2015年2月25日水曜日

86:The Ability to Reason

英語のReasonという単語の意味を問われると、多くの人は「理由」と答えるのではないでしょうか。
安倍総理の改革の柱のひとつは教育ではありますが、この話題も古くて新しいもので、過去10年間目立った成果を感じている人は少ないのではないでしょうか。


確かに一時の「ゆとり教育」の頃よりは教科書の中身は濃くなったのかもしれませんが、それが実際に子供たちに対してどのような成果を上げているかは未だはっきりしません。


ところでノーベル賞受賞者の江崎玲於奈さんが以前「日本の教育にはAbility to Reasonという観点が不足している」と述べられていました。


Reasonという単語は、ウェブスターによると、
①an explanation or justification of an act, idea, etc.(行動や観念に関しての説明や判断)
②a cause; a motive(原因、動機)
といった定義が出てきます。


が、Ability to Reasonという語で考えれば、「根拠づけする能力」と意訳することが出来るかと私は思います。


我が国の教育水準の低下が大きな問題になってきています。


私個人としては、外国ではごく当たり前のように教えられているこのAbility to Reasonを初等教育から導入する工夫をして頂きたいものだと思います。


Ability to Reasonという能力を伸ばす方策として、「それはなぜ?」という疑問は非常に重要かと思われますが、これには様々な目的があるでしょう。


「なぜそこから手をつけるのか」
「なぜそれを選ぶのか」
こういった質問の目的は物事の判断基準を聞くためのWhyです。


「なぜその問題が起きたのか」
「なぜそのようなことが起きるのか」
こういったWhyはあることの因果関係を説明するためのWhyなのです。


日本では不思議と嫌がられてしまうことですが、「それはなぜ?」という質問を発することの重要性を考えたいものです。



2015年2月21日土曜日

85:知識偏重教育の限界 その3

中国が今日のような発展をする前、中国の技術者集団と話をする機会がありました。
まず名刺交換をし、私は中国語を介さないので、まず名刺の英語の方の表記を読みました。
そこにはengineerあるいはchief engineerとありました。
裏側を見ると、そこには中国語で、「工程師」「総工程師」とあったのです。
日本語では「技師」あるいは「技師長」となるところでしょう。


そこで、通訳を介して「工程師」の定義を尋ねました。
答えは、ある仕事の「工程」作成し、環境の変化に対応しながら、完成までに責任を持つ人間、というものでした。




「製造」と「思考作業」は実は上のように、非常に似た過程を取ります。

私はこの、目的への過程を強く意識した彼のよくできた定義に驚きました。
教育改革を考える場合、「思考」をどのように学ばせるかということも考慮しなければいけないように思います。
要は結論を得るための考え方の段取りを論理的に構築する能力をいかにして身に付けさせるか、ということが問題なのです。

また、上の図に関連させるなら、製造の場合にそれぞれの工程で品質管理があるように、思考過程においても、情報のQC(Quality Control)、思考のQC、そして結論のQCが不可欠であることも忘れてはならないでしょう。

2015年2月18日水曜日

84:知識偏重教育の限界 その2

唐突かもしれませんが、手元の広辞苑で「思考」という語を引くと、「問題または課題に出発し、結論を導く観念の過程。(中略)或いは、概念または言葉などによる問題解決の過程」とあります。
ただこれは昭和30年発行の第一版で、やはり手元にある新しい版(大六版)では、このよくできた説明は改悪されているようです。


この考え方が英語で言うところのConceptual Skillというものです。
これはいわゆる日本語で「コンセプト」と言うときにつきまとう、「コンセプトを構築する」という発想とは全く異なったものであることに注意してください。
言い換えれば、直面する状況が何であれ、どのような思考過程を以て結論を出すことが最も合理的であるか、ということが判断できる能力なのである、ということです。
さらに言うと、欧米において、企業のCEOが異業種に転職してもすぐに仕事に取り掛かることが出来るということ、このことを支えているものこそ、Conceptual Skillの経験であるはずです。


日本の教育にも、こういったConceptual Skill的な発想を導入する必要があるのではないでしょうか。
伝統的に「優秀な」日本人の意思決定者は、実践において思考錯誤を続けながら、自分なりの思考様式を構築しているはずです。
しかしこれは「名人芸」であって、簡単に伝授することが困難であり、口伝・秘伝の領域とされていたのではないでしょうか。
この領域を現代の教育にいかに生かすことが出来るのか、というのが日本の教育の今日的課題だと思います。

2015年2月14日土曜日

83:知識偏重教育の限界 その1


不思議なことに、日本ではintelligentsia(露)のことを「知識人」「有識者」と呼びます。
この呼び方の裏には、知識を偏重する発想・知識が多ければ多いほどよしとする発想があるように思います。
今日でも「有識者会議」などという言葉が特に疑問詞もされることなく使われているようです。


よく考えてみればこれはおかしな話です。
世の中で最も知識を持つだろうコンピューターを、誰も「有識だ」とは言わないでしょう。


フィンランドの初等教育で数学の時間を「問題解決の時間」と改めた、と聞きました。
計算は、コンピューターでもできる、だから、高度な計算能力は必要ない、という発想のようです。
むしろ重要なのは、どのように与えられた問題に対して答えを導く方式(プロセス)を構築できるか、ということです。


世界の大学のランキング(2014年のUSニューズ・アンド・ワールド・リポートによるもの)において、東大といえども24位という位置のようです。
その背景の一つには、学んだ知識を活用して問題を解決するための訓練がなされていない、ということがあるのではないでしょうか。


数年前まで、ゆとり教育というものが行われていました。
この目的は、知識偏重への反省から、のびのびと勉強して発想力を伸ばそう、といったことを狙ったものだったと思います。


しかしこれは失敗でした。
単に勉強の内容を減らしただけで、そこに方法論が示されなかったためです。


ビジネスにおいて、「論理思考」「ロジカル・シンキング」が最近やたらともてはやされているのも、その結果と言えるのかもしれません。
ロジカル思考とは、直面する状況下で問題の本質を明確にし、筋が通った堂々巡りのない結論を出すためのプロセス、といえないでしょうか。


日本人が使っていた、ものを決める際のことばは3つに分けることができます。
一つに「極む」、二つに「決む」、三つに「定む」。
「極む」に関しては、必ずしもロジックだけでは結論は出ないでしょう。
そこには感情などが左右するはずです。
「決む」に関しては、経験や知識の占める割合が大きいでしょう。
「定む」に関しては、これが今日的にいう「意思決定」でありましょう。
与えられた課題に対して、複数のchoiceから最適なものを選ぶ、ということです。


これらの考え方を伝承する方法は、特に日本では、口伝・秘伝でありました。
ものを的確に判断する「賢い人」の能力は、私に言わせれば「名人芸」なのです。


この「名人芸」を視覚化し、普遍的な思考プロセスをはじめて、その必要性から構築したのがアメリカのビジネススクールでありました。
様々なバックグラウンドのことなる人々同士の中で問題解決を図るためには、共通の思考様式が必要だったのでしょう。


かなり話が拡散してしまいました。
この話は「その2」でまとめてみたいと思います。

2015年2月11日水曜日

82:とんちんかんな分析

前号の内容が非現実的だと思われた方には、さらにとんちんかんな分析と思われることを覚悟で、混沌とした状態の中東やアフリカについて門外漢の私が考えてみたいと思うのです。


ひとまず書いてみたいことは2つあります。


ひとつは91年にユーゴスラビアから独立したスロヴェニアという国についてです。
ある機会に、日本の社会制度を視察するために派遣された、スロヴェニア出身の女性民間人と話をする機会がありました。
ちょっと驚いたことは、彼女は西ヨーロッパに対して批判的で、翻って日本については短期間で非常に気に入っていたようだということです。


同じように元ユーゴスラビアであったコソボについても述べたいと思います。
以前、この国の駐日大使と親しくなる機会があったのでした。
彼はやはり驚いたことに、イスラム教徒でありました。
彼は、契約社会的なヨーロッパ社会とは異なった価値観を持っている様子で、やはりまた大変な親日家でありました。


例えば、スロヴェニア出身の女性が、ブロンドの非常に美しい方であったように、二人は私にはまごうことなく「白人」に見えながら、日本人がイメージする「白人」とは大きく異なった人々でありました。
私は何か新しい人種を見たような気持ちがしたものでした。


この素晴らしい二人の出身国は上にもあるように元々ユーゴスラビアという国でした。
この地域は、特に西ヨーロッパの列強の間で植民地の争奪が起こっていた際、その標的とされたバルカン半島に位置する地域であったため、その影響を被り、その歴史は非常に複雑で多くの対立・紛争の生じた悲惨なものでありました。


どうしても考えてしまうのは、中東・アフリカをはじめとする国際紛争の背景についてです。
宗教上・民族上の対立が無論あるものの、それらの国々の国境線に注目すると「いかに直線が多いか」という事実に愕然とさせられます。
これは言うまでもなく、西欧の列強が人為的に設定した境界線であります。


西ヨーロッパの旧「宗主国」が中近東・アフリカの紛争に対して、原因をつくってしまった、という事実は存在すると思うのです。
これらの地域の現状に対し、資金援助をしろ、とまでは言いませんが、その豊富な知恵を使い、解決への手助けをすることはできるのではないでしょうか。


また、宗主国に移住した人々の末裔が、搾取をされた歴史を知り、現在自分の住む国への怒りが爆発し、テロ活動に協力することになる、ということもあるように思われてしまいます。
その意味で、やや強引かもしれませんが、日本の外交が紛争当事国の旧宗主国に働きかけることも、前号のpeace power centerの活動として考えられるのではないか、と思うのです。


以上、私のとんちんかんな分析でした。

2015年2月4日水曜日

81:日本をどこに持っていくか その6

1月31日に発信した80号「日本をどこに持っていくか その5」で国民のひとりとして述べた提案の延長線上に、具体的な考え方を披露したいと思います。


日本の外務省によると、「地球儀を俯瞰する外交」活動の中に、戦後70年にわたる平和国家としての歩みを明確化する、とされています。
その延長線上で安倍総理の「戦後70年の談話」の内容が自民党内などで検討されています。


その内容が世界社会に対して、日本の尊厳に相応しいものであってほしいと私は思うのです。


2014年6月1日発信の36号に書いたことと重複しますが、これまでの世界通念として、防衛予算の使途は、ほとんどが「いかに効率よく人間を殺傷するか」というための研究とその手段の開発に費やされきたのではないでしょうか。
日本は、今日までの「防衛」という概念、それはつまり抑止を目的とした自衛力(軍事力)、従来の外交努力、そして国連中心の世界平和への貢献、という3つの柱で構成されてきたものだと私は考えます。


しかし、「積極的平和国家」を標榜する国家として、何か新しい発想が必要ではないか、と考え続けてきました。


日本国憲法の9条には、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段として、永久にこれを放棄する」とあります。
また、その直後には「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とありますが、これは非現実的でしょう。
しかし、前半の内容は非常に重要な考え方だと思うのです。
そして、、そうであるならば、武力以外の方法で、国際紛争を解決するための手段を開発する必要、そして責任があるのではないでしょうか。
それによってはじめて、「平和の希求」という前半の内容が生きてくるはずです。


このような内容があってこそ、安倍首相の言う「積極的平和主義」も具体的な実を伴う、存在感のあるものになるのではないでしょうか。