2016年6月18日土曜日

190:国民の政治離れは本当か

来月7月は、図らずも大きな選挙がふたつある。
東京都民にとっては、お疲れさまなことだ。
なぜお疲れさまかといえば、現在、適切な議員や都知事を選ぶためにどのようにしたら良いのかが、よくわからなくなってしまっているように思えるからだ。
だからこそ、疲れてしまうのだ。




選挙権が18歳に引き下げられ、高校生がどのように選挙をしたらよいかという模擬投票のニュースがよく見られる。
私が生活しているなかでは、さまざまな会合や雑談において、「日本の政治はこれでいいのか」という話題が出る。
しかし若者の世代においては、選挙権の拡大とはうらはらに、一部を除いて、政治に対する関心が一世代前より少なくなっているのかもしれない。
この原因を考えなくてはならない。


政治離れと言われる現象の背景のひとつには、政治における矛盾があるのではないだろうか。
つまり、国民の代表として国家の経営を委託するために代務者を選ぶのであれば、代務者はこの委託を受け、命がけでこの国をより良い社会にするために問題解決をし、意思決定をし、国の進むべき方向の設定を行わなければならない。
にもかかわらず、現在の日本の政治家は「国民の理解を得て」という発言を連発する。
これは矛盾ではないか。
なぜならば、すでに選挙を通じて「国民の理解」は得られているからだ。
「国民の理解を得る」ということが、具体的にどういうことなのか、そのあたりがいまいち判然とせず、私などはどこか矛盾を感じてしまう。
「国民の理解」という語が、議会のパフォーマンスにおける言葉遊びになってしまってはいないだろうか。






多くの国民のフラストレーションは、政治家が信念と自信をもって判断を下し、それを着実に実行するという基本的なコンセプトが、いまやきちんと実現されていないことにあるのではないだろうか。
二言目には「国民の理解を得て」「民意を吸い上げて」と言うのは、そろそろやめにしてもらいたいものだ。


これは例えば、企業の経営者がいちいち「株主の理解を得て」経営を行っているわけではないのと同じことである。

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