2016年12月21日水曜日

232:真珠湾訪問と日本における慰霊

このたび安倍総理が真珠湾を訪問し、オバマ大統領と共に、戦没者に対し哀悼の意を表することになった。
これ自体は大変結構なことである。

奇襲作戦による軍人の犠牲者と原爆投下による一般市民の犠牲を同じレベルで考えてよいのかという疑問も残る。
しかしいずれにしろ、これからの日米関係の強化を考えると、ひとつの節目として評価できるのだろう。

ところで、西洋文化圏の人々と日本人の間には、戦争の犠牲者に対する姿勢に本質的な違いがあるのではないだろうか。
例えば、イラク戦争などに際しての、戦没者への米国側のどの報道を見ても、犠牲者とその家族に対し哀悼の念を表する。
これに対し、日本人の多くは、犠牲者と家族に対する哀悼の念を持ち、慰霊を行うと同時に、このような犠牲をもたらす悲惨な戦争は、二度と起こしてはならないという強い意志を見ることができる。

このことは、「戦争は必要悪だ」ともとらえ得る西洋の考え方に対し、日本ではどのような状況でも殺戮はしないという想いが強くあることを示している。
またこの平和への強い想いは、世界に発信していかなければならない。
このメッセージを世界社会に発信することが、唯一の被爆国である日本の責任ではないだろうか。

2016年12月14日水曜日

231:謙虚さと曖昧さを重んじる日本人の発想

日本人同士の間でごく自然に使われている発想が、国際社会では通用しない、あるいは不利な状況をつくってしまう、ということを我々は知る必要がある。
日本において、利益相反の調整や問題解決の場面で使われる次のような特徴的な言葉がある。

例えば、
「理解を求める」「説得をする」「お願いをする」「話し合いをする」など。
結論を先取りしてしまえば、これらの表現は相手の情緒に訴える曖昧かつ謙虚な言葉であり、こういったものは国際社会では相手にまったく通じない、ということがあり得るのである。

「理解を求める」
相手に礼をつくして状況を説明し、相手に「理解を求める」としても、相手に「理解しません」と言われてしまえば、そこで終わってしまう。

「説得をする」
十分な情報をそろえて説得にかかっても、上と同様に相手が頑迷に説得に応じず、「意見が異なります」と言う場合はどうすればよいのか
「これだけ説明してくれたのだから…」といったかたちで、同情的に反応をしてくれるということは、海外では考えづらい。

「お願いする」
これは既にそもそも対等な立場ではないという前提からはじまってしまっている。
あるいは同情を引こうとするさもしさであると取られてしまう可能性もあるだろう。

「話し合うをする」
ただ漫然と「話し合う」といったことはあまり効果的ではなく、望むような結論がでてくることは考えづらい。

上のような発想では、どうしても相手の情緒・礼儀などに訴える面があるように思われる。
(例えば日本では「誰があいさつに来たのか」といったことが重視され、「社長自ら出向いてきたのだから……」といったかたちで、相手の「面子」が配慮されるといったことがある。もちろんこれは海外では見られない。)
もちろんそういったことが海外ではまったく不必要だ、ということではない。
しかし上記のように、日本社会でごく自然に使われている表現や、その背後にある発想が、異質文化との対応において、議論がかみ合わない原因となってしまう場合があることを認識したい。

では、どのように対応したらよいか。
ここで重要なのが、論理的に考える、ということだ。
つまり、「説得する」際にも、「話し合う」際にも、これらをすべて問題解決として、何らかの結論を出す課題・テーマとして扱い、論理的なシナリオとして取り扱うという発想が必要なのだ。
テーマに対して、どういった目的で、どのようなプロセスで議論を行うのか、またそれが上手くいかなかった場合はどうするのか、といったことを、シナリオとして構築する必要があるのである。

2016年12月7日水曜日

230:北方4島返還に関する素朴な疑問

北方領土の返還は、国家の主権が問われる大問題である。
この主権がおびやかされる状況に対しては、断固たる姿勢で臨む必要があることはいうまでもない。

この大前提を踏まえたうえで、私が日ごろ素朴に疑問に思うのは、国後・択捉島に既に居住しているロシア人住民の扱いをどうするかという点に関する議論がほとんど聞かれない、ということだ。

例えばいったん実現性を度外視すれば、いくつかの対応策が考えられる。
・返還後に日本領となるのであれば、ロシア人住民に日本国籍を与える。
・返還後、すべてのロシア人住民がロシアに帰国する。
・あるいは折衷的に、住民が自身で国籍などの進退を決める、など。
素人が書くとこれくらいの発想しかでてこないが、とはいえ様々な施策が想定されることは確かだろう。

どのような対応を考えるにしろ、その結果(Consequence)がもたらす様々な状況に現実的な対策があるかどうか、ということに関しての議論は避けて通れない。
無論、永田町や霞が関では検討がなされているとは思うが、その内容をそろそろ国民に開示していただきたい。
なぜならば、どのような対応策を採るにしろ、そのためのコストは必ず、我々日本人に降りかかってくるからだ。

最後に安全保障という面に触れれば、ロシアが軍事基地を建設しているという事実に対して、我が国も対抗し、北海道に対ロシアの防衛線をつくるという愚策だけは避けたいものだ。
自国の安全保障の強化に限界があるという意識を持ち、無意味な軍拡競争に陥ることだけはしない、という姿勢を表すことこそが日本の国益にもつながると思うが、どうだろうか。

2016年12月4日日曜日

229:責任者になってその日から仕事ができる人/できない人

1993年にIBMのCEOに就任し、業績が極めて悪化していた当時の同社の経営を再建したルイス・ガースナー氏の前職は、なんと食品会社ナビスコのCEOであった。
昨日までビスケットの会社にいた責任者が、次の日にはIT企業のCEOに就任し、見事再建を果たしたのである。
このことは何を物語るのだろうか。

その昔、私がかかわった企業の社長が、次のようにこぼしていた。
ある役員を抜擢して、成長事業の事業部長に任命した。
そのとき、この役員は社長に向かって、「私はこの分野の経験知識がまったくないので、一年ほど勉強させていただきます。」といった。
事業部の責任者になり、会社から給与を取りながら勉強させてくれとは何事だ。
と社長は嘆いていた。

このことは、ガースナー氏の件とまったく対照的だろう。
つまりルイス・ガースナー氏は、着任のその日から仕事を開始する能力を持っていたのである。
そしてこの能力の本質は、ある分野についての知識や経験から生まれるものではないのである。

それは、いわゆるマネジメント力と言われるものだ。
あえて私なりに「マネジメント力」の定義をするならば、「組織にとってのプラスを伸ばし、マイナスをコントロールする能力」となる。
ごく当たり前の表現ではあるが、これはいかに環境変化に迅速に、適切に対応できるかという思考能力である。
前にも述べたが、広辞苑による「思考」の定義には、「問題や課題に出発し、結論に至る観念の過程」とある。
つまり、どのような状況に接しても、ソリューションを導き出すための思考のプロセスを構築できる能力が重要なのである。

これに関連したことで、過去に役所のキャリアを民間企業が迎えた背景には、キャリアの人間が、どのような業界であれ、直面する状況に対し、ものごとの本質を押さえ、結論を出すためのプロセスが構築できる能力に長けている、あるいはそういった訓練を積んでいる、ということがある。
適切な判断をするための考え方のプロセスは必要不可欠なものであり、このことは日本の組織全体の課題である、という認識を持っていただきたい。
日本の企業が国際社会で存続するためには、世界で通用するコンセプチュアル・スキルとしての思考様式を確立する必要がある。