2018年1月31日水曜日

296:神戸製鋼の数値改ざん問題と分析的思考

タイトルの件について書きたい。

この問題に関するマスメディアの典型的な報道は、次のようなものであったように思われる。
「改ざんが発覚」「社長謝罪」「社内調査実施」「顧客の安全性に不安」「海外顧客の訴訟問題へ発展か」「原因は社内組織のたるみ・怠慢」「利益を優先するあまり品質管理がずさん」「日本の製造業の体質は大丈夫か」「再発防止の徹底」「役所による指導徹底」……
問題は「日本の製造業」といった漠然とした話題へとすりかわり、そして結局「気を引き締めて、皆で頑張ろう!」とでもいうような精神論的な結論へと落ち着いてしまう。

しかし、真に問題に対処するためには、分析的に考えることが不可欠なのではないだろうか。
以下は、あくまで私が考えた例であるが、最低でもこのような論理的・分析的な思考が必要であるように思われる。

分析的な対応の一例
・改ざん発生製品は具体的にどのロットか?
「ロットABCです」
・類似製品で改ざんが発生していないロットはあるのか?
「あります。XYZには改ざんはありません」
・ABCとXYZを比較して何が違うのか?
「改ざんロットABCは高品質製品で顧客の満足度が高く、仕様要求が年々高くなっています」
・ABCロットにどのような変化・変更があったのか?
「主要顧客からより高度な仕様が求められ、研究所が技術力で対応し、より高い仕様を設定しました」
・ABCロットの顧客の中で、改ざんが行われなかった顧客はいるのか?
「い社、ろ社、は社へのABCロット納品において改ざんは行われませんでした」
・では、そのい社、ろ社、は社の特徴は?
「仕様の許容数値の幅が大きいということです」
・使用許容数値の幅が大きいことから製品への影響は?
「ありません。これは実証済みです」

社長が謝罪しないと納得しないメディア(「反省はないのか」「経営陣の責任」「世間を甘く見るな」「責任を取って退任せよ」)は、しかし、ただ糾弾していればよい、というものではないはずである。
短絡思考、検証不足、非理性的な対応、非分析的な団子的処理などは困ったものであり、上記のようなもう一つのシナリオがあってもよいのではないだろうか。

2018年1月24日水曜日

295:企業の不祥事への対応

1月24日の産経新聞に、大林組社長退任の記事があった。
談合事件の責任を取り、白石社長が退任するという内容だった。

これは前日、テレビでも報道され、会見の模様も流れた。
謝罪後に関係者一同が立ち上がり、記者団に向かって90度頭を下げるという、謝罪会見ではおなじみの光景がなかったということに、私は目を止めた。
不祥事があるたびに社長が90度のお辞儀をする様は、なんとも気の毒であり、不快を与えるものだと私は思っている。
社会的に実績もあり、信用もある人物が、あのような屈辱的な姿を公衆の面前で曝すことは、企業そのもののイメージに傷を付けることになるし、組織の長たる品格を崩すことにつながる。
テレビで社長が謝罪するというただあいまいなだけの行動は、そろそろやめたらどうかと思う。
組織全体の責任者が社長であることは紛れもないが、何に謝罪しているか明確でない場合は、この儀式にあまり意味はない。
こんなことを続けたら、各省庁の不祥事のたびに、大臣は毎回90度のおじぎをしなくてはならなくなる。
このような状況は健全とは言い難い。
ある意味では、このような流れを止めてくれた白石氏に感謝したいくらいに思う。

2018年1月17日水曜日

294:軍拡の傾向にもっと注目を

昨年度のノーベル平和賞を受賞した団体ICANをはじめ、日本においても、核廃絶の運動が報道され、戦争の悲惨さが語り継がれている。
しかし一方で、北朝鮮の核の脅威がひとつのきっかけとなり、平和憲法9条を持つ日本も軍事予算の拡大を静かにはじめているように思われる。
具体的には、米国からのF35の増備をはじめ、防衛費の増額があたかも自然なことであるように行われているような危うさを感じてしまうということだ。
我々は、このような軍拡の傾向を、より注視しなければならないのではないだろうか。

ここで本質的なことを考えるならば、対立する国家グループが抑止力としての軍拡に国費を投入するならば、これはやがて過去に繰り返されたキリのない軍拡競争の再現となるだろう。
しかしながらメディアでは、そのような危険性について、ほとんど報道がなされない。
このような軍拡は、ただただ国費を産軍共同体へ投入していくということである。
しかし個人的には、国費をより平和的な目的に使うことができないものかと思うし、そのような国に、日本にはなってほしいものである。

Made in Japanの「モノづくり」で世界的評価を得た日本が、その対極に何をもってくるのか、ということが重要である。
もちろんモノづくりも重要なことであるが、情報や技術や資金がボーダーレスとなった今日、Made in Japanのレッテルはその輝きを失ってきている。
これに代わる"Made by Japan"的な「考え方」を世界に発信していくということにも、これからは注力していく時期なのではないだろうか。

2018年1月13日土曜日

293:フラストレーションをプラスのエネルギーに変える その3

前回と前々回で身の丈に合わない大きなことを言ってしまったことを若干後悔している。
しかし、国民の想いや知恵をひとつの政治的な流れにするためには、いくつかの条件が満たされる必要があると思う。
そのひとつが、国民が考える政治への知恵や提案がどのようなかたちで政治に反映されるかである。
昨今ではポピュリズムに頼った線香花火的なパワーもあるのだろうが、国民の発想が政治に反映されるより本質的な手段が確立できないものかと思う。

「投書」と「親書」ということで今回は書いてみたい。
日本の社会には、現在も「投書」という考え方が残っている。
数年前、国産の自動車を購入した。
ちょっとした不具合があり、当時の社長あてに「親書」として状況の詳細を送った。
数週間が経ち、販売店の担当が菓子折りを持って謝罪に来た。
しかし、当時の私の「親書」の意図は、販売店からの謝罪を要求するといったものではなくて、状況を伝えた私の「親書」に対し、社長からたとえ1、2行でもよいから何か返事が欲しかった、ということである。

また、数年前、ある件で当時の閣僚に「親展」を出した。
これに関しては、まったくなしのつぶてであった。

ただ意見を述べるだけの「投書」と異なり、本来、「親書」に対しては、これを送られた人間は返信を送る必要がある。
つまりここでは、仮に限られたものであれ対話が成立するということだ。
日本も政治家へ意見を「投書」するのでなく、「親書」という文化が必要なのではないか。
これは、一般的な「陳情」とはまったく違った性質のものである。

日本の政治家が異口同音に言うことのひとつに、「国民の意見を取り入れる」という決まり文句があるが、にもかかわらず実際に国民が親書を出しても反応はまったくない。
このような状態を変えることは至難の業には違いないが、国会議員に対する国民からの建設的な意見に対して議員が真摯な対応をすることが、政治と国民の距離を縮めることになるのではないかと思う。

これに関連したことで、有識者会議について。
メンバーをどのような基準で選んでいるのかはわからないが、当然のことながら圧倒的に「識者」が多い。
しかし、知識の豊富な人間が、必ずしも斬新な発想や、将来に対する真剣なコミットメントを持っているという保障はない。
「識者」に限らず、問題意識を持つ国民の建設的な発想を吸い上げる手段がないかと思う。
つまり、本当は「良識者会議」くらいで良いのではないか、と私は思う。

常に西洋先進国の真似をしろとは言わないが、各国の有力紙の社説などを見ると、単なる解説記事だけではなく、読者にとって社会の将来を考えさせるような知的刺激と啓蒙があるように感じる。

日本のマスメディアが解説ばかりに終始せず、社会の将来の方向性を決めるような啓蒙的な内容を掲載することを期待したい。

2018年1月9日火曜日

292:フラストレーションをプラスのエネルギーに変える その2

年頭に当たり、私もたくさんの年賀状をいただいた。
日本の文化習慣である年賀状の数は、欧米で交わされるクリスマスカードの比ではない。
余談だが、最近アメリカでは「メリークリスマス」というクリスマスカードはほとんど見かけなくなった。
基本的には"Season's Greeting"つまり年末のあいさつに代わってきている。
これにはおそらく、他宗教への配慮といった文脈によるものである。
さらに余計なことだが、とすればアメリカの硬貨や裁判所に刻まれた"In God We Trust"の文言などは例えばどうするのだろう? といった疑問も湧くが、それは置いておこう。

とはいえ、世界で最も影響力のある国ですらこのような矛盾を抱えている。
ドイツのメルケル首相、イギリスのメイ、フランスの̄マクロンのリーダーシップも決して安定したものではない。
我が国ではODAという途上国援助の予算も激減している。
そして独立した旧植民地各国も、そのすべてが経済的に独立し、安定しているとはいいがたい。
2018年は、このような状況下で平和国家日本はどう対処するのか、という大きな転換期のはじまりとなる年になるのではないか、と思う。

さて、前回のつづきの内容に関して書こうと思う。 前回「その1」で述べた国民的フラストレーションの背景にあるもののひとつは、これまで機能していた世界秩序が崩壊してしまったことに対して、誰も新しい方向性を打ち出していないことにあるように思う。
また平和に関しては、先進諸国による平和研究機関も、その成果に乏しい。
さらに、G7諸国のいくつかにおいては、その国益を守るという大義のもとでの、予測不可能な行動が目立つ。
結果として、安全保障という大義のもとに、防衛力強化のための高度な殺戮兵器への開発投資が進んでいる。
さらに、196もの国が加盟する国連が、平和維持の危機に際して迅速な対応を行うことを期待するのも難しい。

強大な経済力と軍事力を持ち、自国の影響を世界地図上へ拡大しようと試みる国家でさえ、泥にまみれた表現である「世界平和のために最大限の努力を惜しまない」と豪語している。
このスローガンを唱えている諸国が、実際にどの程度本気であるのかが問われているのではないか。
過去の戦争という負の遺産に対し、それを忘れないよう努力する日本人にとって、戦争の悲惨さを語り継ぐと同時に、平和の実現に対して、具体的な方策の提言を日本から世界へ向けて発信できないものだろうか。