2016年2月4日木曜日

167:「議論」とはなにか

このたびの安保法制の国会審議において、116時間もの議論がなされたと言われている。
これはデータと取りはじめてから歴代4位の数字であるそうだ。
そこで、政治家は言う。
「時間をかけて、国会できちんと議論することが重要だ」


議論の時間とその結果としての質は、比例するものなのだろうか?
日本語の辞書による「議論」の定義は、「互いに自分の説を述べあい、論じあうこと。意見を戦わせること。また、その内容」とある。
私はあんぐりとしてしまう。
これでは議論をする目的がまったく不明瞭だ。
議論をする目的のひとつは、結論を出すことにあるのではないか。


意見を述べあう「作法」もまた必要だ。
「作法」とは、私なりに言えば、ものごとの手順のことである。


効率の良い議論のためには、結論に至る考え方の手順を「作法」として共有することが必要であり、この「作法」を知らずに議論を行っても、堂々巡りや、筋の通らない混乱を招くことになると考える。
議論を行う場合、どのような考え方の手順を踏んで結論を出すか、という関係者の合意があってはじめて、意義のある議論がされることになるだろうと思う。
今更ではあるが、もちろん、結論を出すことを目的とせず、継続して話し合うようなものもあるだろうが、ここでは結論を求められる議論に限定して考えている。


国民の多くが国会の委員会での議論に不満を持つ理由のひとつは、この議論の「作法」が理解されていないからであるように思う。
国際的に通用する議論の「作法」への認識が求められている。


欧米の例で恐縮だが、会議の運営法の原点として、“Robert's Rules of Order”(「ロバート議事規則」)という19世紀後半につくられた「作法」がある。
国際社会では、このような「作法」がスタンダードとして存在している、ということの重要性を認識したい。

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