2018年1月13日土曜日

293:フラストレーションをプラスのエネルギーに変える その3

前回と前々回で身の丈に合わない大きなことを言ってしまったことを若干後悔している。
しかし、国民の想いや知恵をひとつの政治的な流れにするためには、いくつかの条件が満たされる必要があると思う。
そのひとつが、国民が考える政治への知恵や提案がどのようなかたちで政治に反映されるかである。
昨今ではポピュリズムに頼った線香花火的なパワーもあるのだろうが、国民の発想が政治に反映されるより本質的な手段が確立できないものかと思う。

「投書」と「親書」ということで今回は書いてみたい。
日本の社会には、現在も「投書」という考え方が残っている。
数年前、国産の自動車を購入した。
ちょっとした不具合があり、当時の社長あてに「親書」として状況の詳細を送った。
数週間が経ち、販売店の担当が菓子折りを持って謝罪に来た。
しかし、当時の私の「親書」の意図は、販売店からの謝罪を要求するといったものではなくて、状況を伝えた私の「親書」に対し、社長からたとえ1、2行でもよいから何か返事が欲しかった、ということである。

また、数年前、ある件で当時の閣僚に「親展」を出した。
これに関しては、まったくなしのつぶてであった。

ただ意見を述べるだけの「投書」と異なり、本来、「親書」に対しては、これを送られた人間は返信を送る必要がある。
つまりここでは、仮に限られたものであれ対話が成立するということだ。
日本も政治家へ意見を「投書」するのでなく、「親書」という文化が必要なのではないか。
これは、一般的な「陳情」とはまったく違った性質のものである。

日本の政治家が異口同音に言うことのひとつに、「国民の意見を取り入れる」という決まり文句があるが、にもかかわらず実際に国民が親書を出しても反応はまったくない。
このような状態を変えることは至難の業には違いないが、国会議員に対する国民からの建設的な意見に対して議員が真摯な対応をすることが、政治と国民の距離を縮めることになるのではないかと思う。

これに関連したことで、有識者会議について。
メンバーをどのような基準で選んでいるのかはわからないが、当然のことながら圧倒的に「識者」が多い。
しかし、知識の豊富な人間が、必ずしも斬新な発想や、将来に対する真剣なコミットメントを持っているという保障はない。
「識者」に限らず、問題意識を持つ国民の建設的な発想を吸い上げる手段がないかと思う。
つまり、本当は「良識者会議」くらいで良いのではないか、と私は思う。

常に西洋先進国の真似をしろとは言わないが、各国の有力紙の社説などを見ると、単なる解説記事だけではなく、読者にとって社会の将来を考えさせるような知的刺激と啓蒙があるように感じる。

日本のマスメディアが解説ばかりに終始せず、社会の将来の方向性を決めるような啓蒙的な内容を掲載することを期待したい。

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