2014年9月17日水曜日

51:質問を嫌がる日本人

そもそも、広辞苑で「質問」を引くと、「疑問または理由を問いただすこと」という一文しか出てきません。インターネットのデジタル大辞泉によると「わからないところや疑わしい点について問いただすこと。また、その内容」とあります。


一体現代人は何のために質問をするのでしょう。このことをよく考えましょう。情報化社会において、どのような方法で情報を取るのでしょうか。ものを決めるときどのような基準で判断するのでしょうか。リスクを考えるときどのようにして起こるかもしれない危険を知るのでしょうか。


答えは明確です。もう皆さんお分かりのように、質問というツールを使うしかないのです。情報の方から都合よく飛び込んでくるというケースがあれば、それは全くラッキーなことです。


私は日本経済新聞社から2003年に『質問力』という本を出版しました。この本は日経ビジネス文庫となり、今日でも書店に並んでいます。なぜいまだに売れているのでしょうか。それは私たち日本人が質問するということの本質を理解していないため、それを整理するのに役に立つからではないでしょうか。


もう一つ重要なことは、上記の日本の辞書にあるように、質問することは「問いただす」ことにつながると私たちが考えていることです。責任を問いただす、失敗を問いただすなど、相手を責めるために使われることが多いのではないでしょうか。


つまり、情報や根拠、あるいは動機を明らかにするための質問と、相手の非を問いただすための質問は、意識して区別する必要があります。質問される方も、堂々と対応したら良いのです。


ですから、質問とは相手を責めることではありません。会議などで質問ができないと相手にされない時代がきています。特に海外では質問をしないと、この人は本件に関して全く関心がないか、議論に真剣に参画していないか、質問するポイントがよくわかっていないのではないかというように、あまり評価されない人物になってしまいます。


日本にも同じような状況が早晩くるでしょう。質問力を強化することを意識したいものです。しかし、やたらに質問しようということではありません。「鋭い質問」が重要なのです。これについては、またの機会に触れたいと思います。

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