2015年5月29日金曜日

110:NPT最終文書案

平成27年5月23日付産経新聞の記事で、NPT(核拡散防止条約)最終文書案をめぐる交渉についての報道がされました。
見出しでは「中国 歴史で押し切る」、「『想定外』 日本、苦しい交渉」とありました。


日本はこの文書案に、広島・長崎へ世界の指導者の訪問を促す文言を盛り込もうという動きだったようですが、中国の軍縮大使の「日本は戦争の被害者の立場を強調している」という予期せぬ批判に遭い、結局この文面は削除されてしまった、ということでした。
「被爆地訪問」は「被爆した地域の経験を直接共有する」といったような後退した形で一応は文書案に残ったようですが、核廃絶問題にまで歴史認識を絡めるという中国の行動に日本側は苦戦した、ということでした。


この中国代表の発想は、犠牲になった被爆者や負傷者の立場を冒涜していると私は思います。
なぜならば、原爆の被害者が、加害者である米国に対して謝罪や賠償を要求した事実は聞いたことがないからです。


唯一の被爆国である日本が、核の拡散防止に対して平和を愛する国民としての発信にもっと工夫が必要であると感じました。
この日本の発信が、より説得力のあるものになったら、と思います。


その背景として、上記のように、日本は米国に対して、謝罪や損害賠償を要求していないという事実を重く考えたいものです。

2015年5月27日水曜日

109:21世紀構想懇談会

この懇談会の正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」というなんとも長たらしいものですが、この会議はすでに5回開催されたとの報道がありました。


この安倍総理の戦後70年談話を発信することについて、世間では意見が分かれています。
色々な意見が出ましたが、しかしひとまずこの談話が行われることは確実だと思われます。


そこで重要なのは「談話の目的は何なのか?」ということです。
それは下記のような項目ではないか、と私は考えます。


①日本の人たちが真に世界平和に貢献したいと思っていることが伝わること
②非西洋文化からの世界社会への平和に関する斬新なメッセージであること
③日本国としての尊厳が高らかに掲げられること
④多くの人たち(国内外)から賛同が得られること
⑤日本国としての世界社会における役割が具体的に表明されること


一人の日本人として、今回の安倍談話がどのようなものになるか、ということに大変関心がありますし、ぜひともそれが「さすが日本!」と呼ばれるようなものであってほしいのです。


内容については、この懇談会が提示し、最終的には安倍総理が策定することになるのでしょうが、それが、これまでにない格調の高い、上に挙げたような項目を達成できるものになって頂きたいと思います。
そして、唯一の被爆国であるからこそ、「平和とはなんであるか」「防衛費の使い道はどうするか」について全く新しい次元の、未来を見据えた発信してほしいのです。


このような内容を反映した70年談話となることを望みます。
なお、この件については継続して具体的な考え方を発信したいと考えています。



2015年5月22日金曜日

108:旧帝国陸軍の亡霊

旧帝国陸軍の参謀会議において、次のような会話があったとしましょう。

とある参謀Aが、作戦計画の発表を行っています。
これは彼の優秀な部下が作成したもので、彼自身も非常に自信を持っています。
しかし、別の参謀Bが「作戦計画のこの部分に問題はないか?」と問うたとしましょう。
するとAはにわかに感情的になり、「私の計画にケチを付けるのか!?」と怒り始めます。
B「問題が起きたらどうするのだ」
A「総力を結集して当たる」
B「その総力が突破されたらどうするのだ」
A「その時は私が腹を切るから大丈夫だ」
…………

これはほとんど笑い話みたいなものですが、一概に馬鹿にできるものでもないでしょう。
日本の組織文化の中に、潜在的にこのような発想が残っているのではないかと危惧します。

こういう状況を改善するためには、上長が、部下からある案を提示されたときに「君、問題なくできるね?」とか「大丈夫だね?」といった質問は、安易なものでしょう。
その代わりに「この案の問題点はどこか」「それらに対して手は打ってあるのか」といった発想が有効です。
なぜなら、将来起こりうるリスクを予め想定し対策を用意しておく、という考えを示唆しているからです。

上に挙げたような古い考え方は、グローバルに通用するものでないのは自明であります。
日本人はそろそろこの「亡霊」を追い払うときではないでしょうか。

2015年5月20日水曜日

107:日本は韓国を植民地としたのか

昨年2014年の9月にスコットランドにおいて、いわゆるイギリス連邦から独立を行うか否か、という国民投票が実施されました。
結果としては、僅差で独立反対が過半をしめることになった、ということです。

これに関連するかもしれませんが、1910年の日韓併合に際して「併合」は「植民地化」colonizeではなく、「アネクゼーション」annexationという用語が使われたようで、日本が韓国を「植民地化」したということがいつごろから言われるようになったのか、と不思議に思っています。

スコットランドがイングランドの植民地ではなかったように、韓国もまた、日本の「植民地」であったとすることは、用語上ズレが生じるのではないでしょうか。

「植民地化」と「アネクゼーション」というのは、また別の概念であるでしょうし、日本の韓国進出が果たして「侵略」invasionなのか、という点などと同様に一度考え直してみる必要があるのではないか、と思うのです。
このことに限らず、語の定義というのは非常に大事だと考えます。

2015年5月13日水曜日

106:ハコモノと知的ハコモノ

一時期「ハコモノ」つまり、国や地方自治体の建てた美術館・体育館・多目的ホールなどの建物の建設が流行りましたが、結局美術館に展示する中身はなく、多目的ホールのパイプオルガンを演奏する人はいない、ということです。
これは当然、税金の無駄使いだ、と批判されました。


ところが、最近気になるのが、やたらと「学識経験者・知識人・専門家」を集めた識者による会議を立ち上げ、それによって政策が構築される、という現象がやたらと目に付くことです。
これらの会議の模様をテレビ等で垣間見ると、2,30人の「識者」と呼ばれる人がロの字型の席におさまり、分厚い資料を前に「会議風の風景」をつくっているところしか分かりません。


果たして、このような方式で建設的な意見が出るのか、ピンポイントに絞った議論ができるのか、というのは疑問です。
これらの会議を、私は「知的ハコモノ」と呼びたいと思っています。


「ハコモノ」の税金の無駄以上に、「知的ハコモノ」は、結論が不適切であればその影響が大きいのです。
それは、目に見えない形で社会に影響を与えるのではないか、と危惧しています。


この無駄を防ぐ解決策の一つは、有識者や専門家を4,5人のグループに分け、2,3日カンヅメにし、それによって出た結論を全体の討論の場に上げてみたらどうだろうと思います。


みなさんはどう思われるでしょうか?

2015年5月9日土曜日

105:国益か公益か

どこの国でもそうでしょうが、自国民の利益・財産を守ることを「国益」と理解しているでしょう。
しかし私がわからないのは、「国益」と言う一方で、「世界平和」ということを同様にどこの国も言っていることです。
このことはもちろん、大変結構なことだと考えます。


しかしこれらは、時として対立する概念ではないでしょうか?
現実に、「公益(世界平和・紛争解決など)」のために「国益」が犠牲になっている事象は多く存在するでしょう。
このあたりの関係を識者にもっと研究してもらいたいと思うのです。
ただ言うまでもなく、これからは「公益」が優先する時代に向かっていることは間違いないでしょう。


集団的自衛権についての法整備をせずに、つまり国会での支持を得ないまま、安倍総理は閣議決定を行い、米国でのスピーチで公約を行った、という報道に関して、民主・共産党などは強く批判しています。
確かに問題はあるのでしょうが、「国益」よりも「公益」が重要となる今、この法案はぜひ通すべきではないか、と私は思うのですが、間違っているでしょうか。

2015年5月6日水曜日

104:対策の目的別分類

世の中では、問題が起きると、対策を講じることを考えます。
しかし、この対策を講じる目的を意識する人はあまりいないのかもしれません。




実は、経験的に分類すると、5つになると思われます。


①暫定的な対策
これは、発生した問題の拡大を防ぐための対策です。


重要顧客から製品クレームが発生したとします。
その場合の暫定的な対策は、「とりあえず責任者が相手先に謝罪し、再発防止を約束する」ということでしょう。


②抜本的な対策
この目的は、問題発生の原因を除去することにあります。
従って、適切な原因が究明されなければ、この対策は打てない、ということです。


③適応対策
これは、''adaptive action''と言われ、原因が明確になったが、それを除去できない場合に採る対策のことです。


魚屋の売り上げが下がってきたとしましょう。
原因は、近隣にスーパーマーケットが進出したためです。
「抜本的な対策」はこのスーパーを除去することですが、それは不可能です。
そこで、「商売を替える」とか「マンションを建てる」といった別の対策を打つ、というのが「適応対策」です。


この対策の目的は「サヴァイヴする」ということになるでしょう。


④予防対策
この目的は将来起こりうる潜在的な問題の発生を未然に防止することにあります。
「未然に防止する」には、その潜在的問題の発生原因を想定しなければなりません。
その発生原因を除去するのが、この「予防対策」であります。


たとえば火災への対策であれば、「火の用心」というものがありますが、その本質は、火災の潜在的な原因(タバコの火・漏電などなど)に気を付け、これをできるだけ除去するということです。


⑤発生時対策
これは、「予防対策」を打ったが、万一問題が発生したときの影響を最小化するための「あらかじめ打っておくべき対策」のことです。


火災の例を続ければ、スプリンクラーや非常口、消化器など。また火災保険もこの例に入るでしょう。
対策の打ち方はハード面だけではない、ということです。


前半3つの対策は、問題が発生した後に採る対策です。
傾向としてこの3つを混同して考えるから混乱を起こすのだ、と述べておきたいです。
また後半2つの対策は、将来に起こりうる問題に対する対策であって、キーワードは「予め講じておく」ということでありましょう。
火事が起きた後に火災保険に入っても仕方がない、ということです。


目的を意識した対策の立て方の重要性がお分かり頂けたかと思います。







2015年5月2日土曜日

103:安倍総理の米国合同セッション

先日の安倍総理の米議会における演説についてコメントする立場にあるわけでもありませんが、日本が米国と「対等になる」とはどういうことなのか? について私見を述べたいと思います。


1989年に光文社から、石原慎太郎氏・盛田昭夫氏(当時のソニーの副社長)により書かれた「『NOと言える日本』」という本が出版され、ベストセラーになったことがありました。
その背景には、おそらく、日本がアメリカの言いなりになっていた状態へのフラストレーションがあるでしょう。


当時の私は、「NO」ではなく「代案(alternative)が言える日本であってほしい」ということであろう、という解釈をしました。
前にも述べましたが、日本語は単数形と複数形を意識した言語ではないので、このようなタイトルになったのだろう、ということです。


本来は、相手の申し出に対して、「NO」ではなく、日本としての代案を出せる関係が望ましいのではないでしょうか。


また、別の切り口から考えれば、日本は相手に「理解を求める」ことが多すぎはしないでしょうか?
「外務大臣が米国へ赴き、ある案件について相手の理解を求めた」というような報道をよく耳にするように思います。


「理解を求める」というのは、対等な関係ではないと考えます。
日本社会では相手から「理解を求め」られれば、それに失礼のないように対処するのが常識であるでしょうが、このようなやり取りは外国では通用しません。
本来であれば、「協議をした」「要求を出した」などといった動詞で終わるべきでしょう。


「対等」というのは、単純な力関係や経済力・軍事力の多寡ではなく、相手の提案に対し堂々と代案の提示ができること、あるいは人間としての根幹にかかわる発想ができてはじめて成り立つものではないか、と私は思うのです。


例えば、学生が生徒の間は先生のことを「教授」などと呼ぶわけですが、ある程度時間が経過し、学生たちが社会人となると、お互いをファーストネームで呼ぶというようなことがアメリカではあります。
このような関係を「対等」というのではないか、と思うのです。
「理解を求める」にも見られるように、日本人は妙に卑屈になり、相手に対し萎縮してしまっているように思います。


安倍総理は先日の演説を「希望の同盟」という言葉で締めくくりましたが、この内容をきちんと具現化する、というタスクが残ったのではないか、と思います。
この具現化に際して、上に挙げたような「対等さ」が入ってくれれば、と私としては考えております。