2015年12月5日土曜日

155:「誰が」と「何が」

洋の東西を問わず、知名人・有名人の発言が重要視されることはごく自然だろう。
(ここで言う有名人とは、いわゆる“big name”や“public figure”、つまり著名な人物や公的な人物のことを指す。)


この有名人が一流の人物であれば問題はないが、ただ名前が知られているということだけでは困る。
マスメディアはセンセーショナリズムの延長線上で情報を発信すること以外に、ジャーナリズムとしての使命があるのではないか。
これは、私なりに考えると、社会や読者・視聴者に真実を報じるとともに、警告を発し、問題意識を喚起すること、またものごとの本質について論議を促進するような役割を果たすことが重要ではないか、ということだ。


一般国民の声、意見、提案がマスメディアで取り上げられる場面というのは「投書欄」くらいだろう。
そして、この「投書」という概念がいかにも日本的であると思う。
「投書」は「親書」と異なり、返書を期待しないものである。


私の経験を申し上げると、かなり前に乗用車を購入した際、納車された車のブレーキ液がほとんど空の状態だったことがあった。
そこで、製造メーカーの社長に、親書を送り、「これは親書であるから、ぜひ文書でご回答頂きたい」と書いた。
無視されたため、数週間後、督促の手紙を出した。
すると、広報部門の責任者が、菓子折りを持って訪問してきたのだった。


このように、日本では、大衆の人間が大きな組織の責任者に親書を書いて送っても、反応はないのである。
ところが、著名人の発信は、これをすぐにマスメディアが取り上げる傾向にあるのではないか。
極論をすれば、内容がどうあれ、取り上げられることになる。


日本では、「誰が」言ったのか、ということが重要視され、「何が」言われたのかということには注意が払われないように思われはしないだろうか。
欧米がすべて正しいとは言わないが、新しい発想に関する意見をメディアの編集長に送れば、取り上げられる可能性があり、それが社会正義につながるという認識を持ちたい。
我が国においても、革新的な意見や提案が新聞の「投書欄」という片隅に追いやられることなく、価値ある市民の声が反映されてほしいものである。
「誰が」でなく、「何が」が重要なのだ。

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