2015年5月2日土曜日

103:安倍総理の米国合同セッション

先日の安倍総理の米議会における演説についてコメントする立場にあるわけでもありませんが、日本が米国と「対等になる」とはどういうことなのか? について私見を述べたいと思います。


1989年に光文社から、石原慎太郎氏・盛田昭夫氏(当時のソニーの副社長)により書かれた「『NOと言える日本』」という本が出版され、ベストセラーになったことがありました。
その背景には、おそらく、日本がアメリカの言いなりになっていた状態へのフラストレーションがあるでしょう。


当時の私は、「NO」ではなく「代案(alternative)が言える日本であってほしい」ということであろう、という解釈をしました。
前にも述べましたが、日本語は単数形と複数形を意識した言語ではないので、このようなタイトルになったのだろう、ということです。


本来は、相手の申し出に対して、「NO」ではなく、日本としての代案を出せる関係が望ましいのではないでしょうか。


また、別の切り口から考えれば、日本は相手に「理解を求める」ことが多すぎはしないでしょうか?
「外務大臣が米国へ赴き、ある案件について相手の理解を求めた」というような報道をよく耳にするように思います。


「理解を求める」というのは、対等な関係ではないと考えます。
日本社会では相手から「理解を求め」られれば、それに失礼のないように対処するのが常識であるでしょうが、このようなやり取りは外国では通用しません。
本来であれば、「協議をした」「要求を出した」などといった動詞で終わるべきでしょう。


「対等」というのは、単純な力関係や経済力・軍事力の多寡ではなく、相手の提案に対し堂々と代案の提示ができること、あるいは人間としての根幹にかかわる発想ができてはじめて成り立つものではないか、と私は思うのです。


例えば、学生が生徒の間は先生のことを「教授」などと呼ぶわけですが、ある程度時間が経過し、学生たちが社会人となると、お互いをファーストネームで呼ぶというようなことがアメリカではあります。
このような関係を「対等」というのではないか、と思うのです。
「理解を求める」にも見られるように、日本人は妙に卑屈になり、相手に対し萎縮してしまっているように思います。


安倍総理は先日の演説を「希望の同盟」という言葉で締めくくりましたが、この内容をきちんと具現化する、というタスクが残ったのではないか、と思います。
この具現化に際して、上に挙げたような「対等さ」が入ってくれれば、と私としては考えております。

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