2017年4月19日水曜日

252:頭の混乱する話

以前のブログに、Nakashimaさんという方から面白いコメントを頂いた。
そのコメントでは、日本人の発想法・思考法において、特に抽象化をする際に日本人は短絡を起こしやすいという指摘であった。
今回はこの抽象化ということについて書きたい。

学問的な定義に当たるかはわからないが、私なりに「抽象化」するということ――これは英語ではconceptualizeすることに当たると思われるのだが――を定義すると、次のようになる。
「つかみどころのない諸現象や複雑な因果関係が存在する問題の解決に混乱した際、その諸現象を、より高い次元から眺め、それらの諸本質を整理すること」
このようなものであると思う。
その代表例が、法律であり、ネットワークのシステム化などである。
ちなみにこのことは、conceptの構築とは全く別であることに注意したい。
つまり、日本語の表現では「商品のコンセプトを構想する」などという場合があるが、conceptualizeはこういったこととはまったく別の次元の発想なのだ。

日本が国際社会における役割を果たすために、英語以外にまだ学習する領域が多くある。
そのひとつが、この、ものごとを抽象化する能力であると思う。
抽象化された内容で考えている人と、発生しているさまざまな現象のみを注視する人とが会話をすると混乱し、感情問題になり、ソリューションが出てくることはない。
しばしば議論が噛み合わなくなってしまう背景のひとつには、このようなことがある。
たとえて言えば、ある案件について素人と弁護士が同じ土俵で会話することは非常に難しい。
弁護士は案件にかかわる雑多な現象を、法律という枠組みのなかでまさしく抽象化しているためだ。

日本社会を発展させるために不可欠な条件のひとつとして、ますます複雑化し、高度化する内外の社会情勢のなかで、現実を踏まえて、それを抽象化する能力をどう養っていくかということが挙げられる。
これは別の表現をするならば、問題の本質・論点を明確に押さえることでもあるだろう。
この場合、ある状況に対して本質や論点は複数ある(つまり諸本質、諸論点である)という認識が必要になってくる。
また、この能力は、結論を出すための工程を明確に示すことのできる能力でもある。
繰り返しになるが、このような抽象化の能力なくして、日本人が国際社会でカンバセーションを展開することは難しいのではないか。

1 件のコメント:

  1. 飯久保さん、長島です。
    抽象化についてとりあげて頂いてありがとうございます。
    まさにその意義、弁護士と一般人の例示ともに同感です。
    しかし、クリティカルシンキングを含めいくら説明しても一般の日本人にその重要性を理解・体得してもらうのは難しいですよね。

    そこで私は先生の著書の拝読も含め、10年ほど研究して次の仮説に辿り着きました。(以下長文失礼)

    クリティカルシンキングが受け入れられないのは、日本人がそれを必要とするほど追い詰められたことがなく、またその不足によって深刻な問題は起きたことはないと感じているためではないか?ということです。

    欧米のように異民族間の侵略、同盟、宗教紛争、疫病大量死など長期の暗黒歴史の中での煩悶あっての必然的獲得・納得がないのです。

    欧米人は原始的なひとつのムラ・家族の維持だけ考えるGemeinschaft的価値観では、大組織や異民族間の利害調整・共存は困難と理解したのだと思います。
    ゆえに彼らは適者生存的に目的役割構造化による契約・利害調整社会Gesellschaftを生み出したのではないでしょうか?
    まさにそんな社会を支えるためにクリティカルシンキングは内包されているのと思うのです。

    一方日本では明治維新で形式としてのGesellschaftは輸入・模倣されましたが、その本質はほとんどの人間が理解しないまま、中身は大組織に向かない欧米人からするとご法度のGemeinschaftで今日まで社会を運営してしまっていると感じられます。
    (日本の社会問題の殆どはこの不整合が原因とすれば多くの点で合点がいきます)

    そんな背景があり、日本人は自分と外界(組織の外、社会全体)との利害・役割の脈絡を具体的に考える習慣がないと感じます。
    これは目的意識(mission、志)を薄め、論理思考における目的を基準とした抽象化を困難にします。
    (志は、先生がいつか触れていた極ム、決ム、定ムを使い分けられていた維新で論語教育の断絶する前の日本人のほうが意識していたのではないかとすら感じます)

    目的不在の抽象化は、単なるambiguousですよね?
    目的脈絡を意識しない文化だからこそ、「抽象化」を「いい加減」「曖昧」としか認識できなくて訝しむのではないでしょうか?

    このような文化的習慣によって固定化され、偏ってしまった直感的拒絶の壁はあまりにも高いのだと感じます。

    最後になりますが、以上の仮説から私は心理的な障壁は論より証拠、直感に訴えて解決するのが良いと考えております。
    というわけで私は現在、抽象化・論理思考のメリットを体感・直感できる視覚化ソフトウェア普及による啓発事業の準備中です。

    最後までお付き合いありがとうございました。

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