2017年8月30日水曜日

274:依頼心の強い国民?

現政府の政策は、教育改革、一億総活躍、高等教育無償化、社会保障の充実など、国が提供するサーヴィスに偏重しているように思われる。
この結果として、依頼心の強い、自主的判断で行動できない、自己責任を負わない国民を育てることになってしまうのではないだろうか、と私は危惧している。

言い換えれば、国が国民に提供する政策が目につき、国民が国家にどのような貢献をするべきかを示唆するものは見えていないということだ。
以前の記事に関連させて言えば、政策が"Me First"的で、地域や社会を考えるという発想が希薄であるように感じられるのだ。


この延長線上で国防や安全保障を考えた場合、国家が国民を守るのか、国民が国家を守るのか、といった永遠の問題についても議論が必要になってくるかもしれない。

今日の選挙制度がこういった事態の背景にあるようにも思う。
選挙民の多くも、残念ながら代議士先生方が我々に何をしてくれるのかという発想が強い。
ひと昔前の国政で仕事をした代議士は、田中角栄にしろ、中曽根康弘にしろ、大平正芳にしろ、代議士として当選することを優先せず、国家のあるべき姿を考え、国政に当たってきたのではないかと思う。


ともあれ、政府の支援を期待するばかりでなく、国民が主体的に考え、行動する社会をつくりたいものである。

2017年8月26日土曜日

273:「○○ファースト」の先に何があるのか

他の国のことで恐縮であるが、先日、J.F.ケネディ元大統領の57年前の就任演説をじっくり読んでみた。
この演説は高い評価を受け、日本でも当時話題になったものだったが、あらためて読み返すと、そこにはアメリカ国民の大国としての自負と、大国であるがゆえの責任が表れており、感銘を受けた。

2017年の現在、トランプ大統領は"America First"と言い、小池都知事は「都民ファースト」と言っている。
あくまで私見ではあるが、その行きつくところは"Me First"なのではないだろうか。

もちろん"me"つまり自分が大切であるのは自明のことだ。
しかし社会があってこそ自分自身が存在するという認識に立てば、社会(you)もまたきわめて重要なものであるということに気づくはずだ。
要は、"me"(自身)、"you"、あるいは"us"という要素のバランスをどのように考えていくのかということではないだろうか。

"America First"に相対する発想は、例えば前述のケネディ元大統領のスピーチで実は既に述べられている。
... my fellow Americans: ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country.
国があなたのために出来ることを求めるのではなく、あなたが国のためにできることを求めなさい。

また世界社会に向けては、次のようにも述べている。
My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.

アメリカがあなたがたのためにすることではなく、人類の自由のために私たちが共にできることを求めなさい。


このケネディ氏のメッセージは、米国民に対するものであると同時に、自由を信奉する日本人に対するものでもあるだろう。
先ほども述べたように、"America First"や「都民ファースト」は"Me First"に向かっていく。
この"Me First"は、各々が責任ある個人として確立し、社会を構成していくような「個人主義」とも、似て非なるものだ。


「○○ファースト」という発想の限界と、その先に一体何があるのかということを私たちは考えてみなくてはならない。

2017年8月23日水曜日

272:外国特派員との会話

米国人特派員の友人との会話から、いくつか思うところがあったので、今回はそのことについて書きたい。

諸外国のメディアにおいて、日本に関する記事はますます減少していく傾向にある。
海外のメディアが日本を取り上げることが最も多かったのは、日米貿易摩擦のころ、つまり「ジャパン・バッシング」のころだった。
これをピークに、日本に関する報道は減少の一途をたどっている。

ジャパン・バッシングの次には、ジャパン・パッシングが来た。
特に外国メディアのアジア拠点が、上海、香港、シンガポールなどに移転していった。

次には、ジャパン・ナッシング。
日本など取るに足らない、という時期である。
これには、IT産業などが日本で育たなかったといったことも関連するだろう。

そしてジャパン・ミッシング。
ちょっとした挿話をすれば、ユナイテッド航空での各国のローカル時間の掲示から、日本が削除された。
詳しい友人に確認したところ、実際、ハブ空港の役割は既に東京から香港に移動したということだった。

このまま放置すれば、やがてはジャパン・ヴァニシングへとなっていくことだろう。

日本人の友人のなかには、「日本は世界社会で貢献する意思もなければ、力もない。ポルトガル化でいいじゃないか。ポルトガルなら食べ物は美味しい、自然は豊か、生活環境は良好。一世を風靡した記憶にすがらない方が良い」といったことを言う人もいる。
しかし、戦中・戦後を知る世代としては、これには一抹のさびしさを感じる。

現在の日本には国際的に報道されるべき材料が少ない。
冒頭で触れた米国人記者の友人は、内閣の閣僚のスキャンダル・退任、またそれに伴う国会の空転は、海外に報道する材料にはならない、とぼやいていた。

日本から発信するに値する、あるいは報道されるに値するニュースとは一体何なのか、国民ひとりひとりもそれを考える時期に来ている。

2017年8月16日水曜日

271:目的と手段の混同

今回はちょっとした問題を出してみたいと思う。
いささか易しいかもしれないが、挑戦してみていただきたい。

<問題>
某国政府は、年々国政選挙の投票率が低下していることを懸念している。
この状況は、地方選挙でも同様である。
選挙の投票率を上げる方法を検討するために、委員会が設立された。
「候補者に有名な女優を起用しては?」との案が出されたが却下された。
他に出た案は、選挙日の曜日の変更、選挙時間の延長、投票に対する報奨制度、3年間投票しない人に対する罰則制度などである。
選挙の投票率を上げることにつながる最も効果的な方法を以下から選びなさい。

(A) 投票率の高い他の国の選挙制度を研究して別の案を考える。
(B) それぞれの提案、特に報奨制度と罰則制度についての是非を検討する。
(C) 民主主義社会における投票の責任と権利について、国民を教育するための全国キャンペーンを行う。
(D) 解決策を検討する前に、投票率が高い地域と低い地域を選び、なぜ差があるか考える。





<解答・解説>
A、Cは、実態の把握と投票率が低い原因を確定する前に方法論に短絡していることが最善とは言えない点である。
目的と手段を混同せず、どのような諸目的をまず明確にしたうえで、それらを達成する手段を構築するべきである。

Bについては、まず上のような目的と手段の混同ということが言える。
さらに言えば、既に提示されている案の評価(「是非」)にすぎず、新しい発想につながらないという欠点がある。

問題とされている状況に対し適切な対応をするためには、当然のこととしてなぜ問題が発生しているかの諸原因を明らかにする必要がある。
これがなければ抜本的な対策とはならず、結果として暫定対策の繰り返しに陥ることになるのである。
これは、貴重な(経営・政治等の)資源の浪費につながることは言うまでもない。
よって、解答は、Dとなる。

2017年8月9日水曜日

270:日本文化にある問答

Question & Answerという表現がよく使われる。
これを日本語に訳すと、やや古い表現かもしれないが、「問答」ということになるだろう。
この問答という概念について、少し書きたい。

たとえば「問答歌」という和歌のジャンルも存在しているように、この概念は日本文化において決して新しいものではない。
ところが最近の知識中心教育の結果、問答不在の社会が形成されてしまった。
現在の多くの日本人は、できるだけ論議をすることを避け、人の意見に同調するなど、意味ある「問答」がなかなかできない。

この状況において出てくる具体的な課題は、まず質問をする力を付けるということであろう。
質問の目的が、情報を収集することや、ものごとの根拠を確認することなどとしても存在し、必ずしも責任を追及したり、相手を窮地に追い込むために質問をするわけではないのだ、ということをまず認識しなければならない。
たとえば国会の予算審議のテレビ中継を見ているときなど、強くそのように感じる。
質問はコミュニケーションにおいてきわめて重要であり、またそれは人格攻撃といったこととはまずは別のこととして考える必要がある。

翻ってAnswerということは、ひとことで言えば相手の質問に情報や根拠を提供することである。
また同時に、自身のOpinion(意見、見解)を形成し、開示することでもある。

質問することも答えることも、それぞれに大事なことなのである。
そして繰り返すが、それは本来「問答」という言葉で日本文化のなかにきちんと存在していたものだ。
「問答」という日本文化にある知恵を、いちど原点に戻って見直す必要があるのではないか。
特に、教育改革を論じる場面では、そのことを強く認識してほしい。

2017年8月2日水曜日

269:一見まじめ・本質ふまじめの人たち

これは経営やマネジメントに属する領域かもわからないが、世界のリーダーたちの最近の行動と、彼らの周囲にいる人材を見ていると、「人を見る目」について考えてしまう。
学問的な根拠などがあるわけではないが、人の分類について、個人的には四つの分類があるように思う。
それは、①「一見まじめ・本質まじめ」②「一見まじめ・本質ふまじめ」③「一見ふまじめ・本質まじめ」④「一見ふまじめ・本質ふまじめ」の四つである。
このなかでも特に問題となるのが、②「一見まじめ・本質ふまじめ」の人々である。


②「一見まじめ・本質ふまじめ」の人間が影響を及ぼす組織・会社・国といったものは、不幸である。
森友・加計学園などのスキャンダルの舞台裏にいる人たちの多くは、このような②「一見まじめ・本質ふまじめ」の人々なのではないかと思う。
つまり、表の顔はいかにも善人に見せかけながら、裏でろくでもないことをしている人々のことである。
このような人々が政治を動かすような社会は、ますます劣化していくことだろう。



ちなみに、①「一見まじめ・本質まじめ」の人々は、意外に社会で上手にやっていきづらいところがあるかもしれない。
まじめの定義はもちろん難しいのだが、こういった人々は学者や聖職者に該当するだろう。
しかし、このような①「まじめ・まじめ」の人々が②「一見まじめ・本質ふまじめ」の人々に利用されるような場合、これもまたきわめて不幸な事態であるし、社会全体の生産性も落ちていくこととなる。

④「一見ふまじめ・本質ふまじめ」の人々に関してはどうしようもないのだが、しかし社会にはこういった人物もいる以上、上手くやっていく必要があるだろう。


反対に、理想的なことを言えば、③「一見ふまじめだが、本質はまじめ」な、柔軟で、信念を持った構成員が多い組織こそが、安定した、発展性のある社会に結び付いていくように思う。