2016年8月31日水曜日

208:北方領土返還の意義

ソ連が日ソ不可侵条約を破り、1945年8月9日に満州に侵入したという事実は、日本人なら誰でも知っていることだろう。
また、同地にいた日本人を捕虜とし、シベリアに長年にわたって抑留したということも忘れられてはならない。


この歴史的な動きのなかで、戦後、北方四島は当時のソ連に占拠されるに至ったのだが、とはいえ、ここで考えてみたいのは、日本の国益を考えた場合、北方領土返還がどのような意義を持つのか、ということである。
いちど排他的経済水域についての問題を切り離して考えてみたとき、返還を実現することが、果たして国益に叶うことなのだろうか?


もちろん、日本人で北方領土に居住している人、また日本人で当時土地を持っていた人に対しては、相応の対応をしなくてはならないだろう。
しかし仮に、四島が返還されたら、どのような問題・課題が浮上するのか、と以下のようなことを考えてしまう。
①現在四島に住んでいるロシア人の扱いがどうなるのか
②四島のインフラの整備


①は、現在の住人への対応に様々な選択肢があり得るだろう。
いずれにしても、費用のかかる案件である。
そしてまた、その費用は国民の税金から出されることになる。


②にかんしては、具体的には本年7月30日の産経新聞の記事にあるように、北方四島は、インフラの整備などがきちんとされていない。
色丹島では水産加工場の最大手が経営破たんし、島内の穴澗村では、メインストリートも未舗装で、埃が舞わないよう散水車が出動するような状態だということである。
返還にともなって、こういったインフラをどうするのか、また整備するのであればその費用はどうするのか、といった問題が持ち上がることは間違いない。




このように、漁業権は別の交渉案件として考えることができるのであれば、北方領土の返還が日本の国益になるかどうかについて、はなはだ疑問が残る。


参考として、かつてのオーランド諸島における事例を挙げてみたい。
これは第一次大戦末期、オーランド諸島がフィンランドからの分離とスウェーデンへの帰属を求めたことから生じた問題であった。
これに対し、当時の国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造は、オーランドがフィンランドの所有にあることを認め、一方でオーランド居住民の8割がスウェーデン系であることから、住民の自治権も認めた、というものだった。
これは、問題を単純に分離or帰属といった見方で見るのではなく、双方が納得のいく落としどころを上手く定めた例だといっていいだろう。
例えばこういったことがらが、北方領土問題についての硬直した発想を柔軟にしてくれはしないだろうか。



2016年8月24日水曜日

207:日本人と英会話

現在、世界のグローバル化が進行しているとされているが、日本語が国際語になる可能性は残念ながらゼロである。
国際語はすっかり英語で定着しているようである。


これにあやかってか、英会話の学習にかんする教材や英会話教室といったものはゴマンとある。
それでもまだ、「英語が話せたらいいね」「聞きながすだけで英語が喋れるようになる」といった類の甘いことばに関心を持つひとが多いように思う。


しかし、英会話が上達する即効薬はないのである。
私は、英会話上達に関して三つの提案をしたい。


ひとつは、機転の利いた発想ができるかどうか。
これは相手に伝えたいことを、どのように機転を利かせ、自身が持っている英語力で相手に伝えるか、ということである。


友人に英語の教師がいた。
彼が九州の旅館組合に頼まれて、十数人の施設団を米国に連れて行ったときの話である。
参加者はみな、ほとんど英語の話せない人々であった。


ところが、あるときある参加者が、「先生、私の英語が通じました!」と報告にきたというのである。
状況は、ホテルの鍵を部屋に置いたまま締め出されてしまった、というものだった。
そこでその参加者はフロントデスクに行き、中学生でも知っている単語を4つ並べた。
これにより、彼は部屋に入ることができた。


この単語4つとは何か。
それは、"Key, inside. I, outside"というものであった。


こういったことが、実際の英会話で必要になる機転というものだろう。




ふたつ目は、自分が話すのではなく、相手に喋らせる、というものだ。
日本人には、自分が何か英語で話さなくてはいけない、という強迫観念があるように思われるのである。
これは日本人の英会話上達を妨げているもののように思う。
無理になんでもかんでも話そうとするのではなく、的確な質問をし、相手に話してもらう、ということは会話において重要な考え方である。




最後に、日本語を英会話に入れること。
私の友人の証券会社の人間は、外国人の参加する会議等で、英語で話していても平気で途中に日本語を挟んで話したものだった。
「わかりますか!?」などととつぜん日本語で言われれば会議自体にも緊張が出るという効果もあっただろう。
また、それ以上に、すべてを英語で話そうとしてつっかえたり萎縮してしまうことを気にせず、必要とあれば日本語でも何でも口にしてみる、という考え方が重要なのである。


以上、長くまとまりのないものになってしまったかもしれないが、私なりに英会話にかんする持論を提示してみた。
みなさんはいかがお考えだろうか?



2016年8月20日土曜日

206:リオのオリンピック

日本人が大いに活躍しているリオのオリンピックの表彰式で、金メダル受賞時に流れる国歌のテンポが、とても遅いことに今回気づかれた方が多くいるだろう。
実際、体操で大活躍した野村選手も、「団体の金メダル表彰式で君が代をチームみんなで歌おうとしたが、思った以上にテンポが遅くて大変だった」とうれしそうにインタビューで述べていたように記憶している。
どのような背景で遅いテンポになったのかは知る由はないが、私はこれをポジティヴにとらえた。


なぜか。
オリンピックには今回200か国以上が出場しているが、私の聞く限り、その中でも日本の「君が代」は、他の国のような西洋的なマーチ風の曲ではなく、特異な印象を与えられるものである。
私はこのような日本的で特異な国歌を、良いものだと今回のオリンピックで感じた。


そんななかでオリンピックを見たり、国歌を聞いたりしながら考えるのは、日本人であることの誇りとは何なのだろう、ということだ。
現在、日本人であることの誇り、ということは、非常にあやふやでわかりづらいものになってきているのではないだろうか。


もちろん、こういったことに簡単な答えはないだろう。
しかし、近代史のなかで、非西洋国家として真っ先に近代工業国家を建設したこと。
また、戦争という事態を引き起こし敗戦を迎え、その後奇跡的と言われる国の再建を行ったということ。
こういった日本独自の大きな歴史を忘れてしまい、日本人が誇れるものが「おもてなし」や「マンガ」といったものになってしまっては仕方がないのではなかろうか。

2016年8月17日水曜日

205:Something Is Wrong

タイトルの英語を言い換えて、‟It is not right”という場合もあるが、ともあれいずれにせよこれらの表現は、「これはおかしい」という日本語に当てはまる。
この「おかしい」という判断は、分析による結果ではなく、直観的なものだろう。
その判断の背景には、人間自身の経験、教養、倫理観などがあるだろう。

最近の日本人は、この「おかしい」という判断に対して鈍感になっているのではないか、と思うのは私ひとりだけだろうか。
さらに、「おかしい」に対して傍観的な立場を取るとすれば、社会は多くのひとたちが望むあるべき姿とは逆の方向に進んでしまうことを恐れる。

「おかしい」と指摘することは、楽しいことではない。
しかし、少数の人間であれ「おかしい」という感覚を持ち、行動をすることがより良い社会をつくるために必要ではないかと思うのである。
人間の営みにおける進歩は、この「おかしい」という感覚からはじまる、と言いたい。

2016年8月13日土曜日

204:これでいいのか日本の教育

教育改革が叫ばれて久しい。
ゆとり教育で成果を出せず、ここにきて小学校から英語教育に力を入れると言われている。
日本の教育の本質的な問題に言及することなく、流行に追われるようにさまざまな試みをするのではたまったものではない。
被害者はなによりもまず児童であり、またさらには教師、父兄、ひいては日本社会全体がその被害者だともいえるだろう。

ところで、米国に居住する友人のひとり息子が、このたびLaw School受験のための準備をしている。
彼はプリンストン大学を卒業後、日本で就職をしたが、今回あらためて大学院に入るための準備をしているそうで、9月25日に日本で筆記試験を受けるという。
びっくりしたことに、米国の名門Law School(ハーバード大、イェール大、シカゴ大、ボストン大、ニューヨーク大など)の受験は、すべて日本で受けられるのだそうだ。

その彼から受験の際の試験科目を聞いて、私は腰を抜かしてしまった。
なぜなら、科目には、知識にかんする試験科目が皆無だったからである。
試験科目は4つあり、Logical Reasoning、Analytical Reasoning、Reading Comprehension、Writing、というものだった。
くどいようだが、ここには知識を重視する姿勢はまったくみられない。


さて、試験科目のことばのうち、我々日本人が理解しにくい言葉が、Logical, Analytical, Reasoningである。
「論理的」「分析的」はなんとなく理解できるかもしれないが、Reasoningをどのように解釈したらよいか戸惑うだろう。
英和辞典によると「推理、推論」「論法、議論の筋道」とあるが、この定義では不十分と思う。

やや独善的に私なりにReasonを解釈するならば、「ある結論に対して、筋の通る、堂々巡りのない、根拠づけ」となる。
前述の例をみるまでもなく、日本の教育は依然として知識偏重であり、この状況を克服するための努力はなされているにもかかわらず、これといった対策が見いだせないようである。
米国のLaw Shoolの入学試験科目がこれからの教育における不可欠な項目を示唆しているように思う。

2016年8月10日水曜日

203:アスリートと政治家

8月6日、リオ・オリンピックが開会した。
アスリートたちの、目標を明確にし、それを達成するための計画をたて、死ぬ気で練習をする姿が美しく、ひとに感動を与える。

ところで、第三次安倍内閣が8月3日に発足した。
しかし、残念なことではあるが、この改造内閣に対し、大きな期待と感動をもって受け止めた人々はあまりいなかったのではないかと思う。

なぜだろうか。
私などは、よりよい国をつくるという目的意識に対して、本当に死ぬ気で努力をしている閣僚が、果たして何人いるのだろう、とどうしても思ってしまう。

19人の閣僚のなかで、11人は留任である。
残ったこの11人が、どのような仕事をしてきたか、どのような実績を持ち、具体的な貢献をしたかについての報道は、ほとんど聞かれない。
総理大臣と外務大臣以外の報道は、ほとんどない。
あるのは、政治とカネにまつわるスキャンダラスなことがらばかりである。

辛口な意見になるかもしれないが、残念ながら、オリンピックに出場するアスリートのように、死ぬ気で職務を全うしていると思えるひとは見たらない。

例えば、個人的なうらみはないが、組閣記念撮影で安倍総理の向かって左に陣取る経済再生大臣は、いったいどのような仕事をしてきたのだろうか。疑問に思う。
このひとは、入閣4回目。
2001年~2003年規制改革担当大臣、2003年~2004年国土交通大臣、2012年~2014年環境大臣兼原子力防災大臣、そして今回。
経歴はとても華々しく、立派なことであるが、われわれはこのひとが実際に実績として何を行った人なのかはまったく知らない。
メディアの責任なのか、あるいは彼がこれといった実績をお持ちになっていないからなのか、私にはわからない。

人任せでなく、自分の問題として、死ぬ気で自身で考え、結論を出す努力をしていただきたいものだ。
アスリートの姿をみていると、どうしても日本の政治家の不甲斐なさを思い浮かべてしまうのである。
死ぬ気で考えれば、必ず知恵が出る。

2016年8月6日土曜日

202:日本にとっての8月とは

米国人のある友人が、原子爆弾開発に関する実験の記録をみせてくれたことがある。
日時、場所、目的、備考に簡単な記録が入った分厚いリストであったが、これをみて私は愕然とした。
日本時間8月6日の原爆投下は、原子爆弾の実験計画では2番目であり、初回の実験は、1945年の7月、ニューメキシコで行われていた。
また、広島の欄の備考には、‟Combat”(戦闘)とあった。
第三回目が8月9日の長崎であり、これも同様に‟Combat”という記述があった。

戦争状態にあったとはいえ、あくまでひとつの「実験」というかたちで広島、長崎に原爆が投下されたことは、歴史上の事実として認識しておく必要があるだろう。
もちろん、だからといってここで歴史認識に類する議論をしたいわけではないし、そのようにとらえることは建設的でない。

ともあれ、このような状況で1945年の8月に日本は突入したのである。
6日の広島、9日の長崎、ソ連による満州侵攻。
そして15日が敗戦、昭和天皇による玉音放送。
30日の、連合軍総司令官マッカーサーの厚木到着。
余談となるが、彼はその足で厚木から横浜まで親衛隊数十名を引き連れ、横浜のニューグランドホテルに初期の総司令部を置いたと聞いている。

このような1945年の8月という月における歴史的経緯を踏まえて今日の日本がある。
ふたたび8月を迎えて思うのは、第二次世界大戦で犠牲になった方々の冥福を祈らずにはいられない、ということだ。

個人的なことで恐縮だが、私のおばも、ふたりの小さい女の子を連れて満州から4か月かけて朝鮮半島を通り、日本に戻った。
帰国の途中で、彼女は数多くの大変な思いをしたようだが、そのことについて多くは語らなかった。
そのおばも今年104歳で天寿を全うした。

戦争の悲惨さを語るときに、これまでの事実を踏まえた上で、将来どのような社会を作っていくのか、という発想なしにただ悲惨さだけを語るだけではいけないだろう。
みなさんはどのように思われるだろうか。

2016年8月3日水曜日

201:目的と手段

以前にも書いたことだが、洋の東西を問わず、人はあるchoiceをするとき、手段に短絡する傾向がある。

これはどういうことかというと、例えば組織内のIT関連機能を効率化する必要があるとしよう。
この場合、担当者は傾向としてこの分野に実績を持つ企業についての情報収集をはじめるに違いない。
そして、たとえばある企業Aとの打ち合わせや商談がはじまることになる。

このことは、一見常識的な仕事の進め方と思われるかもしれないが、これは手段に対する短絡であるとも言える。
この場合の目的とは、例えばIT関連業務の効率を20%向上させる、情報漏えいのリスク回避の強化が図られる等々、多くの項目が目標として設定されることになる。
ちなみにここでいう目標とは、ある行動を起こした場合に得られる結果・成果のことである。
つまり言いたいのは、上の例では「なぜ企業Aに決めるのか」ということ自体にきちんと理由づけがされないまま、手段に対する短絡が起こっているのではないか、ということだ。

結論を出すときに、目標項目に対するコンセンサスをきちんと確立させたうえで手段の検討をすることが、考え方の堂々巡りや感情的な対立を防ぐことになるだろう。