2015年12月26日土曜日

159:日本国憲法改正

平和安全法制が議会を通過し、来年3月に施行されるということだ。
政府が次に持ち出す案件のひとつは、いうまでもなく憲法改正であろう。
私は憲法の専門家ではないけれども、第9条については大きな関心を持っている。


最新の(平成24年度の)自民党改憲案の9条を下記に参照する。


日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。 
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。 

 
下線を引いた部分が、変更部分である。
上記は現行の憲法9条と本質においては不変である、と私は思う。
平和憲法の精神は、不動であると解釈してもよいだろう。


ここでいくつかのことを述べたい。
まず、憲法改正に反対の立場の人々は、上記のように、9条の変更が細かいものであること、またその平和憲法の精神は変わっていないことを理解しているのだろうか。
ヒステリックに反対を唱えるのではなく、どこが、どのように変わり、そこにどのような問題があるかもしれないのか、ということを冷静に議論しなければならない。
そこで、もう少し続き(改正案で付け加えられた部分)を見てみよう。




9条の2。



我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮権者とする国防軍を保持する。

  1. 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
  2. 国防軍は、第一項の規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
  3. 前二項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
  4. 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。
また9条の3は以下。
国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。
だらだらと引用してみたが、9条の3が意図する真意がよく理解できない。
「国民と協力して」とは、いったい何を意味するのだろう。
私は改正に基本的には賛成だが、その細かい内容についてはまだまだ議論の余地があるように思う。


上に述べたように、あくまでも平和憲法の精神は維持されている、とわたしは考えている。


国際紛争の解決する手段としては武力の行使等を用いない、という崇高な発想は、唯一の原爆被爆国であるという背景も持つ我が国の憲法にふさわしいと思う。
ただし議論をさらに一歩踏み出すなら、ここで私たちが突き付けられている課題は、武力の行使を放棄するのであれば、国際紛争を解決するための、平和的な手段を開発する必要があるのではないか、ということだ。
国際紛争は必ず起こるものだ、という現実から逃避はできない。





2015年12月23日水曜日

158:民主主義とジャーナリズム

民主主義社会において、ジャーナリズムの占める位置づけと責任が重要なものであることは言うまでもないだろう。
民主主義は“choice”を前提としている。
選挙行為の本質が、複数の候補者から有権者が国政を委託する人物を選ぶことであるのだから、ジャーナリズムはふたつの重要な情報を有権者に提供する責務があることになるだろう。
ひとつは、直面する社会情勢の中でどのような基準をもって候補者を選ぶかという情報。
もうひとつは、候補者自身にかんする情報。
特に、後者の情報がなければ、選挙民が候補を選ぶことは困難になる。
具体的に言えば、候補者がどのような社会とのかかわりあいを持った人物なのか、また、どのような政治信条を持つ人物なのかについての正確な情報がなければ、選挙そのものがいびつなものになってしまうのではないだろうか。


情報発信を担うマスメディアに期待されるところは大きいのである。
また欲を言えば、事実関係のニュース(「だれが・どこで・いつ・なにを・どの程度、等」)以外に、事件や案件の本質・動機・背景等といった「なぜ」にかかわる問題も知りたいのが、私たちの関心である。



2015年12月16日水曜日

157:国務大臣の更迭理由

12月6日の産経新聞のトップ紙面は、高木復興相の政治資金問題であった。
国の経営を司る大臣のスキャンダルの報道を見るたびに、一般国民は情けない思いをすると同時に悲しくなる。


私企業において、役員にかかわる不透明な資金の流れが発覚すれば、その役員が退任してひとまずは一件落着となるだろう。
この単純なことを政治の世界に期待することができない背景には、何があるのだろうか。


この記事によると、更迭検討の理由として「復興政策で遅れが生じ、来年夏の参院選挙に悪影響が出かねないとの懸念」とあった。
このことが更迭の理由であるという発想には、納得できないものがある。
国の経営が主体ではなく、選挙に勝つことを重要視する発想を疑問に思う。


政治家の皆様方、選挙や国からの政党助成金の獲得に時間を割くことも必要とは思いますが、ほどほどに願いたいものです。
また、マスメディアの皆さんも、閣僚の更迭の理由が選挙がらみだという報道も、一般市民には納得しがたいものがあることを理解いただきたいと思うのです。

2015年12月12日土曜日

156:お雇い外国人

多くの方々がご存知のように、維新後の明治政府は「お雇い外国人」を登用した。
これらの記録は、横浜市にある、横浜開港資料館で多く公開されている。
日本の近代化は、これらの外国人に負うところが多である。


ところで、現代の「お雇い外国人」成功事例は、カルロス・ゴーン日産自動車社長に見ることができるだろう。
ちなみに、あまり知られてはいないが、ゴーン氏はひとりで乗り込んだわけではなく、約20名のエキスパートを連れてきたと聞く。


色々と批判はあるが、ゴーン氏のおかげで日産自動車が消えてなくなってしまうことが防がれたという事実は認めざるを得ないだろう。
行政改革が遅々として進まない状況を打破するためには、この際、お雇い外国人の採用、といったような思い切った発想の転換が必要かもしれない。


日本の組織にある先輩・後輩のようなある種のしがらみに囚われずに、客観的な人事政策が実現できなければ、組織の改革はおぼつかないだろう。
この発想は、必ずしも西洋の人間を称揚するものではない。
アジア系などの人間でも全くかまわない。
要は、多国籍でのオペレーションに関して実績を持ち、環境変化に適切に対応できる人物であればよいということである。

2015年12月5日土曜日

155:「誰が」と「何が」

洋の東西を問わず、知名人・有名人の発言が重要視されることはごく自然だろう。
(ここで言う有名人とは、いわゆる“big name”や“public figure”、つまり著名な人物や公的な人物のことを指す。)


この有名人が一流の人物であれば問題はないが、ただ名前が知られているということだけでは困る。
マスメディアはセンセーショナリズムの延長線上で情報を発信すること以外に、ジャーナリズムとしての使命があるのではないか。
これは、私なりに考えると、社会や読者・視聴者に真実を報じるとともに、警告を発し、問題意識を喚起すること、またものごとの本質について論議を促進するような役割を果たすことが重要ではないか、ということだ。


一般国民の声、意見、提案がマスメディアで取り上げられる場面というのは「投書欄」くらいだろう。
そして、この「投書」という概念がいかにも日本的であると思う。
「投書」は「親書」と異なり、返書を期待しないものである。


私の経験を申し上げると、かなり前に乗用車を購入した際、納車された車のブレーキ液がほとんど空の状態だったことがあった。
そこで、製造メーカーの社長に、親書を送り、「これは親書であるから、ぜひ文書でご回答頂きたい」と書いた。
無視されたため、数週間後、督促の手紙を出した。
すると、広報部門の責任者が、菓子折りを持って訪問してきたのだった。


このように、日本では、大衆の人間が大きな組織の責任者に親書を書いて送っても、反応はないのである。
ところが、著名人の発信は、これをすぐにマスメディアが取り上げる傾向にあるのではないか。
極論をすれば、内容がどうあれ、取り上げられることになる。


日本では、「誰が」言ったのか、ということが重要視され、「何が」言われたのかということには注意が払われないように思われはしないだろうか。
欧米がすべて正しいとは言わないが、新しい発想に関する意見をメディアの編集長に送れば、取り上げられる可能性があり、それが社会正義につながるという認識を持ちたい。
我が国においても、革新的な意見や提案が新聞の「投書欄」という片隅に追いやられることなく、価値ある市民の声が反映されてほしいものである。
「誰が」でなく、「何が」が重要なのだ。

2015年12月2日水曜日

154:立会演説会

立会演説会
選挙運動の一方法で,公職の候補者が一堂に会して行われる演説会。公職選挙法は,衆議院議員参議院(地方選出)議員および都道府県知事の選挙については公営立会演説会を行うことを義務づけていたが,聴衆の数の減少等の事情により,1983年の法改正で廃止された。


上記はインターネット辞典、マイペディアからの引用である。
聴衆の数の減少が演説会の廃止の原因のひとつとされているが、今日ほど立会演説会の復活が望まれている時はないのではないかと思う。
選挙区別に、立候補者が選挙民の前で自身の主義・主張や政治信条を堂々と討議する場面があってこそ、選挙民は主体的な判断により候補者を選ぶことができるのではないだろうか。


テレビ・ラジオによる所信表明演説の影が薄くなってきている。
国政選挙において、都市部の有権者が支持政党を持たず、またこれが持続しているという現象もある。
この無党派の選挙民を選挙に参画させることが、健全な民主主義が機能するひとつの条件となるのではないかと思う。
そのためには、1983年に廃止された立会演説会を、この際復活させてもらいたい。
仕事を持った人が参加できるような時間帯や場所を選べば、会場がいっぱいになるのではないかと思う。
また有権者も、万障を繰り合わせて、自分が政治判断を委託しようとしている人間を選ぶのだという責任感を持ちたいものだ。