2016年9月17日土曜日

212:行政における生産性と責任

企業の労働生産性を高める努力がなされている。
ここでの生産性とはインプットに対するアウトプットの効率性である、と簡単には言うことができる。
企業の生産性が悪いと業績は悪化し株価は下落、経営者は当然、責任を追及されることになる。

これと比較して、行政が行う作業の生産性について、関心を持つ必要があるように思う。
税金の投入というインプットに対して、どれだけの配当が出ているのか、という見地から国民は考え、行政を監視しなければならない。
直近の例で言えば、新東京都知事の判断による築地移転問題である。
この問題に対し、多大な資金が投入されている。
そしてその資金はもちろん、税金である。
当時の築地移転の意思決定の責任者や、その決定事項を実施してきた関係者の責任について、一体誰が責任を負うことになるのだろう。

国家レベルではどうだろうか。
『選択』9月号の記事「血税の焼却炉「産業革新機構」――二兆円が泡と消える「無能国営ファンド」」によると、経産省によってつくられた官僚ファンドが行った不適切な意思決定により、大量の税金がいかに浪費されたかということが書いてある。

民間であれば、投資に失敗した場合、それなりの責任が追及されるだろうし、また失敗の程度によっては企業自体がつぶれることにもなり得る。
「日の丸ファンド」的なものが失敗を起こした場合、一体誰が責任を取るのか。
ここでも行政における生産性と責任の問題は同様のように思われるのである。

常識的に言えば、例えばこのファンドの推進にかかわった国会議員が次の選挙で国民の信任を失う、というメカニズムがはたらくはずだが、日本では機能していない。
これは大いに問題であるように思うのだが、いかがだろうか。

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