2015年3月28日土曜日

93:中国が提唱するAIIBその2

前回の続きの内容ですが、今回は、「なぜ中国がいま、AIIB構想を打ち出したのか」という、中国の目的について考えてみたいと思います。
筋道を通して「論理的」に考えれば、次のようになるでしょう。
それは①何のために②何を③どうするが明確にされていなければなりません。
この場合の「何のために」は「アジアのインフラ整備を促進するために」、「何を」は「最も効率の良い方策を」、「どうする」は「策定する」ということになるでしょう。
これがテーマとなります。

このようにテーマを設定すると、方策として、次のようなことが考えられます。
①既に存在するアジア開発銀行の投資国を増やし、投資額を強化する
②経済発展を果たした中国が投資国の側として参画する
③世界銀行による投資の強化
④日本による投資額の強化
AIIBの設立
等の方法論を生み出してそれらの中から最適なものを選ぶこと、そして選ぶための基本的な基準について関係者の合意を得ておくこと、これが重要でしょう。
基準として考えられることには、例えば「投資効率が飛躍的に期待できる」「特定の国の政治的な意図が入り込まない」「受益国の希望がより大きく反映される」などが考えられるでしょう。

あるテーマに対して、複数選択肢を発想し、Binary(二者択一)の状況を避けることが賢いやり方です。
この場合で言えば、AIIBに日本が参画するか否かという状態を避けるべきではないだろうか、と思うのです。
そうでないと、日本は周りの顔色を見ながらものを決めるという、全く自信のない国に成り果ててしまうのではないでしょうか。

2015年3月25日水曜日

92:中国が提唱するAIIB その1

最近中国が発案したAIIBという国際金融機関が一部の話題になっています。

相変わらずのことでありますが、日本の対応には主体的な・自主的なスタンスは残念ながら見ることはできません。
つまり、周辺の動きを見ながら我が国のスタンスが決まるようだ、ということです。
ある国が賛成すれば日本も同調する、というような姿勢は、過去70年変わっていません。
その証拠に、このAIIBにイギリスやフランスが加盟を表明し始めると、我が国も加盟の検討を始めてもよい、という報道がなされています。

このような内閣やマスメディアをはじめとする日本の姿勢は、現象として見て「日本はアメリカの言いなりだ」という風に取られてしまうものでしょう。
本質的な問題は、ある事態に対して日本がどのような対応をするかを主体的に確立し、それを発表し、もし必要があれば後日変更しても構わない……ということです。
日本の役所は、変更することが現実的である、ということを認めても良いのではないかと思うのです。

この「言いなり」発想の本質はどこにあるか、それは占領軍時代の日本政府の発想に原点があるのかもしれません。
仮に、「非現実的」な政策が占領国から提示された場合、「無視する」「その案のナンセンスさを説明する」「理解を求める」「妥協する」などといったことが考えられるでしょう。

非日本的な発想では、これらの選択肢は「ヨコ」のものなのです。
つまり、ひとつのものを選んだら、とにかくそれに徹する。
「無視する」と決めたらそれを行い続けるのです。

しかし日本ではこういった選択肢が「タテ」になっているのです。
相手の様子をいちいち確認し、「理解を求める」のがだめそうだ……と思ってしまうと「妥協する」に方策のレベルを落としてしまうのです。

これが典型的な日本的発想ではないでしょうか。
「タテ」ではなく「ヨコ」の考えに基づいた力強い発信を日本にもしてもらいたいものだと思います。

2015年3月18日水曜日

91:外国交際

国の外交が難しくなっている現在、明治の元勲、西郷隆盛の遺訓・南洲翁遺訓をもう一度参考にしたいと思うのです。

西郷翁は西南戦争において朝敵となった人物でもあるので、政府の方々にはお叱りを受けるかもしれませんが……


「南洲翁遺訓」

正道を踏み国を以て斃るるの精神なくば、外国交際は全かる可からず。
彼の強大に萎縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順する時は、軽侮を招き、好親却て破れ、終に彼の制を受るに至らん。


西郷翁が言う「正道」をどのように解釈するかが悩ましく、また重要なところであります。

話はやや飛びますが、ダライ・ラマが日本で行った講演の中で「倫理は国際社会で受け入れられる『良識(Common Sense)』と『ロジック』から成る」と言われました。
良識とは、世界中どこででも人々が認める考え方や行動と言えましょう。


西郷翁のいう「正道」というのはダライ・ラマの言う「良識」に近いと解釈しても良いのではないかと思うのです。

2015年3月13日金曜日

90:とんでもない分析―歴史問題について

去る3月8日、中国の全人代で、王毅外相が「七十年前、戦争に敗れた日本が、七十年後、再び良識を失うべきではない。歴史の重荷を背負い続けるか、過去と決別するかは、日本が自ら選択しなければならない」と述べたそうです。
これはまさに安倍総理が発表する戦後70年談話への牽制なのでしょう。
我が国の外務省はこれに対し一体どのような反応を見せたでしょうか。
日本国民の一人として忸怩たる思いを持ちます。


太平洋戦争後70年も経過した今日でさえ、なぜこのような状況が続いているのでしょうか。


その背景にある原因がいくつか考えられるでしょう。
まず、この問題に関連して頻繁に「歴史認識」という言葉を聞きますが、果たしてこれは一体何を意味する言葉なのか疑問に思います。
大変不勉強で申し訳ありませんが、長い歴史の中で、戦争当事者国の間で「歴史認識」という概念が70年という長期に渡って問題になったことはあるのでしょうか?


戦争の決着がついた後、勝者も敗者も各々の文化や国民性を踏まえて、それぞれのケジメをつけているのではないでしょうか。
そしてそれは、必ずしも同意された、同様のものではないというのが一般的でありましょう。


この問題を論じるときに、実に多くの言葉が使われます。
「植民地化」「侵略」「合弁」「併合」「統治」などがそれです。
これをみんな一緒くたにして「歴史認識」という語でくくっているから無理があるのです。
このような、あまり賢いとは言えない方策を採っているように見えてなりませんが、どうでしょうか。


1910年に寺内正毅と李完用の間で結ばれた「韓国併合ニ関スル条約」においていわゆる韓国の言う「植民地支配」がはじまったとされています。
ところが、上智大学の渡部昇一名誉教授が最近のテレビ番組で語ったことによると、英国では、日本による韓国の併合をannexation(併合)という言葉で言っているようです。


「歴史問題」などと議論する前に、まず、「併合」という言葉が「植民地化」ということと何が違うのか? という前提のところから、研究をはじめていってもらいたい、と思うのです。


さらに、「侵略」の定義も甚だおぼつかないようです。
invasion(侵略)の定義は、辞書によれば「他者の領土に悪意を持って侵入すること。特に軍事力を以て他国に侵入すること」とあります。
どうしましょう?
日本はこの定義による意図を持って韓国に「侵略」したと証明できるのでしょうか。


また、日本の敗戦直前、1945年8月14日、中華民国の蒋介石は「重慶放送」と呼ばれるラジオ放送の中で「以徳報怨(徳を以て怨に報いる)」の考えを打ち出し、その後日本への賠償請求を放棄しました。
また、「残留孤児」と言われる多くの子ども達を現地の中国人たちが引き取り、養育したという事実もあります。
このような話が過去の戦争においてあったという話は聞いたことがありません。


賠償請求の放棄についてはアメリカも同様です。


この2国に対し、この点で日本は大変な恩義があると言って良いでしょう。
このようなポジティブな面から歴史の問題を掘り起こしてみるのもひとつの手ではないだろうか、とも思うのです。

2015年3月11日水曜日

89:美徳を忘れた日本人

9.11の10年後の3.11より、4年が経ちました。


この4年目の年を迎えるに当たり、いくつかのことを申し上げたいと思うのです。


まず、本日の報道によると、なお約23万人の方々が避難生活をしているとのことです。
なぜこのような状況になってしまっているのでしょうか。
その背景と原因を明確にする必要があるでしょう。
民主党下に復興大臣が選出され、政権が自民党に代わった後も全力を注いで被害に遭った現地の方々の衣食住の安定を確立してきたはずではなかったでしょうか。


にもかかわらず、これも本日の報道によれば、安倍首相が「再生への誓い」として「夏までに新支援枠組み」を策定すると述べたそうです。
論理的に言えば、被害地の復興が遅延し、2013年度までに計上された東日本大震災の復興予算約25兆1000億円のうち、約5兆円が未使用であったという実態があり、また、建設された仮設住宅の入居率が50%を切るような自治体もある、というのはおかしいのではないでしょうか?


「新支援枠組み」の策定も結構ですが、「なぜこのようなムダが起きてしまったのか?」という真の原因を厳密に分析してから取り組んでほしいと思うのです。


最後に、今回の災害に対して、百数十か国から支援やお見舞いを頂いたこと、特に安全保障条約を結ぶ米国からの支援には絶大なものがあったこと、数週間かかると言われた仙台空港の驚くべき回復を見せたのも米軍の善意と同盟国に対する責任感があったこと……このようなことに対して、個人単位では色々な行動をした方もいたでしょうが、礼節を重んじる日本人が、世界に対して明確な謝意を国のレベルで示したという報道は耳にしていません。
安倍総理にお願いしたいのは、日本政府として、国民を代表して評価される形の謝意を表明することを考えていただきたいということです。
このことは、世界社会に対する日本国の尊厳に関わると言ったらおおげさでしょうか。

88:問題と課題

組織にも、その構成員にとっても、問題を解決することはサバイバルや成長につながるでしょう。

今回は、私の考えの原点に戻って、「問題 Problem」と「課題 Issue」はどう違うのかについて考えてみたいと思います。
この2つの言葉の違いについて述べたいと思います。

これまでに多くの人がこれらの概念を定義してきましたが、私は次のように考えます。

問題とは……何らかの手を打たなければならない、発生している「状態」のこと。
例えば、「売り上げ目標に達していない」「プロジェクトの遅延」「決めるべきことが決まっていない」「計画を実施するのに懸念材料がある」など。
これらは上の「発生している状態」のことです。

私の恩師であるC. H. Kepnerは57年ほど前の著書で、「問題とは、あるべき姿と実態の間に乖離が存在する状態である」という定義を施しています。

この「問題」を解決しようとする際、発生しているこのような「状態」をそのまま解決しようとすることは合理的ではありません。
多くの場合、発生している問題は、それを分解したり、分離したりして、扱いやすい部分に加工することが大切であります。

上の例「売り上げ目標」で言えば、分析せずに解決にあたると、「営業力を付ける」とか「宣伝をする」といった抽象的なものにどうしても短絡してしまいがちです。

課題に話を移しましょう。
課題とは……処理しやすい部分に分解された諸問題を行動に結びつく表現として設定したもの。

例えば「A社の主力製品の売り上げ不振の原因究明」「B社のX事業部の最適組織の選定」「プロトタイプから量産体制への移行時に起こりうる諸問題への予防と発生時対策(contingency)」。

実際にはこのように単純に表現できない場合も多いかもしれませんが、効率の良いマネージメントを考えた場合、問題をバラバラにして優先順位を付け、課題に落とし込み、行動に移すことで問題解決の効率化につながると私は考えます。

2015年3月4日水曜日

87:メディアの報道は慎重に



識者によると、ISISは国家でも国でもない、ということです。
現代の「国」の定義で考えれば、ISISには明確な国土も国民も憲法も存在しません。
このようなものを国とは認められないでしょう。

最近の新聞報道によれば、オバマ大統領が「イスラム国を根絶する」と言ったということでした。
米政府によれば「イスラム教国家との戦争ではない」ではない、とされているにもかかわらず、日本のメディアでは「イスラム国」という表現で報道されてしまっています。

普通の神経であれば、「国を根絶する」という表現は穏やかではないのように思いますし、一国の大統領が口にできることではありません。
私は上の表現を見て本当に驚愕しました。
メディアにはぜひとも訂正をして頂きたいものだと思うのです。

メディアに対して批判的な考えを持ったり、批判的な発言をすることが「恐怖」である……とするならば、これは非常に恐ろしい時代だ、と言わざるを得ません。

私はこういった点について危惧を持っています。


例えば国民が政治に関して関心を持つことのひとつに、「いったいどの程度の現職議員が世襲議員なのだろう」というような素朴な疑問がありますが、このような点についてメディアは一切触れないということも個人的には気になるのです。

関連して。
裏社会での資金洗浄をメディアはマネーロンダリングと呼びました。
これは「ランドリー」から来ている語であり、正しくカタカナにするのであれば「マネー・ランドリング」となるはずではないでしょうか?

これも未だ訂正されてはいません。
メディアの人間は社会に対する影響にもう少し敏感になって頂ければと思います。