2017年7月12日水曜日

265:サイレント永田町(続)

国家として取り組まなければならない優先順位の高い課題は、実に多岐に渡る。
優先順位を判断する基準として、課題の重要度(ビジネスに例えて簡単に言えば、それが1億の案件なのか100億の案件なのかということ)、緊急度(期限が存在するのか、それはいつまでなのかということ)、拡大傾向(それを放っておくとどうなるのかということ)の3つの観点から考えなければならない。
そのように考えた上で、私は最も優先順位の高い事項は「教育」であると思う。

その背景は、タイムズ・ハイアー・エジュケーション2016-2017版によると、世界の大学ランキングで東大が39位、京大が91位という驚くべき結果があったということにある。
アジアの他の国を見てみると、シンガポール国立大24位、北京大29位、精華大35位、香港大43位、香港科技大49位と高いスコアを付けている。
「サイレント永田町」は、この実態に目を向けなけらばならないのではないか。

また、マスメディアが同様に「サイレント」であるようにも思う。
以上のようなランキングは、ニュースになり得るはずなのだが、大きく報道された記憶はない。

教育の改革なくして日本の未来はない。

視点をより広げれば、世界社会で活躍できる日本人は、現在の教育ではまず生まれないであろう。
例えば具体的には、小学校低学年に英語を教えることのマイナス面を考えたい。
小学校教員の中に、相手の目を見て英語で話せる人物が何人いるだろうか?

2017年7月5日水曜日

264:サイレント永田町

日本は現在、様々な問題を抱えている。

北朝鮮のミサイルが日本海側にある原子力発電所をターゲットにする可能性が、ゼロと言えるだろうか。
尖閣諸島で日中の武力衝突が発生した場合、トランプ米大統領は海兵隊を派遣し、犠牲者を出してまで日本を守ってくれるだろうか。
中国の大企業が日本に工場進出した場合、地域社会はどう対応するのか。
身近なところでは、小学校の英語教師の再教育をどうするのか。
議員スキャンダル、財政破綻、経済の停滞、教育改革etc…。

このような諸問題について、永田町が「では日本はどうするか」というメッセージを発しているとは、とても思えない。
マスコミについても同様だろう。
BSのあるチャンネルで「プライム・ニュース」という番組があり、これは幅広い問題を扱った質の高い番組だと好印象を持っていたが、この番組でも最近は「評論」の方向へ傾いている感もある。

繰り返しになるが、「では日本はどうするか」という問いなくして、問題の解決や状況の改善を望むことはできない。
現在の政治は、お笑い的に言えば、国運を左右するような課題に対して、「サイレント永田町」とでも言えばよいだろうか。

2017年7月1日土曜日

263:選挙って何?

東京都議選を控えて、有権者としてひとこと言わねばならないだろう。

現在、多くの日本人が政治や選挙に対してあまり関心を持たない。
しかし一方で、今日の閉塞状況を何とかしたいという人も多いだろう。

日本人が持つ問題意識を政治が取り上げ、具体的な政策をつくり、国会に諮り、現状打破のために世の中を一歩進ませるというのが本来の姿だろう。
もちろん現状は、このようなあるべき姿からほど遠い。

選挙というのは、複数の候補者の中から、個々の日本人が自分の代弁者として議員を選び、社会という組織の運営を任せる、ということであろう。
その基本的な機能がはたらいていない原因を、真摯に考える必要がある。

選挙は、複数の候補から選ぶことであると書いたが、選ぶに際して、当然ながら、候補者(選択肢)に関する情報がなければ適切に行うことはできない。

7月2日の投票日に先立ち、都民に対する選挙公報が私の家のポストに投函されたのが、選挙6日前の6月26日のことであった。
様々な個々のマニフェストめいたものは大々的に印刷されていたが、しかし、各候補がどのような実績を持ち、何を目標として都政を行うのか、ということがそこでは明確に書かれていなかった。
さらに言えば、政治家としての信条をそこから読み取ることはまったくできなかった。
書かれていたスローガンは、例えば「結果を出す」「すぐ動く。新しい東京、目黒から」。
すこし情けない気持ちになりはしないだろうか。

これに追い打ちをかけるように、先日ある候補事務所から電話がかかってきた。
「○○候補に一票を入れてください」と言うので、「その根拠は何か」と問うと、「他党に先駆けて議員報酬を20%削減しました」と応えた。
「あなたの党だけでそれを実現したのか」とさらに訊くと、「そうです」と言う(民主主義の議会でそんなことがあり得るだろうか?)。
「ではところで、それによって議員報酬はいくらからいくらになったのか」と問うと、「不勉強で、知りません」とのことだった。

以下簡略に記すが、他にも

「世帯年収760万円未満までの私立高校無償化を行いました」
「該当する世帯数はどのくらいあるのか」
「分かりません」

「それによって都が負担する総額はいくらになったのか」
「分かりません」

だらだらと書いたが、選挙運動の実態はこんなものである。

これは国政の話だが、ひと昔前にあった立ち合い演説会はなくなり、テレビでの政見発表もまったく影が薄くなってしまった。
「民意を反映する」と二言目には言う議員の方々には、民主主義の制度に関する日本人の無関心について、真剣に考えてほしい。
くれぐれも、有識者を集め、委員会をつくることにばかり終始するようなことは辞めていただきたいのだ。

2017年6月21日水曜日

262:死語の復活

ここで宗教論を持ち出すつもりはなく、タイトルは単なる語呂合わせである。
書いてみたいのは、現在は「死語」となってしまっているが、復活すべきことばや概念があるのではないだろうか、ということだ。


今日見られる、政治や社会に対する多くの国民的不満の本質に、あまり話題にもならないいくつかの重要概念が実はあるのではないだろうか。
例えば思いつつままに挙げれば、「道徳性」「正直さ」「感謝の気持ち」「誠実性」「正義感」「使命」……まとめれば、倫理的健全性(moral soundness)に関するものである。
「思いやり」「おもてなし」といった現在よく用いられている言葉だけではなく、上に挙げたものが加われば鬼に金棒だろう。
これらを「死語」というのはあるいは大げさかもしれないが、しかし近年聞かれなくなり、重要視もされなくなっていることもまた確かである。

これらの「死語」を復活させることで、日本社会も少しは良いものになるのではないだろうか。
Civilityを持った日本の本来の国民をつくることが重要である。
私の言葉で言えば、世の中の動きに関心を持っているマジョリティ(concerned majority)が力を持ち、世の中を変えていくこと。
このような願いを個人的には持っているが、いかがだろうか。

2017年6月14日水曜日

261:基準の意識されない加計問題

我々平均的な日本人が近頃不満に思っている、官邸による加計問題の本質が、いったい何かを考えてしまう。
文書追加調査の目的は、本来であれば、真実や事実関係を追及するために必要であるのでなければならないが、報道によると、「世論の批判から逃げられない」ことが根拠であるのだという。
これはいささか「おかしい」ものではないだろうか。

このいかにも日本的なreasoning(理由付け)を全面的に否定するつもりはないが、文書追加調査の目的について、整理された根拠を考えてみる必要があるのではないか。
先ほども述べたように、追加調査の目的は言うまでもなく、真実や事実関係を明確にすることであり、国民がそれをどう判断するのかということは、また別の問題である。
「世論の批判」などというあいまいな基準で官邸が動くのでは、合理的な意思決定を行うことは難しい。

判断をする根拠が何であるか、言い換えれば、判断基準は何かを意識することにより、納得性の高い結論が出るのではなかろうか。
そしてこれは政治という大きなレベルの問題であり、また同時にビジネスや日常の判断業務における問題でもあることを、意識しなければならないだろう。

2017年6月10日土曜日

260:コミー氏の米議会証言

現在話題の中心になっていることのひとつが、元FBI長官ジェイムズ・コミー氏にかかわる一連の報道であるだろう。

トランプ氏の政権維持を大きく左右するであろう米議会証言が先日あったため、私もつい中継を深夜見続けてしまい、就寝が朝の4時になってしまった。
しかし超党派の議員により、事実関係の開示、究明に長い時間が費やされ、充実した会であったように思うし、またいくつか興味深い点もあった。

コミー氏の証言や議員たちの対応において、5つほどの特徴があったように思うので、内容ではなく、その方法に注目して私なりにここに書いてみたい。

①コミー氏に事前に質問の内容が開示されていないということ。
②コミー氏が真実を述べることに躊躇をせず、同時に知らないことについては「それは私にはわからない」とはっきりと明言したこと。
言い換えれば、彼にはhonestyとintegrityあったということ。
③質問者の質問が断片的でなく、論理的シナリオのある質問であったこと。
④質問そのものが明確であり、対する応答も直接的に質問に答えるものであり、またそうでない場合は、すぐさま「それは質問に答えていない」という指摘が飛んでいたということ。
⑤事実を隠すということに対して徹底的な追及が行われ、またここで開示できない内容に対しても非公開な場で回答をする、という対応がなされ、明確な区別が見事につけられていたこと。

もちろん日本と米国では文化の違いがあり、米国式がそのまま正しいと主張するつもりはない。
しかし一方で、人間として最も恥ずべき、事実を隠蔽するということに対して、日本人は寛容になりすぎているのではないだろうか、と証言の模様を観ていて思わざるを得ない部分もまたあった。

2017年6月7日水曜日

259:win-winの関係

現在、広く普及している語のひとつが「win-winの関係」と言われるものだろう。
私には出典はわからないが、政治家をはじめとして、多くの人が使っているのを耳にするようになった。
今回はこのwin-winということについて書いてみたい。

さて、私の友人で、家族とともにパプア・ニューギニアで20年近く暮らしていた人物がいる。
この友人の話では、パプア・ニューギニアでも部族間の対立があり、それが殺戮に発展する場合もあったという。
では、当地の部族の人々は、いったいこの殺戮にどのように対処するのだろうか。
彼によれば、しばらく戦闘が続いた後、やがて対立する部族の長老同士がひそかに会談し、戦争をやめることに決めてしまうのだという。
そして、長老はそれぞれの集落に帰ると、部族の人々に、「私たちが勝っているのだから、もう争いはやめにしてやろう」と言うのだそうだ。
結果、どちらの部族も「自分たちは勝ったのだ」という満足を得つつ、無事争いはおさまってしまうのだそうだ。

これこそまさしく、文字通りに"win-win"な解決法ではないだろうか。
だからこの"win-win"という言葉は、特別いま祭り上げるべきものでもなく、ある意味では、太古からの知恵として存在しているのである。
少なくとも私は、この挿話を驚きと笑いで受け止めた。
現代の私たちも、つい囚われがちな西洋的な発想にこだわることなく、このような人類の叡智から学ぶものがまだまだあるのではないだろうか。