2015年2月14日土曜日

83:知識偏重教育の限界 その1


不思議なことに、日本ではintelligentsia(露)のことを「知識人」「有識者」と呼びます。
この呼び方の裏には、知識を偏重する発想・知識が多ければ多いほどよしとする発想があるように思います。
今日でも「有識者会議」などという言葉が特に疑問詞もされることなく使われているようです。


よく考えてみればこれはおかしな話です。
世の中で最も知識を持つだろうコンピューターを、誰も「有識だ」とは言わないでしょう。


フィンランドの初等教育で数学の時間を「問題解決の時間」と改めた、と聞きました。
計算は、コンピューターでもできる、だから、高度な計算能力は必要ない、という発想のようです。
むしろ重要なのは、どのように与えられた問題に対して答えを導く方式(プロセス)を構築できるか、ということです。


世界の大学のランキング(2014年のUSニューズ・アンド・ワールド・リポートによるもの)において、東大といえども24位という位置のようです。
その背景の一つには、学んだ知識を活用して問題を解決するための訓練がなされていない、ということがあるのではないでしょうか。


数年前まで、ゆとり教育というものが行われていました。
この目的は、知識偏重への反省から、のびのびと勉強して発想力を伸ばそう、といったことを狙ったものだったと思います。


しかしこれは失敗でした。
単に勉強の内容を減らしただけで、そこに方法論が示されなかったためです。


ビジネスにおいて、「論理思考」「ロジカル・シンキング」が最近やたらともてはやされているのも、その結果と言えるのかもしれません。
ロジカル思考とは、直面する状況下で問題の本質を明確にし、筋が通った堂々巡りのない結論を出すためのプロセス、といえないでしょうか。


日本人が使っていた、ものを決める際のことばは3つに分けることができます。
一つに「極む」、二つに「決む」、三つに「定む」。
「極む」に関しては、必ずしもロジックだけでは結論は出ないでしょう。
そこには感情などが左右するはずです。
「決む」に関しては、経験や知識の占める割合が大きいでしょう。
「定む」に関しては、これが今日的にいう「意思決定」でありましょう。
与えられた課題に対して、複数のchoiceから最適なものを選ぶ、ということです。


これらの考え方を伝承する方法は、特に日本では、口伝・秘伝でありました。
ものを的確に判断する「賢い人」の能力は、私に言わせれば「名人芸」なのです。


この「名人芸」を視覚化し、普遍的な思考プロセスをはじめて、その必要性から構築したのがアメリカのビジネススクールでありました。
様々なバックグラウンドのことなる人々同士の中で問題解決を図るためには、共通の思考様式が必要だったのでしょう。


かなり話が拡散してしまいました。
この話は「その2」でまとめてみたいと思います。

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