両者の意味が混乱しているように思われる。
先日も、NHKの「国民の関心事」アンケートにおいて、やはりこの領域で用語の妙な混乱が見受けられ、残念に思ったものであった。

言うまでもなく、意思決定は単に「決めること」ではなく、ある目的に対して複数の案から最適なものを選ぶ"choice"という行為である。
よって、意思決定は「何を」という対象、「何のために」という諸目的、「どんなふうに」という方法、ある案を決めた場合「どのようなリスクが考えられるか」という想定…これらを設定していくプロセスを経て最終的な"choice"がなされるということだ。
原理的には、これが意思決定の工程である。

対して優先順位は、意思決定とはまったく異なっている。
優先順位とは、複数の検討目的が存在するなかで、「他に先駆けてどこから手をつけるか」の判断である。
しばしば混乱があるように思われるのだが、従って、1,2,3,4...という順番を決めることではない。
「他に先駆けて手を付ける」ものが複数あっても、それはそれでかまわないのである。

意思決定も優先順位も、共に何かを「決めること」であることには違いない。
しかし意思決定は、最適な案を決めることであり、優先順位は、直面する諸課題のなかでどこから手を付けるかを決めることだ。
簡単にまとめてしまえば、優先順位の策定の後、意思決定を行うことが、混乱のない思考プロセスなのだ。
両者は思考プロセスにおいて前後の関係にあり、よってこれらを混同することには、かなり根本的な誤りがあると言わねばならないだろう。

ここで閉じるべきかもしれず、すこし唐突かもしれないが、最後に、この両者の概念の基本的な違いを認識することによって、英語力の上達にも影響する、と指摘しておきたい。
上記のような思考のプロセスは、きわめて普遍的なものである。
つまり、外国でのビジネス等においては、多くの人々は上のような発想に基づき、思考をしているということである。
よって、日本文化圏以外の人たちと英語で会話をする際に、各々の固有の文化を超越した共通の概念規定(上の思考の型)が共有できれば、ただ英語を学ぶということよりも、さらに英会話の上達に寄与するのである。

2017年5月10日水曜日

255:対策の目的別分類

我々日本人が、世界社会で活動するために不可欠な事柄が、英語力の強化であることは言うまでもない。
国民的問題として、この英語力が一向に向上しない原因・背景をもう一度分析してみたい。
近代以降の日本において、軍事力を背景とする外交力、高度な精度を持つ工業力、といった問題は努力のもと達成されてきたが、しかし現在、世界社会のなかで活躍し、貢献するために欠けているもののひとつが、英語力=コミュニケーション力であることは、もはや自明だろう
この認識はある程度国民に共有されているようにも思われるが、それでも一向に実態が改善されない背景に何があるのだろうか。

加工されていないナマの情報を伝達したり共有することは、比較的たやすい。
これらナマの情報を加工して様々な人と議論をし、同意できる、あるいはできないものとして判断を下す段になると、コミュニケーション力が難しい問題として立ち現れてくることになる。

なぜかと言えば、コミュニケーションにおいてしばしば、基本的な概念や言葉の解釈・定義が共有されていない、という事態が起こってしまっているからだ。
例えば、幹線道路で交通事故が発生したとする。
最寄りの警察において、関係者が思いつくままに対策の概念規定を明らかにしないまま議論がはじまったとすれば、これでは解決は困難になるだろう。

さて、このように概念についての定義はコミュニケーションにおいてきわめて重要であり、これは当然英語でのコミュニケーション(英語力)にも関係することである。
これに関連して、実際に日本語で/英語で対策に乗り出そうとするとき、どのような考え方の枠組みがあればコミュニケーションが円滑に、問題なく進行するのだろうか。

そこでは、対策を目的別にきちんと分類する、ということが重要になる。
以下に紹介したい。

①暫定対策
これは、Interim Measure/Actionと呼ばれる。
交通事故の場合で言えば、二次被害を防ぐための、緊急の道路閉鎖などがこれに当たるだろう。
これは発生した事態の拡大を防ぐことを目的とする対策である。

②是正対策Corrective Measure/Action
いわゆる「抜本対策」ともいわれる。
ここでは単なる暫定的な対策を行うのではなく、問題の原因を突き止め、これを除去することが目的である。

③適用対策Adaptive Measure/Action
原因は明確になったが、しかしそれを除去することが現実的でない場合が出てくるということがある。
例えば交通事故で言えば、「道が急カーブであったため」という原因であったとしても、これを除去する(道そのものをつくりかえる、等?)のは難しいと言わざるを得ない。
そこで、「速度制限標識を増設する」「道路に凹凸をつくり、注意を促す」など、状況に見合ったかたちで対策を行うということを目的にするのが、この適用対策である。

④予防対策Preventive Measure/Action
計画の推進や日常活動に起こり得るマイナス事項(リスク)を想定し、その中でも重要なものに対して、その原因まで想定したうえで予防することを目的とする対策である。
「転ばぬ先の杖」という言葉があるが、予防対策はこれに近い。

⑤発生時対策Contingency Measure/Action
予防対策で万全だと思っていても、リスクが実際に発生してしまう、ということも残念ながら存在する。
そこで、予防対策が十分に機能しなかった場合の影響を最小化することを目的に設定するのが、この発生時対策である。
「転ばぬ先の杖」を上手く使えず転んでしまったら? ということを想定し、あらかじめケガの最小化のための対策を打っておくのがこの項目であると言える。

世界社会の活動はもとより、日常生活においても、起こりうることに対する対策が必要な場面に直面したとき、どの対策を確立するのかという発想をもつことにより、関係者の議論が噛み合うことになる。
それぞれが考え、動いているように見えて、その実想定している目的がバラバラなのではどうにもならない。
目的を確認し、いまどの対策について議論しているのか、ということを共有することが必要だ。
これは洋の東西を問わず、真である。

2017年5月6日土曜日

254:憲法改正について

1947年に施行されて以来、現行の日本国憲法は1項目も修正されていない、という事実を国民がどう考えるかということが、今日の改正問題にかかわる見方のひとつだろう。
主要先進国で、過去70年間に憲法の改定を行わなかった唯一の国が日本であり、ヨーロッパもアメリカも時代の変化に合わせ、状況に応じて改憲を行ってきた。
このなかで日本の憲法の改正を、どう考えればよいのだろうか。

主な議論のひとつは、現行の日本国憲法が、日本の主権回復以前に、つまり占領下で施行されたものであるということだろう。
1951年のサンフランシスコ平和条約締結にともなう主権回復後、日本人の手で憲法を制定ないし修正する努力はなされたが、結果としてはいまだに憲法は手つかずの状態にある。

ここで問題であるのは、憲法(改正)の内容以前に、そもそも改正という形式の問題をどのように考えるか、ということがあまり議論されていないように思われるということだ。
変える/変えないという議論ばかりで、「どこを、どのように変える」という議論が、それこそ優先順位を決め、意思決定を行う…というシステマティックなかたちで行われてはこなかった。
繰り返しになるが、内容以前の問題がまずはあるように思われるのである。

ふたつ目の話題として、国民の最大の関心事項が9条にあることは明らかだろう。
戦争のない平和国家を建設するということを固く決心したことが戦後復興につながり、それによって今日の繁栄があり、またこの平和の精神は維持し、実現されるべきものだ、と私は考えている。
もちろんこの精神を、現実のものとするためには、数百年もかかるかもしれない。
しかし、日本国憲法改定のこの時期に、国際平和に対するまったく新しい次元の平和構築に関する議論が発信できれば、日本人は世界社会に対して大きな貢献ができるのではないか。
憲法改正に関する議論の高まる昨今は、ある意味では平和についてより深く考える良いチャンスなのである。
夢物語かもわからないが、私はあえてこのように述べたい。

具体的には、国際紛争の解決に武力を用いない、という9条の重要な発想について実はそれほど論議されていないように思われることに不満を持っている。
日本が平和国家として国際紛争の解決に武力を用いないと憲法に明記しているのであれば、国際紛争解決のために、「武力による威嚇又は武力の行使」以外の方法論を世界に先駆けて考え、発信していく義務があるのではないかと思うのである。

例えばこれは一例だが、現行の国防費の一部を、非軍事目的の領域に充てるのはどうか、といったような発想を大いに膨らませてみたいということだ。
ちなみにこのアイデアは私の創作でも何でもなく、戦後日本に対するアメリカの財政支援であったガリオア・エロア資金は、実はアメリカの防衛予算から出ていたのであるという事実がある。
もちろんこれには冷戦という背景もあっただろうが、現在の視点から見れば、これは本来であれば人を殺すための予算が平和構築に用いられたという面では、極めて画期的なことだったのではないだろうか。
やや話題が逸れてしまったが、このように、少し歴史を振り返ってみるだけでも、武力に頼らない平和構築の手がかりは様々にあるように思われるのである。

現憲法の草案時に、草案者の考えのなかに、「平和国家」と「国際協調」という概念があった、と私は理解している。
憲法改正についての議論が高まる現在、単に変える、変えないといった簡単なものだけではなく、このような精神に立ち返った議論があってもいいのではないだろうか。

現首相が、憲法に自衛隊を明記すると述べているということである。
このことが日本の軍事拡張でない、というメッセージを世界に発するためにも、国民の真意を表したいものだ。

2017年5月3日水曜日

253:あなたは論理的に考えていますか? その3

下記の例題も意思決定の範疇である。
つまり、最適な方法論を選ぶというchoiceの範疇である。

<問題> 製薬会社C社は、同業他社のX社とY社が統合するというかなり信頼性の高い情報を入手した。
C社は当該2社より売り上げに勝るが、C社としても、この統合は他人事ではない。
C社企画担当役員であるあなたは、部下にどの指示を下すべきか。

A. 社内外のあらゆる手段を駆使して本件に関する情報を収集するよう指示する。
B. かねてより考慮していたZ社に統合の打診の準備をする。
C. 当社が業界上位の立場を維持できるためのあらゆる方策の検討を指示する。
D. 主要株主2社およびC社のトップマネージメントの意向を支給確認するよう指示する。




<解説
この設問は、「意思決定に際しての経営課題を設定する力」を問う問題である。
Aは情報収集の目的が明確でなく、X社とY社の統合の可能性についての結論に終始し、当社の行動を示唆することにつながらない。従ってAは正解ではない。
Bは、Z社以外の他の可能な選択肢を排除することになり、短絡的な決定になりかねない。従ってBは正解ではない。
Cは白紙の状態から客観的に現在の業界上位の立場を維持するための必要条件の分析の指示であり、Z社との統合も含めてそれ以外の複数の選択肢へと展開が可能である。従ってCは成果である。
Dについては、最適な意思決定は、決して論理的な結論からのみなされるべきではなく、真に経験がある実力者の決断力を無視するべきではない。
しかしながらこれだけでは選択肢を判断するためのひとつの条件にすぎず、客観的な判断に対してのバイアスとなる。従ってDは正解ではない。