2016年12月14日水曜日

231:謙虚さと曖昧さを重んじる日本人の発想

日本人同士の間でごく自然に使われている発想が、国際社会では通用しない、あるいは不利な状況をつくってしまう、ということを我々は知る必要がある。
日本において、利益相反の調整や問題解決の場面で使われる次のような特徴的な言葉がある。

例えば、
「理解を求める」「説得をする」「お願いをする」「話し合いをする」など。
結論を先取りしてしまえば、これらの表現は相手の情緒に訴える曖昧かつ謙虚な言葉であり、こういったものは国際社会では相手にまったく通じない、ということがあり得るのである。

「理解を求める」
相手に礼をつくして状況を説明し、相手に「理解を求める」としても、相手に「理解しません」と言われてしまえば、そこで終わってしまう。

「説得をする」
十分な情報をそろえて説得にかかっても、上と同様に相手が頑迷に説得に応じず、「意見が異なります」と言う場合はどうすればよいのか
「これだけ説明してくれたのだから…」といったかたちで、同情的に反応をしてくれるということは、海外では考えづらい。

「お願いする」
これは既にそもそも対等な立場ではないという前提からはじまってしまっている。
あるいは同情を引こうとするさもしさであると取られてしまう可能性もあるだろう。

「話し合うをする」
ただ漫然と「話し合う」といったことはあまり効果的ではなく、望むような結論がでてくることは考えづらい。

上のような発想では、どうしても相手の情緒・礼儀などに訴える面があるように思われる。
(例えば日本では「誰があいさつに来たのか」といったことが重視され、「社長自ら出向いてきたのだから……」といったかたちで、相手の「面子」が配慮されるといったことがある。もちろんこれは海外では見られない。)
もちろんそういったことが海外ではまったく不必要だ、ということではない。
しかし上記のように、日本社会でごく自然に使われている表現や、その背後にある発想が、異質文化との対応において、議論がかみ合わない原因となってしまう場合があることを認識したい。

では、どのように対応したらよいか。
ここで重要なのが、論理的に考える、ということだ。
つまり、「説得する」際にも、「話し合う」際にも、これらをすべて問題解決として、何らかの結論を出す課題・テーマとして扱い、論理的なシナリオとして取り扱うという発想が必要なのだ。
テーマに対して、どういった目的で、どのようなプロセスで議論を行うのか、またそれが上手くいかなかった場合はどうするのか、といったことを、シナリオとして構築する必要があるのである。

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