2017年12月6日水曜日

290:「理解を求める」は国際的に通用するか

問題や対立の発生に際して、その解決や同意に至る考え方の過程に混乱があるという状態が続いているように思う。
具体的には、「理解を求める」という言葉が、以前から気になっている。

この問題は、風呂敷を広げれば、米国の占領時代にも遡ることができるだろう。
日本が占領下時代に占領軍にある問題を突き付けられ、即座に同意ができない場合、占領下の当事者は「同意できない」とはいえず、まず「検討させていただきます」と言ったと想像する。
話を受けて、様子を見ようということである。
もしこれで何事もなく収束すれば、一見落着ということである。

しかし、それが上手くいかなかった場合、当該要求がいかに非現実的であるかということを相手に「説明する」というプロセスをとる。
これにも失敗した場合、当方の状況を相手に「理解してもらう」。

このような流れが当時の占領軍に対する日本側の交渉の流れであったように思う。
そして戦後72年経った今日でも、「相手の理解を求める」という表現は使われ続けている。
外交交渉の担当に対して失礼かもしれないが、「理解を求める」という表現には下の者が上の者に「頼み事」をするようなニュアンスがあるように思う。
日本の社会では当たり前にされる発想が、国際社会で日本を不利な状況に追い込む場合があるといったら考えすぎだろうか。

日本では、「理解を求める」と言うとき、責任者が「理解を求め」れば、相手はある程度譲歩をするだろうという発想が前提になっている。
しかし、果たしてこのような前提が国際社会で受け入れられるかどうか、疑わしいように思う。
ましてや、途上国との交渉において、相手に「理解を求める」と言うことは相手に誤解を与えるのみではないか。
ここで相手が「理解しません」といった場合、どうするのだろうか?

さすがにそこまで想定するのは現実的でないかもしれないが、少なくともこの「理解を求める」という表現については、国際社会では誤解や不利益を招きうるものであることは認識したい。

もちろん、この表現をマスメディアが使うことにも問題がある。
閣僚が他国に行き、「理解を求めた」といった言葉で報道を行うことは、上に述べたような趣旨から、ある意味で非常に危険なことなのだ。

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